友人のために祈ったヨブ


今村兄

(名古屋福音集会、2003/07/20)

引用聖句:ヨブ記42章10節
10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

今日一緒に学んでみたいと思います箇所は、ヨブ記なんですけども、ヨブ記というのはかなり長い箇所なんですけども、この中で今日選びましたこの箇所は、ヨブ記の中でも一番最後のところなんですけども、このヨブという方が、神さまからすごい試練を受けるということになるんですけども、一番初めにヨブ記の1章の8節を読みますと、こういうふうに書かれております。

ヨブ記1:8
8主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

というふうなかたちで、神さまはこのヨブという者に対して、非常に、神の目から見て好ましい人物というふうに評価しているにも関わらず、ヨブ記の1章から2章を通して読みますと、ヨブという者がものすごい苦しみを神さまから与えられるということがわかります。
1章、2章を読みますと、ヨブはまず始めに子どもを取られます。また財産も取られ、それから妻からも罵られ、また自分はものすごい皮膚病のような病気にかかり、その上にそういうふうな苦しい状態を見て、友人が見舞いに来るんですけども、その見舞いに来てくれた友人からもものすごい非難をされる。
そういうふうなかたちの、ものすごい苦しみ、また試練というものを神さまから与えられるんですけども、本当に不思議に思うのは、なぜ神の前に正しいはずのヨブが、神さまからこのような試練を受けなければならなかったのかということなんです。

普通私たちは、ヨブのように神の前に正しいというふうに神さまから認められているならば、当然神さまから祝福を受けることはあっても、試練のような苦しみを受けることはないというふうに思いがちなんですけども、それにも関わらず神さまは、ヨブが正しい人であるにも関わらず、試練を与えています。
神さまはどうして、ヨブに対して試練を与えたのでしょうか。そのことについてヒントになるような箇所が、ヨブの1章の8節から12節のところに、サタンと主との会話の中に出てきております。
ここで、8節から12節のところを読みますと、

ヨブ記1:8-12
8主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
9サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
10あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
11しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
12主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。

というふうな感じで書かれているわけですね。ここで、主とサタンの会話の内容というのは、ヨブが神の前に潔白だというのは、あなたが、神である主がヨブに対して祝福というものを与えているから、ヨブはあなたに対して潔白なのだというふうにサタンが言っているわけなんですね。
こういうふうなことから考えますと、ヨブに対して神さまが試練を与えられたのは、サタンからそういうふうなことを言われたからだというふうにも思えるんですけども、この部分を確かに読みますと、神がヨブの信仰を試すように試練を与えたというふうに思えるんですけども、でも考えてみますと、神さまという方は全能な方であり、サタンの提案を受けてヨブの信仰を試さなくても、ヨブの本当の心の中はご存知だったはずです。
詩篇の33篇の15節を読みますと、神さまが私たちの心をみな造られたというのが書かれております。

詩篇33:15
15主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

というふうに書かれております。こういうふうなことから言いますと、ヨブがどういうふうな心で、神さまに対し正しい気持ちで接していたかということは、べつにサタンから言われなくても、本当のヨブの気持ちというのは神さまはわかっていたのです。
それにも関わらず、なぜ神さまはこのヨブに対し試練を与えたのでしょうか。それを知るひとつのヒントとなりますのが、詩篇の119篇の71節になります。この詩篇の119篇の71節には、苦しみというものが何のために私たちの前に起こるかということが書かれております。

詩篇119:71
71苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

というふうに書かれております。また、

詩篇119:67
67苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

というふうにも書かれております。
このふたつのみことば、詩篇のみことばを考えますと、神さまが私たちに対し苦しみを与える目的というものは、神さまのおきてを私たちに教えるため、あるいは私たちが、何らかのかたちであやまちを犯しているときに、そのことを気付かせてくださるため。そのために神さまは私たちに対し苦しみを与えられるというふうに書かれていることがわかると思います。
そして、考えてみれば、私たちは神さまと正しい関係に立てるのは、神さまが私たちに楽しみを与えてくださっているときより、苦しみを与えてくださっているとき、そのときに、神さまから自分のあやまちというものを気付かされ、その結果私たちは、神さまと正しい関係に立てる、そういうふうになることが多いのではないでしょうか。

