赦す


今村兄

(西神福音集会、1997)

今日は「赦す」というテーマでみなさんと一緒に学んでみたいと思います。

この一週間、薬害エイズの問題がマスコミによって色々な形で、多くのことが取り上げられていました。
あの薬害エイズの事件を引き起こしてしまった方、あるいはオウム真理教の麻原彰晃という人の裁判のこと等が、この一週間で色々とマスコミの中で取り上げられたと思うんですけども、考えてみるならば、そういうふうな方たちも同じように悔い改めるならば、本当に神さまから救われる。そういうふうに神さまは私たちに教えてくださっている。これは私たちにとっては素晴らしい神の愛の約束ではないかなと思います。

ヨハネの福音書の6章の37節を見ますと、こういう言葉がございます。こういう形で、イエス様のところに来る者をわたしは決して捨てない、というふうに言ってくださっております。

ヨハネの福音書6:37
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

こういうふうに、イエス様は私たちに約束してくださっております。この約束があるからこそ私たちも救われ、希望をもって生きることができるようになっています。
ヨハネの手紙第I、3章の2節と3節をお読み致します。

ヨハネの手紙第I、3:2-3
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

こういう言葉をイエス様は私たちに残してくださっております。
先日亡くなりました作家の遠藤周作さん、この方はカトリック洗礼を受けていたそうですけども、神というのは良い神ではなく、私たちのようにホントにみじめで、意気地のない者に対してそれを受け入れてくださる優しい神である、というふうなことをテーマにした作品を書いていたそうです。
つまり律法を要求する神ではなく、赦し、愛を私たちに与えてくださる神さま、というふうなことを遠藤さんもやはり感じていたのではないかなというふうに思います。
遠藤さんが本当に自分の罪というものを知っていたかどうかは私にはわかりませんけども、神さまというのを愛の方、というふうな形で取り扱っていた。そのことを考えるときに、私たちもその点では同じなのではないかなというふうに思います。

確かに私たち人間は立派な者ではありません。すぐつまずいてしまい、自己中心的になってしまい、ホントに弱い存在です。だからこそ神さまに従うこと、それは自分の力では出来ないということ、だからこそ神さまもそのことをご存知だから、私たちのその従えないその部分を赦してくださるために、十字架上でのみわざを通して、恵みを私たちに与えてくださっております。
昨日も引きましたけども、

テトスへの手紙3:5
5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

このように私たちに教えてくださっています。ですから私たちは、イエス様の十字架がなければ本当に毎日を絶望の思いで過ごさなければならなかったはずです。それは私たち自身が本当に心を素直にするならば、毎日多くの罪を犯し続けている。そういうことをいうからです。
そしてこのような私たちがすぐ犯してしまう罪、罪を犯すようなこの性質というのは、私たちがイエス様を信じたからといってすぐ直るようなものではありません。

イエス様の御心のままに私たちは直していただくことができる。そのことがあるからこそ、私たちは罪を犯したとしても、そのことを通して新たにイエス様のもとに立ち返ることができる。
ですから私たちは、イエス様を信じたからといって、絶対に罪を犯さない者になる、というわけではないということを本当に知ることができ、本当に感謝だなというふうに思います。
イエス様を信じたとしても罪を犯してしまう。そういうふうな者でもイエス様の十字架上のみわざがあるがゆえに、心から悔い改めて神さまのもとに立ち返るという道を知っている者、それがイエス様を信じて、心素直に生きることができる者ではないかな。というふうに思います。

神さまが問題にされるのは犯してしまった罪ではなく、その罪に対して私たちがどういう態度で神さまの前に出るかということではないでしょうか。してしまったことを、心から神さまにごめんなさいをするか否か。そのことを通してどんな罪でも心からごめんなさいというふうに神さまに謝るならば、神さまは赦してくださいます。
先ほど兄弟がお読みしました、イザヤ書の44章の22節の言葉、これがすぐに罪を犯してしまう私たちにとっては、本当に救いではないかなあというふうに思います。

