苦しみ


今村兄

(テープ聞き取り)

おはようございます。また、10年前と同じような形で世界で戦争が起こっています。アフガンの人たちは、もう10年以上悩み苦しんでいるのではないかなと思います。それを神様がどういうふうな目的で、そう置かれているかは、私たちには、わからないのですが、人間の罪と言うのがそこにも現れているのではないかなと思います。きょうは、悩みや、苦しみに しぼって、聖書から、皆様と考えてみたいと思います。

当然のことですが、私たちは、生きている限り大きな苦しみを経験すると思います、苦しみを経験しない人は、たぶんいないのではないでしょうか。
なぜ、私たちは、苦しみを経験しなければならないのでしょうか。
端から見るとなんの悩みもなく、苦しみもなく、生活しているように見える人も、その人はその人なりに、ほかの人にはわからない、悩みや苦しみがあり、必ずひとには、なんらかの悩みと苦しみを持っているのではないでしょうか。
同じように、すべての人が、この苦しみさえなければ自分は幸せになれるのにと思っているのではないでしょか。

だから、今、耐えられないこの苦しみをなんとか解決してくれるならどんな事でもしようとして、多くの人が新興宗教にはいり、新興宗教が非常に栄える、それも、やっぱり苦しみがあるからではないかなと思います。
そして、新興宗教に入信すれば、解放してもらえると信じて、一生懸命する。でも、その宗教にはいっても、解決にはならない。その宗教に入っても、苦しみから解放されません。でも、いったん入ったからには、なにか苦しみから解放されたようなふりをして、新興宗教のために一生懸命尽くし、それが、また別の苦しみになってしまう。
よく新興宗教から脱退した人の言う言葉ではないでしょうか。宗教によって、決して、苦しみから解放されることはありません。まず、私たちは、それを知らなければなりません。
でも、どうして、私たちから苦しみと言うものが、なくならないのでしょうか?

ひとつの苦しみが解決すると、またすぐ別の苦しみが襲ってくる。これは、みなさんが経験することではないでしょうか。
そう考えると、私たちは、何か、苦しむために生きている。そのように思えてきます。でも考えてみると、苦しみと言うものは、人によって、感じ方が違うように思えます。
いま、耐えられないほど、苦しい人も、同じ状況に置かれていても、あまり苦しみを感じない人もいます。
なぜ、同じ状況に置かれているのに、人によって苦しみの感じ方が違うのでしょう。もし、人が同じ状況になったら、同じ形で悩み苦しむなら、苦しみの原因を見つける事も簡単なのかもしれません。
でも、先ほども、言いましたように、苦しみ内容や程度は、ひとによって異なる、ある人は、自分の性格のために苦しむ人がいれば、自分の家族のために苦しんでいる人もいます。
また、人間関係で、苦しんでいる人、夫や妻のことで、苦しんでいる人。
また、会社の仕事、経営で、将来を絶望して苦しんでいる人。
そして、内容をあげていくと、人の数だけ、苦しみの種類もあるように思います。
そう言うふうに、考えると、なぜ苦しみがあるのかと言う苦しみの原因もひとりひとり違うはずであり、みんなに共通する苦しみの原因もないように思います。

でも、本当に、すべての苦しみに共通の原因は、ないのでしょうか?

確かに、いま苦しんでいるその苦しみの直接の原因は、ひとりひとり違うと思います。でも、もっとつきつめれば、今、自分が苦しんでいる原因は、いまの状況が、自分の望むとおりになっていないからではないでしょうか?
自分の性格がもっと優しい性格ならば良いのに。そう言うふうな形で。家族のことで、苦しんでいる人も、自分の思うように家族がなってくれない。そのために苦しんでいるのではないでしょうか。
また、夫が自分の望んでいる通りの人間でない、あるいは、夫が自分の望んでいる通りにやってくれない、そのために、苦しんでいるのでは、ないでしょうか?

