思い煩いと信頼


今村兄

(西神福音集会、1998/04/05)

委ねることによって思い煩いから解放されるのだと思います。それでは主に信頼するということは、一体どのようなことなのでしょうか。
このことについてちょっと考えてみたいと思いますけども、常に神に信頼するとは、主は私のことを愛してくださっているということ、そのことをまず心から信じること、そしてもうひとつは、私たちのために神さまはわざわいではなく、平安を与える計画を立てていてくださっているということ、このことを信じるということ、だからこそ私たちは主に従い、主にすべてのことを委ねて歩むこと、それが主に信頼をおいた歩みではないでしょうか。

イザヤ書の43章にこういうふうなことが書かれてます。

イザヤ書43:1-4
1だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
2あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

こういうふうに神さまは私たちに言ってくださっております。このことを信じることが出来るかということ。
それともう一箇所。

エレミヤ書29:11
11わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

こういうふうに神さまは私たちに約束してくださっております。そのことを信じて、私たちがホントに主に従い、主にすべてのことを委ねているなら、私たちは思い煩いから解放されると思います。
自分でこのように生きたいと思うのではなく、主に自分の生き方、生きるべき道をお任せするということ、このことが主を信頼して、主にすべてのことを委ねるという意味ではないかなというふうに思います。

詩篇の62篇にはこのようなかたちでダビデが告白しております。

詩篇62:1-2
1私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
2神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

こういうふうに神さまのことを信じ告白することが出来るなら、本当に私たちは思い煩いから解放されるのではないかなあというふうに思います。生き方を主に任せるということ、それは主に自分の生きる主導権を渡すということです。
ですからそれは、自分が生きたいように生きることを神さまに願うことではありません。主の与えてくださる生き方をどんなものであったとしても、それを自分の生きるべき、主が備えてくださった道として喜んで受け入れること、そうすることこそが主を信頼した生き方であり、私たちが思い煩いから解放される生き方なのではないでしょうか。
つい私たちはこのことを分かっていても、気が付くとこのようなことをしていないでしょうか。確かにそのことは分かっているけども、このことは違うのではないか、という形で傲慢の思いをもって、自分の判断で神さまの計画の善し悪しを評価していないでしょうか。

イザヤ書45:9
9ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

そして私たちの生きる生き方について、神さまに文句をいうこともこれと同じことだと思います。そしてそれは主に信頼をおいていない証拠だということを、私たちは悔い改めなければいけないと思います。

テサロニケ人への手紙第I、5:18
18すべての事について、感謝しなさい。

というふうに言っておりますけれども、私は一番初めそれを読んだときにすべてのことに感謝するということが本当に出来るのだろうか、というふうに思ったこともありますけれども、私たちが神に信頼をおいて歩むというときに、どんなことであろうとそれを自分が生きるための神さまが備えてくださった道と思うときに、このことがすべてのことについて感謝することが出来るようになるのではないでしょうか。
そしてそれは別の言い方をするなら、マタイの福音書の6章の33節に書かれているような内容になるのではないでしょうか。何度も読まれる箇所だと思いますけども、

マタイの福音書6:33
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

ということです。

マタイの福音書6:33
33そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

とイエス様が約束してくださっております。そしてそれに加えこれらのものというのは、31節に書かれてますように、

マタイの福音書6:31
31何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、

というふうなことのことはすべて、32節に書かれてますように、

マタイの福音書6:32
32あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

というふうに書かれております。
このイエス様の言葉を信じることに、私たちは将来への思い煩いというものから解放されるのではないでしょうか。天の父なる神は、私たち以上に私たちに必要なものすべてをご存知だということ、主は私たちは求めるよりももっと多くのことを私たちのために考えてくださっているということ、そして神さまは私たちを辱めるような生かし方は絶対になさらないということ、このことを信頼するときに私たちは、本当に何も思い煩う必要もなく解放されるのだと思います。

