引用聖句:詩篇1篇1節-3節
私たちにとって、「幸いなこと」とはどんなことを言うのでしょうか。 人はそれぞれ何を、またどんなことを幸いと思うかは違うことでしょう。さらにその時々、その時代、時代で幸い感、幸せ感は違うのかもしれません。しかし、いくら個人、または時に応じてその思いは違っていても、きっと時を超え人の心に迫る感覚には、普遍なものもあるはずです。 今日は、この「幸いなこと」について、聖書にはどのように示されているのかということを共に見ていくことにしたいと思います。 今、兄弟にお読みいただいた詩篇1篇1節、詩篇のスタートになりますけれども、「幸いなことよ。」という言葉で始まっております。 この詩篇は、イスラエルの王であったダビデ王を初め、神様を愛した人々が、人生の主である神様を褒め称え、賛美した詩をまとめたものであります。 今から2,500年から3,000年前に書かれたものであるというふうに言われております。 しかし、読み進めていくと解かるのですけれど、その内容は、何千年前に書かれたという、いわゆる古臭さというものは微塵も無く、むしろそれは今を生きる私たちの心の動きと全く同じであるということに気がつき、心に迫ってきて共感を覚えるものばかりであるということが解かります。 このことから、私たち人間は、何千年の昔から、確かに住環境であるとか、食文化、あるいは社会機構等の物質的かつ物理的な面は、飛躍的に変わってまいりました。 しかし、この変化自体は、私たちの本質的な心の部分が変わったことによって起こったことではないということが、はっきりと解かるわけであります。 もちろん、今のこの発展は、人間によって多くの発見や発明によって、成されたことと言われておりますけれども、このことで私たち人間の心の安定や、あるいは成長も共に飛躍的に伸びたわけではないということであります。むしろ、全くと言っていいほど、心の部分では変化がなかったと言い切ることができるのではないでしょうか。 自分たちの目の前で起こっているいろいろな事柄、特に困難や悩みは、その時代時代で内容は異なっていますけれども、必ずや人間の心の中に宿っていたことであるということも解かります。この詩篇は、そんな人間の思いを、いつも主が暖かく見つめてくださっているということがよく解かる書でもあります。 では、この後も続きを詩篇を中心に見ていくことにしたいと思います。 詩編1:1
まず幸いなこととして、示されていることは3つの否定的な言葉で示されているということが解かります。まず、悪者のはかりごとに歩まないこと。次に罪人の道に立たないこと。そしてあざける者の座に着かないことであります。一つづつお話をしていきたいと思います。 一つ目の悪者のはかりごととは、悪いことを企てるということであります。これは、私たちの心の中に元々ある悪いものによるものであります。 これは、マルコの福音書7章20節にこういうみことばがあります。 マルコの福音書7:20-23
とあります。これはイエス様の言葉でありますけれども、イエス様は「人から出るもの、これが、人を汚す」とはっきりと言っているわけであります。 そこには、悪い考え、欺きやねたみなどありますけれど、内側から出てくるものだと言いきっています。つまり、私たちに元々あるもの、肉なる部分がそのようにさせるということであります。まさに私たちの本質のものから出ているものであります。 そしてそのことを、さらにサタンが後押しをするわけであります。サタンの囁きにのってしまうということです。そのことに聞き従って歩んでしまう自分がいるわけであります。このことはよく心に留めておかなければいけません。むしろ私たちは、逆に神様のはかりごと、神様の計画に歩まなければならないということであります。 次に2つ目は、罪人の道に立たないということであります。 すべての人間は、罪人であると聖書にははっきりと書かれています。一人ひとりは、どうにもならない罪の問題をかかえているわけであります。このことは、自分では解決することができない問題です。この罪とは、神様であるイエス様を忘れることによって出てくるものであります。 それならば、このことは神様の道に立って歩むことで解決へとつながってくるわけであります。罪人の道に立つのではなく、常にイエス様に祈り求め、助けてもらう道を歩むことが必要なのだということです。 さらに3つ目は、あざける者の座に着かないことであります。これは、今まで示した神様の計画に歩んでいる者や神様の道に立っている者が、身近にいるのにそれを認めようともせず、傍観している者のことを言っているわけであります。それだけならいざ知らず、その人たちをさらにあざけり笑う者たちのことを言っています。 