引用聖句:詩篇36篇5節-9節
今、兄弟に読んでいただいた聖句は、年の終わりにふさわしい素晴らしいものだと思います。今日もテレビを見ていますと、「あと何日で、今年も終わり」というようなことが、ずいぶん出てまいります。 人々はこの暗示にかかり、まるで何かに追いかけられているかのように走り回ります。この世のペースでいる限り、私たちも同じように、新年に向け走り回ると思います。しかし、1月1日の新年になってどうなるでしょうか。単に昨日から今日、今日から明日へという、時間のつなぎに過ぎません。 結局、この世で行なわれている様々な営みは、人間の力で、人間のペースでされているものであって、それに一緒になって走り回る。よくよく考えて見ると、これほど虚しいことはないのではないかと思います。 ベック兄はいつも、「信仰を持っている人は、毎日がクリスマスだ。毎日がお正月だ」とおっしゃいます。ですから、「あと何日でお正月」というような観念は、あまり賢いものではないと思うのです。 今日は、聖書に基づいて、本当の幸せとはどういうことでありましょうか、ということをしばらく考えてみたいと思います。 「私は、いつも満ち足りています。なぜならば、持ってるお金で、すべてのものが手に入ります。好きな食事もたらふく食べられます。立派な家に住んでおります」。 これが、この世でいう「幸せ」の定義の一つではないかと思います。欲しいものが何でも手に入る、財産・地位があるというようなものが、この世の人の求めるもの。コリント人への手紙第IIには、 コリント人への手紙第II、5:6
と書かれてあります。ですから、肉体のことを自分の人間のペースでものを考えるならば、幸せの定義とは、このように「欲しいものがどんどん手に入る」というようなことではないかと思います。 あの日本中が狂ったバブルの時を考えてみますと、あの時、たくさんのお金を手にした人がいます。多くの人は、自分の実力で手にしたもので、「これで楽ができる」「これで幸せになれる」と思ったと思います。しかし、バブルの崩壊後、この世の春を豪語してしていた人は、あっという間に奈落の底に突き落とされました。 それは、「自分の力で得た幸せ」というものは、実は砂上の楼閣であり、まるで水の泡のごとくあっという間の刹那的なものであったということを知ったのです。私たちは、これを教訓として得たのですけれども、こりたはずの人間というものは、すぐこのことを忘れて、また新しく、このような幸せを求めて走りまわっています。 人生、これの繰り返しではないでしょうか。 イエス・キリストの宣教の期間というのは、実に短く、ほんの数年間でした。この間、イエス様は多くの時間をガリラヤ地方で費やされました。マタイの福音書は、弟子のマタイがイエス様の教えを記録した書であります。 この中に、「山上の垂訓」、または「山上の説教」と呼ばれている有名な教えがあります。マタイの福音書5章の2節から11節。5ページです。 マタイの福音書5:2-11
と、このように書いてあります。 この「山上の垂訓」では、まず結論が先に述べられていまして、そしてなぜ幸いであるか、後段に書かれています。この中で「幸い」という言葉が各節に出ておりまして、9回出ております。 この9回の「幸い」という言葉は、本当に「幸いとは何か」ということを私たちに教えているものです。 先ほども言いましたように、「この世の幸せ」とは、金銭的、物質的に恵まれていることが重要なこととなっています。聖書で最も大切とされていることは、「信仰の基盤に立ったところの心の奥にある幸せ、それは永遠のものである」という価値観です。 「この世の幸せ」は、水のごとく消え去りますけれども、「聖書の幸せ」は、決して消えることのない永遠のものであります。 ペテロの手紙第I、1:7
この世では「金」、すなわち「GOLD」は、「永遠に朽ちないもの」と誰もが信じて疑いませんけれども、聖書では、朽ちないと誰もが信じている「金」でさえ、「決して永遠のものではない」と、はっきりと言っております。 「銀行に預金をして、本当に低い利率で利益を受けない。それならば、『金』を買って持っていよう。よっぽど安心である」と考えている人も多いです。しかし「『金』でさえ、永遠ではない」と聖書は言っています。 聖書には、多くの逆説的表現が出てまいります。先ほどの「山上の垂訓」の中で、「心の貧しい者は幸いです」というところもそうです。この世で、もし「心が貧しい」と言えば、実に可哀想で不幸で、そんな人を想像してしまいます。 心が富んでいる人こそ、幸いではないのか。「貧しい者が幸いである」ということは、この世の常識ではなかなか考えられません。悲しんでいる者よりも、喜んでいる者の方がよっぽど幸いではないでしょうか。「弱い者よりも、強い者がこの世を制するのであって、弱者は置き去りにされる」、これが、一般的なこの世の道理であると思います。 私たちが自分のレベルでものを考える限り、この道理は立派に通用しますが、イエス様は「心の貧しい者は幸せだ」と全く逆のことをおっしゃっているわけです。この逆説的な言葉を理解するためには、「聖書は、イエス様ご自身を学ぶもの」であり、イエス様の心そのものが聖書でありますから、理解しようとするのではなくて、ただ「イエス様の思いを私たちが汲み取る」、それだけで良いということになります。 「聖書を勉強しよう」あるいは「理解しよう」と考える人は、この逆説的な方法は、なかなか難しいと思います。 コリント人への手紙第II、8:9
