良きサマリヤ人


片桐兄

(京都家庭集会、2004/07/03)

引用聖句:申命記30章19節
19私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

ここで、ふたつの道を主が用意されているとおっしゃっています。
これは、イエス様を信じていようがいまいか、私達の前には、たえず二つの道が置かれている。この考えてみるとふたつの道がたえず置かれているというとき、これはたいへん恐い話しだと思うのです。

たとえば、私達は今、信仰を与えられていると思っていますけども、たとえば目の前にあることが起きて、どっちに行こうと思って、こっちに行って、それが主の道と違っていたら、一歩道をはずすことになります。
次にまた問題が起きて選択を間違えると、また間違った道に歩む。それを繰り返すと、もう十回くらい間違えたら、自分は最初どこで踏み誤ったのかもうわからない。そのような者になっていく。

今信徒の諸教会って本があって、どのように単純に聖書だけを信じる信仰が、現代に至っているかって書いてあるのですけども、その本のなかで、今私たちが聞いた福音は、本当にまれな福音だと言うこと。
本当に多くの兄弟姉妹が命をかけて、この福音を伝えてきた。そして今、私たちにそれが受け継がれている。こともあろうに日本のはしっこに住んでる我々、しかも精神病の人格破綻の男がそれを持っているということは、非常に驚きました。

ところが、その信仰を持って歩む中で、ふたつの道の選択の踏み外しが起きるのですね。
たとえば幼児洗礼を受ける。赤ちゃんのときにイエス様につながれば、それで広がっていくじゃないか。一歩、道がはずれてしまいます。
我々がなぜ幼児洗礼をしないかというと、イエス様を受け入れるということは、はっきりと私達が、自分の罪を自覚的に知って、自発的に悔い改めて、自分が能力がなく、力がない者であることを認めたときに、私達は主を受け入れる。
そこが、主に問われているということです。ただ、数が多ければ良いということは主はおっしゃっておられないわけです。

そして、幼児洗礼をしたほうが良いというグループができてきて、我々のように、幼児洗礼はやはり違うんじゃないかというグループが出てくると、幼児洗礼をしてしまう人たちが、そういうグループの人たちを殺して行ってしまうのですね。

ありとあらゆること。たとえば、パン裂きの仕方が違うことでも、殺人にまで発展する。礼拝の仕方が違う、だから殺してしまう。
そういう歴史を思うとき、私達が当然のこととして許されている福音というものは、ほんとうに稀有なものだと教えられました。
私達はそのようにして、絶えず、どっちに行くのかということを尋ねられている。

コリント人への手紙第I、15:43-44
43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

卑しいものと栄光のもの。血肉のからだと御霊のからだ。これもどちらを選ぶのか。
私達は、確かに我侭な者として生まれ育ちました。自分中心の発想しか持てない者であります。
確かに、卑しい者として蒔かれてきました。
でも人生の途中で、福音に触れて、イエス様を受け入れるときに、自分の力によってではなく、十字架のみわざによって、栄光ある者に甦らされるという約束を頂いたのです。

わたしたちが栄光に甦らされるのは、私達が立派になった度合いによるのではない。
わたしたちは、行けども行けども、我侭で自己中心的であり、自分が快いことをされた時には喜びますが、ちょっと不快なことを言われたり、あのひとがそういうことを言っていたといううわさを聞いただけで、心を乱し自分の卑しい性質が現れてしまいます。

けれども、卑しい者にもかかわらず、イエス様の十字架のみわざは、私たちを栄光あるものに甦らされると書いてあります。
確かに私達は、自分が弱いということをみなどこかで知っているのではないかと思うのです。
ある方は、この世で自分は価値ある仕事をしているという誇りに満ちていましたが、実は、朝起きるのが恐い。実は自分は弱いということを認めることがその方もできたのではないかと思うのです。

しかし、もし彼が主を受け入れれば、こんなに我侭であってごめんなさいと祈るなら、主は主の力を持って、私たちを強い者に変えてくださる。
強い者というのは、自分が何か強い者になる、鉄腕アトムのようになるということではないと思います。
あいかわらず弱いまま。だけれども、主のイエス様の復活の力が、私たちを通して働く体験を持つようになるのだと思います。