これらの人は、完全に神様、イエス様を無視していて、さらに反抗して認めようとしない者たちのことであります。この世の中をあざけるような態度で、勝手気ままにふるまっている人と言っております。実はこうなって行くことこそが、サタンのはかりごとなのであります。 このことに人間は気づかず、罪の道を歩んで、結果としてよみの穴に真っ逆さまに落ちている状態になってしまうということです。 でもそうなっていることは、自分たちは解からないのであります。このことは、神様、イエス様によって初めて気づくことができることだからであります。 ですから、いつも自分たちは肉の欲の思いで行動していると、このことがいつの間にか習慣となって、そして神様の存在を否定することが常態となってしまい、その結果、神様を全く認めなくなるという、いわゆるサタンの流れにのってしまうわけであります。 ですから聖書では、このような者の道に歩まない者は幸いであると言っているわけであります。また別の箇所にも同じことが示されています。 箴言2:13-15
箴言2:19
悪い行いの結果が、ここには細かく示されております。19節にありますように、これらのことは、いのちの道に至らないということであります。 箴言2:20-22
悪者は、地から絶やされてしまうわけであります。悪者の道は、いのちの道につながるのではなく、まさしく滅びにつながる道なのだということであります。 先ほどの詩篇1篇に戻ります。 詩篇1:2
主の教えを喜びとして、主の教えを口ずさんで歩む生活こそ、幸いな生活へと導かれる道であるということであります。 主の教えが、私たちを悪と罪から遠ざける唯一のものなのであります。 詩篇119:9
みことばを頼りにする生活を送るということであります。みことばを喜び、そしていつも口ずさんでいる生活こそ、幸いなことを生みだすということであります。 これは、イエス様に向かって祈りつついただくみことばが、私たちに必要な時々のアドバイスであると理解をして、これによって示された方向性を喜び、喜びを持って生活をすることであります。 主からのあわれみが、必ずや訪れることでしょう。このあわれみによってのみ、私たちは罪から贖われ、離れることができるのであります。 詩篇1:3
そういう人は、水路に植わった木のようだと形容しております。 これは、時が来れば実を結び、葉は枯れることはなく、何をしても栄えるということにつながって行きます。 この今のみことばにも、3つのことが示されていました。 まず一つ目、水路に植わった木のようだと表していました。確かに水が与えられることのない場所に育っていかなくてはならない植物は過酷であります。雨が少ない土地ならなおさらであります。しかし、逆に水が充分に与えられている植物は、その成長も確かであり、渇くことがありません。充分な未来の生活が保障されているわけであります。 そして、目に見える部分においては、生きて行く上で充分でない環境であったとしても、見えない部分からの水分の供給があるということで、その存在は揺るがなくなるということです。 むしろ、そういう時こそ存在価値が問われるのではないでしょうか。それは、豊かな施しが常に与えられていることで、揺るがなく渇くことのない確かな生活が与えられることも証しにつながっているわけであります。 次に2つ目は、時が来れば豊かな実を結ぶということであります。 詩篇19:7-8
主なるイエス様から示されていることは、完全であるということであります。それは、日々の生活で疲れ果てた心を生き返らせることができるからであります。 そして、何を学んだらよいかが解からない者をも必要を満たすことで、賢くしてくださるわけであります。戒めが与えられたとしても、それが正しいからこそ納得をして、その後も歩むことができますから、新たな心の喜びを生むわけであります。そして、人の目を明るくすることができることで、悪から遠ざかることができるわけであります。 このようにイエス様のみことばは、私たちが必要な時には、主のお役に立つことのできる最善を用意してくださり、その時に豊かな実を結ぶ準備を整えてくださっているということであります。 3つ目は、何をしても栄えるということです。 しかし、これはどんなことでも自分に都合が良いように無条件に成功していくということではありません。実際に自分たちに起こることは、私たちにとっては「どうして?」と思えるようなことがあるかもしれません。でもその時の思いを超えて、ことは必ず益になることへと導かれて行くわけであります。 その最大の出来ことは、イエス様の十字架の御業であります。 ヘブル人への手紙2:9-10
