司会:染野兄 …結局どういうことかというと、私たちは「今年こそ、イエス様、来てください」と祈るべきです。 先ほど、兄弟のお祈りの中で「世の中は、もうあなたのご再臨の兆候で満ちている」と言いました。主は、ご自身は、もう来たくて来たくてしょうがない。 しかし去年1年間、私たちの祈りにもかかわらず、主の再臨はありませんでした。大きな理由の一つは、私たちが主を愛さなかったからです。主を愛することに弱く、貧しかったからであります。 昨日の午後、それは私の痛みになりました。「主に来てほしい」という祈りの前に、どれだけ私たちが主を愛することができるのかということが、今年問われる大きな主の側の問題ではないかと思います。 私に与えられたみことばは、 コリント人への手紙第I、16:13-14
このみことばを、今日ここに来るまでに与えられました。一つ一つの中身とは、やはり「主を愛すること」ではないかと思います。 「目を覚ましていなさい」「堅く信仰に立ちなさい」「男らしく、強くありなさい」「いっさいのことを愛をもって行ないなさい」。 「マラナタ(主よ来てください)」という挨拶・祈りの前に、主は「わたしを愛するか」と問うているのではないかと、新しい年の初めに思った次第であります。 池田兄メッセージ ゼカリヤ書10:2
要するに偶像です。 ゼカリヤ書10:2
これは、紀元前だいたい500年くらい前に、ゼカリヤがもうすでに書かれてるんです。私たち人間が、こういうことを通してイエス様のところに行くということが、またイエス様の前にへりくだるということが、どんなに素晴らしいことか、このことをちょっと、去年いろんなことがありましたんですけれど、一つだけ取り上げて、ご一緒に考えてみたいと思うんです。 われわれ日本のことを考える大勢の人がいて、そしてその人たちが、これから日本はどうしたらいいんだろうということで、「21世紀日本の構想」というのを、言うなれば学識経験者が集まっていろいろ考えたのが、新聞に出てました。 そして、最終的には『心のノート』として、小・中、高校はどうか知りませんけれど配るんですね。その時に、有名な臨床医学者が書かれた新聞記事の一部なんですけれども、「今の状況というのは、金さえあれば幸福だ。そして、道徳論議を高めるのには、今が一番大事な時だ。そして個人に責任を持ちなさい」 つまり自己責任があるんだと、そういうことを考えたらどうだろう、そして、「西洋の神の概念のない日本では、これらがどうなるんだろう」というのがテーマなんですね。ここでは「個の確立と新しい公の自分を創造すること」がテーマだそうです。 そして、その考え方がある程度まとまってきたので、これを欧米諸国あちらこちらに行って、意見を聞いた。そしたら、その返事が「個の確立というのは、つまり一人一人が自分の責任を持って、そして社会の中で生きていく」というわけです。 ところで、今、夜中にちょっとやってます「映像の世紀」ですか、あれが、ずっと明治の時代からやってるのをちょっと見ますと、その中で言われてるのが「戦後、日本の教育というのは、全く画一化された教育で、『同じように考えて、同じようにものを造る。生産ラインが止まらなきゃいいんだ』という程度の教育じゃなかったか」ということを、ある欧米の指揮者が言っておりました。 その人たちは、「個人の確立は、近代ヨーロッパから出てきた考えで、背景にキリスト教がある」、つまり「背景に聖書がある」んです。 「神」と「個人」の関係だから、「個人」という概念を導きやすい。つまり自分とイエス様との関係だから、「あなたはどうなんですか」、主から問われるんですね。 「あぁ、こうでした。本当に駄目でした。申し訳ありません」と言える、それから「イエス様、来てください」と言える一つの局面があります。 このようにして、「日本人というのは、こういった『神様』のバックグラウンドがない。はたして個人が確立できるでしょうか」と指摘されたとあります。 また一方では、「ヨーロッパでは、個人で生きていくために『神』がいて、それをもとにした『家庭』がある」、こう言ってます。 「日本はかつて、家庭で道徳を教えていたが、物が豊かになって『物を大切にせよ』という教え方もできなくなってしまった」、なんか全然、矮小化されてるんですね。「物を大切にしましょう」という教えができなくなっちゃったから、全部駄目になっちゃったみたいな。 ですから、「神様がいない上に、頼りとするべき家庭も崩壊しちゃって、どうしたらいいんだろう」というのが、今の日本の現状です。「だから、学校で教えてくれ」と、こういうのが、どうも『心のノート』の結論みたいなんですね。 そりゃ、学校の先生も大変です。今日も、こちらに大勢兄弟方がいらっしゃいますけれども。ですから、難しいのはその内容なんですね。これは、聖書を知ってる人たちだったら、「神様が言った」、その一言なんです。 「主は、こうおっしゃってる。『人を殺してはいけない』」、「なぜか戦争で、どんどん殺してるじゃないの!」って若いのが言いますけれども、それもいけないんですね。 欧米では、信仰上の理由で戦争に行きたくないということを、はっきり言えば、それなりに社会奉仕をさせられて兵役は免除されるという制度もあります。日本はそういうところが本当に辛いところで、「西洋では神様の概念があるけれども、日本にはそれがない。しかし、道徳を放置しておけば、日本は大変困難になる」 今、この世がまさにそれなんですね。しかし主のなさることは、全部それが含まれております。エペソ人への手紙の1章の4節で次のように言われてます。 エペソ人への手紙1:4