かえって、楽しみからは私たちの心に傲慢な心が芽生えてしまい、神さまからかえって離れやすい、そういうふうなことを私たちは多く体験、また経験しているのではないでしょうか。
ですからヨブも、神さまから自分のあやまちを教えられるために、苦しみというものを与えられたのだと思います。つまり神さまはヨブに対し、何か教えておきたいことがあった。だからこそ神さまはヨブに対し苦しみを与えられた。ヨブは正しいがゆえに、さらに神に近い者にするために、神さまはヨブに対し、ヨブ記に書かれているような苦しみを与える必要があったのではないかなというふうに思います。

サタンの誘惑に対してヨブがどのような態度を取るか、神さまは初めからご存知だったのだと思います。そしてヨブ記に書かれているすべての出来事というのは、神さまは初めからあらかじめ全部知っていた。その上で神さまは自分の計画に従って、ヨブに対して、最後にヨブ自身があやまちに気付くように導いてくださった。それがヨブ記に書かれている内容ではないかな。というふうに思います。

ヨブ記の42章の1節から6節のところに、ヨブが自分のあやまちに気付いて、神さまに対し悔い改める、そういうふうな箇所があります。

ヨブ記42:1-6
1ヨブは主に答えて言った。
2あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
3知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
4どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
5私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
6それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

というふうなかたちで、ヨブはすごい苦しみを通した後に、そしてヨブ記を見ますと、神に対するのろいというものを数多く知って、そして苦しみ抜いた末に初めて、ヨブは神さまに対し自分をさげすみ、ちりの中で悔い改めるということができるとこまで神さまが導いてくださった。
それがこのヨブ記に書かれている内容ではないかなというふうに思います。そしてヨブが、ヨブへのサタンの誘惑や、あるいは友人の非難というものも、すべては神の計画のうちに進んでいたことだということもわかります。
箴言の16章の4節には、こういうふうな言葉があります。

箴言16:4
4主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。

というふうに書かれております。神さまにとって、私たちに対しあやまちを気付かせるために、悪者さえも利用なさるということがこのみことばからもわかるのではないかなというふうに思います。
私たちも、これは絶対に正しい、そういうふうに思い込んでいるときに、そのことに気付くのは苦しみを通すことで初めて気付かされるのではないかなというふうに思います。そのあやまちがどういうふうなものであったかということは、その苦しみが与えられなければ、決して気付くことができなかった。そういうふうなことということを、私たちは多く経験しているのではないでしょうか。ですから苦しみを通して人は神に近づくことができるというふうな言葉が聖書にあります。

ヘブル人への手紙12:6-7、11
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

というふうに書かれております。このように考えて来ますと、苦しみこそが本当の神からの祝福であるというふうに言えるのかもしれません。
話が横に逸れますけども、よく私たちは、悪いことをして見つからないと、内心運が良かったというふうに思ってしまうことがあるのではないでしょうか。見つからないと、運が良かったと思いますけども、しかし本当はそれは運が良いとは言えない、と言いますのは、神さまは当然そのことを知っているがゆえに、知っているにも関わらず、私たちから悪いことが見つからないような状態を見過ごしている。それは神さまにそれなりの計画があるからであり、そして確かなこと、それは、そのような心の状態でいる限り、私たちは、神との正しい関係では最悪の状態になっているということに気付かなければいけないと思います。
それは、神に従おうとする者にとって不幸なことであるということを、私たちは知らなければいけないのだと思います。
世間では、悪いことがばれないと運が良かったと言うかもしれませんけど、神に従おうとする者にとり、神との関係では最悪な状態になっているということを、私たちはいつも気をつけて生活する必要があるのではないかな。いうふうに思います。

ヤコブの手紙の1章の13節から15節のところに、このようなかたちのことが書かれております。

ヤコブの手紙1:13-15
13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
15欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