イザヤ書44:22
22わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

神さまのもとに帰るならば、私たちがしてしまったどんな罪でも神さまは赦してくださる。神さまの前に罪を犯したとしても、大胆にもう一回神さまの前に出ることが赦されている。これこそが私たち、イエス様を信じ愛している者一人一人に与えてくださっている神さまの愛、一方的な恵みではないでしょうか。
しかしもしも薬害エイズの問題で、あの加害者の教授が、あの方も本当に心から悔い改めるならば、間違いなく神さまは罪を赦してくださいます。これは人間が決めている、刑法上の罪が許されるということではありませんけども、神さまから見ての罪は赦されます。
しかし私たちが、ここで問題にしなければならないのは、じゃあ彼のために今すでにエイズにかかってしまっている人、あるいは、かかってしまい死んでしまった人、その人の立場というのはどういうふうになるのかということです。

その被害者の方、あるいはその被害者の遺族の方々というのは、その加害者の人を裁き責めてはいけないのでしょうか。また憎んではいけないのでしょうか。
これが、私たちがいつもイエス様から要求されている「赦しなさい。」という言葉の大きな問題になるのではないかなというふうに思います。

確かに人間の思いからするならば、私は、私たちがその教授を裁き責めることは仕方のないことだというふうに思います。
しかし聖書はこのことについて、本当にイエス様に従いたいのならば、あなたは裁いてはいけませんというふうに言われております。
マタイの福音書の7章の1節には、そのことがはっきりと書かれております

マタイの福音書7:1
1さばいてはいけません。さばかれないためです。

と書かれております。また、

マタイの福音書6:14-15
14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

また、

マタイの福音書18:21-22
21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

こういうふうな形で私たちに対し、「罪を赦しなさい。さばいてはいけません。」、この言葉をはっきりと告げております。これは本当にすごく厳しい、神さまの命令です。
もし私自身が薬害エイズの被害者になって、自分自身がエイズにかかったとしたならば、この命令に対しすごく悩み、苦しむことになると思います。場合によっては、許せないという思いを持つかもしれません。ですから今の私の状態で言えることは、「必ず許せる。」と断言する自信がないということです。

しかしそうなったとき、ただ私が祈ることができる内容は、「許せるように神さまに祈ることができる、そういうふうな心の状態を神さまにお願いして、保っていただくだけ」ということです。
しかし大切なことは、「私がそのことをできれば」、ということではなく、「赦しなさい。」そういうふうに言われているのがイエス様の命令だということです。
イエス様に従いたいと思う者は、この命令に従う必要があります。じゃあなぜイエス様はこのような命令を、私たち一人一人に出されているのでしょうか。その神さまの御心というものは私たちにはわかりません。
ただ、今お読みしたマタイの福音書の22節の次のところからの例えが、私たちに一つのヒントを与えるのではないでしょうか。
イエス様が22節のところで、「七度を七十倍するまで赦しなさい。」というふうに言われた後で。

マタイの福音書18:23-35
23このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
24清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
25しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
26それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
27しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
28ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
29彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
30しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
31彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
32そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
34こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
35あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

ここで、「主人が怒って、借金全部を返すまで、獄吏に引き渡した。」といっても、一万タラントというのがどれくらいの価値のあるものか、ということがわからなければ、この話の意味がわからなくなってしまうと思いますけども、一タラントというのは、六千デナリに相当するというふうに書かれております。六千デナリ。じゃあ、一デナリというのはどれくらいかと言いますと、一デナリは当時の一日分の労費に相当するというふうに書かれております。
ということは結局、一万タラントというのは六千万人、六千万日分の賃料ということになります。これはどれくらいの価値か、ちょっとわかりませんけども、とにかく六千万日というのは考えてみるならば、私たちの一生はせいぜい百歳生きたとしても、三万六千日くらいしか生きられないわけですから、六千万日分というのはその二千倍くらいになりますので、かなりの量ということがわかると思います。
それだけの借金を返済するまで獄吏に引渡したということは、これは結局永久に獄吏に引き渡されているということになると思います。

そして一度赦してくださったにも関わらず、全部を返すまで獄吏に引き渡されてしまったのは、33節で書かれてますように、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」というこの心を失くしていたからだと思います。
ここで、一万タラントと百デナリの関係について考えてみたいんですけども、一万タラントの借金というのは、主人に対する私たちひとりひとりの借金だと思います。
それは私たちの神さまに対する罪、これが一万タラントに相当するとするならば、百デナリの罪、百デナリの金というのは、私たちに対してあの人がなしたちっぽけな罪、ということをここで比較しているのではないでしょうか。