つまり、誰もいない時から私たちを エペソ人への手紙1:4-5
これが、日本人全部に与えられている、神様の言葉なんですね。「御心のままに、ご愛をもって」と言われてます。そして、そのことについて様々な曲折を経ながら、イエス様のところへ行った人はどうなるかと言うと、「永遠のいのち」をいただくんですね。 罪から来る報酬は死です。 その「死」の中だけにしかいなかった者が、イエス様を知って初めて、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 この「いのち」こそが、私たちにとってまことのいのちです。イエス様ご自身が、その「いのち」と言われてます。ですから、イエス様のところに行って初めて、全く知らなかった「新しいいのち」があるんだ、ということを知った時は、本当に目からうろこが落ちたんです。 そして、「その『新しいいのち』は、どこにあるのでしょうか」と、馬鹿なことを聞いたことがあるんですね。そしたら、「イエス様です」と、こうおっしゃられました。 よく分からなかったんです。でも、とにかく来て、決して悪い雰囲気じゃないからと思って、ずっと来てました。「永遠のいのち」を歩むのか、それとも今、この世で、いろんな所に初詣に行って「偶像」を拝んで歩むのか、もう言わずと知れて答えは分かってると思うんです。 その対極には「死」があり、片一方には、「まことのいのち」「永遠のいのち」があります。 ですから、私たちは、今いろんなことが世の中で起きます。そしてそれを見ると、やはり辛いし、悲しいし、そして、「なんでこんなことをやるんだろう」という思いが、どうしてもわいてきます。 でもその根本に、心の一番深いところに、それでも平安をいただいてるんですね。この世の人は。ですから、やむを得ず対症療法しか考えないんです。考えられないんです。 ですから、そこに巻き込まれている小さな子どもたちが、一番可哀想です。 私たちが、本当に心から、自分自身が平安でいさえすれば、まず周りの人が不思議に思うんじゃないでしょうか。 そして私たちは、イエス様にあって、イエス様のその愛の中で、自分一人じゃできない。だから「お互いに一致して、愛し合いなさい」 先ほども、来る途中で「あっ」と、集会の姉妹に会うと、顔を見るとほっとするんですね。それから、電車の中で思わず、不思議なことに兄弟とばったり会うんですね。するとまた、ほっとするんです。 この「ほっとする」ということは、そこに「いのち」が働いてるんですね。ところが、ほかの知らない方だとどうしても何かこう、肩をはります。 でも、どうでしょうか。私たちは、集会の兄弟姉妹たちだけじゃなくて、この世で触れ合うあらゆる人に、言葉じゃなくて、なにか雰囲気で「ありがとうございます」っていうことを、今年一年言いながら過ごせたら、本当にいいじゃないかな。 それでも、世の中はどんどん変わってくと思うんですね。しかし、私たちにはイエス様がいらっしゃる。もうじき来てくださる。それを待てる、自分たちの特権があるということを覚える時、本当に嬉しいじゃないかと思います。 一箇所読んで終わりたいと思いますけれども、 詩篇100:1-5
古田稔兄メッセージ ヨハネの福音書1:16
当然「この方」というのは、イエス様のことでありますけれども、その続いて17節には、 ヨハネの福音書1:17
私たち、この世の虚しさの中に、かつては埋没して、この世のものが一番大事だという形で生きていた者でありますけれども、そういうものが全部取り去られて、今度はイエス様の豊かさの中に入れられて、平安と喜びと希望を十分にいただいて、そして、おまけにイエス様の聖霊ってものに満たされてですね、私たちは今生かされている幸いな者なんですね。 よく未信者の方に、「信仰を持つと」という話しを、時々させていただきますけれども、みなさんおっしゃるのは、「信仰を持つと、あれもこれも取られてしまうんではないか、喜びがなくなるんじゃないか」というようなことをおっしゃるんですけれども、全然逆なんです。 イエス様とおっしゃる方は、「豊かさ」と言いますか、いろんなすべてのものを持っておられる方で、私たちが必要とするものは何でも、もう手一杯与えてくださる方であるんだというふうなお話をするんですけれども。 信仰を持つと、本当にいろんなものが、ただで与えられるというところが、日本のご利益信仰に慣れた人には失徳する一つの言葉になるんじゃないかというふうに思うんですね。 詩篇81:10-11
かつてのイスラエルの民がエジプトにあった時には、奴隷であったわけであります。ちょうど私たちが、この世にあった時には、この世のものの奴隷であったのと同じように、そういう状況にあったイスラエルの民に、主はこういうふうに語ったわけでありますけれども、人々はそれに従わなかった。 現代の日本と言わず、世界の大勢の人たちが、やっぱり主の招きにあいながらも、なかなか主に従わないという状況にあるわけでありますけれども、私たちが以前から望んで希望していることは、イエス様との再会であるわけであります。 私たちは、イエス様からいのちの御霊をいただいて、今か今かと、イエス様がご再臨くださるのをずっと待っているわけでありますけれども、 ルカの福音書17:26-29