というふうに書かれております。ここで「死」という言葉が書かれておりますけども、これは当然肉体の死ではなく、神さまとの正しい関係が無くなってしまったという、心の、神さまとの関係における死のことを言っているのではないでしょうか。
話がちょっと横道に逸れましたけども、じゃあヨブは神に対しどのようなあやまちをしていたから、神さまから苦しみというものを与えられたのでしょうか。それを知る手がかりは、ヨブ記の42章の10節、先ほど兄弟から読んでいただきました箇所ではないかなというふうに思います。
ヨブが神さまから苦しみを与えられた、それが元通りになったというふうに書かれている箇所は、42章の10節です。

ヨブ記42:10
10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

というふに書かれております。このみことばから考えられることは、ヨブが元どおりになったということ。それは友人のために祈ったというその結果、主はヨブを元どおりにされたということから考えますと、神はヨブに対し、友人のために祈るということ、たぶんヨブは、その前からも友人のために祈っていたと思います。でも神さまはヨブに対し、本当の意味で友人のために祈ること、その意味を教えたかったのではないかなというふうに思います。
自分のことばかりを祈るのではなく、友人のために祈ること。それを教えたかったがゆえに、神さまはヨブに対し苦しみを与えたのではないでしょうか。神はヨブに対し、人のために祈るということの本当の意味を教えようとしたのではないでしょうか。そしてそのために、ヨブに対し試練を与えたのではないかなというふうに思います。

それでは、人のために祈るということはどのような祈りのことをいうのでしょうか。このことを考えるときに、そもそも祈りというものはどのようなものなのかということを考えてみる必要があるのではないでしょうか。祈りとはいったい具体的にはどのようなことなのでしょうか。
祈りというと、すぐ私たちは「祈願」という言葉が頭に浮かぶと思います。「祈願」、この言葉というのは、祈り、願うという意味になりますけども、そのために私たちは、祈るというと、神さまに対し願いごとをすること、自分の願いごとを知っていただくということというふうに考えてしまいがちです。
神さまに対し自分の望みをいうこと、それが祈るということだと思いがちではないでしょうか。でも祈りというものは、そのように自分の願いごとを神に知っていただくことなのでしょうか。
マタイの福音書の26章の39節には、イエス様が神さまに祈っている箇所があります。

マタイの福音書26:39
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

というふうに、イエス様は父なる神さまに祈っております。ここでイエス様は、わたしの願うようにではなくみこころのようになさってください。こういうふうに祈っています。これが祈りの本当の内容なのではないかなというふうに思います。同じ、マタイの福音書の6章の9節には、イエス様が祈り方について教えてくださっている箇所があります。

マタイの福音書6:9-10
9だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
10御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

というふうに書かれております。この10節のところで、御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように、というふうに祈るということは、イエス様が神さまに対し、御心のようになさってくださいということと同じ意味なのではないでしょうか。
これらのことからわかること、それは祈るということは、自分の願いを神さまに知っていただくことではないように思えます。祈りとは、イエス様が神さまに祈られたように、神の御心のままにしてください、こういうふうな思い、これが祈りということではないでしょうか。

ですから祈りというと、つい神さまの御心を知ることよりも、自分の思いを神さまに訴えてしまう、そういうふうに私たちは、祈りというものを捉えやすいのではないでしょうか。でもイエス様が私たちに求めていること、またイエス様自体が神さまに対し祈ったその内容というのは、神さまに対し、神の御心のままにしてくださいということであったとするならば、祈るということは神の御心を知ることということになるのではないでしょうか。
そしてそのとき、私たちにとって必要なこと、それは自分の思いを捨てるということではないでしょうか。なぜなら自分の思いがあると、私たちはどんなに真剣に祈ったとしても、神の御心を素直に受け入れることができないときがあるからです。
といいますのは、自分の思いと神さまの御心が一致しないときに、私たちは色々な理由をつけて、素直に神さまの御心、神さまのご計画を受け入れることができなくなるのです。

