みなさまあけましておめでとうございます。 海外のみなさま、特に北米のみなさま、大変ご無沙汰してます。まだ年が明けませんけれども、まもなく新しい年が北米にも訪れると思います。 2001年は本当に激動の年でありました。新聞とかテレビ・ラジオを通じて、あのたくさんの製造業、建設業、流通業、信用金庫とか、損保の会社等がつぶれたり、会社更生法に入ったりしました。 ほとんどの分野で、デフレ不況的に景気は悪くなっていますけども、そんな中で企業の各社は生き残りをかけて、本当に必死であります。 私は、まだそのようなこの世の企業の中に身を置かされてる者ですけれども、これらの動きに目と耳を奪われてしまいがちで、主が求めておられることを十分にできずに過ぎ去ってしまった一年でありました。 この新しい年2002年は、静まって、主の御心にかなう生活をしなければいけないと、悔い改めております。 引用聖句、今読んでいただきましたところにあります、 ルカの福音書16:9
というところは、何度読んでも理解できませんでした。 その少し前にあります不正な管理人というところについてもどうしてこの不正な管理人のことを、イエス様が褒められたのか、よく理解できません。なぜでしょうか。 しかし、年末にある解説書を読んで行くうちに、それはキリスト者である私たち自身に対する主イエス様からの忠告、ウォーニングではないかと感じました。イエス様が再び来られる年になるかもしれない、この新しい年の元旦に、このことについてみなさんと一緒に聖書から学びたいと思います。 ペテロの手紙第I、4:10-11
本当に終わりが近い今、私たちキリスト者に求められていることは、与えられた賜物を用いて、全力を尽くして実を結ぶように動くこと。そして、その結果主のご栄光が現わされるようにすることだと思います。本当に残された時間は限られています。 さっきお読みした少し前の、イエス様がお話しになった不正な管理人について、ちょっと読んでみたいと思います。 ルカの福音書16:1-8
イエス様が、管理人をほめたのは決して、不正そのものをよしとしたわけではありません。ほめたのは、目的は別にして、自分の立場を最大限に使った抜けめなさであります。 管理人は、自分がクビになっても、またどこかで雇ってもらう機会を作っておこうと、貸した相手に対して、主人の財産を管理するというポジションを、抜けめなく使ったんです。 当時油は貴重品でありました。油を貸して返済されないリスクとか、金利を約半分と見て、この元本の半分の50パテと書かせました。 小麦もたぶん元本が80コルだったと思います。本来、リスクの分もそれから金利の分も主人のものですから、管理人のものではありませんから、勝手に管理人が元本でOKと言うのは、不正であります。 そのことはよしとしないけれども、自分の立場を最大限に使ったこの抜けめのなさをクローズアップするために、イエス様はこのたとえをお話しになったのだと思います。またイエス様は、 マタイの福音書10:16
とあります。8節でイエス様は、この世の子である管理人が光の子らよりも抜けめがないのでほめました。 光の子である私たちキリスト者は、この不正な管理人のように自分の与えられた賜物を最大限用いて、抜けめなく働くことを求められています。 最初お読みいただいた、 ルカの福音書16:9
「不正の富」というのは、不正で得た富というのではありません。天ではない、この地上、世にある富のことであります。すなわち、地上の富とは各人に与えられた物理的なもの、それぞれが持っている性格とか能力。 サラリーマンであれば、職場などの環境健康とか、病気もそうであります。地位とか友人関係とかそういうもの全部ふくめて、私たちに、与えられている賜物。これが、地上の富であります。それらは全部、主に属するものであります。私たち人間の所有物では、ありません。 イエス様をまだ知らない人たちには、それらは個々の人間のものである、というふうに映りますけども、私たちキリスト者は、この世に生きる短い期間、それらの地上の富を主から貸し与えられている、ということを知っています。 コリント人への手紙第I、8:6
私たちキリスト者は、毎日の生活の中で、それぞれ自分に与えられている地上の賜物を、全力を尽くして、主のご用のために、人の救いのために、用いているでしょうか? 私は、本当にそのようにできていないというふうに、悔い改めております。これらの賜物、地上の富は、私たちのものではありません。それらはすべて主のもので、主のご栄光を現わすためのものですから、それに忠実に、抜けめのないように用いなければなりません。 ルカの福音書16:11-12
とイエス様はおっしゃいました。「まことの富」は、ま天の御国で、主とともに住まうことであります。 この、「まことの富」を…だれが任せるでしょう…、とイエス様はおっしゃったんです。 また…あなたがたは、他人のもの…、「他人のもの」というのは、「地上の富・不正の富」であります。…この他人のものに忠実でなかったなら、だれがあなたがたにあなたがたのもの…「あなたがたのもの」というのは、キリスト者のものであるから、「天の御国の富・永遠のいのち・いのちの冠」のことであります。この、「いのちの冠」を…持たせるでしょうか。…とイエス様は、おっしゃいました。 今、私たちキリスト者は、主から与えられている賜物であるこの地上の富、不正の富を、抜けめなく用いて天の御国で自分を迎えてくれる人々をつくることを求められているのではないかと思います。 「迎え入れてくれる人々」とは、これから救いにあずかる方々、私たちの周りにたくさんいらっしゃる、そういう方々であります。ですから、与えられた賜物を全力で使って、周りの方々の救いのために祈り、福音を宣べ伝えなければなりません。 まこれは、救われた者の努めであります。 マルコの福音書16:15
弟子たちですけども、私たちですけども、 マルコの福音書16:15
私たちにとって、一日のうちでもっとも長い時間いる場所、それは地上の富であります。たとえば、私を含めてサラリーマンであれば、職場でありますが、職場は地上の富、そのものであります。 終わりが近い新しい年、この職場を始めとして、それぞれが過ごす場所で、私たちは不正の管理者のように抜けめのない、本当に抜けめのない真剣さで、周りの方々の、救いにあずかるべき方々のために、祈って行動をしていきたいと思います。 ありがとうございました。 |