引用聖句:エペソ人への手紙2章8節
明後日になりますと、もう師走になります。あっと言うまに今年も、暮れを迎えました。 歳を取ると時間が本当に早く過ぎていくのを感じます。若い頃は、時間はこれからもたっぷりあると思っていましたので、一日二日の無駄な時間は平気で費やしていましたけれども、自分が後何年生きられるだろうか、これからどうなるだろうか、と言うふうに考えるときに、時間というのは、とてつもなく貴重な、そしてこれはただただイエス様からの贈り物であると言うのを感じるこの頃であります。 今、私達は、幸せでしょうか。幸せの基準は人によっていろいろ違うと思います。ある人は、お金があって楽な生活をして、苦労が無くて、それが幸せだと思う人もたくさんいると思います。 信仰を持つと、幸せの基準は、大きく変わります。聖書は、何もなくても富んでいる者と、信仰のキリスト者をこのように言っています。 私達は、外のものではなくて、内なるものを持ってイエス様の恵みに応える。これが最も幸せな豊かな生き方だと思います。 ヒマラヤの山の中にブータンと言う小さな仏教の国があります。最近、時々、この国が新聞紙上で記ことになって出て来ます。 なぜ、この小さな本当に小さな国が取り上げられているかと言いますと、この小さな国は、世界で一番、幸せな国と言われているからです。 私達は、物質的に本当に恵まれています。欲しい物は、お金さえあれば、なんでも手に入ります。一方、その分、心はすさんでいます。 ブータンは、世界で一番貧しい国のひとつです。GDP(国内総生産)、GNP(国民総生産)でも、貧しい方から世界で五番目くらいに入る貧しい国なのです。しかしなぜ、この国は世界で一番幸せな国と呼ばれているのでしょうか。 今の国王が21歳の時に、ブータンは、GNHと言う言葉を発表しました。日本語で言いますと「国民総幸福量」と言うんですね。国民がどれ程幸せになるか、その量を定めて、そして自分たちがこの量を毎年高めていこうとする。 この国王は、今、40過ぎですけど、誰よりも幸せになりたい、それは国民であると言うふうに思っています。 国が、4年前に調査した結果によりますと、「あなたは、今幸せですか?」と言う問いに対して、95%以上の国民が、「はい、幸せです。」と応えています。 つまり、貧しいけれども幸せである。これが、最も自然であり、最も生き方に忠実な、神の生き方に忠実な姿ではないかと思います。 確かに、ブータンは、仏教の国ですけれども、キリスト者の私達もこの幸福感を学ぶことはできるはずです。 コリント人への手紙第II、4:17-18
これは、聖書の永遠の目的を表しています。何が起こるか分からない不確実なこの世の中で、私達はいったい何を頼りに生きていったら良いのでしょうか。 私達の人生は、いくら幸せになったように思えても、悩み苦しみ試練が無くなることはありません。将来の生活設計でも思うように夢を描くことは出来ません。そこで、この将来の不安を帳消しにすることは何かあるのでしょうか。 信仰ということは、不安感、不確実の中から確かな生きる道を示してくれるものであります。信仰は、嵐の中で漂っている船の灯台の光であります。 エレミヤ書29:12-13
イエス様は、私達のすぐそばにおられます。そして、私達が声をかけるとすぐに応えてくださいます。しかし、多くの人は、イエス様が自分のすぐそばにいることさえ、気がつきません。 信仰を持たない人は言います。「イエス様だ、神様だ。そんなことを言って、見えないものを、どうして信じることができるのか。」 これは、かつて私達が持っていたのと同じ問いであります。 ヨハネの福音書14:17
信仰を持っている人と、持っていない人の差は、この御言葉の通りであります。 見えないものをどうして信じるのかと言う、信仰を拒むと言う壁、これが拒絶反応となって、人々を神から遠ざけていると言ってもいいのでしょう。 先ほど歌いました日々の歌139番は、「耳をすますとき主は・・」と言う題です。 耳をすます時、主はささやかれる。 「私は外に立ち、いつも戸をたたく。」 心の扉をそのまま開いて 優しいイエス様をすぐに迎えよう。 これが、私達、キリスト者のとるべき態度であります。見えないものを信じる。 これは、キリスト者に求められた神の御心であります。 ヨハネの福音書6:39-40
ここに、イエス様がただ私達ひとりひとりを思う気持ちがあります。 この世で、物に囲まれて不自由がなく、楽しく生きるための不安などない。そう言う生活は誰もが憧れます。しかし、こんな生活が、長続きするはずがありません。この世の満足感は、聖書に書かれている通りに一瞬に終ってしまうものです。 このはかなさが、この世のものなのです。永遠のものでなければ、それにいったいどれほどの価値があるのでしょうか。 伝道者の書1:2
