九死に一生を得る


柿沼兄

(吉祥寺福音集会、2005/09/11)

引用聖句:マタイの福音書16章24節-25節
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

先日のロサンゼルスキャンプを通して、私はいくつかの御言葉が与えられたので、それを最初に拝読したいと思います。5つほどあります。救われた者の幸せ、喜びの御言葉だと思います。
ロスの方々は本当に御言葉に喜んでおられました。

箴言16:20
20みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

ロスは、やはり交わりがたいへん少ない所です。それぞれが本当にベック兄のテープとか本で皆さん支えられています。
そのような中で、この世に起こるいろいろな問題にどのように判断したら良いかわからないという問題を抱えている方も、何人も参加されておられました。交わりの中で次の御言葉が与えられました。

箴言17:17
17友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

このようにソロモンは言っています。私達救われた兄弟姉妹はイエス様とのつながりだけではなく、兄弟姉妹とされた者が悩みを分かち合い、支え合うことをロスのキャンプでも痛切に体験致しました。

箴言20:12
12聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。

ただ、この世の聞く耳、見る目ではなくて、主の御言葉を聞く耳、そしてその御業を見る目を、私達救われた者に与えてくださったことを覚えました。

箴言20:24
24人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。

本当に私達は救われて光の中を歩んでいるつもりでも、現実に出てくるいろいろな問題を通してすぐ主から目がそれて悩んでしまう者です。
しかしそれは、もう主から見れば当たり前のことであって、私達はいつも主に立ち返ること、そして与えられること、理解するのではなく御言葉が与えられ支えられること。

箴言27:19
19顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。

私達はロスで救われてる兄弟姉妹、そして悩んでるまだ救われていない兄弟姉妹とお会いしました。その心は本当に顔に映ります。何か、本当に仲間として喜び合ってる中で、まだ踏み切れない方の表情。その表情と、主に救われた者は全く違う表情であったことを強く感じました。
今日の引用聖句は、イエス様に救われて歩むという御言葉ですが、今日のテーマとして「九死に一生を得る」という日本のことわざ的なことから考えてみたいと思います。

ひとつの例として、荒れてる海で船に乗ろうとして、桟橋にたくさんの人が待っていたとします。そしてその中で、荒海に一人の人が落ちてしまいました。その場合、その人を私達はどういうふうに見るかを考えてみたいと思います。
私達は、自分と関係ない人が落ちた場合には、助かればいいなあと考えると思います。それから、私達が懇意にしているとか、家族とか兄弟姉妹、身内であったなら、絶対に何をしても助けたい、救いたい。自分で飛び込むことがあるかもしれません。
しかしその落ちた人が、いつも良くされない友人であったなら、いい気味だと思う立場の人もいるかもしれません。そして一番問題なのは、憎む人を海に突き落とす者にもなりかねない。私達はこのような罪を負った者です。

救われる前は、いつも少しはいい人間であったと自分たちは思いながら生きてきた。これは皆さんそうだと思います。しかし、救われて主の前に立った時に、私達は深い、自分自身でさえも気が付かない罪にまみれた者であったことを示されてしまいます。これは原罪であります。
創世記の中でアダムとエバが神との約束を破って禁断の木の実を食べてしまい、そしてこういう御言葉があります。

創世記3:8
8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神の前から私達は隠れなければならない。そのような罪を負ってしまった者として、ずっと私達は生きてきました。そして主は、そのような者を憐れみを持って救うためにイエス様を遣わしてくださいました。

先日、ロスのキャンプでも、まだ救われていない方とお交わりをさせて頂きました。
共にすべてのことに参加されてる中にあって、どうしても納得できない所がある。そういう所で、いつもいま一歩、主に明け渡して救われ得ないということを、いろいろ交わってもなかなか自分自身が踏み切れない、そのような方々に何人かお会いしました。
イエス様の救いは、頭で考えていても、確かにこれはどうしようもないことです。次の御言葉、

コリント人への手紙第I、15:44
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

このように聖書の中に出ています。確かに私達は肉の体で罪を負って生きて来たのですけど、救われた時に主の御霊が私達に宿る。御霊が宿って初めて、主なる神との交わりが私達に生きた者として与えられるのです。
そして、どうして信じられないかってことなんですけど、ベック兄が、「ごめんなさい。ありがとう。よろしく。」と、簡単にこの3つを持って救われるよとおっしゃってくださいます。

この3つなんですけど、私達が生きて来た中にあって、救いは全くそれまで体験できなかったことであったと思います。
私は、いつも交わる時に証しさせて頂くのですけど、私の娘が突然死にそうになった時に、私はその再会ができるというただひとつの目的のために、「イエス様、助けてください。」と叫びました。
そしてその後、家庭集会に一回行ったのです。ご挨拶という認識でベック兄に会って最後祈って別れました。