神さまに対する私たちの罪がどれだけ大きいものなのか、私たちがある人のなしたことを許せないというふうに思うときに、それは神さまが私たちに対し赦してくださっている、その罪に比べれば本当に些細なものなのだ、ということをここで私たちに教えてくださろうとしたのではないでしょうか。
私たちの神に対する罪が、それくらいに大きいものであるということ。だからあなたがたは罪を赦されているのだから、神さまから一万タラントという大きな借金を免除されているのだから、あなたも六十万分の一にすぎない、百デナリというものの借金を赦してあげなさい。
そういうふうに言われているのがここの例えではないでしょうか。

私たちは神さまから一万タラントの借金を免除されているということ。もしも誰かが、私が負っているあの人に対する大きな罪というのは、百デナリのようなものではないというふうに思われる方もいるかもしれません。
じゃあその百倍の一万デナリとしても、それとの比較、神さまに対する私たちがなしてしまったその大きな罪との比較というものは、本当に比べものにならないくらい大きなものだということ、そしてそれを神さまは、私たちのために赦してくださっているということ、このことを考えるときに、私たちに対して「赦しなさい。さばいてはいけません。」こういうふうに言われている内容が、少しわかってくるような気がします。

私たちは、ものすごく大きな借金を神さまから免除されているのだということ、だからこそ「あなたも赦しなさい。」こういうふうに言われたのではないでしょうか。
ヨハネの福音書の15章を見ますと、こういう言葉があります。

ヨハネの福音書15:12
12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というふうにイエス様が仰っております。
イエス様が私たちを愛した。一万タラントの借金を赦してくださった。これがあなたがたを愛した愛し方だと思います。だからあなたがたも互いに愛し合うこと、互いに赦し合うこと、これがイエス様から私たちに与えられている戒めではないでしょうか。

エペソ人への手紙4:30-32
30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
32お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

こういうふうに言われているのも、この「赦しなさい。」ということのもうちょっと具体的な意味をここで言われているのではないでしょうか。
そして翻って考えるならば、そもそも私たちは他人をさばく資格があるのでしょうか。もし私たち自身が加害者であったとしたら、私たちはその被害者に対してどのようなことをしてもらいたいと思うでしょうか。「許してもらいたい。」というふうに思うのが、加害者の私たちの気持ちではないでしょうか。
マタイの福音書の7章の12節にこのような言葉があります。

マタイの福音書7:12
12それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

というふうに書かれております。自分にしてもらいたいこと、もし私たちが加害者ならば、被害者に対し心から許してもらいたいというふうに思うのではないでしょうか。
それならば、私たちが被害者になったときに加害者のその気持ちを考えて許してあげるということ、それが私たちに対して神さまが命令していることではないでしょうか。

私たちは、でも絶対にあんな裁判のような、ああいうひどいことは絶対にしないと自信をもって言える人がいるでしょうか。私たちが絶対に加害者になることはないのだ、というふうに断言できる人がいるのでしょうか。
私たちはいつでも罪を犯す可能性をもってる人間だということ、本当に私たちは少しも誇るべきところがない者だ、そういうふうに私たちが本当に心から思っているならば、私たちは自分はそんな罪を犯さないというふうなことは言えないと思います。
私たちは、自分では罪を絶対にしたくない、そういうふうに決心したとしても犯してしまう、本当に弱い者だということをまずもう一度確認する必要があると思います。
ローマ人への手紙の7章の15節のところで、パウロ自身が告白していることです。このローマ人への手紙のところでパウロが書いているのは、イエス様と出会ったあと自分がこのようなかたちで苦しんだ、ということをここで告白しているのではないでしょうか。

ローマ人への手紙7:15
15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

こういうふうに言ったのは、イエス様と出会う前ではありません。イエス様と出会い、イエス様のために歩みたいと思った後でパウロはやはりこのような気持ちをもったと思います。だから24節で、

ローマ人への手紙7:24-25
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

こういうふうに言われたのではないでしょうか。
イエス様の救い、これが必要だということを私たちが本当に感謝して受け取るならば、イエス様を信じて歩もうとしているのであるならば、私たちは自分自身が罪人だということ、もっと言うならば、私は罪赦されたというよりも、私はこれからも赦され続ける者だ、という気持ちをもって人に対して接する必要があるのではないでしょうか。
つまり私たちは罪赦される者ですけども罪人である、そういうふうなことには変わりないということを考えるときに、私たちはある人が自分に対してなしたことを、できる限り許すということが必要になってくるのではないでしょうか。
しかしここで、私たちが気を付けなければいけないことは、許すということは私たち人間が一人でできることではないということです。はっきり言うならば、そのような人を許す、そのような愛の心を私たちはもっていないということ、そのことも私たちは忘れてはいけないと思います。

