引用聖句:詩篇62篇1節
今日の題は、「主よ、お語りください。しもべはどうしたらいいでしょうか。」というふうに自分で題を付けました。 今から4年ちょっと前にドイツの喜びの集いがあって、私は姉妹と一緒に参加させてもらったのですけれど、そのときにベック兄弟が学ばれたところが、聖書の中から「主よ、語ってください。しもべは聞いています。」でした。 たまたまその喜びの集いがあったところのミヘルスベルグですか、あの集会場にドイツ語で「REDE HERR ICH HOERE」と書いてあったのです。 何が書いてあるのかわからなかったのですが、ベック兄が教えてくださったのは、「主よ、お語りください。しもべは聞いています。」という意味だったのです。そのところを参照してくださって、ベック兄が学びをしてくださいました。 今、兄弟に読んでいただいた、このダビデの詩篇62篇1節、 詩篇62:1
ダビデは自分では語らないで、ただ神を待ち望んで、主の言われることにだけ耳を傾ける信仰を持っていたことが、この個所からわかります。 また、ダビデの子であるソロモンは伝道者の書でこういうふうに言っています。 伝道者の書5:2
ソロモンも主である神様の前では、自分を低くして、へりくだって、自分のその肉である人間としての言葉を少なくして、黙って、主が仰ることに耳を傾ける姿勢を持っていたことがわかります。 このダビデもソロモンも、二人とも、主が第一になっていて、何事につけても行くべき方向も自分がそのために何を成すべきかということも、まず主のみこころを求める信仰を持っていたことがわかります。 その主のみこころが何かを知るには、自分を前に出したらわからなくなってしまうのです。自ら語ったり、自分の知恵で考えたりしないで、主に耳を傾けるべきであると二人は言っているのだと思います。 私たち、日常の生活の中で、自ら語らず、自分の知恵で考える前に、主の前に低くなって、「イエス様。お語りください。教えてください。私、聞きますから。」という態度を取るかどうか振り返ってみると、例えば私の場合ですと、職場にいるとき、仕事上の判断というのは、もう殆どがイエス様なしで、自分だけで決めてしまっているように思うのです。 救っていただいて12年以上経つのですけれど、正直なところ、殆どの職場での仕事の決定、どっちの方向に行くべきか、何をなすべきかというのは、自分で考えて、自分で方向性を出して、そして自ら語ってしまう。そういうような態度しか取っていない、本当に愚かな者なのです。 「イエス様。この仕事についてお教えください。お語りください。」と祈るとき、全く無いわけではないのですけれど、そう祈るときは困り果てて、自分でその決定を下せなくて、どうしていいかわからなくなって、行き詰ったときとか、もしくは、時々ですけれど職場で本当に静まることができたとき、そういうときにはイエス様を見上げてそういうふうに祈ることができますけれど、それは本当に例外的に少ない。 それ以外は忙しさにかまけて、また従来のその仕事上の経験から自然と、自分で即断即決して決めてしまったりします。そのことは聖書でイエス様が私たち人間に語っておられることから外れてしまっていると思うのです。 ローマ人への手紙12:2
ヨハネの手紙第I、4:5-6
この6節の、「私たちの言うこと」というのを、「主が語られること」というふうに置き換えて読むと、より一層わかると思うのですけれど、私たちは神から出た者です。 「神を知っている者は、主が語られることに耳を傾け、神から出ていない者は、主がかたられることに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」 「救われて主に従う者となった私たちは、心の一新によって自分を変えなくてはならない。」とあります。 それは、神のみこころを知るために、この世と調子を合わせないで、イエス様が語ってくださることに耳を傾けなければならないのです。 もし主が語られることに耳を傾けないで、この世の言葉を語る者に耳を貸していれば、それは真理の霊ではない。偽りの霊になってしまう。厳しいことばですけれど、聖書ははっきりとそういうふうに示しています。 聖書を通してイエス様は繰り返して私たちに呼びかけていらっしゃいます。 イザヤ書48:12
イザヤ書48:17-19
主の命令に耳を傾けさえすれば、私たちはしあわせの川、正義の海のように主によって守ってくださる。守られる。 なぜなら、主が仰るのですけれども、「わたしは初めであって、終わりであるから。」、その主だからというふうに全能である神様が約束してくださっています。 主である神様は、「わたしはあなたの神、主である。」というふうに何度も仰ってくださるのです。 申命記32:1-3
