神の近くにいる幸せ


今村兄

(名古屋福音集会、2002/10/20)

引用聖句:ペテロの手紙第I、1章15節-16節
15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
16それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

おはようございます。この前は私の都合でこちらに来る予定が前日になって急に来れなくなりました。今、司会の兄弟がおっしゃったように、久しぶりに名古屋に来れて感謝しています。
ま、なぜ来れなかったという理由を、わざわざ言う必要はないのですけれど、簡単な証しにもなると思いますので、申し上げます。
丁度7月の半ば過ぎくらいから、一生懸命努力したのですうけれど、会社が結局だめになりまして、破産の手続きなどを急にそのへんに集中して、日曜日も会社に出なくならねばならなくなって、会社は、今手続きの進行中なんです。
そして、私自身がその会社に迷惑をかけてしまった会社のほうに行くことになりました。その時に、そこの社長さんが、

「うちに来てくれるのは非常に有り難い。だが、ただひとつだけ心配がある。実は、非常に問題がある人のもとに来てもらう形になるので、その辺が大丈夫かどうか心配だ。」
と、言われまして、わたしは、傲慢にも、「だいたい私は苦労して来ましたので、どんな人にも、あわせることができますから」と簡単な気持ちで、新しい会社のほうに行ったのですけど、ま、その人がだいぶすごい人で、私自身それから8月、9月と祈りつつ行く、ある意味で出社拒否みたいな状態にまでなったのですけど、その時に与えられたのが詩篇の19篇のところで、自分自身ではイエス様に祈ってることは、今日一日も、その人と変な気持ちにならないように、けんかにならないように、というふうな祈りをしているのです。
いつも、いつもけんかにはならないのですけど、おかしな状態になって、どうしてだろうと考えていた時に、要するに間違ったかたちの祈りをしていたわけなのです。そして、結局イエス様が私を今回のこういう状況に置いたのは、いうならば私自身の傲慢をまた新たに示してくださった。それが、私を新しい会社に行かせてくださったイエス様の目的ではなかったのかなと思います。

詩篇19:13
13あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

私自身、意味がなかなかわからなかったのです。これは、イエス様から離れる、つまりもう十分苦しみを経て来たから、自分でこれはもうできるという思いを持ったこと自体、傲慢の罪だったということを示されました。
ま、今日の主題とは直接関係ないのですが、そのことに気がついて、イエス様と20年近くなって、その間自分なりにいろいろ苦労して来たという傲慢が示されたということは、非常に感謝だなあと思っています。
今日は、それとは少しは関係するかもしれませんけど、さきほどのペテロの手紙第Iのみことばを通して、学んでいきたいと思います。

私たちは、誰でも幸福、生きている喜びを感じたいと願っているのではないかなと思うのです。
でも、そのためにはいったい何を手に入れることができたら、生きている喜びを手に入れることができるのかなと考えると、普通はお金を手に入れることができたら幸福になれると思うのではないかなと思います。
確かに、お金があればいろいろ自分のやりたいことを満足させることができると思うかもしれませんけど、ま、お金を手に入れて好き勝手に遊んだ結果は、たぶん肉的な喜びはあるかもしれませんけど、生きている本当の喜びは感じられないのではないかなと思います。

あるいは、生きている喜びを感じるために必要なのは健康だろうかというふうに思います。たしかに私たちは、病気になると憂鬱になってしまい、気分的にめいってしまい、喜びも薄れてしまうことは確かなのです。
でも、病気を持っていても喜びを持っている人はたくさんいます。そういうことを考えると、健康であるということも生きている喜びを感じる条件とは言えないと思います。
ま、人から尊敬されるとか、人から注目されるとか、そういうことが生きている喜びか。やりがいのある仕事があることがそういうふうに考えても、いつまでも、喜びを持ち続けることができないのではないかと、思います。

お金をたくさん持つために何をすれば良いかというと、どんな理由をつけようと、ほかの人の持っているお金を奪い取るということが条件になるのですけど、資本主義の世の中では、当然のことだと思う人は良いかも知れませんけど、もし、そういうふうなやり方に抵抗を感じる人がいれば、やっぱりお金を手に入れて満足することができないということを思うと、お金は生きている喜びを感じるための要件にはならない。
また、健康については、健康でありさえすれば生きている喜びを感じることができると思うと、いつか病気になってしまうのではないかという気持ちで、いつも健康に気をつかってばかりいて、それが逆に心配の種になり、いつもいつも体の心配をしてそういうふうな生活をすると、そういうこともやはり生きている喜びということからほど遠いのではないかなというふうに思います。