イエス様にすがって、イエス様によって私たちにない愛を与えてもらうしかありません。マタイの福音書の19章の26節のところに、こういうふうな言葉がイエス様から言われております。
ここは「立派な者になるためにはどうしたらいいでしょうか。」というふうな質問に対してイエス様が答え、そしてそのことを聞いた後で、イエス様がこのように言われたことです。

マタイの福音書19:26
26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

こういうふうに、イエス様は私たちに仰っております。イエス様は私たちに対し完全になるならば、厳しい要求をされます。そしてそれは人にはできないこと。しかし神にはできますというふうなかたちで、ここで私たちに教えてくださっております。
イエス様にすがることによって私たちは、イエス様の命令、神さまの命令を全うすることができるということだと思います。

私たちにとって、人を憎むことは人を許すことよりもたやすいことです。人を許すこと程辛いことはありません。私たち人間というものは、そのような者だと思います。
しかし神は、信じる者を愛するがゆえに私たちにとって本当に辛く、苦しい、人を許すということを要求しております。これはある意味でいうならば、私たちを懲らしめていることになると思います。
ヘブル人への手紙の12章の6節。なぜ私たちに神さまがそのような懲らしめをするか、ということが書かれた箇所があります。

ヘブル人への手紙12:6-7
6訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
7もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

飛びまして、11節。

ヘブル人への手紙12:11
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

というふうに書いてくださっております。そして、

ペテロの手紙第I、2:20-21
20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。

善を行なう。自分に対し罪を犯した者を許すということ。これが善ではないでしょうか。そしてその善を行なって苦しみを受け、それを耐え忍ぶときに神さまが喜ばれます。そして私たちが罪赦されて、神さまの子どもとして召されているのは、そのことをするためだというふうにここに書かれております。
神は、私たちが従いたいと願っているときに、従うことが不可能であるかのように思われることを要求されます。そしてそれは、今言ったように懲らしめるためです。そしてそのことを通して、私たちに本当に真剣に神さまに祈り求めることを教え、且つ祈りというものは聞かれるということを私たちに教えるためではないでしょうか。

ヤコブの手紙の1章の2節からお読み致します。

ヤコブの手紙1:2-4、6、12
2私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
3信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。
12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
こういうふうに書かれております。
私たちは、自分に対してなされた罪を許すことほど難しく、且つ悔しく思うことはないと思います。それは私たちの中にあるプライド、それを傷つけられたからだと思います。そしてこのプライドこそが、神さまに従うために一番邪魔になるものだと思います。

詩篇の138篇の6節にも、このような言葉が書かれております。

詩篇138:6
6まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。

こういうふうに書かれております。だからこそプライド、自己主張というものを私たちから取り除いてくださるために、神さまの治療が必要なのではないでしょうか。
神の近くにいることほど幸せなことはない、そういうふうに思う私たちに対して、神の近くにいる者になるために私たちに必要なものは試練であり、忍耐であり、練られるということではないでしょうか。

ただ何度も言いますように、私たちが自分の力でさばくな、私たちが自分自身でさばかない、あるいは許しますというようなことを言うことはできないと思います。
「自分の力でやり通しなさい」、そういうふうにイエス様は言われているのではありません。イエス様が言われているのは、「わたしにすべてのことをゆだねなさい。」そういうことだと思います。
イエス様が私たちに、「さばいてはいけない。」、そのことを教えるために、また許すことの大切さ、素晴らしさというものを教えるために、そしてそれをするためには、私たちだけでは絶対に不可能だということを知るために、イエス様にすがってそのことを行なう、そのことが一番大切だということを教えるために、私たちにそのような許せないような状況を作り出すのではないでしょうか。

ヨハネの福音書の15章の5節にこのような言葉があります。

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

(テープ A面 → B面)

こういうふうに言われております。私たちがイエス様にそのことを真剣に願い、且つ祈り求めるなら、必ずイエス様がご自分が計画されたそのときに、私たちにその愛の心を与えてくださると思います。
その間私たちがしなければならないことは、「絶対にあいつは許さない。」そういう思いに固執することなく、それを捨てようと思うことだと思います。
そして、「確かに私は許せないけども、許せる心を私に与えてください。」そういうふうに神さまに祈り続けること、これこそがイエス様が私たちに要求されていることではないでしょうか。