まさしく、このノアの時代とロトの時代と現代とが、重なってくる状況にあるのではないかというふうに、思わされる日々なんですね。聖書を読んでらっしゃる方は、お分かりかと思うんですけども、このロトについて、創世記の19章から見てみたいと思います。 創世記19:15-19
創世記19:26
有名なロトの妻のところであります。先ほどのルカの福音書の17章の32〜33節に戻りますけれども、イエス様は、このロトの妻のことをこういうふうにおっしゃっています。 ルカの福音書17:32-33
結局ロトの妻が、今まで自分が住んでいた家、その中に置いてきた自分の財産、自分が大切にしていたものがいっぱいあっただろうと思うんですけど、そういうものを全部置いて、町から逃げ出してきた。 その時に、途中まで逃げてきて、「振りかえってはならない」と言われていたにもかかわらず、振りかえってしまって、塩の柱になってしまったという、有名なストーリーでありますけれども、この世のものに対する未練というものを、本当に私たちは完全に捨て去ってしまう必要があるんだということを、このロトの妻の話から私たちは教えられるわけです。 まもなくご再臨が来るでしょうけれども、その準備として、私たちも、やはりこの世のものに対する未練というものを、捨て去っておく必要がある。さもないと、空中の途中で、振りかえったりすると落とされてしまう可能性もあるんじゃないかと思うんですね。 マタイの福音書10:38-39
このみことばの中に「いのち」という言葉がいくつか出てきますけれども、「自分の十字架」とは何かと言いますと、私たちの「自我の死」、「自我を殺すということ」、「十字架にかけて、自分の自我を死に明け渡す」、つまり「自我というものを放棄する」という、そこから私たちの信仰が、実はスタートするわけであります けれども、「自分のいのちを自分のものとした者」、すなわち、「自我を生かす者」は、本当の「真のいのち」というものを自分のものにすることはできないんだ、ということなんですね。 「真のいのち」というのは、聖霊によって与えられる「いのち」であります。ですから、マタイの福音書16章の24〜26節でも、このようにイエス様はおっしゃってるんですね。 マタイの福音書16:24-26
この世のものにとらわれることなく、自分という自我を捨て去って、そして初めて、イエス様の聖霊が私たちの心のたましいの中で、自由に私たちを支配することができるようになるわけですね。 私たちの自我とは、自分の考えであったり、予定であったり、計画であったり、感情であったり、ありとあらゆる自分から出てくるもの、わがまま、自己主張そういうものが、私たちの人生の生涯のすべてと言えるのではないかと思うんですね。 コリント人への手紙第II、5:15
と。私たちの生き方、信仰をいただいている者の生き方としては、こういうことなんだということを、パウロは教えてくれているわけであります。 自分のために生きるのではなくって、死んでよみがえった方、イエス様のために、これから私たちは生きる必要がある。 ペテロの手紙第I、4:1-2
パウロのローマ人への手紙、14章7〜8節。このみことばを、今年の課題にさせていただきたいなというふうに思っております。 ローマ人への手紙14:7-8
「主のために、今年一年が使えることができれば」というのが、これからの祈りの課題としていただいたみことばであります。 ありがとうございました。 白石兄メッセージ 夜空を見るたびに思うことは、「この星は、何億年前の光かな」とか、「何万年前の光かな」と思うんです。今、私たちが与えられた科学という力によって、宇宙の誕生は150億年前ではないかというふうに推測されています。これもまた、私たちの知らない、人知を超えたことですから、天地の創造はいつからか分かりません。 でも、いくら計算しても150億年以上前になるだろうと。ところが、人類はどのくらい前からできたかというと、誕生したのは、だいたい10万年ほど前だろうと言われています。億と万で、またこれで桁が変わります。 また、それを考えてると、私たちの人生は、せいぜい100年ということは、神様が天地を創造されて、私たちの地球ができて、人類が発祥して、私たちが生まれて、今この中にある。そして、このちっぽけな私たち一人一人が、なんでこんなに愛されるんだろうという、疑問と言ってはいけないのかもしれないけれど、本当に不思議な状況に、私たちはあるんではないかと思うんです。 ちょうど今、聖書の中にメモが入っていて、2001年の1月1日の元旦メッセージで兄弟が言ったことをメモしてあったんですけれども、「主の御名は不思議」 士師記13章17節。「いわゆる『不思議』、人の思いであらず」と、そういうみことばが言われてることをメモしてあるんですが、全く、私たちが地上で、何のために、このちっぽけな存在でありながら生きているのか、それがなぜかというのが、実に不思議かもしれないんですけれども、その私たちの予想を超えた主のご計画が、私たちに与えられているという確信にもつながると思います。 