申命記32:6-7
本当に何度も、何度も主は、「わたしが語ろう。だから、わたしの語ることに耳を傾けて聞きなさい。」というふうに仰っているのです。 主のお語りになることばは、ここに書いてある通り、渇いた土に染み通る雨のように下って行って、緑が生き生きとする露のように人間にしたたるとあります。それは、私たちの日常の生活を堅く建てて、支えてくださることになります。 主が語られて、お働きになった昔の日々のことを思い出せ、とありますけれども、そういうふうにすると結局、その主の語られたことが私たちにとってもBest Of Bestの結果であるということがよくわかります。 ですから、毎日の生活の中で、どこでも、職場であっても家庭であっても、学校であっても、どこにいても主から離れないで、父である主に問えというふうに主ご自身が仰ってくださっています。 そして主はそれに対して、あなたにその結果を告げ知らせるというふうに、必ず回答してくださることも約束してくださっています。 詩篇50:7
イエス様ご自身が「聞きなさい。わが民、わが子よ。わたしは語ろう。わたしはあなたの神だから。」というふうに、ここでも仰っていてくださいます。 主が語られようとしているのですから、私たちはその主の仰ることを身を低くして一生懸命聞く義務を負っているのです。 以前、私はニューヨークに駐在しておりましたけれども、ある兄弟から電話があって、「本当に北米にいる兄弟姉妹方、みな転々としているので、電話線を通じて礼拝とか、福音集会をやれないだろうか。」というふうに打診があったのです。 東部と西部というのは飛行機でも5、6時間掛かりますし、時差が3時間あります。今は、今年のお正月もそうだったし、去年の元旦礼拝もそうだったのですけれど、御代田の元旦礼拝のときに北米の兄弟姉妹方と電話を結んで、向こうはちょっと大晦日の夕方とか夜になりましたけれども、いっしょにベック兄弟の学びを聞くようになっていますけれど、その前にこういうようなことがあって、そのことがスタートしたのです。 そのときのことなのですけれど、兄弟からそういうふうに打診があって、北米の兄弟方はすぐそれに飛びついて始めたのではないのです。 そのときにだれからともなく、「そうだね、そうですね、そのことについてみんなで祈りましょう。」というふうに言い合ったのです。すぐ決めなかった。 数ヶ月それから経ってそれから始めたのですけれど、そのときにみんなが祈ったのは次のようなことだったのですけれど、「この電話線を通じて礼拝をしたり、福音集会で学びを聞くということはみこころなのでしょうか。そのことはイエス様がご計画されていることに反しないでしょうか。邪魔をしないでしょうか。イエス様。教えてください。」というふうに祈ったのです。そして数ヶ月経ったのです。 それから始めた結果、本当に祝福されたのです。 ちょっとぼくたちが懸念したのは、ひょっとしたらイエス様は北米のどこかの場所に多くの兄弟姉妹方を集める、そういう集会をお造りになろうと思っているのではないかという懸念もちょっとあったのです。 そしたら、電話線を通じて始めたら、それは邪魔をしていることになるかもしれない。そのことは分からないから、イエス様、教えてください。イエス様、お語りくださいというふうに祈って待ったのです。 結局そのことは祈りの結果として数ヶ月のちに、そうしなさいということで始まったのですけれど、それ以降本当にイエス様はそのことを祝福してくださっています。 結ばれる個所もどんどん増えていって、南米で繋ごうという話も出たりしました。本当にその祝福をイエス様からいただいたということを経験しました。 「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。」というふうに、さっき申命記に書いてありましたけれども、そのときの経験では北米の兄弟姉妹方は本当にすぐに決めないで、「主よ、お教えください。どうしたらいいでしょうか。」という態度を取ったからこそ、本当に祝福されて、私たちにとってもベストな形の礼拝と福音集会が与えられたというふうに思い起こします。 それに反してなのですけれど、私は駐在を終えて、今帰って来て、その昔の日々を思い出せというのにそれを忘れて、いかに主にお尋ねすることの少ない人間になってしまっているかということを今回、この学びを通して二つのことを反省して悔い改めました。 一つは、先ほども言いましたけれど、職場でイエス様抜きで何でもかんでも決めてしまっていることなのです。困らないと本当にイエス様のところに行かない。普通のことだともう祈らないで、「はい次、はい、これやろう。」というふうになってしまっているのです。 伝道者の書5章の3節にこう書いています。 あなたがたの 伝道者の書5:3