伝道者の書には、空の空と書かれています。いくら私達が汗水垂らして物を蓄えたとしてもそれは、消え去ってしまうと言う意味であります。 消え去ってしまえば、今までの苦労は、一瞬のうちに泡になってしまい。ただむなしさだけが残るはずです。 聖書は、はっきりと、信仰を持てば永遠に続く天国への道を私達に与えて下さると約束しています。この永遠の命が私達の生きる希望となり、毎日の平安となるわけであります。 創世記6:5-7
この6章には、ノアの箱船の話しが書いてあります。人々が神の前に堕落し、悪に満ちていた悪い時代の話しです。そして、この悪い時代を滅ぼすために、神が洪水を起こされました。勝手な生き方をしていた人々に対して、神の怒りが爆発し、この世が滅ぼされました。 この時、ノアは自分の思いではなく、神に素直に従いましたので生き残ることができました。つまり、ノアの信仰が神に、悪に勝ったのです。ノアの時代は悪い時代で、全世界は神に滅ぼされました。 聖書は今も、悪い時代であると言っています。聖書の約束は必ず実行されるわけですから、この悪い時代は必ず滅ぼされる。そのことは間違いないでしょう。 エペソ人への手紙5:15-17
毎日生活していても、本当にこの世は悪い時代であると感じることができます。 昨日、サウジアラビアで大洪水が起こりました。メッカでイスラム教の人達が礼拝するときに、この大洪水は起こったのです。だいたい中近東は、私も何回も行きましたが、あそこで、大洪水が起こるということは、聖書に書かれている悪い時代。 ほとんど雨のないはずの砂漠の国で大洪水が起こる。やはり地球が、おかしくなっていると感じます。はるかかなたの日本で、アジアでそのように感じるのですから、現地のサウジアラビアでは本当にびっくりしていることでしょう。 神は、私達を憐れみ大いなる恵みとして、イエス様をこの世に遣わしました。しかし残念なことには、多くの人は、自分たちがいかに多くの恵みを受けているか気がつかずに、イエス様を認めようとはしません。聖書が悪い時代だと言っている意味はここにあります。 イエス様を受け入れないと言う不信仰がはびこっている今は、2,000年前と同じ何も変わっていない悪い時代であります。 悪い時代と言うのは、私達人間が、つまり罪人が一人もこの世からいなくならないと良くならないということになります。 信仰を続ける中で、私達はイエス様に素直に従えるでしょうか。多くの人は、信仰に入る前は、信仰は自由を奪い束縛されてしまうと考えてしまいます。 もし、信仰がなければ、自分の思うように過ごすことが出来、そして楽しくなるであろう。信仰を強制と考えてしまいます。 私もこのようなことを体験して、信仰の生活に入りました。 私が信仰に入った時に、「クリスチャンと言うのはいったいどう言う人がなるんだ。お前みたいにいい加減なのがどうしてクリスチャンになれるのだ。」と思うのです。 世間ではクリスチャンは正しい人、うそを言わない人のように思われています。信仰=正しい人。しかし、よく考えてみますと、このように正しい人はいないはずですけど、もし正しい人がいるとしたら、そのように正しい人に信仰は必要ないかもしれません。 正しくない人ばかりなので、信仰が必要になります。 日本のクリスチャンは数が少ないと言われる理由は、人々が「キリスト者は、正しい人でなければ、」と言う誤解があるのではないかと私自身は思っているのです。信仰は、私達を、そのままの劣等生の姿を求めています。 つまり、自分は何も出来ない。どんなに良いことをしようとしてもできない。そして、信仰はこのありのままの自分の姿を求めています。 自分をよく見せようなどと思う必要は、全くありません。自分は劣等生であると言う姿勢が、一番たいせつなのではないでしょうか。 もし、自分は優等生であると思えば、その瞬間から信仰は、不信仰へと進んでしまうのではないかと思います。 そして、自分は優等生であると考えている間は、その人はイエス様の声を聞くことができないと思います。 コリント人への手紙第I、8:2
私達が知る知識と言うのは、本当に小さな限られた知識です。それを、誇りにすることなど決してできるものではありません。 聖書の教えはことごとく私達の逆をいっております。つまり、どうしたら正しいことができるか。それは、自分の思いとは逆のことを行えば、正しいことができるはずです。 私達はそれほど、聖書に対して、イエス様の教えに対して、背を向けながら進んでいるわけです。 しかし、これでイエス様は、いいとおっしゃって下さいます。私達は罪人として生まれつきダメな人間と烙印を押されていますから、正しい行動など最も苦手なことなのです。つまり、罪人は、罪人としての行動しかできません。 そして、確かなことは、イエス様はもとより、私達が正しい行動をすることなどは、期待されていないのです。 