と書いてあります。イエス様は、外見的には大変貧しい方でありました。ご自身を飾るもの、すなわち衣服・家・財産、全く無縁の方でありました。しかしその豊かな心によって、その中で語られる一言一言が、ご自身のあたたかさ・心そのものの現われでありますから、まことに説得する力に満ちておりました。 イエス様は、誰からも相手にされずに「自分は駄目な者だ」と絶望している人のところへ行って語られます。わざわざ罪を犯している人のところに出向いて、その罪を赦されます。悲しんでいる人を求めて、その人のところに行かれます。 イエス様が福音を伝える相手とは、決して「心の豊かな人」ではなくて、「心の貧しい人」への語りかけです。聖書でいう「心の貧しい人」とは、「心に飢え渇きのある人」・「イエス様に助けを求めている人」、これが「心の貧しい」という意味です。そして、その心の貧しい人たちを、イエス様は天の御国へ引き上げてくださる。 ですから、「心の貧しい」ということは、むしろ「可哀想な人」ではなくて、「誰よりも明るく輝いている」と言うことではないかと思います。 ルカの福音書11:34-36
これが、「心の貧しい人」、イエス様がおっしゃっている人の明るさではないかと思います。ちょうど、明かりが輝いて人を照らすように、「心の貧しい人」には、明かりが輝きます。 信仰という基盤に立つならば、「心の貧しい」ということは、誇るべきことではないかと思います。ですけれども私たち罪人が、人間の性質から、「自分の心が貧しい」と認めることは、なかなか難しいことです。自分の力で認めたがらない。ですからイエス様が、それを認めてくださるということであります。 イエス様により頼むことによって、人の心が変えられ、「自分の心が貧しい」ことを知るようになります。 「心の貧しい者が幸せである」ということは、この世の常識とは全く異なるものであって、これが聖書の逆説的な意味です。 「この世の幸せ」とは、多くの場合、目に見える形で現われます。人は目の前にぶらさがっている「にんじん」を、だまって見過ごすことはできません。いかなる方法を用いても、この「『にんじん』を手にしたい」という意欲が強いのです。 苦労して手に入れた「にんじん」ですが、ひとたび食べてしまえば、それはなくなってしまいます。今日あっても、明日は消える運命、この「にんじん」そのものが、「この世でいう幸せ」ではないかと思うのです。 しかしここで、誤解のないように言いたいことは、財産のある人、地位がある人、欲しいものが何でも手に入る人、この人たちが天国へ行かれないということはありません。こんな人たちでも、天の御国に行かれるのですけれども、聖書は、「このような人は、それがとても、ほとんど難しい」と言っております。 マタイの福音書19:23-24
と書いてあります。「らくだが針の穴を通る」、これは「不可能」という意味でありますけれども、「余計なものを持っている人ほど、天の御国は、はるか遠いところにある」と聖書は言っています。 今日のテーマは、「幸せ」ということですけれども、ここに一冊の本があります。これは、「ヘレン・ケラー自伝」という本です。たまたま本屋さんに行って見つけたものなんですけれども、ヘレン・ケラーという人は大変有名な人ですので、日本人であれば、誰でも知っている人です。 特に小学生の子どもたちは、このヘレン・ケラーの本を必ず読んでいるのではないかと思います。僕も、本屋でいろいろさがしたんですけど、みんな児童書なんです。児童書というのは、中に絵が書いてあったり、漢字にかながふってあるんですね。ですから電車の中でこれを読んでいて、隣の人が見ると、とっても恥ずかしいんです。 まるで子どもの本のようなものなんですども、実はヘレン・ケラーの本は、大変多くのことを私たちに教えてくれます。日本にも過去3回来られた人ですけれども、この本を読むと、「本当の幸せ」とは、いったいどんなものであるか教えてくれます。 マルコの福音書8:18
同じようなみことばが、 エレミヤ書5:21
