引用聖句:マタイの福音書25章1節-13節
ほんの少し前まで、21世紀という年が明けると言って歓喜わいておりました。 その反面、コンピューターの誤作動があるんではないかとささやかれて、各方面で緊張感があふれておりましたけれども、無事そのようなこともなく、私たちは年を明けることができました。 この21世紀というのは、どのようなものになるかっていうことは、全く私たちにはわかりません。 ただ今私たちが言えることは、新しいこの世紀に生かしていただいてるという、そういう事実と、一日一日、豊かに希望を持って過ごさせていただいてるということだと思います。一日一日過ぎるということは、本当に素晴らしい、いいことであります。 ある兄弟が言っておりましたけれども、「一日過ぎるということは、大いに喜ばなくてはならない。それは、それだけ天国が近づいているから。」というふうに、交わりの中で言っておりましたけれども、まさにその通りだと思うんですね。 私たちは時間によって、日々を過ごしておりますけども、一方神様の方は、時間というものは空間みたいなもので、時間によって制限・支配されてはおりません。永遠から永遠に、(すぎ?)を持って、すべてを動かされている。そういうお方であります。 そのことを思う時に、私たちが天国に召される前に、イエス様がまたこの地上に来られるということは、十分あり得ることであります。 むしろそれが間近に迫ってるという、本当にすぐそばに来ているというふうに、そういう思いをクリスチャンの方々は、心に思っておられるというふうに思います。 それは聖書に、そういうふうに書かれているからです。聖書の一番最後のところにこういうみことばがあります。 ヨハネの黙示録22:20
ヨハネの黙示録の22章の20節で、一番最後でありますけども、このように言ってるんですね。 ヨハネの黙示録22:20
そういうふうに約束をされています。主の約束というものは完全で、全く疑う余地はありません。 聖書という大変この分厚い本の中で、一つ一つが素晴らしいみことばでありますけれども、その中心となるものを3つくらいにしぼったとして、一つ目は、創世記1章1節のみことばであります、 創世記1:1
というみことばではないかと思うんですね。神のご臨在と、そして創造のみわざ。 そして中心は言うまでもなく、「イエス様の十字架と復活による愛の救い」というものが全体を覆っております。 そして、最後に「イエス様が再び来られる」という再臨の希望、こういうふうに解決すれば、分けられるのではないかというふうに思います。すべてが、この聖書というのは神のみことばでありますから、いろいろな見方というのがあると思いますけれども、私はそう思うんですね。 新約の中には、終末に関するみことばというものが数多く出てまいります。それほど、再臨の期待というものを、信仰を持ってる方々は待ち望んでるということなんですね。よくわかります。パウロはテトスへの手紙の中でこのように言っております。 テトスへの手紙2:13
来たるべき再臨を待ち望むようにという、パウロはテトスへこのように教え勧めております。 イエス様が再びこの地上に来られるという、それは、昇天なさいましたけれども、昇天なさった同じ有様で、この再臨というものを約束なさっております。 使徒の働き1:9-11
確かに主は来られる。これは約束であります。旧約聖書の中にも多く、再臨を待ち望むというところがありますけれども、 詩篇96:13
詩篇98:9
このように、詩篇の中にも数多く主の再臨というものを、望んで書かれています。 ま今お読みした中でも、主が来られる再臨の目的というものが、ここに示されあります。最後の審判である、…地を裁くために、また国々の民を裁くために来られる。 そして、待ち望んでいる、まことのクリスチャンがその人の「クリスチャン」のために、救いの完成というものを成就して、そう、完全な神の国というものを確立させる。…これが大きな目的であります。 その目的の箇所である聖句というものを、少しピックアップしてみたいと思います。まず「私たちの救いの完成のために来られる」というところをちょっと、見てみたいと思いますけども、 ヘブル人への手紙9:28
私たちは十字架の贖いによって、罪を取り除いていただきました。そして、救いというものにあずかりました。 再臨によって、神の国での完全な救いの状態に入れられる。いわゆる、「救いの完成」のためにイエス様は来られる。これが一つの目的であります。 そして「私たちに、栄光の冠を授けにあらわれる」というふうにも言われております。 テモテへの手紙第II、4:8
再臨の日ですね。 テモテへの手紙第II、4:8
次には「天地の破壊と最後の審判」というものが、続いております。 ペテロの手紙第II、3:7
ここに「さばき」というものがあるわけですね、その例として、今度はマタイの福音書の25章の31節46節。このようにされるということ、ここで例えて言われています。 マタイの福音書25:31-46
「最後の審判」であります。 羊と山羊というふうに分類して、私たちが最後に集められて、左右に分けられます。右側の救いの契約にあずかっている人たちは、神の国に入るという特権が与えられますけれども、左の山羊側である、神に背く者は、永遠の火に入るという刑罰が待ちうけております。 羊と山羊という、この分ける基準となったのは、信仰を持っているか持っていないかということと同時に、本当ここにありますように、愛の実践というものに励んでいるか、あるいはみことばにしたがって歩んでいるかということが、評価の基準になっているような気がいたします。 そして主は、栄光の座につき、義と平和の支配を確立する。そのような目的で地上に参られます。 コリント人への手紙第I、15:23-26
このように万物を従わせて、新しい国というものを確立させます。そして「新しい天と地」というものは、よく読まれますけども、 ヨハネの黙示録21:1-4
ヨハネの黙示録21:6-7