神に信頼し生きるということ、それは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしわが主の神である主を愛しなさいと、イエス様が言われたそのことを、本当に私たちは実行することだと思います。
そしてそれは別の言い方をするなら、ほかのものに少しの信頼も寄せてはならないということ、神の導かれるそのままを歩むということ、このことが私たちに神さまから求められているすべてなのではないでしょうか。

イザヤ書の30章にこういうふうな言葉があります。

イザヤ書30:18-21
18それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
19ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
20たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
21あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。

というふうに書かれております。
この神さまの約束、これを信じるときに私たちは本当に思い煩いから解放されると思います。そして神の導く方向が、自分の望んでいる方向と同じかどうかと思い悩んだり、あるいは導いてくださることが本当に嬉しいけども、自分が行きたくないところに自分は連れて行かれたらどうしよう、というふうに思い煩ったりすること、それは主を信頼しているとは言えないと思います。

神がわざわいではなく、平安を与える計画をもっていると言われているけども、それは自分の望んでいないことであったなら、わたしたちはつい神は私を平安に導いておられない、っていうふうな形で不平を言ってしまうのではないでしょうか。
しかしそのようなことも、同じように主に信頼をおいているとは言えないことなのではないでしょうか。神は私たちを、私たちの理解を越えた大いなる事をしてくださる方というふうに書かれた箇所があります。

エレミヤ書33:3
3わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

というふうに言っておられます。わたしたちは、その神さまの言葉を信じることが出来るか、ということをいつも神さまから試されているのではないでしょうか。
よく聞かれることですけども、私はこんなに神さまを信頼し、祈り続けたのに願いを聞いてくださらなかったというふうに言われる方がいます。しかしそれも同じように、間違っていることだと思います。
神を第一にするということ、それはそれこそが本当に神さまの御心だと思い、自分の願いより神の計画を第一として喜んでそれを受け入れるということ、このことこそが私たちが神を第一とし、神にすべてのことをゆだねて生きるという意味なのではないのでしょうか。
マタイの福音書の26章38節にそういうふうな、イエス様が告白をした箇所があります。これは、あの十字架上でのみわざを受ける前のイエス様の祈りですけども、

マタイの福音書26:38-39
38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

ここでイエス様は、人間的に考えるなら、人間的に思ったなら十字架上での死、十字架上での辱めというものを受けたくなかった、そういうふうな思いをもったと思います。しかし、「わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」、こういうふうに祈るとき、神の御心の方を取ったということ、これが私たちに対しても求められているものなのではないでしょうか。
また同じマタイの16章の21節のところで、ここにイエス様が自分が多くの者に苦しめられ、殺され、三日目によみがえられという告白をしたときに、ペテロが言った箇所ですけども、

マタイの福音書16:21-23
21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ここでイエス様ご自身の苦しみに対する、ペテロの人間的な同情、それを退けているということ。このことは私たちに何を教えてくださっているのでしょうか。それは主なる神の考えている、私たちのための平安な計画、私たちを一番いいところで導こうとされている計画というのは、私たちがちっぽけな頭で考えて、望んでいる内容をはるかに超えた大きなことだということ、私たちが願うこと以上にその内容というのはまったく異なる、そしてそういうふうなことが多くありうるということを、ここで私たちに教えてくださっているのではないでしょうか。
しかしそれは、本当に私たちが考えるよりもはるかに素晴らしいことをなそうとしている神さまの計画だということを、私たちはこのことを通しても学ぶことが出来るのではないでしょうか。

何が一番大切なのか、それは神の計画をどのようなものであろうとも、受け入れるということだと思います。あまり聞かれない箇所ですけども、旧約聖書のハガイ書というところがありますけども1章のところをちょっとお読みいたします。

ハガイ書1:5-9
5今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
6あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
7万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
8山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。
9あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