いわゆる、こんな者でも主は愛してくださると思っていたら、実は、私たちは主にとって最も大切な存在である、いわゆる宇宙すべてが創造された、最も頂点に人を置きたいと。 主とともに一緒にいたいという、その希望のうちに、その願いのうちに、主は私たちを愛してくださる。もしかしたら、確信のうちに私たちを愛してくださっているのではないか、というふうに思うんです。 天地創造の最後、天地創造の冠を与えられた私たち一人一人の存在ではないか。ということは、本当に私たちが、この世で生きるということは、100年、もしくは何十年、もっと短いかもしれない。それが、主にとってご計画である内容は、その150億年を超えた、凝縮された内容であるはずです。 それは、私たちにはとうてい分かりません。ただ、主から見れば、一人一人のこの地上における人生は、計り知れない時間をはるかに超えている、というふうに思わざるを得ない。 もうすべて、聖書に書かれ、そして聖書を通して私たちがその人生を歩んで行けばいいんだ、というふうに思います。 与えられたみことばは、ヨハネの福音書の6章27節からお読みいたします。 ヨハネの福音書6:27-29
このみことばを、今年の最初のみことばとして与えられました。神は、私たちが信じること、それだけでいい。それによって、その150億年を超えた、最も素晴らしい神のみわざを、私たちが受け継ぐことができることを、ここで言ってくださっています。 私たちが与えられた神のみわざ、そして、私たちがそれを行なっていくこと、それが本当に私たちにとって、いかに喜びであるか、人によっては苦痛の時もある、人によっては本当に悲しい時もある、時にまた喜びと変わる。すべてが、主が成してくださってるわざだということを、その時々に感じることが、体験することが、知ることができるようになりました。 昨年も、何人かの兄弟姉妹が召されましたが、いつ、主によってOKが出るか分かりません。あとの者が先になる可能性もいくらでもあるわけです。年齢なんて関係ない。私たちが、主によてよしとされる時に、はじめて主が天に上げてくださるわけですが、その瞬間までの道のりが、本当にその一人一人に与える神の愛というのを伝える、大きな役割を担っているというふうに思います。 自分が何かをやろう、自分があの人にこうしたい、ああしたい、神様の素晴らしさを伝えたいという願い、その反対に、伝えなければならないという義務感、いろんなことが出てまいります。 でも、その時に思うのは人の計画ではなく、主の計画通りに私たちが祈っていれば、必ず言葉が出、必ずその時が与えられることを、みなさんも経験してきましたし、私も本当に経験してまいりました。 自分の最も愛する方を失ってしまう時、それは、この地上においてはとても寂しい思いをするのが当然であります。ですけれども、それを通してまた、神様は多くの恵みを与えてくださっています。 自分が最も愛するもの、それがなくなることは、とっても寂しいですけれども、でもそれを通して、その人をまた大きく、強く強く、抱いてくださる。そして背負い、そして育んでくださる。 そのことを、本当に今年も感じることができるんではないかと思います。主のみわざとは、本当に私たちには想像ができない、不思議なものです。 ヨハネの福音書14:12
イエス様は、このようにおっしゃってくれました。「わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」 それは、なぜか。イエス様が、本当に神様とともにおられるという保証を私たちに与えてくれました。万物を、すべてを創造し、すべてを支配されている神様のところから、イエス様はエールを送ってくださっています。エールどころか、力も、すべて与えられています。 そういう私たちですので、ぜひ今年は、先のメッセージにもあったように、「生きるなら主のために生きる。もし、死ぬ時も主のために死ぬのです」、すべてが無駄ではない。私たちが与えられた、この世のこの地上での日の数が満ちるまで、それは神様が、すべてこの世を創造された世界を、宇宙を創造された年月に勝る、濃縮された人生が送れるはずです。 イザヤ書の中に、「主が喜ばれる日」というみことばがあります。 イザヤ書58:6
私たちが、本当にこの世のくびきから砕かれることを、主は望んでおられます。そして、7節には、 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。 そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。 本当に「飢えた者」、主のみことばに飢えている者に、パンを与える。主の私たちに与える生きるパンを、一緒に食べたい。そして、「家のない貧しい人々」、天にまだ家をもらってない方々には、一緒に家をもらえるように祈りたい。 そして、「裸の人に、これに着せ」、イエス様の衣を一緒に着て、本当に幸せな人生を送りたい。「あなたの肉親の世話をする」、本当にこの世に両親によって与えられた命に感謝し、そしてまた、主とともにある、肉親を超えた兄弟姉妹としての愛を育んでいかなければいけない。 