会社の経営についても、自分の思っているように売り上げが伸びず、このままでは、会社がつぶれてしまう、今の会社の現状を自分の思っているように運ばない。
そのために自分がつい苦しみ悩んでしまうのではないでしょうか。
そう言うふうに考えてきますと、苦しんでいる本当の原因は、いま置かれている状況が、自分の希望している状況と違うからではないでしょうか。

簡単に言ってしまえば、苦しみの原因は、自分の思い通りになっていない所にあるのではないでしょうか。
自分の望んでいる状況と、あまりにかけ離れていると思うから、私たちは、そのこと不満に思い、不平が口から出て悩み苦しんでしまうのではないでしょうか。

自分の願っていることと完全に一致することまで求めてはいないけれど、状況は、あまりにも、それからかけ離れている。もう少し良くなれな良いのに、そう言うふうに思っている。
だからそこに不満がありあり悩み苦しみがある。いまの現状と立場を受け入れることができない。納得することができないから、私たちは、悩み、苦しんでしまうのではないでしょうか。

もし苦しみや悩みの原因が、いま言ったことにあるとするならば、その苦しみから解放されるのは、言葉で言うのは簡単です。
それは、今の置かれている状況が、一番、良いことだ。そう言うふうに、納得する事ができれば、私たちの悩みや苦しみは解決します。

しかし、このことは、多くの人には受け入れられない事だと思います。なぜなら、それができないからこそ、私たちは、悩み苦しんでいるのです。

でも、実を言いますと、今の置かれている状況を素直に受け入れられない所に、私たちの苦しみの本当の原因がある。
そのことをきょうは、学んでいきたいと思います。
今の状況を受け入れられないことは、自分にはもっとすばらしい、生き方が、あるはずだ、それにもかかわらず、そう言う状況に自分が置かれていない。その生き方を実現したい。
だから、私たちは、苦しみ、悩んでしまいます。自分は、もっと自由に生きられるはずだ。そう言うふうに、思っているからそれとは違う形で自分自身が、生きなければならないために悩み苦しみます。
しかし、本当に私たちには、そのような、自分の思い通りの生き方ができるような立場にいるのでしょうか。

箴言16:9
9人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。

また、同じ箴言の19章には、つぎのように書かれています。

箴言19:21
21人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

ここには、神の計画だけが必ず成就すると、書かれております。
私たちは、自分でいろいろ計画を思いめぐらしますが、その通りに、実現できたように、その通りに、自分の力でやり終えたように思えても、その状況は、長くは続かないものです。
長い目で見れば、人の立てた計画通りに進むことはない。そのことを、私たちは、長い人生の経験から知る必要があるのではないでしょうか。
でも、それを、なかなか、自分自身で受け入れることができないから、結局、苦しみと言うものも、なくならないのではないでしょうか。

思い通りに、事が運ぶと言うことはあり得ません。事が、自分の思い通りに運んだように思えても、実は、それは、一時的に目に見える範囲でたまたま、神様の計画と一致していたに過ぎない。
すべては、神様の計画だけが、この世の中を支配している。
それなのに、その神様の計画を無視して、生きようとするから、自分の思い通りにならず悩み苦しんでしまうのではないでしょうか。

実を言うと、神様は、そのうように、私たちが苦しむ事を通して、私達に、神様こそが、本当の支配者である。そう言う事を、思い出せようとしているのです。
私達に、自分の力でそうすることも、できない事に気づいて欲しい。そう言うふうに、私達に対し思い、苦しみを与えるのではないでしょうか。

詩篇119:71
71苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

苦しみにあって、私達は、神様のおきて、神様が、この世を支配している。そのことを学ぶのではないでしょうか。

同じ 詩篇119篇の67節には

詩篇119:67
67苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

詩篇119:75
75主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。

苦しみを通して、神様から示された大いなる恵みについて、このような形の言葉を私達に残してくださっています。
私達にとって、苦しみと言うものは、神様だけが唯一、自分の計画通りに事を運んでいる方である事を思い出させようとしているのではないでしょうか。

自分のかかえている苦しみをなんとか自分の力で、取り除こうと、つい私達は思ってしまいます。
でも、そう言うふうに思っている間は、まだ、本当の苦しみと言うものに、私達は気づいておりません。
苦しみを与えている神様の思い。それは、自分の力で取り除こうと、している限り、なかなか気づくことはできません。ですから、いま、かかえている苦しみを自
分の力で取り除こうとする間は、その苦しみは、本当の苦しみではないと言う事をまず知らなければならないと思います。
本当の、苦しみとは、自分の力ではどうする事もできない。そう言うふうに感じた時に起こることではないでしょうか。
この苦しみは、自分の力でなんとか乗り越える事ができる。そう思っている間は、まだ、心に余裕があり、本当に、悩み苦しんでいるとか言えないと思います。
まだ、自分でなんとかできる。そう思っている間は、言葉は悪いですが、神なんて、いらない。神様なんてものは、認めることができない。そんなものにまだ頼りたくない。そう思って自分で一生懸命がんばってしまうのでは、ないでしょうか。
そして、その結果は、結局、神様が、苦しみを通して、自分のもとになんとか立ち返らせようとした。その目的を無駄にしてしまう。
そう言うふうに、してしまうのが、苦しみを通して、神様に出会う前の、心の状態ではないでしょうか。

