白石兄メッセージ ☆「今年も生きていけ」 昨年診た多くの患者さんがすでにこの一年で、この地上にいなくなってる。この一年で救われた人たちもいる。 私たちはまだ、この地上にいなければならない。主から「今年も生きていけ」と言われている気持ち。 今まで、すさまじい苦しい思いはなかったかもしれないが、自分がどんなにおそろしい歩みをしているか... 出エジプトの40年と一緒では...?と思う。 ☆生きよ 人は炭素、水素、窒素でできている。鼻に息をふきこまれ、生きるものとなった。他の動物と違い、「たましい」が与えられた。 主は人が死なないため、園の善悪の木の実を食べないよう言った。死なないでほしい。という主の願い。 みことば「わたしはだれが死ぬのも喜ばないからだ。だから、悔い改めて生きよ。」 主は復活された。私たちも同じく復活する。これは事実。救われてるたましいは完全なかたちでよみがえる。 ☆祈ること どんな人でも、祈られてるということが大切。とりなしされてる祈りは、主はきかれてる。たとえ、みことばが伝えられなくても、救われるよう祈ること。 集会の姉妹の周りの患者さんが、次々と救われていくのをそばで見、体験した。人の思いや知恵では、ありえない。 ・Aさん 救われて翌々日召された。ご家族が喜んで主をほめたたえた。 ・Bさん (胃の静脈瘤、さらに乳がんなど癌が合併されてる方。)喜んでみことばを受け入れていた。 ・Cさん (アルコールを止めたけれど、腹水がたまった方。)救われ、喜んで「人生が変わった思い」と今も元気に通院している。 ・Dさん (中学の女教頭先生。休めない。学校は休みたくない。)ある姉妹との関係のある方だった。召される一週間前、一緒に祈れた。ベックさんとの交わりが与えられた。 病院という所は、この世の命をいかに助けていくかの場なので、主に頼って祈るということは難しい。 今回、姉妹を通して働かれたことを見、人の計画にのった救いではなく、すべて主がなさった救いを、体験できた。主は生きておられる。 ☆主は永遠に生きておられる。 その主が私たちと一緒に永遠に生きたい、と言われてる。生きるほうを選ぶこと。与えられたものを大切に使っていくこと。 私たちの置かれてるところは、神様の与えてくださった特別な場所。(病院という特殊な場だけでなく、会社も家庭もどこでも…) 今、祈れることがうれしい。 サタンは、大手をふるって働いてる。でも、主は、はるかにそれを超えて大きく働かれてる!それを知り、喜べる恵みを私たちは、いただいている。 蘇畑兄メッセージ ☆「ただより高いものはない」 代価を払わなくてはならないものについて、ただでいただける場合、何か特別な意味がある、はず。 うまい話で人を釣ろうとする話は多い。職場の大学にも電話がときどき来る。「金を買わないか。」…(^^; この世は、うまい話にだまされた人たちがたくさんいる。すすめる人に言いたい。「そんなうまい話なら、あんた入りなさいよ。」と。 ☆福音は「ただ」 福音はくりかえし「ただ」という。これほど高いものはない。みことば ヨハネの黙示録22:17
受け入れるか拒むかしかできない。もらう以外に救われることはできない。心から感謝して受け取る以外にありえない。 ☆「ただの救い」は高い! この世のペテン師の要求は、金と富。 イエス様が求めているものは、私たち自身、全人生、全生涯。私たちが差し出すのをずるずると、あとにひこうとしても、イエス様はあきらめない。 ルカの福音書14:26-27、33
…このような要求に応えられるか? テサロニケ人への手紙第I、2:3-5
パウロは、人の心にとり入ろうとして福音を伝えることをしなかった。真理を真理として伝えていた。それが人の心に痛いものであろうと、語った。 聖書の言葉は、私たちにとって都合の悪いことばかり書かれている。それをまっすぐに語ってくださる。私たちは、そのみことばの前に立って、「そうです。その通りです。」と言わざるをえない。みことばは私たちの心を刺す。 そうでなく、気持ちのいいところだけ読んでいては読み方が違う。 ☆イエス様の要求に応じよう 主は木にかかった。呪いとして死なれた。主はご自分を捨てた。だから、私たち自身を要求してくる。神の祝福と栄光を現わすために…。 イエス様ご自身が、私たちの上に満ち満ちる必要性がある。 自分の人生に期待を抱くとイエス様の要求に心から応じることができない。躊躇する。これは若い人がなかなか受け入れられない理由ではないか? 病院で、死を間近にひかえた方々は躊躇しないで受け入れる。。。。 自分の人生とひきかえに、主が死んでくださった。 若いときにはっきり受けとることは大切。しかし、主の恵みによらなければどうしようもない。 パウロは、イエス様に飛びついて終生離さない人だった。 ガラテヤ人への手紙2:20