そこで、聖書は私達がイエス様にすべてを委ねることを求めています。そして、その中に悔い改めということが私達に求められています。悔い改めこそ、イエス様に近づく最も有効な方法であります。 悔い改めとは心で思っただけではだめです。まず、そのために自分自身を知ることです。自分が今まで何をしてきたか、どう言うことをしているか。それを感じ取ることです。 自分が間違ったことをして、心を痛め苦しむ。このことが、悔い改めには必要です。人が最後まで悔い改めなければ、イエス様でさえその人を救うことはできないでしょう。 信仰を持つ私達は、悔い改めて救われました。このことは、イエス様にとっては天を上げての喜びとなりました。 ルカの福音書15:10
罪人が一人でも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない99人の正しい人よりも、勝るこの喜びが天にあると聖書が言っている通り、人が悔い改めることは、天をあげて神の御使いたちが喜ぶことなのです。 私達は、信仰に自身を持つ者ではなくて、自分の信仰は弱くて頼りない者であると言うへりくだりの心が必要です。 自分は、誰よりも信仰深い、天国は当然約束されたものだと言うような傲慢な思いではなく、自分は何も出来ないと言う謙虚さこそ、信仰に一番たいせつではないでしょうか。 信仰に、自信などが芽生えれば謙虚な心は失われ、信仰は傲慢なものとなってしまいます。 信仰は、むつかしい。そのことは、自分の中にある神から離れようとする心と、信仰に結びつこうとする心の葛藤があるからです。 自分の心の中に二人の自分が存在する。この葛藤によって、私達は信仰がむつかしと感じます。 そこで、先ほど言いましたように、神から離れてしまえばもっと楽になると言う気持ちが起こってくるのであります。これが、信仰のむつかしさと言えるのではないでしょうか。 心の中にある二人の自分の葛藤とは、信仰の心とサタンの誘惑との戦いです。しかし、サタンの誘惑は、私達が信仰の成長を勝ち取るためには必要不可欠であります。 この苦しみや悩みがなかったら、信仰の成長はないでしょう。サタンの介入もイエス様のご計画です。私達の持っている信仰の中に、もし傲慢な心があれば、それは何の益にもなりません。 神の御心によって信仰の成長を願い、どのようなことがあっても、イエス様につながっていると言う心が大切です。 イエス様は、すべての人を天国へ招き入れたいと願っておられますが、無理矢理、強制することはありません。嫌がるろばを、力尽くで引っ張ろうとしても、ろばは決して動きません。 イエス様はただ、そのような人をじっと忍耐を持って待たれるのです。パウロはコリント人への手紙第IIの手紙で次のように証ししています。 コリント人への手紙第II、6:10
パウロにあるすべてのものとは、イエス様への信仰です。以前、読んだ本に次のようなことが書かれていました。 太陽は、毎秒、石油に換算して数百万トン相当のエネルギーを放射しているそうです。一年間に、日本の国土に降り注ぐ太陽のエネルギーで、今の日本の人口一億数千万人分が、千年間生きていくことができるそうです。 地球全体に注がれるエネルギーが、どれほど膨大な量になるか想像もできません。 しかし、太陽や光や熱が豊かに注がれていても、それを何かで遮断してしまえば光や熱は、私達には届かなくなってしまいます。 そうすると、この地球は、人類は消滅してしまいます。異常気象や温暖化現象もそうでしょう。また核の戦争が起これば、確実にこの地球は死んでしまいます。 太陽と地球の関係のように、イエス様と私達の関係も同じことが言えると思います。 マタイの福音書5:45
実に公平な神であります。イエス様からの恵みが何かの理由で遮断されてしまえば、私達は生きる目的を失ってしまいます。私達がイエス様の呼びかけに、心を閉ざすなら、イエス様の愛は決して人の心には届きません。 太陽であるイエス様の愛は、私達の周りに満ち溢れているのですが、それを感じ感謝しなければ、イエス様の愛を遮断することになります。つまり、イエス様の愛は、私達の生きる希望であります。 聖書は、イエス様を良き羊飼い、私達をそれをその羊飼いに連れられている羊に例えています。羊は頭が悪いので、自分で自分の進む道がわかりません。だめな羊、それが私達の姿です。イエス様の目的は、このだめな羊の救いです。 聖書には多くのたとえ話が載っていますけれども、その主人公は特別な人ではありません。 どこにでもいる人間の話です。それが、良い話でも悪い話でも、私たち自身のことです。 ヨハネの福音書10:11