神様は、私たちが態度で示すのではなく、いわゆる「断食」という形式、聖書を読まなければいけない、主を愛さなければいけないという義務、形式ではなくて、私たちが心から、たましいの奥底から一緒に祈りたい、一緒に歩みたいと思うその信仰が、最も主が喜ばれる日だと思います。 「主に喜ばれる日」とは、本当にそういう日だと思います。日々そうなるように、これからまた祈って歩んでいきたいというふうに思います。 辻田兄メッセージ 今日は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の3箇所に出ております、イエス様が種まきのたとえをお話になられた箇所から、少し見てまいりたいと思います。 ルカの福音書8章4節以降を見たいと思います。 イエス様は、ここで「種まきのたとえ」ということで、5節に道ばたに種蒔きが落とした種を話し、6節に岩の上、これ、別の箇所では、完全な岩の上ではなくて、薄い土の岩の上というような書き方をされています。 それから7節に、どちらかというと良い地だけれど、雑草の生えてるいばらの中に落ちた種、それからもう一つ、8節に、「別の種は良い地に落ちた」と。この4つを例をとって、私たちみことばを聞く者の心の状態をおっしゃってます。 本当にイエス様は、よくたとえでお話なさってますけれども、私たちの心の状態をよくとらえていらっしゃるな、という感じが読む度に思わされる次第です。 本当ならば、私たちはみんな、イエス様のおっしゃる「良い地」に落ちて、みことばが私たちの中で成長して、私たちの周りの救いのために役立つ器となるのが、イエス様の理想とされてたわけでしょうけれども、しかし私たちは、肉なる者ですから、良い地に落ちた種のような成長をなかなかしないのじゃないかと思います。 良い地に落ちた神様の言葉というのは、 ルカの福音書8:15
とあります。「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」、このような時に、実は100倍になったり60倍になったり成長する、それ以外の聞き方では、なかなか成長しないし、また周りの人たちへの証し人としても歩めないということを、お話なさってるのじゃないかと思います。 ただ、この15節をじっくり読んでみても、なかなかこのように、私たちが日頃、朝から晩までこのような心構えで、歩めないのが私たちの実際の態度ではないかなぁと思わされます。 「この言葉を示されました。できれば、イエス様のおっしゃる『良い地』でありたい。」と願ってはいるわけであります。 イエス様は、この「種蒔きのたとえ」を、みなの前でお話になったわけです。 神の言葉を聞いて、神様の言葉に従う者は、新しい人へと変えられてまいります。本当に人が生まれ変わるためには、この神様の言葉を受け入れて、毎日怠らずに祈らなければなりません。 いつも私たちは、「しもべは聞きます。主よ、お語りください」という姿勢でもって、みことばを聞いておりませんと、だんだんと私たちの心は、他のものに移りがちであります。 せっかく兄弟たちがメッセージしてくださってても、30分40分と緊張が続かないで、自然と他のことへ心がいってしまうということは、あるいはみんさんもご経験あるかなと思うんですね。 そのことをイエス様は、例えばこの「いばらの上に落ちる」という言い方をして、この14節ですね、 ルカの福音書8:14
と。私たちの心が、油断しているとすぐにいろんなこの世のことに気が向いちゃって、あるいは自分の快楽なり富なりを考えちゃって、いつのまにかイエス様の言葉をないがしろにしてしまうというような、ご体験もあるんじゃないかと思います。 みことばを聞くことによって、私たちは自分というものが、どんなに「つまらない者」かということを示されてまいります。「罪なる者」だということを分かってまいります。 本当にそのように分かってくる時に、だんだんと私たちは、イエス様なしには生活できない状況へと変えられていくわけであります。やはり、自分の罪というものを、はっきりと示していただかないと、なかなかその状態にまでいかないのじゃないかと思います。 そのためにも、イエス様は「忍耐」という言葉をおっしゃってます。 ルカの福音書21:19
とあります。イエス様は、私たちの心の状態をよくご存知であります。「忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」 「実を結ぶ」ということは、確かに簡単なことではありませんし、また、この信仰の実というのは、なかなか私たちの目に見える実ではないからであります。知らず知らずのうちに、蒔かれた種は私たちの中で成長するものであります。 また、先ほどのルカの福音書8章の方に戻りますけれども、「道ばたに落ちた種」というのは、もう踏みつけられているわけで、全くみことばが心に入ってこない状況を示されております。 例えば、この集会におみえにはなるけれども、メッセージの間も全くみことばには関心がなくて、あるいは関心あって聞いても、メッセンジャーの批評をしてみたり、あるいはメッセージの中についてのご意見、そういうことで、本当に自分の問題として受け取らない状況、こういう状況が、この「道ばたに蒔 かれた種」かなと思うんですね。 確かにメッセンジャー自身も、プロじゃありませんし、大いに欠点もありますし、またみことば自身も、人間の考え、知恵では理解を超えていることであります。それは、聖書の中にも書かれております。 コリント人への手紙第I、1:21