イエス様は2,000年前に地上におられる時に、当時の権力者たちの思いによって、結果的には十字架に架けられて処刑をされたわけであります。その事実だけを見れば、悲しいことであり、すべてが終わったかに見えたことでありました。 しかし、9節にありましたように「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けた」とあるわけです。つまり、イエス様の十字架上の死は、神様の恵みによって、すべての人のために行なわれたことであったと示されているわけであります。 また、10節には、これは私たちを栄光に導くためのステップであったと示されています。イエス様が、苦しむことによって私たちの罪が贖われ、救いの道へと導かれたわけであります。そしてよみがえられたわけであります。このことこそ、大いなる喜びであり、十字架での処刑の場面では及びもつかなかったことなのであります。 ですから私たちは、すべての主の御業を喜び、どんなことが示されても希望を持つことができるのです。 たとえ目に見えることが絶望であっても、その中には主が成し遂げてくださり、最善があることを信じることができるわけであります。このことこそ信仰であります。このように聖書の幸いとは、こういうことを示しています。 さらに聖書の別の場所にも「幸いなことよ。」という言葉が示されています。 詩篇33:12
主をおのれの神とする、その国は幸いだとあります。 詩篇34:8
主に身を避ける者は幸いであるとも書かれています。 詩篇34:22
主に身を避ける者は、だれも罪に定められないとはっきりと書かれています。いづれも、主なるイエス様を信頼して歩むことが幸いへと導かれることであると示されているわけであります。 詩篇112:1-4
幸いな人とは、主を恐れ、そのみことばを大いに喜び称える人であるということであります。祝福されるともあります。主なる神様は、光を闇の中に輝かすこともあります。 闇のように思えるこの世界においても、光を掲げて示してくださり、迷う私たちの足元を照らしてくださるということであります。 私たちの歩むべき道へと導いてくださり、示してくださるということであります。 今日のテーマである「幸いなことよ。」とは何でしょうか。 私たちは今、幸せと思っていてもいつ災いが襲ってくるかわかりません。災害や事故、病気などを挙げればきりの無いくらいの危機が思い浮かぶわけであります。 でもそのことは、私たちが受けることであって、受身の態勢の中で出てきたことであります。そんなことに怯えて何になるのでしょうか。そんな不安定なことに気を止めて何になるのでしょうか。 このように今与えられている幸いは、環境が変わることで失ってしまう程度のことであります。これは本当の幸せではないからであります。なぜかというと、環境が変わることで、その幸せは嘆きに変わってしまうということであります。嘆きが最終的に残ってしまうからであります。そんな不安定なものの中には幸いはないということです。 では同じように、自分の思い通りになる人生が幸いなのでしょうか。もちろんこれも違います。思い通りになったり、ならなかったりとこれもまた不安定であります。そしてすべてが、思い通りになる人生などもちろんあり得ないからであります。 ではどんな人生が幸いなのでしょうか。それは、今まで見てきたように、神様、イエス様の祝福が受けられる状態こそ幸せな人生なのであります。イエス様の祝福の中に生きる生き方こそ幸いなのだということです。 また、詩篇1篇に戻ります。 詩篇1:3
とあります。実は、水路のそばに私たちを植えてくださったのは、神様であるイエス様であります。私たちを豊かな場所に連れてきてくださり、植えてくださったのであります。これは私たちが好んで、自分たちで選んで、ここに植えられたのではないということです。主が備えてくださったということです。主からの大いなる恵みによって成されたことであります。 主が植えた者は、神様によって、いのちの水の基であるイエス様の中に植えられた者なのだと言えるのです。そしてさらに、私たちが実を結ぶのではありません。時が来ると実を結ぶと、みことばには書かれています。神様であるイエス様が、私たちの枝に実を結ぶという恵みを与えてくださるということです。これも最善の時を選び、そのようにしてくださるわけであります。 最後に詩篇119篇を読んで終わりにしたいと思います。 詩篇119:1-3
幸いなこととは、主のみおしえによって歩みつつ、主からの悟りをみことばや御霊の導きによって示されて、心を尽くして主に尋ね求める時に、主の道を歩むことができて、幸いなる人生が示されるということです。 共に主を賛美して、幸いをつかもうではありませんか。ありがとうございました。 |