ぴんとこなくても、私達が肉の体を捨て去って天に帰るときに、はっきりとわかるのだと思うのです。
天の御国にはいる力は自分にはないけれど、主の恵みの約束の通りに強い者に数えられて御国に入ることができるのです。

わたしたちはまた、44節にあったように、血肉の体で蒔かれました。
確かに私達は、母親の胎で10ヶ月して生まれ出て、血と肉でしかできていませんでした。
けれどもその私達は、イエス様の十字架の死と復活のみわざを通して、御霊に属する体に変えられるのです。

霊的な領域と肉的な領域の中で、わたしたちは肉的な領域に住んでいるわけでありますけど、霊的なものになり変わることが、ここで言われているのだと思います。
はじめに神が天と地を創造されたと、創世記の1章1節にありますけども、神様は天と地を創造された。
その天は目に見えない世界。地は目に見える世界。もっと言い方を変えれば、天は霊的な領域、地は肉的な領域です。

主なる神様は霊だと言われています。また天国も、霊的な領域に属するものであり、御使いも霊的な存在だと言われています。
一方、この地球が目に見える領域、地。その地に属する私たち。地に属する者がどんなにもがいても、霊的なものになり変わることは在り得ないのが聖書の原則であります。

もし、肉と霊が簡単に移行できるなら、簡単にわたしたちが神様になれると思います。
けれども自分の本当の惨めさを知れば、自分が絶対に神様のようにはなり得ないと、素直にうなずけるようになると思います。

けれども不思議なことに、イエス様を信じる者は肉の体を捨てて、霊の体に甦らされるとも書いてあります。
わたしたちの体は、10年、20年、40年、80年とどんどん痛んでいくわけですけども、痛んだ体が、ついに命を失うときに、わたしたちの霊と魂はイエス様の所に帰って、そこで霊に、御霊に属する体を与えられると約束されています。
全く想像を逸脱した想像できない事柄を、主は約束してくださっています。

けれども、それを信じる信じない、理解するしないとは別に、受け入れる受け入れないとは別に、主は、主ご自身の真理をわたしたちに語ってくださっています。
ふたつの道、どちらを選ぶのかと言うこと。

信じれないから、わからないから命を選ばない。それでは死に行き着いてしまいます。
しかし、主が提供くださっている命は、わからなくてもあるのだと聖書は告げています。
私達が幼子のようにそれを受け入れるならば、どんなに能力がなくても、だめでも、必ず永遠の御国に導かれるということが書いてあります。

わたしたちは、永遠の命を手にしたいと思うわけですけど、なかなかその方法がわからないわけであります。
私もそうでしたけど、イエス様に出会う前は、仏教徒と思い込んでいましたし、おばあちゃんと、毎月浅草の浅草寺の観音さまにお参りに行ってました。
でも、そのお寺に行っても、わたしがアルコール依存症になって悩んだときに、なんの助けにもならないことがわかりました。
わたしは、芸術を志していた男でしたが、アルコール依存症になって、本当に助けが必要な時に、芸術もなんの役にも立たないと知って愕然とした思いもありました。

宗教もだめ、文化もだめ、じゃ何にすがったら良いのだろう。自分の力なんだろうかと思いましたが、依存症という病気はそんなことを許さない。
本当に行き場所がなくなった時に、聖書に出会って、兄弟姉妹に出会って、イエス様に出会いました。

イエス様に出会ったときに、最初に、何か宗教と違うなと感じました。
何が違うんだろうかとずっと思いました。でも、「やっぱりあの人たちは、みんな宗教家だ。」と思いました。でも、その時、ふたつの道に私は立たされていたと思うのです。
兄弟たちが言うように、「信仰と宗教は違うよ。信仰の道だよ。」、そう言われた。でも、「いやー、やっぱり宗教だろう。」という疑いが心に湧きました。そのときに、どちらの道を選ぶのか。