自分の思いがあると、神さまから祈りの答えがすでにあるにも関わらず、私たちはそれに気付かないこともあります。祈るというと、つい自分の願いを神さまに知っていただくことだというふうに思いがちですけども、マタイの福音書の6章の8節にあるように、

マタイの福音書6:8
8あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

というふうに書かれてありますように、神さまは私たちが、私たちの願いごとを神さまに訴えるその前からすでにご存知だということ。このことを私たちは、まず第一に知っておかなければ忘れてはいけない、というふうに思います。
そしてまた、同じマタイの福音書の6章の31節にはこういうふうにも書かれております。

マタイの福音書6:31-32
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

というふうに書かれてあります。神さまは、私たちが願う前から、私たちにとって何が必要なものであるかということを知っておられるということを、イエス様は私たちに言われております。ですから私たちは、あえて自分の願いごとを神さまに対し言う必要はないというふうに、イエス様は私たちに教えているのではないでしょうか。
神さまが一番良い道を私たちのために用意してくださっている。だからあなたはその道を信頼して歩みなさい、そういうふうにイエス様は私たちに教えてくださっているのではないでしょうか。だから、

マタイの福音書6:33
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

というふうに、私たちにすすめてくださっているのではないでしょうか。
神さまは私たちを愛してくださっています。そうであれば、私たちのことを心配してくださるのは当然のことです。それをあえて私たちが、自分の願いごとをわざわざ、神さまに言う必要はありません。そして自分の願いごとを知っていただこうとするその心は、神さまに対し、私はあなたにすべてをゆだねますということを言うことと矛盾する思いだということに、私たちは気付かなければいけないと思います。
なぜなら自分の願いごとということは、神さまの導きに従うのではなく、自分の思い通りに生きようとする、そのことと一致してしまうからです。神にゆだねるとは、神さまが導いてくださる道を素直に信じて歩むこと。それが、神さまにゆだねるということではないでしょうか。

神さまを信じるということは、この神さまの言葉を信じて従うこと。これが神さまにゆだねるということではないでしょうか。でも私たちはしばしば、口では神を信じます、また神さまにすべてをゆだねますと言いながらも、気が付くとつい自分の願いごとを神さまに訴えてしまっているのではないでしょうか。
それは、神さまを信じ、神さまに従って歩んでいきたいというふうに思いながらも、自分の思いが心の中に残っているからではないでしょうか。神より自分の思いに従いたい。そういう部分が残っているからこそ、私たちはついすべてを神さまにゆだねますと言いながらも、でもこれだけは私の願いを聞いてくださいというふうな思い、そういうふうなかたちで神さまに祈ってしまうのではないでしょうか。
自分が神さまの御心と同じになりたいというふうに思う前に、でも自分はこのことだけはこういうふうにしたい。そういうふうな思いがあるからこそ、私たちはつい神さまの御心を求める前に、自分の願いごとを神さまに訴えてしまうのではないでしょうか。
そしてこれが、神さまから見て、私たちの罪、神さまに対する罪、それの一番深い部分にある罪の根源なのではないでしょうか。

神の御心を尊重したい。神さまにすべてをゆだねて神さまに従いたい。そういうふうに思っても、でも自分の望みも実現したい。この両立を考えるから、私たちはいつも神さまに対してイライラしてしまう。それが私たちの日頃の信仰生活なのではないかなというふうに思います。
しかし残念ながら、この二つのもの、その両立は不可能です。それはマタイの福音書の6章の24節にこのようなかたちで書かれております。

マタイの福音書6:24
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

というふうに書かれております。また、

ヤコブの手紙1:8
8そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

というふうにも書かれております。その前の、6節には、

ヤコブの手紙1:6
6少しも疑わずに、信じて願いなさい。

というふうに書かれております。少しも疑わず、少しも自分の思いを持たずというふうにも読めるのではないかなというふうに思います。
また、

詩篇86:11
11主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

というふうに書かれております。私の心を一つにしてください。神さまの心と自分の心が常に一致するようにしてください。それが私たちが神さまとともに歩むための唯一の手段だということを、私たちは忘れてはいけないと思います。
私たちがイライラするのは、自分の思い通りにならないから。このイライラする状態から、私たちを救い出してくださる方、それはイエス様しかいません。そしてそのために、私たちがしなければいけないこと、それは自分の思いを捨てるということしかありません。でも、この自分の思いを捨てるということは、私たちが自分の力、自分の意志ですることはできません。それを神さまに求めるしかありません。
どんなに努力しても、自分で自分の思いを捨て去ること、自分の希望を諦めること、これは私たちにはできないことです。そのためにこそ神さまは、私たちに対し救いの助け手というものを与えてくださるというふうに、約束してくださっているのではないでしょうか。