そういうふうに考えてきますと、いったい私たちは生きている喜びを感じるためには、どういうふうな状態になっていれば良いのかなということを考えた時に何か物があれば幸せになれるというのではなく、生きている喜びというのは、その人の心の状態ではないかなと思います。
例えば、お金がなくても幸せを感じている人がいます。反対にどんなにお金を持っていても心が喜びを感じていない、いつも満足することができないという人もいます。
2、3日前にもイギリスのダイアナ王女のことを回顧する番組をしていましたが、世間的に見ると英国王子のお嫁さんになることは、幸せの絶頂のように思いますが、TVを見ていますと、いろいろな苦しみを感じながら15年間の苦しい結婚生活を続けていたとありましたが、お金は全く困っていないけど、あの人の生きていて死ぬまでの間は、お金はあっても生きている喜びは感じられなかったのかなと思います。
そういうふうに考えて行きますと、健康であってもお金があっても喜びを感じられない人がいるし、健康でなくても、お金がなくても、喜びを感じられる人がいる。お金も、仕事も、健康も、絶対これさえあれば生きている喜びを感じることができるというものはないのではないかなと思います。

今の日本の社会は、私が小学校を過ごした昭和30年代よりも、今のほうが生活のレベルは確かに向上しています。生活は豊かになり、また携帯電話やコンピューターを考えれば想像できないほど便利になっています。本当に、物は豊かになりましたけど、その中で生活している私たちは、昔より幸せかといいますと、かえってその当時よりも今の方が精神的に苦しんでいる人、また精神的に病んでいる人が増えている。そういうふうに、マスコミでも報じられています。
そして、それは物質的な豊かさや便利さがすべての人を幸せにする条件ではないと教えてくれているのではないかなと思います。2ヶ月ほど前には、フジTVで「北の国から」の最終回が放送されました。私は、それまでほとんど見てなかったのでよくわからないのですが、たまたま子供と見ました。
北海道の自然の中で、家族の心のふれあいがテーマだったと思います。自然の中ですから、豊かさや便利さもない中で、苦しみながら子供達が成長していく。そして、その中で田中邦衛さん演じる父親が、子供達に遺言の形で残す言葉が

「自然がお前達を養ってくれる。自然は、お前達に贅沢はさせないけど、生きる最低限の恵みは与えてくれる。」

そのような意味をこの父親が言っていました。たぶん、これがこの作品のテーマだろうと思います。生きている喜びは、物を持つことではなく心の問題である。それを言いたかったのかなと思います。
20年前、この番組「北の国から」の始まった頃は、ちょうどバブルの時代でした。物こそすべて。物を手に入れることができれば、私たちは幸せになることができると思わせる時代であったと思います。そのバブルが崩壊する。自然が、贅沢はさせてくれないけど、生きる最低限の恵みを与えてくれる。ここでは、自然としかいえなかったと思いますけど、神様は贅沢を与えてはくださらないけど、最低限の恵みは与えてくださる。そういうふうに言っているのではないかなと思います。
この「北の国から」を作った人は、そういうふうなことを言えなかったから、自然としかいえなかったのだと思います。

でも考えてみれば、このことは私たちは頭の中では理解し、わかっていると思います。でも、ほとんどの人は現実問題としていろいろな事情から、それは不可能だ。心だけ求める生き方は、不可能だとあきらめているのではないでしょうか。聖書では、どういっているのでしょうか。

詩篇73:28
28しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

ここで詩篇の作者は、幸せの条件、それは「神の近くにいる」ことだと言っています。なぜこの詩篇の作者は、神の近くにいることが幸せだ、生きている喜びを得るためには、神のそばにいることが必要だと言ったのでしょうか。
それは彼が、人間はひとりひとり神様によって創られているということを信じているからだと思います。イザヤ書を見てみましょう。

イザヤ書44:21
21ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

イザヤ書43:7
7わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

聖書は、私たち人間はひとりひとり、神の計画に基づいて神によって創られたから神の近くにいることが幸せの条件だというふうに、詩篇の作者は言ったのだと思います。
私たちが、神によって創られたとするなら、当然神のそば近くにいることこそ、幸せであり本当の生きている喜びを感じる唯一の条件ではないかなと思います。