っていううふうに書かれております。一生懸命努力したのに、それがまったく無駄になる。一生懸命努力したにも関わらず、満足を得られない。そしてその原因というのは、9節に書かれてますように、神のことを考えず、自分の家のために走り回ったからだ、というふうに書かれております。主のためにせよ。
8節に、宮を建てよ、と書いております。神さまのことをまず第一に考えよ、と言っているにも関わらず、自分の家のために一生懸命努力したとしても、それは神さまの力により吹き飛ばされるというふうに書かれております。

私たちは自分のためにする努力こそが、一番自分を幸せにするというふうに考えがちです。でも本当はそれは一番自分を疲れさせることだ、ということを少し後で考えたなら分かることだと思います。
私たちは自分が幸せになるために、自分が自分のために色々なことをします。しかしその結果は、いつも疲れだけが残るのではないでしょうか。なぜならそれは神を喜ばせようという思いがないからだと思います。

またもうひとつ、自分のその時その時の気分によって、何が幸せかということを判断することも、やはり私たちに思い煩いというものを起こさせる原因になると思います。なぜなら、私たちの気持ちというもの、私たちの気分というもの、これほどあやふやなものはないからです。
私たちはよく経験することだと思いますけれども、昨日までこれさえあれば本当に幸せなのに、と思っていたものが手に入ったならば、私たちはたぶんそれで幸せにはならないと思います。
あるいはもっと極端な場合、昨日までこれさえあればと思っていたものが、今日はまったくそれに対し魅力を感じないということをよく経験するのではないでしょうか。
そしてそのような気分に従っている限り、私たちは心の平安というものを得ることは出来ないと思います。なぜなら自分のために努力するといっても、このようにあやふやな気分に従って努力している以上、私たちはいつも不平不満、それしか残らないのだと思います。
ですから結局、自分のためにしているとき、それは最終的な満足を得ることは出来ず、いつも何か心の中に思い煩い、不満というものを残しながら、次の何か自分の気分による欲しいものと、要るものを探し求めてしまうのではないでしょうか。

私たちが本当に努力して求めるべきもの、それは自分の気分だけで決めるのではなく、神を第一としようという思いをもってそのことを決めるべきだと思います。なぜなら主なる神さまだけが、唯一まったく変わらない方だからです。
イザヤ書の40章の8節にこういうふうな言葉があります。

イザヤ書40:8
8草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

また新約聖書のヨハネの手紙第Iの2章の17節。後ろの方ですけども、

ヨハネの手紙第I、2:17
17世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

私たちが自分の気分で選ぶ、自分が一番欲しいもの、これさえあればと思うもの、それは世の欲ということを私たちは忘れてはいけないと思います。私たちは自分の人生は自分のためにあるから、自分のことをまず第一に考え、そして生きるべきだと思いますね。私たちは自分の将来のことを考え、不安になり、まず自分のことを気にしますね。
しかし私たちが将来、その不安をなくすためにしなければならないこと、それはまったく逆説的なものですけども、自分の心配をまず第一にすることではない、ということを私たちは信じなければいけないと思います。
ルカの福音書の9章の24節にこういうふうなみことばがあります。

ルカの福音書9:24
24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

というふうに書かれております。
私たちが本当に自分の将来、その不安、思い煩いから解放されるためには、その思い煩いを何とか自分の力で解決しようとするのではなく、まず自分の心配事、思い煩いを考えないで、主の御心は何であるかということを祈り、主なる神にすべてのことを委ねるということ、そうすることによって私たちには何か分からないですけども、私のために、自分のいのちを失うもの、そのものが自分のいのちを救われるというふうに書かれていることを、私たちは体験することが出来るのではないでしょうか。
主にすべてのことを委ねるということ、それは別の言い方をするなら、自分のために生きるのではなく神のために生きようと、生きる目的を変えることだと思います。神のために生きようと決めたとき、私たちは思い煩いから少しずつ解放されます。なぜなら神が導き始めるからです。これが神への立ち返りだと思います。
イザヤ書の41章の13節にこのような言葉があります。