ヨハネの手紙第I、3:22-23
22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

こういうふうに書かれております。そして互いに愛し合うということは、互いに赦し合うことではないでしょうか。ただこれは、イエス様を受け入れた人だけができることだと思います。
なぜならば互いに愛し合うこと、互いに許し合うことというのは、自分ひとりでできるほど簡単なことではないし、私たちの心の中にはそのような愛は少しもないからです。
いつでも私たちが、「許せない。」という思いに固執することなく、「許せないからどうか許す心を私たちに与えてください。」というふうに祈ることを、イエス様は私たちに要求されているのではないでしょうか。
「さばくな、あるいは、赦しなさい、それはあなたの自分のひとりの力ではできません。でもわたしに頼るならば、わたしは何でもあなたにあげます。」、こういうふうに言われているのが、イエス様の私たちに対する思い、私たちに対する愛なのではないでしょうか。

じゃあもし罪を犯し、私たちに害を加えた人が悔い改めないとするならば、一体その人たちは神さまからどのような形で迎えられるのでしょうか。神さまはそのようなことを放棄される方でしょうか。このことについてちょっと考えてみたいと思います。
このことについて、パウロはローマ人への手紙でこのように言っております。

ローマ人への手紙12:18-19
18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
19愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

このように書かれております。間違いなく、罪を犯したけども悔い改めない人に対しても、神さまの支配というものは及んでおります。神さまはその人が悔い改めない、私たちに罪を犯したそういうふうなことをもすべて、計画の中に入れた形で、その人の存在を認めております。
箴言の16章を見ますとこのような言葉が書かれております。

箴言16:4
4主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。

悪者もやはり神さまの支配を受けております。ですから必ず神はその者をもさばきます。しかしそのさばきというのは、私たちが考えているようなさばきとは違います。
私たちが考えているのは、何か処罰というふうに思うかもしれませんけども、神からのさばきはその人から神さまが離れることにより、その人の心の中から平安を奪い取ってしまう、そのような形で神がその人をさばくと思います。それが本当に神さまから私たちがさばかれるという意味ではないでしょうか。
しかし私たちはそのような形で、自分たちに罪を犯した人が神からさばきを受けているときに、そういう喜び、満足すべきことではないと思います。
その人たちもやはり同じように一人でも多くの方が救われるという、その中の一人だと思います。ですから私たちはその人たちの中で、一人でも多くの方がやはり救われるように祈るべきではないでしょうか。それが「愛する。」ということではないでしょうか。
ペテロの手紙第II、3章の9節にこのような言葉があります。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

イエス様が望んでおられることは、一人でも多くの人が滅びるというのではなく、一人でも滅びることなくすべての人が悔い改めて、神さまのもとに立ち返ることを望んでおられます。
自分に対し、私たちに対して罪を犯した人、その人はよく考えてみるならば、まだサタンの虜になり罪の中にいる人です。そういう人が一日も早く、悔い改めて神の前に出ること、それを祈り求めてあげることこそ、神から救われた者としての私たちの役目ではないでしょうか。

マタイの福音書の5章の44節に、「汝の敵を愛せよ。」という言葉があります、

マタイの福音書5:44-45
44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

というふうに書かれております。私たちが本当に願い求めることは、神さまが、イエス様が何のために死なれたか、それは一人でも多くの罪の虜になっている人が、イエス様の十字架を通して救われるということではないでしょうか。そして私たち救われた者がなすべき役割というのは、そのようにまだ罪の中にいる人が一日も早く悔い改めて、神さまの前に立ち返ること、そのことを祈るということではないでしょうか。
だからこそ、敵を愛せよという、この「愛する」ということは結局、罪を犯した人を好きになれということではないと思います。愛するとは、まだ自分が罪の中にいることに気付いていないその人のことを本当にかわいそうに思ってあげ、一日も早く救われることを心から祈り求めてあげることではないでしょうか。これがここで書いている、「自分の敵を愛しなさい。」ということではないでしょうか。