申命記31:6
6強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

神様ご自身が、私たちをどのように取り扱われるかということがここでは書かれています。

創世記28:15
15見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

ご自分の計画に基づいて創ってくださった神様は、私たちを守り見捨てないと約束してくださっています。私たちは、神のそば近くにいることができたら、生きている喜びを感じることができる。そのことを詩篇の作者は、神のそば近くにいることが幸せですといいう簡単な言葉で私たちに残してくださったのではないでしょうか。
確かに世間では、お金があれば自分の思い通りになるから幸せに生活できるとか、健康であれば自分の思い通りの生活ができるから幸せとか、自分の好きな仕事することこそ幸せだと言っているかもしれませんが、それらは本当の幸せにはなり得ません。
お金にしても健康にしても、ある意味では自分でどうすることもできない。そういう条件があります。お金にしても、仕事にしても、何人かの人が競争で勝ち取り、ほとんどの人は負けてしまい、自分が望む仕事につくことができません。そして、勝った人もはじめは喜んで仕事、あるいはお金を使うかもしれませんけれども、そのうちむなしさを覚えるようになります。ですから、このような仕事とか、お金とか、このようなものに依存した生き方からは、本当の喜びというものは生まれません。

それに対して、神様がある目的を持って私たちひとりひとりを創られたとすれば、創ってくださった神のそば近くに私たちがいることが、本当の生きる目的であり、喜びを感じるはずです。
この本当の喜びは、私たちがお金が有ろうとなかろうと、また健康であろうがなかろうが、人がやりがいがあろうがなかろうか。あるいは、どのような環境にいようとも、そのこととは全く関係がなく私たちひとりひとりが持つことができる本当の喜びなのではないでしょうか。
そして、私たちを創ってくださった神様は、私たちが神と共に歩むことを望んでいます。

ミカ書6:8
8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

正しいことを行い誠実を愛しへりくだって、神と共に、私達を創られた神と共に歩むこと。それが、神様が求めていることである。神様は、私達が自分勝手に生きることを予定して創ってはおられない。そのことをこの言葉は私達に教えています。神様は、私達人間が神と共に歩むように創られた。

それは、人間が自分の決めたまま勝手気ままに生きるものではない。そのことを私達に言っているのではないでしょうか。私達は、自分の決めたままに生きることこそ正しいことというふうに思っています。この言葉を見た時に、あなたの神と共に歩むこと、私達がある人と共に歩むときに、どちらが主導権を握るかによって、その主導権を握っている者に従うのでなければ、たぶん一緒に歩むことはできない。
私達にとって大切なことは、私達が自分勝手に生きることを予定して、神様は私達を創ってはおられないということではないでしょうか。

神様は、私達人間が、神と共に歩むように創られました。そして、だからこそ神のそば近くにいること。そこで生きていることが、生きる喜びを感じるただひとつの正しい生き方だと私達に告げようとしているのではないでしょうか。
それ以外の生き方、これこそ私の生き方だと自分で決めた生き方、そこから生きる喜びを感じることはできない。神様は、そのようには私達を創られてはいないということを私達は忘れてはいけないと思います。

イザヤ書10:15
15斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。

斧は確かに木を切るためにあります。でもその斧を使う人を無視して、斧が勝手気ままに木を切り始めたとしたら、そのようなことは間違っているのは当然のことだと思います。

イザヤ書29:16
16ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。

これが、私達と神様との関係です。神様が陶器師であり、私達が陶器であることを私達は常に忘れがちです。
私達は、自分が幸せになるためには、自分の決めたままに生きることこそ大切だと思ってしまい、自分勝手に生きることこそ本当の生き方だと思い、自分の望むように生きようとします。
でも、それは最初のうちはうまく行っているように思えても、そのうちむなしさしか感じないようになります。自分では、一生懸命に努力して生きているつもりなのに、何かむなしさしか残らない。こういうふうな生き方になってしまう。
それは、私達の物の見方が逆さまになっているからではないでしょうか。