自分の救われた意味を思いなおし、小さい者だけれど、力を尽くして行きたいと思う。 染野兄メッセージ ☆「ルツ」との再会 今年は、うまどし。20年前ベックさんとはじめて話したとき、「いくつか?」と聞かれた。「40才」と答えると「うまどしだねぇ、ぼくもうまどしだよ。ひとまわりちがうねぇ。」と言われた。なんとけったいなドイツ人と思った。 15〜16歳のころ不良少年だった。競馬が好きで夢中になった雌馬がいた。名前は「ルツ」。ルツも哀しき運命をたどったと思う。。。 しかし、ルツとは再び出会うことになった。アル中末期中毒のとき、妻がくれた聖書の中で。箇所はマタイの福音書。イエス様の系図の中にルツがいた。 故三浦綾子姉がその「新約聖書入門」(?)で、「マタイの福音書のイエス様の系図をたいくつしないで読める人がいたらあってみたい。そういう人がいたら手紙が欲しいくらい。」(?)ということを書いてるが、僕は本当にこの系図がおもしろかった。たいくつしなかった。他の馬「ソロモン」の名もその中に見つけたから。 ☆「マラナタ・主よ、来てください。」 初代教会の人々のあいさつはおめでとう、おはよう、こんにちは、こんばんは、などではなく、「マラナタ」、ギリシア語で「主よ、来てください。」 日々、この祈りにも似ているあいさつが交わされ、2000年の時が経っている。主を受け入れ救われた人は一瞬にして天にひきあげられる。と約束されている。しかし、まだ来ていない。 ヨハネの黙示録22:7、12、20
人々の祈りにも似たあいさつ、主のお約束、そして私たちの「来て欲しい」という心からの願い、にもかかわらず、まだ来ない。 ☆いつ来られるか ペテロの手紙第II、3:8-10
主と私たちは、時間の観念が全く違っている。 もう一つ。主が来られるには、「救われる人の一定の数の満たし」が必要である。 ヨハネの福音書14:1-3
備えられた場所はあるのに、住むべき者の数が足りない。 ある兄弟のお母様は、吉祥寺のたくさんの人を見てベック兄に「もうじゅうぶんじゃないの?あなたのおかげでこんなにたくさん救われてる」(だったかな?)と言ったそうです。 ベック兄は、答えて「おばあさんが、まだ一人足りないよ。」と言ったそうです。(^^) みことば 使徒の働き1:8
すべての人に伝わってから、イエス様は来られる。 ☆今後について。また私たちの使命・責任 アメリカのブッシュ大統領は、クリスチャン。ニューヨーク市長は、ユダヤ教。 ビン・ラディンは「この戦いは、アメリカがイスラエルを支援してる限り続く」と言っている。アメリカをおそったテロは、これから、宗教戦争の側面を露骨に見せる。アラブ国家も別の出方をしてくるはず。 エゼキエル書38:1〜8(読んでください。^^) ゴメルはソ連。再建ソ連が、イスラエルに攻め上る。その前に主が来る。来年は、エゼキエルの預言どおりに間違いなく成る。 主はこの終わりの日の直前に来る。私たちの使命と責任は大きい。救われるべき者の数が満ちていない。 使徒の働き1:8-11
私たちは私たちの周りの人のため、今年は必死に祈っていかなければならない。 辻田兄メッセージ ☆近況 退職して、今は大半自宅にいる。この一年、集会に行ったりキャンプに行ったりと、退屈せずにあっという間に過ぎたという感想。 会社勤めの頃は、みことばじっくりが後回しになっていたけれど、この一年はじっくりみことばを味わい、妻とそれについて語り合い、祈り合うことができた。分厚い聖書も、意外と読み進むものだ、と実感している。。。 ☆たいせつなこと マルコの福音書12:29-31
全身全霊を持って愛すること。。。でも、目に見えない神さまをどうして愛せるの? ☆目に見えない神さまを愛する ヨハネの手紙第I、4:12
ヨハネの福音書14:8-10
ヨハネの福音書14:23
ここでわかることは、父なる神とイエス・キリストは一つであるということ。神さまを知りたい人はイエス様を知るといい。イエス様を愛する人は父なる神さまを愛していることになる。 人間同士でも、愛する人がいると人は「その人を喜ばせたい」と、思うものである。 ☆お話「くつやのマルチン」 子どもと日曜学校で見たことがある映画。トルストイの「愛があるところには神がある」のお話。 …おおまかに内容を話されました。… マルチンが引用してるみことばは、マタイの福音書25:35-36、40…読んでください(^^)… マルチンは喜びます。「夢はうそではなかった。主イエス様は、私のところに来ていたのだ!」、マルチンは知らずに主を招いていたのである、というお話。 私たちはあいかわらず失敗し、罪人であるけれど、イエス様を喜ばせたい、と思う。自分と関わる人々に、神さまの愛を現わしていけたらうれしい。 ☆みことば ヨハネの手紙第I、4:20-21