なにか、「神様なんてものに頼るなんて言うのは、弱い人間だ!」そう言うふうに思い、つい自分で頑張ってしまう。そう言うふうな生き方をしてしまう。
それが、神様と出会う前の私達の姿ではなかったでしょうか。

でも、間違いなく言える事は、神様が、私達に苦しみを与えていると言うこと。そして、神様が、私達に苦しみを与えられる目的は、自分のもとに立ち返らせようとしているからではないでしょうか。

イザヤ書30:15
15神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

イザヤ書30:18
18それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

神様は、私達のために苦しみを与えますけども、ただ単に私達を苦しめるためではないことを、私達は、忘れてはならないと思います。

哀歌3:33
33主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。

この言葉には、苦しめ悩ますけれども、それは、目的があると言うことを、私達に教えてくださっているのではないでしょうか。

哀歌3:38-39
38わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。
39生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

哀歌3:40
40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

40節には、そう言う結論に達するように教えてくださっています。
ただ、その苦しみに対して、どこまで、自分の力で乗り越えようとするかは、ひとりひとり、その性格によるのだと思います。本当は、自分でできると思っている、その
ような力も神様が与えてくださっているにもかかわらず、自信のある人ほど、なかなか神様のもとに来ようとしない。自分ひとりで、頑張ってしまう。ますます、神様から離れてしまう。
このような形で、神様から与えられている力を神様のためにではなく自分の力を誇示するために使ってしまう。
そう言うふうな事をする事によって、その人は、ますます神様から離れてしまう。
そこで、イエス様は、子どものように素直にと言う事を私達に教えてくださったのもやはり素直にならない限り、私達は、苦しみにあったとしても、神様のもとに立ち返
るのはむつかしい。そう言うことを、私達に教えてくださっているのではないでしょうか。
ただ、神様のほうも、、人に対して、神様のもとに帰ることを強制させる事もなさいません。
苦しみを強引に与える事で、無理矢理、神様のところに帰らせようとはされません。それは、神様が求めておられる事が、私達が、いやいや神様のもとに行くのではなく、自分からすすんで、納得して神様のもとに帰ってきてもらいたい。それが神様のみこころだからです。

苦しみを神様が与える目的は、私達に、すすんで心から納得して、神様のもとに帰る決心をして欲しい。そう言うふうに思って、私達に苦しみを与えるのだ。私達は、忘れてはいけないと思います。

さきほど読んだ詩篇

詩篇119:71
71苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

このように、詩篇の作者が苦しみを経験することによって、神様との本当の関係に気づかされたことが書かれています。
私達にも言える事であり、私達は、苦しみが、なければ神様のもとに帰ろうとはしない本当に罪深い者である事をまず知らなければならない。
でも、神様は、私達を愛してくださっているがゆえに、私達に、苦しみを与えます。それは、滅ぶのではなく、神様のもとに帰って欲しいからです。

イザヤ書64:8
8しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

私達が、この言葉に対して、この事に気がつくために必要なのは、楽しみではなく苦しみであると言うことを知らなければならないと思います。
苦しみを通して、自分には、どうする事もできない、神様が私達を作られ、神様が私達をどのように生きるかと言うことまで、すべてを決めておられる事を、そう言うふうな事を通してしか知る事ができない。そこに、私達の罪深さがあるのでは、ないでしょうか。
私達は、神様の目的のために造られていると言う事を忘れてしまい、自分のために神様がいると反対に考えてしまう傲慢な者である事を、苦しみを通してしか知る事ができません。

イザヤ書38:17
17ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました

このみことばは、私達に苦しみを通して神様のもとに帰ること、そして帰ることによって本当に私達はなんのために生きているかを知ることができ、思い出すことができる事を教えてくださっています。
そして私達が滅びの穴から魂を引き戻され、本当にすばらしい神様のために生きると言う、すばらしい目的を、知ることによって、魂が生き返る。そう言うふうな事を、教えてくださっているみことばではないでしょうか。