私は、やっぱりあの人たちは宗教家だと思って、行かなくなったのです。
そのとき、私の妻である姉妹が、わたしが最初に受け入れたんですけど、友人に誘われて、毎日曜日、集会の礼拝に出たのです。礼拝から帰って来ると、すごく輝いてるんです。もう、びっくりしました。
妻の友人、その方と妻が二人帰って来ると、ものすごく輝いているのです。それと同時に、自分のうちにぜんぜん光がないとよくわかるのです。それが、何回も続いたのです。

そうしているうちに、わたしもやっぱりこれは本物かなと、集会にまた行ったんです。
その時、たまたま集会で葬儀がありました。もう葬儀の素晴らしさに圧巻されまして、圧倒されて、もうこれは間違いないなと、本当にその時以来、わたしは命の道に出会うことができ、主にある交わりと、喜びに満たされる体験を持つことができるようになりました。

そうしていくうちに、友人やいろんな方に福音が伝わっていったのですが、みなさんよくご存知のメッセージですが、ルカの福音書の10章になります。
宗教と信仰がどう違うかを、このみことばは、もう明確に示していると思っています。本当に何回読んでも感動する所なんですけども、

ルカの福音書10:25-37
25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

これが有名な良きサマリヤ人のたとえです。当時ユダヤ人たちは、サマリヤ人をたいへん軽蔑したのです。同じユダヤ人なんですけど、ローマ帝国の政策でサマリヤのほうは混血がすすみまして、純血を旨とするユダヤ人たちからは非常に穢れた人々だと、非常にさげすんで言葉すらかけなかたそうです。

永遠の命を得るための重要なたとえなのだと言えると思います。
ユダヤ人が旅をしていて、泥棒に殴りつけられ、半殺しの目にあって倒れていた。すると、ユダヤ人の神に仕える祭司が通りかかるわけです。
見てみぬ振りをしてそこを通り過ぎて行ったわけです。またその後に、レビ人という神に仕える人が来たと書いてありますけども、その人たちも、彼を見ると反対側を通り過ぎてみて見ぬ振りをして通り過ぎて行ったのです。

ところがこともあろうに、ユダヤ人に馬鹿にされていたサマリヤ人がそこを通り過ぎて、自分たちを馬鹿にしているユダヤ人をかわいそうに思って、傷にオリーブ油とぶそう酒を注いで包帯をしてやって、宿屋に連れて行ったと言うのです。
なおかつ翌朝、デナリ二つを出して、宿屋の主人に介抱してくれるように頼んで、もしもっと費用がかかるなら、もっと払うからと出て行ったと言うのです。

デナリふたつを渡した。1デナリは、一日に家族がひとつ暮らせることのできるお金だそうです。二日分のお金を宿屋の主人に渡したそうです。
すると律法学者は、この中で、憐れみをかけてやったそのサマリヤ人が良いことをしたんだと言ったわけであります。
そしたら、イエス様がそのようにしなさいと、おっしゃったわけであります。

これをさらりと読むと、私達はイエス様によって、罪赦され天の御国まで与えられちゃって、ダメなのに、弱いのに、強い者にされて、聖い者にされて、そのような特権に預かったのだから、私たちも主に愛されて、永遠の命を得るためには、やはり良きサマリヤ人のように、ならなければならないと思うわけであります。
けれども実は、それは、必ずしもイエス様が望んでおられる態度ではないということがわかるわけであります。

ここの読み方をちょっと変えると、全然違うたとえになるわけです。
天の御国に入るために、ふたつの違う命の道を選ぶ者は、どういう人かと言うと、自分が旅の途中で、泥棒に遭って、身包み剥がされて、殴りつけられて、血まみれになって、道に倒れている、その旅人こそ自分であるという態度であります。
もし、自分が、そのような者であるということに気づく人は、自分が馬鹿にしていたサマリヤ人が、イエス様であるということに素直に行き着けるわけであります。