これは、私たち人間に対する警告であります。五体満足で健常者である多くの人たちに対して、「話せて当然」「見えて当然」「聞こえて当然」と思っている人に対する、大変な警告であります。 ヘレン・ケラーは、口も話せず、目も見えず、耳も聞こえない、3重苦の大変な苦労をされた方です。しかしヘレン・ケラーは、信仰の道に入って、あの3重苦にも関わらず、どんな人よりもよく耳が聞こえ、どんな人よりもよく目が見え、どんな人よりもよく口がきけた、こういう人であります。 もし私たちが、たとえば口がきけなかったとすると、これだけでもう絶望感と悲しみの連続と思います。死んでしまうかも分かりません。自分が生まれてきたことを、親にのろうかもしれません。 しかし、ヘレン・ケラーは、3重苦という重い病気を背負っていました。そしてヘレン・ケラーは、イエス様への信仰によって「自分ほど世界で恵まれた者はいない」と、いつも言っていたそうです。 そして、「自分より、もっともっと貧しい人、もっともっと症状の重い人、実際には3重苦より重い人なんて人は、そうはいませんけれども、そういう人たちを自分は助けてあげたい」という思いが強かった。それは、イエス様の愛を覚えたからであります。 本当に大切なもの、それは私たちの目には見えません。しかし心の目で見るならば、「この場にイエス様がおられる」ということも見えるはずです。だから、「目が見えない」「耳が聞こえない」「口がきけない」、このことに絶望することは間違いだということであります。 イエス様はご自身の計画によって、このような、ヘレン・ケラーのような人をお造りになった、と考えることもできます。 へブル人への手紙2:18
これはイエス様の十字架の上の苦しみです。ヘレン・ケラーは、イエス様ご自身が、私たちの罪のために十字架で苦しんでくださった、その「苦しさ」を、信仰を通して知ることになりました。 ヘレン・ケラーは2歳の時に、重い脳の病気にかかりました。そして失明、耳も聞こえなくなり、話せなくなりました。ヘレン・ケラーの両親は、大変なお金持ちだったそうで、かなり甘えさせて育てたようです。ですから、ヘレン・ケラーは気に入らないことがあると、すぐにかんしゃくを起こして物を投げつけたり、だだをこねたりと、大変な子だったそうです。 ある時、知人らによって、アレキサンダー・グラハム・ベルという人を紹介されました。この名前を聞いたことがあると思いますけれども、この人は電話を発明した人です。アレキサンダー・グラハム・ベルは、実は本当の専門は「話し方」、「点字の研究」とかそういうことをしていた人です。お父さんもおじいさんも、この「話し方」の専門家だそうです。 このグラハム・ベルが、著名な医者をヘレン・ケラーの両親に勧めました。そしてヘレン・ケラーの両親は彼女を連れて診察に行ったんですけれども、医者は首を横にふって、「これは、絶対治りません。私の手には負えません」、ということになりました。 グラハム・ベルはその時に、ヘレン・ケラーのために家庭教師をつけることを提案しました。そして、ある日やって来た家庭教師の名前は、アン・サリバンという女性です。アン・サリバンは非常に貧しい家の出でした。しかし、彼女は敬虔なクリスチャンでしたので、とても幸せな家庭を持っておりました。 このことから、「貧しいからといって不幸ではない。富んでいるからといって幸せではない。本当にあるのは、イエス様の愛」ということを、このアン・サリバンは、ヘレン・ケラーに教えたのです。 ですから、このアレキサンダー・グラハム・ベルと、アン・サリバンという人がいなければ、ヘレン・ケラーという人は、この世に出ることはなかったと感じることができます。 そして、アン・サリバンは、ヘレン・ケラーに言葉を教え、勉強を教え、そして大学を卒業させました。何と、アン・サリバンの手によってヘレン・ケラーは、大学を「最優秀」の成績で卒業したそうです。 ドイツ語、ラテン語、美術すべてが最優秀です。この世で秀才と呼ばれる人がたくさんいますけれども、しかし「最優秀」になるには、五体満足の健常者でも、それはそれは、先ほどの話ではないですけれども、「らくだが針の穴に入る」ほど、難しいと思います。しかし、3重苦のヘレン・ケラーは、何と、すべての学問で「最優秀」だったそうです。 言葉は、アン・サリバンという人が、ヘレン・ケラーの手のひらにスペリングを書いて教えたそうです。そしてヘレン・ケラーは、人よりも、誰よりも、うまくしゃべれるようになった。アン・サリバンとヘレン・ケラーの信頼関係は、死ぬまで続きました。 これは、12月27日の読売新聞の読者の投稿欄に出ていた記事ですけれども、「外見よりも中身を」という記事なんです。ちょっと1〜2分で終わりますので読ませていただきますと、 「子どもの幼稚園や小学校に行くと、髪の毛を金髪や茶髪に染めている子どもが多いことに気づかされます。中には、ピアスまでしている子もいるのには驚かされます。 子どもたちから希望してそんないでたちをしているとは思えません。