伝道者の書5:7
あなたの 伝道者の書5:7
この一年半ほど振り返ってみるとこの件を含めて、仕事はすごく増えたのです。仕事が多いと夢を見るというのを、そのまま実践してしまっています。そして職場では主から離れっ放しの状態でありました。 むなしい肉の言葉も本当に多くなっていました。ここに書いてあるとおり、今私にとって必要なことは、ただ、「あなたの神を恐れよ。」ということだったと、この学びを通して気付かされつつあります。 同じ伝道者の書の3章の14節にはこう書いてあります。 伝道者の書3:14
この事業そのものも私たちがアメリカと交渉して立ち上げた事業というよりも何か意味があるのかもしれない。イエス様が、必要だからその事業を、この私を巻き込んで始めたのだろうというのは、そうではないかなというふうに思い始めています。 この事業・・・ (テープ A面 → B面) ・・・今、どうでもいいのです。 それは私たちが人間的に決めるというよりも、主がお決めになる。伸びるのであればやっぱり主が何かご計画とご目的を持っていらっしゃる。伸びないのだったらそれもまたイエス様のみこころである。 私たち人間が、私たちというか、私そのものがそれに何かつけ加えたり、取り去ったり、進めたりすることはできないし、すべきでない。主であるイエス様がそのことをなさる。そして、それには必ず主の意味があって偶然もないというふうに思い始めています。 主がすべてなさる。だから私はただ本当に身を低くして、主を恐れて、「イエス様。どういうふうにされるのでしょうか。」というふうにすべきだというふうに思いつつあります。 本当に会社で、都度瞬間的にやっても仕事そのものについて主に祈って進めたいというふうに思っています。 もしみこころでないならばこの事業は上手くいかないでしょう。みこころだったらば、そして上手くいくのであれば、それは何か主の意味があるはずです。 分からないですけれど、例えばこの事業を通して関係したその会社の人々だとか、取引先の人だとか、そういう方々のひょっとしたら救いがあるかもしれないです。 ですから肉の自分の知恵で考えたり、語ったりしないで、主を恐れて祈りつつ、進めることにしようと思っています。「イエス様。お語りください。しもべはどうしようもないしもべですけれど、お聞きします。私はこの事業についてどうしたらいいでしょうか。そういうふうに進めたいと思っています。」 もう一つ、信仰生活の中で反省していることがあります。それは、会社もそうだし、どこでもそうなのですけれど、イエス様を知らない人とたくさん接するのですが、そのときにまだイエス様を知らない方に接するときに、どうしても焦って自分の言葉が多くなって出てしまうという反省です。 この方にイエス様を紹介したい。どういうふうにこの方にイエス様を伝えたらいいか。相手の方がつまずかないようにするにはどういうふうに話したらいいだろうか。 限られた時間でイエス様のことを言うには、どういうふうに言ったらいいのか。自分の証しを言うのが一番いいのかな。しかしそれもこの人にいいのかな。もう本当に頭の中でクルクル自分の知恵で思い巡らして、自分から語ってしまおうとするのです。 そのくせ、何を語っていいかわからないし、頓珍漢なことを言ってしまう。本当に救いのための交わりが本当に主から来るというふうに思いつつ、実際その場になってくると、自分が一生懸命前に出て何かしようとしてしまうのです。 人間が人間を救うことなんかできないのです。救うというのは主ご自身がなさることなのです。むしろ私たちは主が救われようとしているときに邪魔をするような者なのです。 ですからその交わりでは、先ほどごいっしょに読んだ伝道者の書の5章に書いてある、「神の前では軽々しく、心焦ってことばを出すな。ことばを少なくせよ。」というのを徹底的に守る必要があるのです。しかし私はそれをしていなかった。 ヨハネの福音書16:7-8
ヨハネの福音書16:13-14
ヨハネの福音書15:26-27