私たちは、好き嫌いというのは生まれつきのものです。それを強引に好きになるということはできないと思います。敵を愛することも、これも非常に難しいことだと思います。でも神さまが私たちを愛してくださったのも、私たちが立派な者だからということではありません。
私たちが本当にどうしようもない者でもあるにも関わらず、私たちをただ一方的な恵み、本当に神さまからの一方的な愛によって私たちの罪は赦された、ということを思うときに、私たちが願うこと、敵を愛するということ、それはその人たちもやはり神さまのもとに立ち返ることを願ってあげることではないでしょうか。

ペテロの手紙第I、3章の9節このような言葉が残されております。

ペテロの手紙第I、3:9
9悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

こういうふうに書かれたのも、私たちに対し悪いことをする人、また私たちを侮辱する人、そのような者に対して私たちがどういう思いを持つかということをイエス様はご存知です。
だからこそ、侮辱に侮辱をもって報いず、悪をもって悪に報いず、かえって祝福を与えなさい。神さまからの救いというものを願ってあげなさい。そういうふうに言われているのは、この言葉ではないでしょうか。
私たちが罪赦されたのは、私たちがすぐれていたからではありません。同じように、もし私たちに罪を犯した人がいるならば、その人たちも神の恵みによって罪赦されて、神のもとに立ち返ることの資格のある人たちだと思います。神が愛している。そしてもし、罪赦され悔い改めて立ち返るならば、私たちの仲間になりうる人たちの、そのような人たちのことを少しでも願ってあげるということ、これこそがわたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいという意味ではないでしょうか。

私たちは確かに、人間の思いとしてはこれを心から受け入れるということはできないと思います。私たちは「赦さない」という思いそれ自体を捨てて、「赦せないから赦せる者にしてください。」そういうふうに祈ることができるためには、自分を捨てなければいけないと思います。

マタイの福音書16:24
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分を捨て、というのは、これは結局自分の思いを捨てるということだと思います。 あの人は私にこんなことをしてしまった。あの人は私にこんな侮辱をした。絶対に許せない。これは自分の思いだと思います。
しかしイエス様が言っていること、それは、わたしについて来たいならその許せないという思いを捨てて、そして自分の十字架を負い、自分の大きな罪を神さまから赦された者だということ、そのこと、その十字架を負ってそしてその人を許そう、許せないから何とか許せる気持ち、赦せる愛というものを神さまにあって、祈って、願い求めよ、そういうふうに思うことではないでしょうか。
私たちは、赦せない人を赦せるというのを、意思ですることはできないと思います。「今日赦す。」というふうに言ったとしても、私たちの心の中には、そのような心は絶対に出て来ないと思います。
それを可能にしてくださるのは、イエス様の愛しかないと思います。イエス様が私たちの中で働いてくださるときに、私たちにはできない、ある人を赦すということが可能になるのではないでしょうか。
そして私たちが忘れてはいけないのは、その罪人も神さまは赦そうとして忍耐深くあられるということです。

ローマ人への手紙の14章の4節にこのような言葉があります。

ローマ人への手紙14:4
4あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。

このしもべは立つのです。なぜなら主には彼を立たせることができるからです。私たちにとって、自分を侮辱した人、あるいは自分にホントに害を与えた人、本当に赦せないと思う人、確かにいると思います。
しかしその人もイエス様から赦されているということ、神さまから赦され、神さまはその人の立ち返ることを心から願っているということ、そのことを思うときに私たちは許さない、という思い、少なくともこれを捨てることが、まず大切なのではないでしょうか。

そして神さまはいつでも、私たち個人一人一人が一体神さまに対しどういう思いをもって従っていますか、ということをいつも問いかけているのではないでしょうか。
許せない人のことをいつまでも憎み続けること、それがはたして神さまに対して、「あなたを愛しています」という気持ちのあらわれでしょうか。
そういうふうなことを考えるよりも、まず私たちがしなければいけないこと、それはヨハネの福音書の21章の22節に書かれていることではないでしょうか。
この言葉を読んで終わりにしたいと思います。ペテロが、「ほかの人はどうですか。その人は救われますか?」というふうに聞いたときに、ペテロに対しイエス様が言われた言葉です。

ヨハネの福音書21:22
22「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

あなたはわたしに従っていますか。この言葉をいつも私たちに問いかけておられるのが、イエス様ではないでしょうか。
私たちは本当に自分の力ではできませんけども、そういうふうな形で祈って、赦せない人を赦したいという思いをもって、これからも歩んでいきたい、というふうに願っております。
どうもありがとうございました。




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