と書かれております。本当に、神様のみことばというのは、人間の物差しでは計りがたいものであります。 またイエス様のたとえの方に戻りますけれども、「土の薄い岩の上に落ちた種」の状況ということですね、これは神様の言葉を喜んで聞いて受け入れるけれども、何か困難にぶつかってしまうと、集会から離れてしまう。そのような人ですね。 私たちも、これまで私たちの周りででも、そのような方も見てきたのではないかと思います。確かに最初は、感激して涙を流さんばっかりに、みことばを聞くなり感動されます。そのことをみなさんの前でお証しもしてくれます。けれども、1年2年経ってきたときに、その方の、あれだけ感動してたのにと思うのに、だんだんとしぼんでくる。 ついには、集会にも参加することを断ってしまうという方も見かけるわけですが、やはりこのような方は、このイエス様がおっしゃってるように、いろんな試練にぶつかると、「イエス様は自分の味方になってくれない」ということ、それが足をひっぱるわけです。 「これだけ一生懸命祈っているのに、自分の祈りがちっとも聞かれないんじゃないか」と、「イエス様は聞いてくださらないんだ」と、そのように決め付けちゃって、だんだんと集会から離れてしまう。これはまさに、ご本人自身が、罪ある人間で、ご自身の罪の悔改めの完成されてないがゆえではないかと思います。 また、3つめのいばらの中に落ちた種、これが以外と私たち自身が、一番危険性があることですけれども、みことばを聞いてはいるけれども、この世のいろんな心遣い、あるいは富等についつい心を奪われて、信仰の方がそっちのけになってしまう。生ぬるい信仰に落ちてしまうということですね。 このように、蒔かれた種の例で、4つの例を書かれてますけれども、私たち自身、この4つのどれかの型に入るんじゃなくて、いつもこの道ばたに落ちた種から良い地に落ちた種へと、油断をすると揺れ動く者ではないかと思うんですね。 私たちの心の状態で、本当に、このちっともみことばが入ってこない、踏みつけられてしまった堅い心の状況の時もあるし、何となくこのいばらの中に落ちた種のように、この世のことに気をとられてみことばが入っていかない状況、それで霊的成長を止められるという状況、ですからやはり、いつもこの4つのイエス様のたとえを思い出して、ぜひこの「良い地」でありたいと祈りながら、「私の心を砕いてください」という祈りながら、みことば聞いていくことが大切ではないかと思わされております。 最後に、ダビデとイザヤの祈りをお読みして終わりたいと思います。ダビデは、詩篇の51篇17節、有名なところですけれども。 詩篇51:17
本当に、私たちは砕かれた良い地でなければならないと思います。砕かれることが、みことばが素直に私たちを祈らせる状況になろうかと思います。 イザヤも同じように、 イザヤ書57:15
本当に、この一年へりくだった人の例を生かすとありますから、砕かれた人の霊をもって歩んでまいりたいものであります。 ありがとうございました。 蘇畑兄メッセージ 私が、この集会に来るようになった最初の頃は、毎年1月15日の、当時の「成人の日」には、全国で献身している兄弟たちが一同に集まって、朝から晩まででしたですよ。 朝はフラフラ、頭の中、もうフラフラで、弁当つきで、夜遅くなって帰ってきたものであります。へばらないで、ものともしないで、主の勇者たちは歩まなければいけないと思いますね。 いつの時代でも、多くの若者たちがそうだと思いますけれども、私もかつて20歳少し過ぎまで、もちろん小さな悩みは、いくらもあったと思いますけれども、しかし根本的には、この人生を大いに肯定しておりました。大いに生きがいのある人生だと思っておりました。 喜び勇んで、そこに果て散じようと思っておりました。自分の人生は、もちろん他の誰のものでもなく、自分自身のものであり、自分の人生を本当の意味で高め、豊かなものとしていこうと、そのように考えて少しも疑っておりませんでした。 どこまでできるか問題ではないんですね、他人と競争するつもりはないのですから、自らの人生を意義あるものにしていきたい。だから、できるところまでやればいいんじゃないか。そういうふうに考えていたんじゃないかと思います。 しかし、たまたま聖書に触れるようになり、聖書の言葉が心に入ってくるようになったせいか、一転して、自分の人生には全く何の意味もないのだとはっきり気づくようになりました。 これは恐るべきことでありました。言葉で表現することのできないほど、戦慄すべき事実でありました。あたかも、顔にかけられたベールをはぎとられて、虚無の淵を見せられたかのように、私はその一瞬で恐れおののいて、もう観念せざるを得ませんでした。 それまで、あんなに光輝いていたこの世は、生きがいに満ちていると思えた自分の人生は、全くの幻想にすぎないということを、否定しようのない事実として明らかにつきつけられてきたのであります。 それは、決して人間のできることではなかったろうと思います。聖書のみことばが私の目を開いたのだろうと思うのですけれども、それは私にとっては、とんでもない大変なことでありました。 