御名を呼べる幸い


岩本兄

(福岡喜びの集い、2003/12/20)

引用聖句:105篇3節
3主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。

本日は、兄弟に読んでいただいた箇所で、「御名を呼べる幸い」というテーマで、しばらく考えてみたいと思いました。

2週間前に、「大切なことは、何かな?」と、しみじみと思わせられるお交わりを与えられまして、すごく引き戻されたなっていうことを思ったんですね。土曜日にお交わりをしまして、近くの姉妹が癌で入院をされておりますので、その姉妹のお見舞いをしたんですね。
私の家内と、もう一人の一緒に行った姉妹も脳腫瘍の方でして、3人でその癌の方のお見舞いに行ったんですね。すごく静かな時を持つことができたんです。普段は、猛烈なスピードで突っ走ってるような日常生活を送っているんですけれども、ポッとこう、与えられた時が静かな時で、幸いだったんです。
司会の兄弟が先ほど言われたように、人間的に考えれば、「悲しみの中に」いる、そういう方でして、お見舞いしているその方も、脳腫瘍ということで、ご自分も病の中にあるということで、その交わりの中で思ったのは、私たちも共通すると言いますか、喜べるところは、やはり「イエス様の御名」なんだなということを思わされたんです。

確かに私たちの肉体というのは、刻一刻と「死」に近づいているわけですね。これは、自分の力とか知恵では、何ともならないんですけれども、それにもまして、私たちは「主のお名前を知る」ことによって、平安を与えられた者であるわけです。
そういう意味で、私たちの人生において「イエス様のお名前を知る」ということは、どういうことなんだろうかということを、改めて思わされたんです。

「主の御名」ということで思い当たることがありました。それは、今回『主は生きておられる』に載っていましたベック兄の記事でした。みなさん読まれたと思うんですけれども、こういうところなんですね。
ベック兄が、初めて日本に伝道に来られた時に、船で約1ヶ月半かけて日本に来られたその途中で、故国のある姉妹に送った手紙の一節の中に、このような記事がございました。

「1953年8月2日、私はジェノバをオランダ船で出航、日本へ向かいました。前途への不安などで気が重くなることもありましたが、その時うかんだ言葉は、ただ一つ、『主の御名のため』という言葉だけでした。」

という箇所だったんです。「前途への不安などで気が重くなることもありましたが、その時うかんだ言葉は、ただ一つ、『主の御名のため』…。」というベック兄の思いが、ここに現わされていたなと思います。
その当時、未知の国ですよね。地の果ての日本へ、ただ「イエス様の御名のため」に来られた。そういったことを通して、「主の御名のため」に、そのようなことを起こされたということを思う時に、「主の御名」というのが、ベック兄もそうですし、われわれにとっても、大変「大きな力」なんだな、ということを思わされました。

そのベック兄ですけれども、1953年の後、時は過ぎまして、約40年の後、1990年に、みなさんご存知の『絶えず祈れ』という本が発刊されまして、その中でこのようなことを言われています。

「『主の御名によって祈れ』。これこそ、キリスト者に与えられている、最も大切な主のご命令です。
このことは、お祈りの終わりに、決り文句として付け加えることではありません。主の栄光のために祈ること、それは私たちに提供されている主なる神の豊かさを汲み取ることであり、イエス様の代理人として祈ることです。私でなくキリスト、これこそ主の御名によって祈るための秘訣です。
私たちの弱さも強さも、知恵も愚かさもすべてはイエス様とともに十字架につけられました。もはやそれらのことは全然大切ではなくなったのです。私たちのただ一つの誉れはイエス様です。
たとえ私たちが苦しみに満ちた状態の中にあっても、自分の無力さと弱さが明らかになるのではなく、イエス様のいのちが現われるのです。
イエス様の御名により祈ることは、ただ単に祈るという行為だけを意味しているのではなく、私たちの全生涯がイエス様の御名によって生かされているということに他ならないのです。」

このようにベック兄は書かれていました。ベック兄だけではなくて、「御名を呼ぶこと」は、何にも優る「喜び」であって、「力」であるということを思わされます。
このように「御名を呼ぶ」ということを、しばらくみことばでたどってみたいと思うんですけれども・・・。
モーセが初めて主の御声を聞いた時に、主はご自身をこのように現わされました。

出エジプト記3:12-15
12神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
13モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
14神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

このように、モーセが初めて主と出会った時に、主なる方は14節にありますように、「『わたしはある』という方が、私をあなたがたのところに遣わされた」そういう名前であるということを主は語ったんですね。
私たちが知ろうが知るまいが、主なる方は生きておられ存在する。その方が私たちのところに遣わされた。そのような方が、主なる方であるということを明らかにされているわけです。

イザヤ書52:5-6
5さあ、今、ここでわたしは何をしよう。――主の御告げ。――わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。――主の御告げ。――また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。
6それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる。』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」

5節の最後に、「わたしの名は一日中絶えず侮られている」とありますけれども、これは今日のことで、「イエス様の名は、主なる方のお名前は、一日中絶えず侮られている」と言えるのではないでしょうか。
そのような中にあっても、主なる方は、「わたしの民はわたしの名を知るようになる。・・・『ここにわたしがいる。』と告げる者がわたしであることを知るようになる」というふうに、本当に私たちの理解を超えて、一方的に、主なる方が私たちの前に存在を現わしてくださる。一人一人に現わしてくださるわけであります。
「主なる方のお名前」ということで、イザヤ書の57章15節にはこのような箇所がございます。