イザヤ書49:5
5今、主は仰せられる。――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――

まだ母の胎内にいる時に、神様のしもべとして私達ひとりひとりを創られた。私達は神のしもべです。だから神様と共に歩むことが、本当の生き方であることを忘れてはいけません。
しかし、「神のしもべである」この言葉に、抵抗を感じる方もおられるかもしれません。
確かに私達は、人は決めたように自由に生きる権利があると、学校でも教えられていますし、それは当然、当たり前のこととして信じられています。
人間は、神のしもべという考え方は、そのような考えを完全に否定することになります。
でも、もしその当然の権利と思っている生き方が間違っているとしたらどうでしょうか。

「人は自分の思い通りに自由に生きる権利がある。」というのが間違った考えで、生きる目的、生きる喜びを捜して努力しているから、いつまでたっても中途半端な形で終わってしまい、いつも満足できないでいるのではないでしょうか。
聖書が言うように、私達は神のしもべであり、神のそば近くにいることによって、本当の喜びを得ることができる。そういうふうに生きる喜びを試してみることも大切なことではないでしょうか。

もし、仮に聖書の言葉を信じて、神のそば近くにいる生活をしても、自分は結局幸せを得ることができなかったという結論になったとしても、ただ前の中途半端な幸せ捜しの状態に戻るだけなのですから、別に損をすることはないと思います。
でも、もし聖書の言っていることが本当であれば、私達は神様から素晴らしい体験をすることを得て、本当の喜びを知ることができるのではないでしょうか。

でも、神のそば近くにいる生活を試してみようと思うのなら、私達は真剣に試してみる必要があると思います。なぜなら、神は誠実な方であり、その点で私達にも誠実さを要求されるからです。さきほどのミカ書の6章。

ミカ書6:8
8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

ここでも、神様は私達に対し「誠実を愛し」と言われています。誠実を愛して、あなたの神とともに歩むこと。これが、神様が私達に求めておられることと言われています。じゃ、神のしもべであるとしたら、私達はどのように生きることが神様と共にいることになるのでしょうか。
まず、はじめにわかることは、私達は神のために生きているということです。そして、神様は私達をご自分の栄光を現すために、そのようなしもべとして創られたということができます。
つまり、私達の生きている目的は、自分を楽しませるためではなくて、神の栄光を現すために私達は生きているということがわかると思います。

じゃ、神の栄光を現す生き方とは何を意味するのでしょうか。それは、先ほど司会の兄弟が読んでくださいました「あんたがたも、聖でなければならない。」
実は、これは旧約聖書のレビ記の19章の2節にある言葉です。

レビ記19:2
2「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

これが、神様が私達ひとりひとりに求めておられることです。
神のしもべとして、神の栄光を現す生き方とは、私達が聖い生き方をすることを現します。私達がそうすることで、神のそば近くにいることができます。
じゃ、いっぱい聖い生き方とはどのような生き方でしょうか。普通、一般の人は、聖い生き方というとどのような生き方を想像するでしょうか。
私達は聖いと聞くと、清く正しく生きなければならないとか、清廉潔白な生き方をしなければならないとか、そういうふうに思い、清い生き方をするとは、あの人は純情だと評価されるようなことを思ってしまうのではないでしょうか。

でも、それは人間の考えている清い生き方であって、神様の考えている聖い生き方とは全く違います。
神様のいわれている聖い生き方とは、私達ひとりひとりが、神様との正しい関係を保つ生き方。神様に対して、神のしもべとしてふさわしい生き方をすること。それが聖い生き方だと言っています。
単なる善良な清廉潔白な生き方ではありません。

確かに、神様との関係が正しくなれば、当然その結果として私達は善良な生き方をするかもしれません。
けれどもそれは、あくまで神様との関係が正しい結果にしか過ぎません。私達が神様との正しい関係を保つことができるからこそ、神様がそのようにしてくださることを忘れてはいけません。
ですから、私達は神のそば近くにいるのに善良な生き方をしようと努力する必要はありません。私達がしなければならないのは、ただひとつ。神様との関係をいつも正しく保つことと思います。

じゃ、神様と正しい関係を保つために、私達はどのような生き方をすれば良いのでしょう。

詩篇37:5
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

詩篇62:8
8民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

箴言3:5-6
5心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
6あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

これが神様が求めているものであり、神様と正しい関係にある条件です。
神様は私達に、正しく清廉潔白に純情に生きなさいと求めておられるのではありません。神様が私達に求めておられるのは、神様を信頼することであり、神様と共に歩むことです。
主人である神様を心から信頼することが、神様しもべである私達の持つべきことだということが、今読んだ詩篇や箴言から、わかるのではないかなと思います。そして、自分がどのような状況に陥っても主を信頼することが、どこにおいても主を認めるということであり、それが神の栄光を現すことになると思います。