そのすばらしい事を私達が知るために必要なものは苦しみと言う事だと言うことも、このみことばを通して知らなければならないと思います。

「私の苦しみは、平安のためでした。」と書かれています。


詩篇55:22
22あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

重荷を主にゆだねると言うこと、神様が私達を心配してくださっていると言う事。このみことばも、私達に対し、苦しみ悩みについて、主にゆだねる事で、あなたは、すべてを解決することができますと教えてくださっているのだと思います。
ただ、神にゆだねると言っても、それは、何もしない事ではありません。心から神様を信ずると言う事を求められている。その事を、私達は、忘れてはいけないと思います。
人に何かを頼み、ゆだねる時、その人の事を信頼していないと、どんなにゆだねても、心配で心配で仕方がないと思います。私達が、ゆだね、心配がなくなるのは、私達がその人のことを信頼してゆだねる時ではあにでしょうか。
そのように、私達は、ゆだねよと言う時、そこには、信頼してゆだねよと言う言葉が、隠されていると思います。
神様を信頼する事、神様は私達を必ず正しい方向に導いてくださる。その事を信じているがゆえに、苦しみ悩む状態のときに、神様にゆだねることにより私達の心は平安になるのではないでしょうか。

苦しみに会うのは、神様がこの世の支配者であり、私達の支配者であると言う事を、思い出させるためです。

そして、その苦しみに対する反応には、ふたつのタイプがあります。
先ほども言いましたように、その苦しみを通して神様に立ち返る事に気がつくタイプ。
もうひとつは、自分で、その苦しみを乗り越えてしまう事によって、自分が、傲慢になり、神様から離れてしまうタイプ。
このふたつのタイプは、私達の心が、子どものように素直かどうかによって、決まって来るのではないでしょうか。

今までは、苦しみは神様が与えると言うふうに言って来ましたけれど、実を言いますと、神様が私達に苦しみを与えているわけではありません。
神様は、ただ、ご自分の計画を実行しているだけです。
それなのに、私達は、神様から離れ自分勝手に生きようとしてしまうから、私達は、勝手に苦しんでしまう。神様は、私達にその事に気づいて欲しい。
そのために、私達から見るならば、まるで苦しみを与えているように見えます。これが、私達に苦しみになくならないひとつの理由だと思います。
私達は、つい、自分勝手に生きようとする。そして、自分勝手に生きようとする事が正しい事だと思っている。だからこそ、自分の生きようとしている道と違う道を、なんらかの形で、示されるとそれに反発してしまう。
でも、示されているのは、どのような場合でも、それは、神様の御心だと言うことを忘れてはいけないと思います。

哀歌3:38
38わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。

主が命じなければ、わざわいも幸いも、私達には起こらない。私達は忘れてはいけないと思います。
そして、私達の大いなる罪の原因は、「なぜ、そんな事をするのですか?」と、神様に聞いてしまう事ではないでしょうか。

しかし、神様がもし私達に説明したとしても、たぶん私達にはわからない事だと思います。また、神様は私達にそのような事を、わざわざ説明しようとする意志もないと思います。
神様は、ただ、ご自信のご計画を実行されようとご計画している。それに対し、私達は、神様の愛を信じて従う。そこに私達の平安と言うものが約束されるのではないでしょうか。

もし、私達が神様のもとに帰る事が必要なのだと気がついたら、今、持っている苦しみと言うものは、なくなるようになります。私達が、神様が自分の支配者だと気がついたなら、いまの苦しみから、私達は解放されます。

しかし、実は、私達の生き方と言うものは、それほど単純なものではなく、苦しみから解放されても、別の苦しみが、私達の心の中に起こってくると言うのを、知らなければなりません。

私達は、神様が支配している事を今、苦しみを通して知ったとしても、自分の思いと言うものを、気持ちの面で、神様のなさる事を簡単に受け入れる事ができない。そう言う性質が、私達の中にはあります。
神様は、計画を行われます。その中には当然、私達に、都合の悪い事があります。その時、私達は、どのような態度を、私達は、神様に対してとるでしょうか。
たぶん、都合の悪い事をやめてください。そう祈り願うのではないでしょうか。でも、私達が、願う内容は、神様の計画と反対なわけですから、当然、神様から受け入れられるはずのないものです。その結果、私達は、たぶん「神様は、私を苦しめている。」「私を助けてくださると言ってるにもかかわらず、このような形で私を苦しめている。」心の中で神様をのろい神様の愛を疑うのではないでしょうか。