イザヤ書41:13
13あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

というこの言葉を信じることが出来る、それは私たちが自分を第一にするのではなく、神を第一にするときに神がその言葉を私たちに対し与え、本当にそのことを確信することが出来るのではないでしょうか。
またもうひとつ、私たちが忘れてはいけないことは、神にすべてのことを委ねても、場合によって思い煩いから解放されないことがもうひとつあるということです。
それは神が本当に私を愛してくださっているのか、ということを信じることが出来ない、そういうふうな面での神への信頼をもつことが出来ない、そういうふうな場合だと思います。
神はすべてを赦してくださっている。しかし自分はその中に本当に含まれているのだろうかというふうに疑問に思って、不安に思っているとき、私たちは神さまからの思い煩いからの解放というものを得られないと思います。
この、自分はその中に含まれていないという不安、これがある限り神にすべてのことを委ねればいい、と頭の中で分かっていても、また委ねたいと願っても、決して思い煩いから解放させることはないと思います。

このように、自分は神の愛から離されているはずだというふうに思ってしまうのは、たぶん自分のしてしまったことがあまりにもひどすぎて、神はもうとてもじゃないけど自分を受け入れてくださらない、受け入れてくださるはずがない、そのように思っているからではないでしょうか。
自分は神に愛されているというふうに確信をもてる人は、本当に幸いなことだと思います。しかしこの確信をもてない人は聖書で、神はあなたを愛している、私は神から愛されているのだ、とあるいは、あなたの罪は赦されている、そういうふうに聖書を通し読んだとしても、信じることは出来ない。そういうふうな人は、本当にかわいそうな人だと思います。
そのような人は自分のしてしまったことがあまりにもひどすぎるから、絶対に自分だけは神さまから愛してもらえない。というふうに思ってしまう人だと思います。
しかしそのように考えている人は、本当の神さまの思いのことについて大きな誤解をしているとおもいます。まずその人は、神が自分のことを全部知っていないというふうに思っているということです。その人は、神が全知全能の方であるということを忘れています。
神は私たち自身知らない、私たち自身のこともすべてご存知の方だということを私たちはまず忘れてはいけないと思います。神は私たち以上に、私たちひとりひとりのことをご存知だということ、なぜなら神は私たちひとりひとりを神ご自身が創られたからです。
詩篇の33編の15節にこういうふうな言葉もあります。

詩篇33:15
15主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

また詩篇の69篇の5節。

詩篇69:5
5神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。

というふうに書かれております。また詩篇の139篇の1節から3節です。

詩篇139:1-3
1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

いうふうに書かれています。ですから神は、私たちのしてしまったことはどんなにひどいことであってもそれをご存知なのです。そしてそのことをご存知のうえで、神は私たちを愛してくださっているというふうに言われているということです。
神は私たちの罪深さを私たち以上に知ったうえで、そのうえであなたを受け入れるというふうに仰ってくださっています。心が神から離れてしまっている私たちに、神のもとに帰れと言っているのが、神さまが本当に私たちに対し求めていることです。
神は私たちが、神のもとに帰ることだけを願っています。神は私たちが神から離れていることをご存知です。ですから私たちが人間の思いで、これはひどすぎる、というふうに思うことでも、神を離れているあなたがたなら、それをやっても当たり前ですという形でそのこともすべてご存知のうえで、それでもなおかつわたしはあなたを愛しています、そういうふうに言われているのがその神さまの心だということを、私たちは罪を犯し赦されないと、これだけは無理だと思ったときにもう一度思い起こす必要があると思います。

神は私たち以上に私たちの罪深さをご存知です。そのうえで、私たちを愛してくださっているということですから、こんなひどい罪を犯してしまったから自分はもうすごい罪人だ、だから自分は絶対に神に愛してもらうことは出来ない、そういうふうに思うのは大きな間違いだということになります。
私たちが、自分の罪深さということに気付いたときに、それよりももっともっとずっと前に、私たちについて私たちがどれだけ罪深いかということを神さまはご存知だった、ということ。もっと極端に言うなら、私たちが生まれたときから私たちの罪深さ、私たちが四十年後、五十年後に気付く罪深さをすでにご存知だったということ。そのうえでなおかつ、私たちに対し、それでもわたしはあなたを愛しますというふうに言ってくださっているということ、神さまは私たちが気付くはるか以前に、私たちが本当に罪深さに気付き、落ち込んでしまうほどのそれだけ大きな罪というものをご存知だったということ、そのうえで私たちに対し、わたしはあなたを愛している、というふうに仰ってくださっています。