さきほど読んだ箴言の3章5節の「心を尽くして主に依り頼め」ということは、詩篇62篇の「どんなときにも、主を信頼せよ。」と同じことであり、それは詩篇37篇の「あなたの道を主にゆだねよ。」と同じことになるのではないかと思います。
自分が納得できる時だけ神様を信じる、ということを意味しているのではありません。
神様のなさろうとしていることを、自分が納得できようができまいが従うことが、主を信頼するということではないでしょうか。神様は、納得させてから従わせようとは思っていません。神様と私達の関係は、民主主義的な関係ではありません。あくまえでも私達はしもべであり、神様は主人であって神様と私達の関係は対等ではありません。

申命記10:12-13
12イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、
13あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

私達は、神様がなぜ私達にこのようなことをするのか、理由を知る必要はありません。神様は、私達に神様のことを研究しなさいということは、一切言われていません。ただ私達に対し、神様のなさることを信じて従いなさいということだけを私達に命じておられます。
ですから、私達がしなければならないことは、神を信頼することです。

ところが、それはやってみるとなかなかむつかしいことです。私達が、いつでも神様を信頼しようと決心しても、それを妨げるものがひとつあります。それは、どんな時でも自分がしてしまう自分の判断です。
どうしてこんなことをしなければならないのか。そういうふうに理屈を考えてしまい、納得できないとそれを受け入れようとはしません。

伝道者の書7:29
29私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。

私達は、さきほど読んだ箴言の3章5節にもありましたように、私達は自分の悟りに頼っている限り、どんな時にも神を信頼することはできません。
実は、自分の悟りを頼るのは、神より自分を信頼してしまっているからです。何度も言いますけれど、私達は神によって創られた者であり、神様が私達を創ってくださったことを忘れてはいけないと思います。
ですから、神様を信頼するとは、別の言葉で言えば自分たちの判断に頼らないこと。自分の判断をしないということが私達に求められているのではないでしょうか。
イエス様も、マタイの福音書16章でこういうふうに言われています。

マタイの福音書16:24
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分の思いを捨てること、自分の思いで神様の計画を判断しないということ、これが私達が神様から求められていることになります。自分の判断に頼る限り、私達はいつも神様に信頼することはできなくなります。
神様を信頼するとは、自分の思いを捨てて、神様に信頼し、神様をゆだねて生きる生き方です。そして、これが神様の求めておられる聖い生き方です。

聖い生き方とは、人に対して清いのではなく、神様に対して聖いということを神様は言われています。そして、この生き方こそが私達が生きている喜びを感じることができるただひとつの生き方であると。
神様の栄光を表すとは、何か良い行いをすることであると思われがちですが、そうではなく神様を信頼すること、それが神様の栄光を表すことになり、それが私達の心の問題であるということになります。
神様の求めているのは、誠実に神様に従おうとする私達の心です。

サムエル記第I、16:7
7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

ですから、逆にこの心がともなわない限り、毎週集会に集っていても、正しい行いをしたとしても、人からは敬虔な人とか善良な人と言う人の評価を受けても、神様からは評価を受けることはできない。
その意味で、本当に「心」というのは、私達は自分一人で決めることができるただひとつのものなのかなと思います。

詩篇66:18
18もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

私達が、誠実な思いで神様を信頼し続けるなら、神様は私達の願いを聞いてくださり、私達に生きている喜びを与えて下さいます。
でも、忘れてはいけないことは、それは自分ではできないということです。今のままの状態では、私達は神様が求めておられるように、誠実な思いで神様を信頼し続けることはできません。

イエス様にすべてをゆだねて、イエス様に変えて頂くこと。このことを、私達が神様に対し、またイエス様に対し心から願い求めるなら、イエス様が私達を変えてくださいます。
そして、その時に私達には苦しみが伴いますけれども、イエス様がそばにいてくださる確信を持つときに、私達はそのことも乗り越えることができるのではないでしょうか。最後に、詩篇32篇の10節から。

詩篇32:10-11
10悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
11正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

そして、このことが私達に起こるためには、私達はイエス様にすべてのことをゆだねて、変えて頂くということを、心から願い求めることが大切になるのではないでしょうか。
どうも、ありがとうございました。




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