ローマ人への手紙7:15-18
15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
16もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
17ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

ここで、善と言うのは、神様に従うことと思います。私達は、自分でしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行っています。神様に従いたいと思っているにも、かかわらず、それとは違う自分の意志を行おうとする。
もし、私が自分でしたくない事を行っているならそれは罪である。

神様に従って歩みたい。そう言うふうに心から望んでいるにもかかわらず自分のしていることは、全く違うことである。
そう言うふうな自分に気がついた時、果たして私達は、どう言うふうな状態になるでしょうか。

私達は、この心の状態を変えて頂かない限り、以前には気がつかなかった神様に従いたいのに、従う事ができないと言う自分の心の中に宿っている罪の性質のために今度は苦しみはじめるのではないでしょうか。
神様に従って歩むことは、神様と共に歩むと言う事です。しかし、私達の中に、この罪の性質がある限り、私達は神様と共に歩む事は常に困難を伴うことを私達は知ってしまいます。

しかし 私達の中に、この罪の性質がある限り、私達は神様と共に歩む事は常に困難を伴うことを私達は知ってしまいます。
それは、神様の気持ちと、私達の気持ちが、いつも一致しないからです。ですから、私達は、神様のとられる方法に従っていつでも、神様の思いと自分の思いが一致するように訓練される必要があるのだと思います。
ですから、私達は、苦しみを通し、神様に立ち返る事を知ったにもかかわらず、別の目的のために、神様から苦しみを与えられる。そう言う事を知らなければならないと思います。
神様に立ち返る前に与えられる苦しみと、その事に気がついた後に与えられる苦しみの目的は違います。

この苦しみは、神に従いたいのに従えないと言う苦しみです。知らず知らずのうちに、神様より、自分自身の考えのほうが正しいと思い神様から心が離れてしまう。
神様といつも向き合っていたいと思っているにもかかわらず、知らず知らずのうちに神様から心が離れてしまう。して、その事に気がついた時の苦しみと言うものは、今
まで経験した苦しみとは違うはずです。ですから、この苦しみは、神様に立ち返るその正しさに気がついている者にのみ、神様から与えられるものです。

今まで、頭で神に従う事が正しい事が理解できたとしても、いつでも、どんな時でも、そして、いつでもどんな事が自分の身に起ころうとも、少しも神様を疑うことなく信じて、従って行くと言う事はできません。
生まれながらの性質には、どんな時にも神様を信頼し、歩んでいく性質はありません。だからこそ、私達は、この罪の性質を神様によって、変えて頂く必要があります。

神が、私達に望んでられる事。それは、どんな時でも、神様を信頼すると言う事です。
神様と同じ思いを、私達が持つようになる事。この事が、私達が、神様に従うと言うことです。
私達は、神様が求めている事は、善良で立派え敬虔で立派なクリスチャンになる事だと勘違いしてしまいますが、善良さや敬虔さやそのような思いは、私達の思いが、神様の思いと一致した結果であって、私達が、自分の力で、善良で立派な人間になったからと言って、イエス様が喜ばれるわけではありません。

神様が求めている事。それは、いつでも、どんな時でも、神様と共に歩みなさいと私達に要求しておられます。

ミカ書6:8
8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

善良で立派な人間になる事は、場合によれば自分の努力でもできる事です。
しかし、神様の求めている事はそのような事ではなく、どんな時でも、共に歩むこと、信頼すること、神様の思いと自分の思いが、いつも一致すること。神様は、その事を私達に求めています。
しかし、私達が、どんなに自分の力で努力したとしても、罪の性質を持っている限り、私達にはできない事です。だからこそ、神様は、私達を愛するゆえに、この罪の性質を変えてくださるのです。こう言うふうに、私達に約束してくださっています。

そのために、私達が、何をなすべきか。それは、「私を信頼しなさい。」と言うイエス様の言葉だと思います。

マタイの福音書5:48
48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

これは、何も私達に自分の力で完全になりなさいと言う事を言っているのではありません。イエス様が、私達を完全な者にしてくださる。だから、私を信頼しなさいと語ってくださいます。