こうして、私の人生観はそれまでとは正反対のものへと暗転してしまいました。 当時、われわれの学生時代に、一世を風靡したあの無神論的、実存哲学者サルトルが、「出口なし」という題名の戯曲を書いてるそうでありますが、自分は、出口のない、この世界にいるのだということに打ちのめされるようになったんですね。 この世の中のどこにも望みはないということ、自分はどこから来て、どこへ行くのか分からない者であり、従って、自分はいったい何者なのかも分からない存在なのだという、全く不気味な思いにおびえるようになったのであります。 先々週、ゴーギャンのことを詳しく聞きましたけれども、ゴーギャンという男も、全く自分と同じようなところに追い込まれた男だなと、しみじみ思ったんですが、彼の残した最高傑作の題名は、「われわれは何処から来て、何処に行くのか?われわれは何者か?」という絵がそうでありまして、アメリカの有名な美術館に、今も飾られているそうでありますが、これは精神破綻の一歩手前ですよね。自分でそう感じるわけです。 これは、非常にやっかいって言いますか、大変なことだってことは感じるわけで、そういうところに追いつめられてしまったわけであります。だれか、例えば心理カウンセラーをつかまえて、「私はどこへ行くのか、私はいったい何者なのか、教えてください」って言えば、これは本物の精神病者だとみなされるに違いないというふうに、そういうことも自分で分かるのであります。 これは、聞いても無意味なことだ。人間は、だれ一人としてこの質問に答えることはできないのだということも、また実に明らかであります。ですから、だれに相談することもできないし、意味もないわけであります。 ただ、もしこの世の本当の解答があるとすれば、それは聖書だけだということは、私にも分かったのであります。なぜなら聖書だけが、「はじめに神、天地を造りたまえり」と、天地創造の絶対者なる方の存在を宣言してるからであります。 聖書が、何か大変な解決、問題の解答を提供してるらしいということは、様々な文学作品なんかみれば、だいたいの見当はつきますよね。ドストエフスキーなんかの『罪と罰』についても『カラマーゾフの兄弟』なんか読んでも、もうくたびれ果てるような作品ですけれども、凄まじいような内容の作品ですが、ああいうのに触れながら、聖書には何かあるっていうことの見当はつくわけであります。 結局、人間から出たものは、「人間がどこからきて、どこへいくのか、人間とはいったい何者なのか」を明らかにすることは決してできないということは自明のことであります。 どんな力持ちの男も、自分の腕で自分の体を持ち上げることはできないのと同じように、人間は、自分自身で自らの存在理由、生きる意味と目的を生み出すことは、絶対に不可能なのだ。このことが、ある意味ではっきり分かったということですね。 それまでは、できるかのように思っておりましたから、何か哲学とかかじれば、人生の意味が出てくるんじゃないかって思いでいましたけれども、そういうことはあり得ないってこと。それは、全く矛盾してることであるってこと。それは、はっきりと自分の目に知らされたってことですね。 こうして、これまで単なる観念的な問題でしかなかった「神の存在問題」が、自分の、文字通りギリギリの現実問題となって、迫ってきたと言っていいと思います。ということは、どうしても逃げることができないってことですね。ごまかすこともできないってことであります。 これは、べつに私は好き好んで求めたわけじゃなくて、逆に追い詰められてしまったわけですね。私は、逃げようと思ってたのですが、私は自分の好きなようにしたいと思ってたのですから。 しかし、聖書のみことばに触れたがために、恐るべきこの現実というものを、本当の事実とは何かということを、聖書はつきつけてきたと言ってもいいと思います。 こうして、本当にあわれにも、泣くにも泣けない状態で、わらにもすがる思いで、みじめなボロボロな心で、集会に通いつめ、兄弟たちのメッセージに聞き入らざるを得なくなりました。 聖書をむさぼるように読まざるを得なくなりました。本当にあわれな者ですよね。泣けるんだったら泣きたい。だけど、本当に人間追い詰められると、泣くなんてこともできないものですね。 ただ声を押し殺して、必死になって出口をさがす。そういう者じゃないかなという気がしますね。 結局、徐々に明らかになってきたことは、この天地万物を造られた、聖書にご自分を啓示してる神は、私が大切だと思ってる、かけがえのないと思ってる人生を、ご自分に引き渡せと要求していらっしゃるということでありました。 最後に気がついたのは、そういう問題の前に、自分が立たされているのだということでしたですね。自分の人生を自分のものとして、後生大事に抱え込み、だれにも明け渡してなるものか。 もしこれを引き渡せば、それは自分にとっては「死」を意味する、と思っていますから、神様のこの要求は、私にとってはとんでもない、私の全存在を奪い取ろうとする要求ということであります。恐るべき要求であります。 ルカの福音書14:26