つまり私が、良きサマリヤ人として良い行いをする人なのか、何もできずに道端に倒れた、人生の途上にそのようになってしまった者であり、そこに倒れている者かということで、大きくこの話は変わるわけであります。
イエス様は、広い門から入るのではなくて、狭い門から入りなさい。広い門から入る者はあまりにも多いのですとおっしゃいました。
この世の人間のほとんどは、このお話しを聞くと「私も良きサマリヤ人のようになろう。」、「いやいや、私はその十分の一くらい良きサマリヤ人だ。」と豪語する者だと思うのです。
けれども、ほとんどの人間がいうことのない態度は、「わたしは、道に倒れていた旅人と同じです。」という態度です。

こういう態度をとる人が、ほとんどいないということではないかと思います。
つまり、ここに二つの道、似ているようで全く違う二つの道があります、分岐点があります。
わたしたちはどんなに神様を拝んでも、どんなに良い行いに頼ろうとしても、それが自分の高ぶりにすぎなければ、何の意味もない。

私達は、何もできない自分であることを認められた時に、主は、どれほど私たちを愛して、この良きサマリヤ人のように、どれほど良くしてくださったかを、わかる人生が与えられ始めるわけであります。
本当に、良きサマリヤ人。神様にしかできないことを、私がやろうとすることほど、人間の高慢はないと思います。
このことを最初に教えてくださった兄弟は、これこそ「宗教」の態度だと教えてくださったのです。

宗教家と言うのは、自分で何かができると思い込んでいる人たちです。
けれども信仰者とは、自分は何もできないと正直に認める人です。ここに大きな違いがあるということであります。

この世の中には、聖書を信じてる、イエス様を信じてるたくさんの人たちがいると思います。
実はその多くの人たちが、わたしは良きサマリヤ人のようであろうとしているわけであります。
けれども私達が、執拗にキリスト「教」と違うという理由は、私達は、宗教家であるよりは、信仰者でありたい。つまり、道に倒れているのは、自分だと正直に言える人になりたいということであります。

道に倒れているのは自分であると正直に言えたときに、イエス様の力を、私達は求める人になるわけです。
言い方を替えれば、イエス様を愛する人になるし、イエス様に祈る人になるわけであります。
自分の考えが全くあてにならないので、聖書の御言葉に頼る人になるわけであります。

そして、その結果として、先ほど申命記でお読みした二つの道、死の道と、命の道。のろいの道と、祝福の道。自分がどちらの道を歩むかが、わかってくるわけであります。

エゼキエル書16:6
6わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ。』と言った。

このようにして主は、私たちに呼びかけておられるわけであります。
主が私達のそばを通りかかった時に、実は、自分が血眼でもがいている。そのような者にすぎなかったと主は記しています。

血に染まっている、あなたに生きよと声をかけられた。繰り返し、生きよとおっしゃってくださいました。
先ほどの良きサマリヤ人のたとえでもわかるように、私達は、やはりそのような者として、聖書では示されている存在だということではないかと思います。

しかし、自分が本当に無力であって、むなしい者だということを言った時に、私達は、むなしくならないというのが不思議なことであります。
そのような態度をとって、主の前に静まったときに、主は、私たちに本当に復活の力をもって導いてくださる方だと、体験するわけであります。

ヨハネの福音書19:15-30
15彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
16そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
17彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
18彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
20それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
21そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
23さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
24そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
25兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

長く読みましたが、今、私達がふたつの道の前に立たされている時に喜びを得たいのか、恥を得たいのか。朝の起きる不安の中にいたいのか、それとも問題は解決されないけれども、問題に支配されることのない、解放された人生を生きたいのか、たえず迫られているわけであります。

救われるために、イエス・キリストの名以外に人間には与えられていないというみことばもあります。
主の十字架の死の本当の意味は、深く、なかなか私たちには全部をわかりませんけれども、多くの証人たちの事実、この十字架を信じ、悔い改めて受け入れる歩みを始める中で、主の喜びと、主の聖さと、永遠の御国が保証されているという体験を確かなものとして歩みつつ、天にひとりづつつゴールインしていると思います。

私達は、何がどうであるから、イエス様を受け入れるというよりは、本当に、そのようにして主を受けいれた一人一人を、問題のなかでも、イエス様にあって、解放をもって、主の聖める力をもって、自分の弱さを告白しつつ生きることができるのは、本当に主の恵みだと思います

どうも、ありがとうございました。




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