神様は、不可能な事を要求する事もなければ、不可能な事を約束する事もありません。
神様が、私達に対し、完全でありなさい。と言われた時、完全であるように責任をとってくださいます。
このように、私達を変えてくださいます。私達の力でできない完全でありなさいと言うことを、要求する限り、イエス様は必ずそのための協力をなしてくださいます。
これが、神様の私達に対する愛です。これこそが、一方的な恵みである事を私達は、忘れてはならないと思います。

ところが一方的な神様の恵みを邪魔してしまうもの、それが、私達の持っている自我です、自分の思いです、また、自分の考えです。神様に従おうと思っても、神様のしようとしている事が、自分の理解を超えてしまうと、自分の不利益になると考えてしまうと、私達はつい、本当にこれは神様の御心なのだろうかと思い、疑い、神様を呪う、そう言うふうな事をしてしまう。
自分の思いが、神様のする事を批判し、神様と共に歩むことができなくなってしまう。ここに、私達の本当の罪の姿があるのではないでしょうか。

マタイの福音書16:24
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分の思いを捨て、自分が罪人だと言うこと、イエス様の十字架のみわざによって自分は救われているけれど、自分自身は大いなる罪人であることを自覚した上で、そして、私に着いてきなさい。そう、イエス様は私達におっしゃいます。

イエス様を信じるようになったこと。それによって、私達は、神の子となる出発点に立ったにしか過ぎません。
私達は、イエス様を信じる事で、確かに神の子にしてくださると言う約束を、イエス様から頂いています。
でも、それは、私達が、なにも、せずに自然に、神の子になれると言うものではありません。
イエス様を、信じる事で、私達は、神の子となれる資格を与えられたにしか過ぎません。イエス様が、私達を、神の子となれるよう訓練してくださる資格を、与えられているに過ぎません。なぜなら、私達は、イエス様を信じても、自分の罪の性質が、まだ残っているからです。
罪の性質を、イエス様によって変えて頂くために必要なこと、それは、続く訓練に対して、私達がイエス様に信頼し、神様に対して全き信頼を持って歩み続けることではないでしょうか。

私達は、神様のために生きているのであって、神様が私達のために生きているのではないと言う事を忘れてはいけないと思います。
神様は、何かをする時に、私達に、なんらの相談もしません。私達のすべき事は、神様への批判ではなく、私達のする事は、信じて従うことです。

でも、神様は、私達を愛してくださっています。だからこそ信頼して、神様に従えば良いと語っていてくださいます。
「私について来なさい。」神様は、この言葉しか言われていません。着いて来る時の、いろいろな理由について、私達にいちいち相談はしません。
神様は、私達を導いてくださいます。ですから、私達が、まずしなければならない事は、神様に対して、なにか役に立つ事をする事ではなく、自分の意志をまず神様に明け渡す事です。
神様に、従いたいと言う情熱があっても、それだけでは神様に従っている事にはなりません。神様は、私達の情熱を見て、答えてくださるのではありません。
私達は、罪人です。でも、その罪人である私達にしてくださる、ひとつひとつの事、それは、神様の一方的な愛、一方的な恵みです。私達が立派だから神様が、私達に目をかけてくださったのではありません。
私達が、どんなに熱心に、どんなに情熱を持って、神様のために何かをしたとしても、そこに、自分の思いを持って自分の判断でしたとしたなら、それは全く神様から受け入れられるものではありません。
神様が求めている事、イエス様が求めていること。それは、自分に着いてきたいなら、自分を捨てなさい。と言うことです。
私達は、それが、できないがゆえに苦しみ、神様も、その事を知っているがゆえにイエス様を通して、イエス様を信頼して、イエス様と歩むことによって、私達が作り変えられると言うことを教えてくださっています。
私達は、自分の思いを捨てる訓練に耐える事で、神様に信頼する事によって、神様に対する愛を示す事ができるのではないでしょうか。

最後になりますけど、新約聖書から、2箇所読んで終わりにしたいと思います。

ヘブル人への手紙10:36
36あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

ヤコブの手紙1:2-4
2私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
3信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブの手紙1:12
12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

私達もこれからはじまる1週間、ほんとうに、いろいろな事でつまずく事があるかもしれませんけど、神様を信頼し、イエス様を信頼し、心を素直にして、つまずいたなら、悔い改めて、イエス様を信頼して歩んでいきたいと思います。どうもありがとうございました。




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