「そのうえ自分のいのちまでも憎まない者」っていうみことばは、この箇所にしか書いてないですね。「自分のいのちを保つ者はそれを失い、それを失う者はいのちを得るのだ」とおっしゃいました。 主なる神が、私たちに向かって私たちの人生をご自分に引き渡すように要求して、一歩も譲らない。神様は、一歩も引かないのであります。「あなたの人生をわたしに差し出せ」、こう主は、私の前におっしゃっている。聖書が、最後に私たちにつきつけている問題はこれであります。 それは、私たちのこの滅びへ向かう人生に代えて、救い主御子イエス・キリストの人生、永遠のいのちの人生を代わりに与えようとしておられるのだ、ということであります。 私の「罪」と「死」と、文字通りの「絶望」の人生と、イエス・キリストの「義」と「いのち」と「とこしえの希望」の人生との交換を、神は私たちに向かって提案しておられる。提供していらっしゃるのですね。 これにどう答えるかっていうこと。私たちは結局のところ、これに対して、はっきりとした態度を決定しなきゃならないということ。それが聖書の最終的な問題だと思っております。 有島武郎は、その心を頑なに閉じたがゆえに、「神は、ただ奪うだけの厳しい方」だと考え、神が与えようとしておられる絶大な恵みに、救いそのものに、盲目となっていたのであります。 「あなたは恐ろしい方で、蒔かない所から刈り取るお方である。だから私は怖くて、あなたから預かった1タラントを土に埋めた」と言った、あのしもべのように、彼は「神様は、奪うだけの恐ろしい方である。要求する方である」と思ったようであります。 そして、神様に対する反発、反逆、そういう思いが彼のうちに根付いたようであります。 私たちは、自分の滅ぶべき人生を生きるほか、道のない者でした。さっき言ったように、私たちは、本当に何の意味もない無意味な人生の中に、捨て置かれているのであります。 人間が、罪によって神様を拒絶したがゆえに、人間は虚無の中に転落しているのであります。それが、罪の結果であります。それ以外に、生きる道がなかった。 しかし神は、もう一つの人生を生きることのできる道として、選択肢として私たちに提供していらっしゃるのであります。これが、聖書の示している、主の申し出であるということですね。 人間は2種類の人生を同時に生きることはできません。自分自身の滅びに至る人生から、神が提供しておられるいのちと光に満ちた主イエス・キリストの人生か、どちらかであります。これは、ものすごい交換ですよね。 人間の交換のことを、私は経済学の教授ですけれども、「等価交換」といって、1000円出したら1000円のもの買うんですよね。1000円でない500円の物を売ったりすると、それはインチキな取引であります。 人間の交換というのは、等価交換、同じ価値の物同士で交換するというわけです。しかし神が私たちに提供しておられる交換は、この世では、あり得ないような不等価交換、全然違うものとの交換であるということが言えると思います。 罪と義、死といのち、滅びと救いの交換なのですね。これは間違いなく事実なんですね。私たちは、自らの、その滅びから、望みのない罪の人生から、本当に救われようと思えば、この主が提供しておられる贈り物を受け取ることができる。これは間違いのない事実なんです。 そして、それは、私たちが結局のところ選択しなければならないことである。主は、私たちをあいまいな形でほったらかしておくことを許されない。私たちに大いにはっきりそれを、その答えを求めておられる。 結局それによって、私はかつてのその状況の中から救い出していただいた者であります。 ローマ人への手紙6:6-8
ローマ人への手紙6:16-18
ローマ人への手紙6:20-23
もう問題は、神ご自身によって、根本的に解決されてるんです。私たち人間の持っている、最大の、どうにも人間にはできないような問題が、すでに解決されております。 ですから、もし私たちが、この主の解決を本当の意味で受け入れるならば、私たちは、もう本当の意味で悩む必要のない者なんです。日頃の小さいこと、いろんなこと、あるかもしれませんけれども、そんなことはどうでもいい。もはや問題ではないわけであります。 そういうどうでもいいような問題で、「問題だ、問題だ」って言うのは、ちょっと見てるところが違うんじゃないの?目のつけどころが違うんじゃないの?っていう感じですね。 主がなしてくださった、この根本的な解決ということに、私たちが目をとめていれば、本当にどのような中にあっても、私たちは喜ぶことができるはずですね。感謝することができるし、周りのいろんなことで、アップダウンしてみたりする必要はないわけですし、もうすでに私たちの前に・・・ (音声切れ) ・・・啓示されている。私たちはそれを受け取り、もうひたすら天の御国を目差して歩めばいいわけですね。 力の限りを尽くして、走ればいいわけであります。ほかに私たちのなすべきことは、何もないわけであります。 主が備えられたこのいのちの道、キリストの光の中を歩むという、この人生を私たちが全うできれば、もう何がいったい不足があるでしょうか。 コリント人への手紙第I、9:24-27
パウロですら、この恐れを持っていたんですね。「自分も失格者になるかもしれない」、そのことを彼も恐れておりました。 この一年、本当に主のあわれみに守られて、自分にできるだけのことを精一杯成したい、そう歩みたいと、切に願っているところであります。 |