イザヤ書57:15
15いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

ここで、「その名を聖ととなえられる方」とありますように、主ご自身は「全き聖なる方である」とご自身を紹介されています。その方は、このかぎ括弧の中にありますように、「高く聖なる所に住んで」いたにも関わらず、「心砕かれて、へりくだった人とともに住んで」くださる。
私たちの悲しみの中でへりくだされた者の中に、主はご自身を現わされるということを言われてます。
そうした主なる方が、ついにお名前をはっきりと示された箇所が、有名なマタイの福音書の1章21〜23節であります。

マタイの福音書1:21-23
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

とあります。モーセが主なる方と最初に出会ってから、そして多くの預言者を通して、「私たちとともにおられる方がいらっしゃる」ということを、主なる方は何度も現わしてくださったわけですけれども、ついにその方がお生まれになって、地上で、こういうお名前で、ご自身を明らかにされたわけであります。
そのイエス様が地上を歩まれたわけですけれども、ヨハネの福音書9章36節にこのような箇所がございます。
個人的に大変好きな場所なんですけれども、盲人の目が見えるようにしていただける場面ですけれども、

ヨハネの福音書9:36
36その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

と盲人は語りました。いろいろな経過はあるにしても、盲人が自分の目ではっきり理解して見たわけではないんですけれども、ほんとにその心の中で、「主なる方の存在を確信して、その方を信じることができますように」と、主にひとりごととも言えぬ祈りをもって、叫びをもって、このように語ったわけです。
このようなへりくだった叫び、祈りを、主は必ず聞いてくださるわけです。

ヨハネの福音書9:37-38
37イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

とあります。このように、この盲人は、イエス様を個人的に、1対1で知ることになり、出会うことになって、「イエス様を拝した」とあります。私たち一人一人も、このように、見えない者から見える者に変えられたわけであります。
その「イエス様のお名前」ということで、ピリピ人への手紙の2章8〜9節にはこういう箇所がございます。

ピリピ人への手紙2:8-9
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

とあります。イエス様がこの地上にお生まれになって、「人としての性質をもって現われて、そしてご自分を卑しくされ、死にまで従われ、十字架上で死んで、よみがえってくださった」、そのことによって、主なる神様は「イエス様の名」を「どのような名にも優る名」として、お示しになったわけであります。
その方を、私たちは知ることができ、そして今もなお、私たちに永遠のいのちを与えて祝福してくださっているわけであります。

先ほどご紹介しました、『絶えず祈れ』の祈りの本の中で、「イエス様の御名によって祈ること」の大切さについて、このように続いて書かれています。

「『自分のことは自分で決めたい』『自分の思った通りにしたい』と思っている限り、私たちは主のうちにとどまっていません。
そういう時、イエス様の御名によって祈ることは不可能です。祈りは、虚しい形式に過ぎなくなってしまうのです。
私たちの中から出てくるものは、何であれ、すべて役に立たないのです。すべてが主に渡されることこそ、正統なのです。
イエス様の御名によって祈ることは、何を意味しているのでしょうか。
・すべてのことについて、十字架が私たちのうちに働くべきであり、私たちは自我に死ぬべきです。
・すべてのことについて、聖霊の働きによって主のご栄光だけが現わされるべきです。
これらは、私たちには『とてもできない』とあきらめてしまうかもしれません。けれども、私たちがどのような者であり、私たちに何ができるかが大切なのではなく、『イエス様はどのようなお方』であり、『イエス様は何がお出来になるのか』が大切なのです。
イエス様は、十字架につけられたお方です。そして、イエス様とともに十字架につけられた私たちもまた、イエス様の復活の力を知るように望んでおられます。
イエス様は、私たちを聖霊で満たしてくださいます。だから、私たちは満たされています。大切なのは、『主イエス様のうちに留まること』です。
私たちが主イエス様と結びついているならば、聖霊が私たちを満たしてくださいます。そうすれば私たちは、『主の御名によって祈ること』ができるのです。」

このように結んでいらっしゃいました。
こうした、ギスギスした社会の中にあって、私たちはいつでもどこでも、この「イエス様のお名前」を呼ぶことが許されているということは、本当に感謝なことではないでしょうか。
とても、祈ることさえもできないほどの試練の中にあっても、私たちは、主の御名を呼び、叫ぶことができるわけであります。

私たちの肉体は滅び行くものでありまして、私たちの肉体はもうすでに死んでいるようなものでありますけれども、イエス様の霊によって生かされている、そのようなことを思いつつ、冒頭に兄弟に呼んでいただいた箇所にありましたように、

詩篇105:3
3主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。

このようなみことばに心を留めて歩んでいければ幸いではないでしょうか。
最後に、マタイの福音書12章18〜21節を読んで終わりたいと思います。

マタイの福音書12:18-21
18「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
19争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
20彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
21異邦人は彼の名に望みをかける。」

どうもありがとうございました。




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