テサロニケ人への手紙第Iの5章の18節に、私が一番初めの頃聖書を読んだときに、こんなことは絶対に不可能だというふうに思った箇所の一つなんですけども、

テサロニケ人への手紙第I、5:18
18すべての事について、感謝しなさい。

(テープ A面 → B面)

感謝できるのは、私たちの心がどういう状態のときでしょうか。それは、私たちの思いと神さまの思いがいつも一致している、そういうふうな状態になったとき、私たちは初めてすべてのことについて感謝することができるのではないでしょうか。
場合によっては、無理すれば、しぶしぶながら神さまの思いと一致させることができるかもしれません。でも神さまが求めていること、それは喜んで一致することです。

コリント人への手紙第II、9:7
7ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます

というふうに書かれております。神さまが求めているもの、それは神さまに従うときに、しぶしぶではなく喜んで従うということを、神さまは求めておられます。それができないなら、神の思いと本当に一致しているということは言えません。
そのために私たちに必要なこと、それは私たちのほうが自分の思いを捨てて、いつでも神さまの思いと一致できる、そういうふうな心の状態に自分自身がならなければいけないのだと思います。

マタイの福音書に戻りますけども、マタイの福音書の7章の7節。何度も読んだことのある箇所だと思います。

マタイの福音書7:7
7求めなさい。そうすれば与えられます。

そういうふうに書かれております。イエス様は私たちに対し、求めなさいというふうに言われています。でもいったい、私たちは何を求めるべきなのでしょうか。当然それは、正しいものを求めるべきだと思います。そしてその中で、正しいものの中で、私たちが一番持っていないもの、それを私たちは求めるべきではないでしょうか。
つまり求めるべきもの、それは私たちの心にない、喜んで自分の思いが神さまの思いと一致できる、その心を私たちは求めるべきではないでしょうか。私たちが本当に願っていること、それは私たちがいつでも神さまと正しい関係にい続けることではないでしょうか。
そしてイエス様は、そのために、それに必要なものをわたしは与えるから、あなたがたはわたしたちに対し求めなさいというふうに仰ってくださっているのではないでしょうか。

また、このマタイの7章の7節の欄外の所に、7節の欄外の一番最後の所に、「求め続けなさい。」、というふうな言葉もあります。この言葉は私たちに何を教えてくださっているのでしょうか。
それは、私たちはイエス様に求めて、一度与えられたとしても、それで完全になるのではない。求め続けなさいということを私たちに求めているのではないでしょうか。ピリピ人への手紙の3章の12節に、こういうふうなことが書かれております。

ピリピ人への手紙3:12-14
12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

というふうに書かれております。
私たちが求めているもの、それはいつも神さまと正しい関係で歩み続ける、そういうふうになること。それが私たちの目標ではないでしょうか。そしてそのために必要なこと、それは私たちが自分の思いと神さまの思いがいつも一致できるというふうな、心の状態になることではないでしょうか。
イエス様の愛を一度体験した。だからもう自分は神の子だ、と思う。そういうふうに思おうとして、それから先もうこれで十分だと思い、神さまに対し、求めることを忘れて、やめてしまったなら、そのときから私たちと神さまとの関係は、断絶してしまいます。
だからこそ、先ほど読んだテサロニケ人への手紙第Iの5章の18節の前で、こういうふうなことばがあるのではないでしょうか。