こんな幼い頃から髪を染めたら、毛髪が弱ってしまいます。何のために、小さい頃から目立った格好をさせようとするのか分かりません。 子どもの修学児検診で『子どもが金髪にしているので、いじめられないか心配しているので配慮して欲しい』と発言していた母親もいました。見かけよりも中身、心を大事にした家庭教育の充実こそが必要だと思います。」 この中で一番のポイントというのは、「見かけよりも中身」ということが書いてあります。多くの人が、「見かけよりも中身」と思っているのですが、実際はそうはいきません。やっぱり外見が先にたってしまいます。 これは、人間という私たちのペースで世の中を生活しているからであります。しかし、イエス様のおっしゃっていることも「外見よりも中身」であります。この違いは、心の目があるかないかではないかと思うのです。 ヤコブの手紙1:12
まさにこれは、ヘレン・ケラーの人生にぴったりの言葉だと思います。「本当の幸せ」とは、「神様を信じて、神様のご支配のもとに生きる」、このことだと思います。 先ほども言いましたけれども、ヘレン・ケラーは、「本当に、自分ほど恵まれた人はない。恵まれた人生を送った者はいないのではないか」と最後の最後まで思っておりました。イエス様は、ヘレン・ケラーを通して、「苦しみは愛なり」ということを伝えようとされたのではないかと思います。 イエス様は、ヘレン・ケラーをただ苦しみ悩ませようとしたのではありませんでした。 哀歌3:25-33
主はこのように愛をもって、もしかしたら最初は苦しいと思うでしょうけども、最後はちゃんとあわれんでくださるということです。私たちが「健康だから幸せ」「お金があるから幸せ」「地位があるから幸せ」と言えること自体、間違っています。 この世で考えるならば、ヘレン・ケラーは絶望そのものである。しかし彼女は、自分自身、「イエス様からのあふれんばかりの愛をいただいて幸せであった」ということであります。 コリント人への手紙第I、10:13
と書いてあります。 ヘレン・ケラーの毎日の厳しい「試練」、その意味は、「幸せを手にするため」の言いかえれば「関門」のようなものであったと考えることができます。 ハードルを飛び越えれなければ、「試練」は、この「ハードル」のようなものでありますから、どんなに高くても私たちが飛び越えられないほどのものではないということなんです。本物を手にするために、「試練」は、いつも私たちの目の前に広がっております。 ヘレン・ケラーの祈りは、「自分の目を開けて欲しい」「耳が聞こえるようにして欲しい」「口が話せるようにして欲しい」というものではありませんでした。彼女の祈りは、「自分より、もっと苦しんでいる人、悲しんでいる人が大勢いる。その人たちのため」の祈りでした。 彼女の存在は、荒れ果てた砂漠のようなこの世にも、必ずきよい人がいるという安らぎを私たちに与えてくれるものであります。 人は、心の貧しさゆえに、天国への道は約束されています。これが、信仰を持つ者にとっての幸せという意味であると思います。イエス様からいただくこの幸せとは、永遠に輝き続けるものでありま す。 最後に、一つの新聞の記事を読ませていただきます。これは、カナダのオンタリオ州、ハミルトンという小さな町で発行された、ずいぶん前になる新聞の、クリスマスの記事です。 「世に知られる小さな村に、ユダヤ人を両親として生まれた一人の男がいた。母親は、貧しい百姓女であった。彼は、30になるまで大工の小屋で働いていた。 それから旅回りの説教師として、3年を過ごした。一冊の本も書かず、決まった仕事もなく、自分の家もなかった。 家族を持ったこともなく、学校に行ったこともなかった。自分の生まれた家から200マイル以上、外に出たこともなかった。 偉大な人物につき者の、目を見張らせるような経歴等ないから、自分を見せることが、唯一のたよりであった。裸一貫、持って生まれた力以外に、この世との関わりを持つものは何もなかった。 ほどなく世間は、彼に敵対し始めた。友人たちは、みな逃げ去った。その中の一人は、彼を裏切った。 彼は敵の手に渡され、まるごとの裁判に引きずり出された。彼は、十字架に釘付けにされ、二人の盗人の間に立たされた。 彼が死ぬ寸前、処刑者たちは、彼が地上で持っていた唯一の財産、すなわち彼の上着をくじで引いていた。彼が死ぬと、その死体は降ろされ、横たえられた。 そして、長い2,000年の時が過ぎ去り、今日、彼は人類の中心であり、前進する、光輝く隊列の先頭に立っている。 かつて進軍したすべての軍隊、かつて開かれたすべての議会、かつて統治したすべての王たち、これらをことごとく合わせて一つにしたとしても、人類の生活に与えた影響力において、この人に勝る人は、皆無であった。 その人は、イエス・キリストである。」 イエス様の生涯の、まことに美しい描写であります。 ありがとうございました。 |