これは新しい天新しい地、天の御国であります。本当に素晴らしいですね。歓喜に満ちたみことばではないか、というふうに思うんですね。 これを本当に私たちが考えるときに、言葉に言い表わすことのできない、主の恵みというものを心に覚えることができます。 私たちが信仰のゆえに正しい時、そして絶えずこの信仰の火を燃やし続けている時に、主はこのように導き入れてくださる。先ほどの羊のように、分別して右側に置いてくださるということ、ほんとに感謝だと思いますね。 このように再臨によって、天と地というものは変わろうとしております。本当にこのこれによって、永遠に天の幕屋でイエス様とともにおられるという、素晴らしい約束があります。 この再臨の時期というものは、私たちには全くそれを知ることはできません。それは、イエス様の父なる神だけが知ってることであります。もう一度、 マタイの福音書24:36-39
イエス様の再臨ていうのは、その日は、本当にいつ来るかわかりません。ノアの時代にもそれがありました。神様から示された通り、洪水が来ると宣告されたにもかかわらず、人々はその言葉に少しも耳を傾けていませんでした。 そして飲んだり食べたりして、自分の生活を謳歌してる。まだまだ(……って?)おりました。ところが突然洪水が来て、警告を信じたノアの家族と箱舟の中に入った動物たちを除いて、すべてのものが滅ぼされました。それと同じようにイエス様の再臨も突然来ると、今私たちに警告を与えておられます。 マタイの福音書24:42
本当に、このみことばというものは、真実で正しいものであります。私たちに心の目を開かせ、主がいつ来られても大丈夫なように、信仰の上に、その日が来るのを待ちわびるようにと、聖書では何回ともなく、私たちに警告を与えてくださっております。 私も知らなかったんですけども、台湾では、ある格言があるそうです。それは「子どもには、耳があるが口はない。」というものだそうです。耳があるが口がない。 要するに「親の言うことをよく聞け」と教えられているそうです。これを聞くと、今大部分の子どもたちは、逆のような気がするんですね。口はあるが、耳がない。親のいうことは聞かないが、自分の言いたいことだけを主張する。、そんな風潮に見受けられます。 私たちの信仰というものも、それと同じではないかと思うんですね。 聖書のみことばというものは正しい、それを率直に心に受け止める、あれこれ注釈をつけて疑わない、自分の思いというものを優先させないということではないかと思うんですね。 耳はあるが口がない。「親」は主であり、「子」は私たちであるからです。 箴言4:1-2
箴言4:20-23
「わたしの言葉をよく聞け。わたしの言うことに耳を傾けよ。」、主はいつも私たちにこう語りかけてくださっております。 そして私たちは本当に、待ち望む者として、どのような態度というものを持ち続けなければならないか、というのが先ほど兄弟にお読みいただきました、マタイの福音書の12章の1節から13節になります。 もう一度ちょっと開いていただきたいと思いますけど、ここにあります「花婿」はイエス様で、「10人の娘たち」というのは私たちであります。 10人の娘のうち5人は愚かで、5人は賢いのでありました。愚かな娘たちは、ランプに油入れて持っていましたけれども、ランプの油がなくなった時の、予備の油というものを用意しておりませんでした。 しかし賢い娘たちは、いつでも十分な油というものを持っておりました。そこで予想に反して、夜遅くなって花婿がまいりました。 愚かな娘たちというものは、あわてて外に油を買い、家に戻りました。しかし時はすでに遅く、祝宴のために戸は閉められました。それによって家の中に入ることはできませんでした。 (テープ A面 → B面) うとうととして眠り始めたというふうにここに書かれております。 考えてみますと、私たちのこの実生活というものは、今急速な情報社会の中で、刻々と変化に対応して、苦しみながらも突っ走るという、そんな感じで日々の生活を送っているように思います。 「ゆっくり待つ」という、そういう体験というものは、少ないのではないかというふうに思います。私も電車で通勤しておりますけれども、電車に乗るホームの階段でも、本当に走る人もいますし、信号機が赤になりかけても歩く人もいます。 ましてやこの食事をするときには、店が満杯のときにはいらいらして、すぐその店をやめて次の店をさがすとか、本当に私を含めて、現代の人というものは「待つ」ということに慣れていないのが現状ではないかというふうに思うんですね。 しかし信仰というものは、社会の実生活とはぜんぜん異なるものであります。それは、信仰には神の言葉があり、そしてそれによって祝福があり、喜びがあり、希望というものがあるからです。 そこに私たちは、忍耐を克服するという力というものが与えられてるというふうに思います。 テサロニケ人への手紙第I、2:13
テサロニケ人への手紙第I、2:19-20
神の言葉というものを率直に受け入れるとき、私たちは聖霊の働きによって、望み・喜びというものがあふれてまいります。そして待ち望む者へと、常に心が傾けられるのではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、1:13-16
本当にここで、ペテロは待ち望む者の課題というものを語りかけます。待ち望む者は、第一に心を引き締め、身を慎む備えをするというふうに言っております。心を引き締めるというのは、ある意味では緊張の連続であるかもしれません。 しかし、私たちは絶望から解放されて、ひたすら希望というものを追い続けて行くときに、その緊張というものは、安らぎと平安に変わるのではないでしょうか。それは、主が与えてくださった大きな恵みであります。 最後になりますけども、次のみことばこそ、私たちが待ちわびる、大きな希望と喜びではないかと思います。 ピリピ人への手紙3:20-21
再臨っていうことは、本当に間近に迫っております。神のみことばというものは、完全なものであります。 コリント人への手紙第I、13:12-13
どうも、ありがとうございました。 |