私の反省はそういった交わりのときに御霊に頼ろうとしないで、自分の知恵と思いで動こうとしてしまう。私が語ろうとしなくても本当に必要であれば主が私たちに送ってくださっている真理の御霊が必要なことをすべて語ってくださる。 罪のことも、義のことも、そしてイエス様、主のさばきについても。私たちがどう語ろうかなんて思い悩む必要は全くないのです。御霊が証しをしてくださり、その御霊に導かれて私たちが相手に証しをすることになるからです。 だから私たちはソロモンが言うとおり、このことばを少なくして、ことばというのは肉のことばです、肉のことばを少なくして、主に語っていただけば良いということです。ここでも、「イエス様、お語りください。しもべはそれに従います。」という態度を取るべきなのです。 これも二つ目ですけれど、この今回の学びを通して本当に反省できたことです。イエス様の前に本当に悔い改めをしました。信仰生活の中でも、まず自分のことばを少なくして、相手を前にして心の中で祈りたいなと思います。 みなさんも経験したことがあるかもしれないのですけれど、あれは何年くらい前だったか、ある兄弟が、イエス様を知らない方と一対一で交わりをしているのを近くで聞いていたのです。 そのときに実感したことなのですけれど、その兄弟は、そのまだ救われていない方と二人だけの会話のときに殆ど喋らないのです。聞くことに専念して、ことばを極端に少なくしている。そのときにおそらく心の中で相手の方のことを祈っていたのではないかと思っていたのです。 それから、もう一つおそらく彼が祈っていたのは、御霊が働いてくださいというふうに祈っていたのではないかと思います。 そして、なかなか喋らないものだから話は途切れ途切れになって、その場がもたないような雰囲気になのですけれど、しかし話題として大切なところに来たときにその兄弟はものすごい力強い口調で、「本当にあなたの一生の中でイエス様に従うか、従わないか。従わないで終わるのか、その二点というのはこれは何事にも変えられない、本当に重要な、今あなたはその決断のときに来ています。」いうことを喋るのです。 それ以外はもう本当に殆ど喋らないで、ただ聞くだけ。途切れ途切れになりますから、本当にいつ、その二人の交わりが終わるのかというような雰囲気だったのですけれど、そういうふうに、最後のほうでは兄弟は言っていたのです。 今思い返すと、ヨハネが書き記したとおりに、真理の御霊がその兄弟の祈りの答えとして現われて、その兄弟を通してその未信者の方に語られたということがあとでよくわかりました。 私たちは、真理の御霊が働くことができるように、救いのための交わりのときには、本当に自分のことばを少なくする必要があります。ついついその場を上手く保とう、明るくしようなんて思って、天気のことだとか、くだらない世間話なんかを入れたりしがちなのですけれど、必要ないのです。 必要であれば御霊が導いてくださって、そういう話題も出てくると思うのです。本当に、私たちはただ、このときに御霊が現われてくださるようにと祈るだけだと思います。 自分から語ってしまうのは、その本人に意思がなくても、主のご栄光を、自分自身の栄光を求めるようなことになってしまうのではないかと思うのです。 私たちは、この喋れる口を持っていますから、何でも語ることができます。みこころに従うためには、肉のことばを極力少なくして、主に語っていただくことに尽きます。 語ることだけではなくて、行動も同じだと思います。肉の思いで、自分たちで行動を起こすのではなくて、主にしていただくこと、肉のことばを極力少なくするのと同じように、肉の行動も極力取らない、原則取らないようにするということが大切だと思うのです。本当に主に問うて、主に事を起こしていただくようにすべきです。 私はこのことをもう一つの反省点、悔い改めにしました。 二つ反省し、悔い改めたのですけれど、この二つの反省について、イエス様はこう仰られます。 ヨハネの福音書7:16-18
本当に私たちは知らないうちに自ら語り、自ら考えて行動を起こして、自分の、主の栄光ではなくて、自分の栄光を求めてしまいます。 本当に、第一に主を恐れて、主のご栄光を求める者でなければ、本当に主のみこころに反します。それはイエス様が仰られる通り、不正、不義であります。 主にお尋ねして、本当にベックさんも私たちに語ってくださったのですけれど、「イエス様、お語りください。しもべはどうしたらいいでしょうか。」ということを本当にどこでも、職場でも、家庭でも、学校でも、それから信仰生活においても祈るべきだと思います。 本当に今回、この学びを自分で具体的に二つの反省ができたことをイエス様に感謝しています。 |