良い牧者とは、イエス様であります。そして、私達のためにご自身を犠牲にしてくださるわけであります。この短いみことばの中にイエス様の愛の深さを見ることができます。このイエス様の愛こそ、聖書の一貫して貫いているテーマであります。 良い牧者ということですから、悪い牧者もいるはずです。悪い牧者は、私達のために命を捨ててはくれません。 良い牧者は、迷い出た羊を見つけるまで、どこまでも捜します。良い牧者は、自分勝手な羊はどこに行ってしまったのだろう。見つからないから、もう帰ろうと言って、途中で捜すのをあきらめたりはしません。迷い出た一匹を捜すまで、どこまでも徹底的に見つけ出そうと思っています。 良い牧者であるイエス様は、迷っている私達、ひとりひとりを見つけ出すまで、最後まで力を抜くことはありません。 そして、良き牧者は良き羊を持っています。一匹、一匹の羊は、良き牧者の心にしっかりと名前が刻み込まれています。 ここに良き牧者と、だめな羊との信頼関係ができているわけです。 ヨハネの福音書10:27-30
よくたとえ話の中に、100匹の中の1匹が逃げ出したと言う話がありますけど、良き羊飼い、良き牧者にとっては、この1匹は他の99匹のどれをもっても替えることのできない価値ある1匹であります。 悪い牧者は、100匹のうちの1匹が逃げてしまえば、捜すのをあきらめて、市場に行って、その1匹を買い求めるでしょう。そして、100匹として、人数あわせをするでしょう。 良い牧者は、数を合わせてしまうようなことは絶対にしません。一人の価値は、何物にも代え難い価値があるからです。 ひとりの迷い出た罪人は、全世界に匹敵するほどの価値があるからです。1匹の羊と、99匹の言いつけを守っている大人しい羊と、てんびんにかければ1匹の羊に傾くのです。それほど、1匹の羊、1人の迷い出た罪人には価値があるのです。 一つの魂、一つの存在をイエス様はかけがえのないものとして、扱って下さいます。さまよっていた一人の罪人を、イエス様は背負います。 そしてイエス様は、あまりの喜びのために周りにこの喜びを伝えずには、おられません。もし、一人の小さな罪人の存在が見つからなければイエス様の満足はありません。 ペテロの手紙第I、2:25
信仰によって、救われた私達の姿です。迷い出て行く道がわからなくなった羊は途方に暮れていました。その時、イエス様によって見つけられました。 羊は寒さと恐れに怯え疲れ切っていたでしょう。羊飼いは、その羊を叱ることなく、肩にかつぎました。羊は、イエス様の肩にかつがれ恐れ不安から救われ、ほっとしてるのです。その羊は、ただかつがれているだけで良いのです。 頭だけではなく、上半身だけではなく、頭のてっぺんから足の先まで、すべてをイエス様の肩に委ねれば良いのです。イエス様の肩にかつがれるということは、イエス様にすべてを委ね信頼するということです。イエス様の御手の中に入るということです。 イエス様の肩の上で、イエス様のすばらしさ、イエス様の一方的な愛に感謝すれば、良いのです。自分は、何もできなくていい。羊が、何も出来なくていい。羊が、羊飼いの肩に全部の重荷をかけるように、一切を、イエス様の肩に託して、ただただイエス様に、従うだけでいいのです。 しかし、イエス様の肩にかつがれている時でも、オオカミの声は聞こえてくるでしょう。襲われるかもしれません。肩の上で自分は何も出来ないと、怯えているでしょう。 でも、それでいいのです。怯えたら、怯えるほど、イエス様の肩にしがみつきます。そうすれば、良き羊飼いであるイエス様がずべてを追い払ってくださるはずです。 自分の身柄をイエス様の肩に預ける。つまり、イエス様にすべてをゆだねる。これが私達が、求められている信仰の姿ではないでしょうか。 神は、私達を救うために、御子イエス様を十字架にかけ、私達の罪の一切をそこで解決してくださいました。 愛する者と愛される者の関係が、イエス様と私達の関係です。信仰によって数え切れない程の愛に包まれている私達は、イエス様から守られていると言う大きな特権を与えられています。 イエス様は、私達が迷い出た時、じっと忍耐され、戻って来るのを待っていて下さる神。悔い改める時に、忍耐強く待っていて下さる神、そしてあらゆる手段を用意して私達の救いを願っておられる神であります。 イエス様が喜ばれることは、この世から罪人がいなくなることではありません。罪人が見つかることなのです。喜ばしいのは、99人の正しい人よりも、悔い改めて戻って来る一人の罪人、すなわち私達なのです。 2,000年前も、そして今も、いつの時代も罪人である私達は、イエス様が私達を救われるということに変わりはありません。それ故に聖書は今日の世までそのまま伝えられ生き続けているわけです。 イエス様は今、この場におられます。私達は、イエス様の御名を賛美して、感謝して、心を新たにして、これから過ごしたいと願っています。 私達の幸せは、イエス様だけがかなえて下さいます。 最後に、御言葉をお読みして終ります。 ヨハネの福音書17:5
ありがとうございました。 |