テサロニケ人への手紙第I、5:17
17絶えず祈りなさい。

ということばがあります。絶えず祈るということ、それは別の言葉で言うならば、絶えず求め続けなさいということではないでしょうか。
いつも神さまの思いと喜んで一致できるように、そういうふうな心をいつも持つことができるように、求め続けなさいというふうに私たちに対しすすめている言葉が、絶えず祈りなさいということばなのではないでしょうか。
絶えず祈りなさい、そうすることによって私たちは、神さまとの正しい関係を保つために、自分に欠けているところをひとつひとつ神さまによって直していただける、そのような泉を、私たちは求め続けること、そのことが私たちに必要なのではないでしょうか。
だからこそ、神さまは私たちに対し、私たちがそのような祈りをするときに、その祈りの答えとして試練を与え、そして私たちの欠けている部分を私たちに与えようとしてくださっているんではないでしょうか。
ヤコブの手紙の1章の2節から4節に、こういうふうなことが書かれております。

ヤコブの手紙1:2-4
2私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
3信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

というふうに仰ってくださっています。ここで、信仰がためされる忍耐が生じるというふうにあります。そして、私たちが注意しなければいけないこと、それは苦しみに対し、神がここで私たちに求められているもの、それは辛抱ではなく、忍耐だということです。忍耐と辛抱は同じように思えますけどもまったく違うかたちで使われます。
苦しみに対し辛抱する人は、その苦しみが通り過ぎるのをじっと我慢して待つこと、ただそれだけのこと。それが辛抱です。ですからそのような心からは、神さまがその苦しみを通し、私たちに教えようとしていることを学ぶことはできません。
でも苦しみに対し、忍耐を働かせること。そのことによって私たちは、その苦しみが神さまから来たものであり、何か私たちに間違いがあり、それを気付かせるために神さまが私たちに対して与えてくださっている。だから、それを知るために神の御心を知るために、神さまに祈ること、祈り続けること、これが忍耐を完全に働かせることではないでしょうか。
そうすることによって私たちは、神さまから間違いを気付かせていただけることができるんではないでしょうか。

ヤコブの手紙1:12
12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

というふうなかたちで、私たちに、信仰がためされると忍耐が生じる、その忍耐を完全に働かせる際、苦しいときにこそ、まだまだ試練に会ってるときにこそ、本当に感謝をもって神さまに祈るとき、私たちは試練を通して、本当の恵みというものが与えられる、そういうふうにここでヤコブは、私たちに教えようとされているのではないでしょうか。
祈りというものが、このようなものであるとするならば、それに対する祈り、そのためにする祈りというものも、やはり同じように考えるべきだと思います。
つまりその人のために祈るということ、それは人間的な思いで同情することではなく、その人が神さまとの正しい関係を保つことができるように、そのことを願うこと。これが主のために祈るということではないでしょうか。
もしその人が苦しみにあっているなら、神さまが与えているその苦しみの目的を、その人が知ることができるように、そのように祈ること。これが主のために祈ることではないでしょうか。

そしてまた、その人が自分の思いに執着してなかなかその苦しみの目的を知ることができないとき、その人が自分の思いを捨てることができるように、そのように祈ってあげること。これが人に対する祈りということではないでしょうか。
祈るということ、それは自分のことであり、あるいは人のことであれ、求めることは一つだと思います。それは神を第一とする、その心を求めることではないでしょうか。この思いがないかぎり、いかなる祈りであったとしても、それは間違った祈りとして神さまから受け入れられることはないのではないでしょうか。

ヨブは42章で、神さまの本当の思い、これを知ることができました。だからその後で、友人のために祈り、これについても、神さまから受け入れられる祈りとなったのではないでしょうか。
そして神さまは私たちに対しても、日々神さまが与えてくださる苦しみを通して、ヨブと同じように私たちも、今この目であなたを見ましたというふうに、私たちが言えるように、私たちが祈り続けること、このことを神さまは私たちに対しても、求めてられるのではないでしょうか。
最後になりますけども、マタイの福音書の6章の31節から34節までを読んで終わりにしたいと思います。

マタイの福音書6:31-34
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

どうもありがとうございました。




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