コリント人への手紙第II、13:4
でん兄メッセージ ☆永遠の主イエス様 福音を伝えるとか、伝道してるとか、よく言うけれど、そうじゃないと言いたい。主は、不思議なことを成されるお方。 移り行く世のマスコミに乗らないこと。私たちには、永遠に変わらないイエス様がいらっしゃる。永遠の方を思うとき、人知をはるかに超えた神の愛を知ると思う。 ☆妻・やす姉妹のこと 手術は非常に難しい。談話室で、主治医と話した。やす姉は、「家族だけ知ってて私が知らないことはないか」と聞き、ないと知ってほっとされた様子。 主治医は兄弟。兄弟は本当にいい。話しの後、祈ってくださった。 病室に帰ると、同室の方々がみなやす姉の結果を正座されて待っていた。「正真正銘の癌です。」と言うと、みな倒れそうになってしまった。やす姉はニコニコしていた。主が働かれていた。 「癌と知っているけど、癌という意識がない。だから、癌顔にならないのねぇ。」と言っていた。 どうってことない。自分にはどうすることもできない。おまかせするしかない。という立場をとると、楽になる。 でも、ときおり、不安そうなときには、こう言うしかない。 「心配するな。神さまが、いいようにしてくださるから。」 先のことはわからない。抗癌剤などで髪が少し薄くなったことを気にしはじめ止まらない。姉妹はすごい。 命のことより髪の毛のことを心配する。その時は、「大丈夫。僕とくらべてみなさい。」と話した。(^^) 同室の方々が次々導かれて行くのを見、やす姉は言う。「私は何もしなかったのよ。神さまがやってくださったと後でわかるだけなのよ。」 士師記13:17-19
☆神さまの名は「不思議」。 よく「不思議なことねぇ」と言う。今は、「偶然」という言葉にすりかえられている。「不思議」とは…「思議」=「詮議」=「人が論議し、物事を定めること」そうじゃない、ということ。 「もとで要らずのボロ儲け」、という言葉がある。それに加えたい。「もとで要らずのボロ儲け、儲けはすべて主のものだ。」 神さまによって削り取られると、自分には、何も残らない。しかし、主にいただいたものは残る。 イザヤ書9:6
…不思議な助言者。助言をしてくださるお方。助けてくださるお方。 ☆すべて支配してくださるお方 生まれっぱなしの、罪だらけの人間を選んでくださった。ただ私たちが、主を恐れあがめ、ごめんなさい、をしただけ。 この世の弱い者や、貧しい者を選んでくださった。この世で力ある者ではない。 馬の話題が出たが、家にも貧馬がいる。メスの馬です。家で待ってます。「馬」ではなくて、おばあさんの貧「婆」…です。(^^; 詩篇139:6
私たちは、及びもつかない。はかり知れない。ですから、へりくだるしかない。 小さく、貧しく、弱い者だけど、イエス様がいっしょにいるから、安心できる。平安なときを過ごすことができる。 ある姉妹から、「おみくじのようで申し訳ないけど」とみことばカードがいっぱい入ったパンの置物をもらった。ふたりで引いてみた。そのみことばを一つ。 ルカの福音書16:10
イエス様のところにいて、永遠の人生をもらった。本当の意味を持った人生をもらった。 身の周りの小さな事も、世界的な大きな事も、主のご支配の中。 主を恐れ歩むとき、イエス様ご自身がご栄光を現わしてくださる。私たちではない! 実感がないという人がいる。でも、「イエス様、どうしたらいいでしょうか。」と祈り続けて行ければ、与えられてくる。 同室の退院される方が、正座して話してくださった。 「やすさんのくださったもの(あかしの本、リンデの本、みことばの額)は、私は宝物にして大事にしている。でも、家に帰ると(信じてることを)言えないと思う。これでも、いいんでしょうか?」と。この人の信仰こそすばらしい、と思った。 僕は答えた。「心配いらないよ。ご主人のこと祈れるでしょ?朝起きて、おふとんの中とかでも、『今日もよろしくお願いします。主人のこと、よろしくお願いします。』寝るときも『今日も一日ありがとうございました。わがままをごめんなさい。』って、そっと祈ることできるでしょ?」 彼女の顔は、うれしそうに輝いた。 全部を支配してくださるイエス様に希望がある。 |