神は、私たちが考えていることとはまったく反対のことを考えます。私たちは神さまに対し正しいことをしようと思います。しかし神の目から見るなら、心が神から離れている以上、・・・・ことをご存知だということ、そのうえで愛すると言ってくださったということ、そのことを私たちは本当に感謝をもって受け取ることが大切なのではないでしょうか。

神は、私たちが罪を犯したならそれは私たちが神から心が離れているからだ、だからすぐに神であるわたしのところに帰って来なさい、そういうふうに呼びかけていてくださるということ、このことを私たちは忘れてはいけないと思います。

詩篇22:24
24まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

と、書かれております。
悩む者の悩み、罪深さに悩むときにその罪深さを通して助けを求めたときに、神さまがそれを拒むことなく、さげすむことなく受け入れてくださるということがそこに書かれております。
また、

箴言28:13
13自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

というふうに書かれております。ですから私たちは、自分はこんなにひどい罪を犯してしまったのだから、もう神の愛を受けることは出来ないというふうに考え、思い煩うことは間違いだということです。
その、自分は本当にひどい、罪深い罪人だという思い煩い、それ自体を神にもって行って、委ねればよいのだと思います。
ピリピ人への手紙の4章にこういうふうな言葉があります。

ピリピ人への手紙4:6-7
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

というふうに書かれております。本当に私たちはひどい罪を犯したときに、それこそが本当に一番大きな思い煩い、悩みということになるのではないでしょうか。
そして私たちは、この罪はとてもじゃないけど、神さまも赦してくださらない、そういうふうに思うときに一番の絶望感、思い煩いに陥るのではないでしょうか。しかしそのことこそ、真剣に私たちが神のもとに持って行く必要のあるものなのではないでしょうか。
神は私たちが罪を犯したから、そのために怒るのではありません。神が怒るのは、罪を犯しているのにそのことを頑なに否定し、罪を罪と認めようとしないからです。罪を罪と認めないということ、それは神のもとに帰ろうとすることを否定しているからだと思います。神さまは私たちを立派だから愛してくれたっていうのではありません。そうではなく、罪人だからかわいそう。本当にあなたがたは罪人になってしまった、かわいそうだという思いをもって、私たちを愛してくださっています。
だからこそ、私たちが神さまに対し立ち返るために必要な力、必要な心のすべてを与えてくださいます。神のもとに帰ろうとするとき、神さまは本当にどのような者であったとしても受け入れてくださるということ。そのことを私たちは本当に確信をもって信じる必要があるのだと思います。

ヨハネの福音書6:37
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

と書いてあります。ここに、ひとりの例外もいないということ、ただ私たちが神さま、イエス様のもとに来るということ、これがすべての条件です。
神のもとに帰るなら、どんな人でも神は受け入れてくださるということ、ここに例外はないということ、これこそが本当に神さまの、私たち人間に対する大いなる恵みなのではないでしょうか。
ホセア書というところがありますけども、ホセア書の14章1節、2節、4節をお読みいたします。

ホセア書14:1-2、4
1イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。
2あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。
4わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

というふうに書いてくださっております。こんなひどい自分でも、神を愛してくださっている、そのことを確信出来るなら、神が本当に心配してくださることも確信することができ、私たちは本当に思い煩いから解放されるのではないでしょうか。
最後に詩篇から2箇所お読みして、終わりにしたいと思います。

詩篇119:156
156あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。

もう一箇所。

詩篇32:10-11
10悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
11正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

どうもありがとうございました。




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