それから4ヶ月ほどして、軽井沢のキャンプで娘が洗礼を受けるので立ち会おうということで、私の家内と二人で行った時にベック兄が、「一緒に、洗礼しなさい。」といきなり言われたのです。
私は何がなんだかわからなくて、何も、聖書も分からない、本当に困り果ててどうしたら良いかなと思ったのです。
天国で召された者と再会できる希望はうれしいけど、そのプロレスとして信仰を持つことが自分自身には理解できなかったのです。

兄弟姉妹がいろいろ交わってくださっても、意味が理解できないし、聖書もほとんど読んでいませんでした。全然わからない。
そして次の日、断りきれなくて承諾して、本当に主の前で、信じない者というかわからないまま、私は信仰は持てないということで、洗礼は形だけ受けるけど二度と来ない。なんか船が岸壁に着いて、みんなに押されて片足が船に乗ってて、そのうち船が離れだして、しょうがなくてとりあえず、船に乗ってしまったって感じでその時洗礼を受けました。
そしたらその時本当に喜びが私に湧いて、涙が出て、本当に心が静まって、「あ、これが救いだ。」とはじめて体験したのです。

体験しないと救いはわからないということを、その時初めて示されて、本当にイエス様の救いがあるんだということに驚きとともに、「これからは、じゃーこの信仰で歩むんだ。」と、もうその時に思いました。
そしてまた、その船から陸に戻ることはなく、漕ぎ出された信仰の船は多少の荒波の中は通りましたけれども、主にある平安と希望を与えられて今に至っています。
話が長くなってしまいましたが、先ほどの踏み切れない、信じ切れないという方に、そこで止まっているといつまで経ってもイエス様に救われることができない、

ローマ人への手紙10:9-10
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

このように書いてありますと、このようなプロセスでないと何か救われないのかなと思ってしまいます。
私自身は、確かに口で告白したというのは、天国で会える望みを持って、「イエス様、助けてください。」と叫んだ。そしてその叫びを主は聞いていてくださったのかなと思いました。
そして主が、その望む必要の時には、私はそのような形で本当にイエス様の救いを体験することができました。

しかし弟子の中にも、なかなか信じられなかった記事があります。それは復活の時にトマスという弟子が、イエス様の復活を信じられなかったというところがあります。

ヨハネの福音書20:27
27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

私達は本当に肉は疑い深い、そして自分自身じゃなく他人に厳しい体質は変わらない。ですから先ほど私の救いの時に、この場は仕方がないけど、もう二度と来ない、信じないという者に対して、マラキ書に次のような言葉があります。

マラキ書3:10
10――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

まず信じてみなさいということです。その主が本当に生きて働いてくださるかどうか。そのように言っています。

マラキ書3:16-18
16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

このように神に仕える者と仕えない者は、神が本当によくご存知である。それが私達自身に明らかになるとおっしゃってくださっています。
救われた者にとって、まさしく聖書に書いてある通りです。コリント人への手紙第Iに記されています。パウロがコリント人に話した言葉です。

コリント人への手紙第I、2:9-10
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

このように御言葉は話しています。信じられるか、信じられないかという話しなんですけど、私達がこの世で生きていくために人との生活の中で、本当にすべて確信を持ったつきあいや、社会の中で生きてるということがるかどうか。
救われる前までは違和感もなく受け入れていました。しかし主の前に立たされたとき、私達がいかに不合理な社会の中で生きてきたかということが示されます。

このイエス様が受け入れられないということは、私達が今まで体験したことのないことに対して拒否反応が出てるだけであって、私たちは常日頃から、そのような理屈に合う生活の中にいるとは決して言えないと思います。
そして、救われるその私達の歩みというものは、神の深みにまで及ばれるからですと書かれています。私達は本当に自分の罪の深み、その分イエス様の愛の深み、このふたつのことが非常に信仰の歩みの中で明らかにされていきます。
ですからこの救いにまずは信じて欲しいということを、未信者の最後で踏み切れない方に、特に交わりの中で祈って言わなくてはいけないことだなと示されました。

それでは私達が救われて御霊によって歩む中にあって、霊的な成長をしていかなければ、私達はその喜びが本当に揺るがない喜びとして信仰の歩みができなくなってしまいます。

ローマ人への手紙14:19
19そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

ヘブル人への手紙5:12-14
12あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
13まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

このように書かれています。
乳ばかり飲んでいるような「乳」とは、主から一方的に頂く恵みのようなものではないでしょうか。私達がどうであっても、乳は一方的に与えて下さいます。そして子は育ちます。それはどのようにするのでしょうか。

ガラテヤ人への手紙5:24-25
24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

私達は、この乳ばかり飲んでいる信仰に留まるのではなく、自分自身が自分を十字架につけて歩みなさいということを、霊的成長の中で言われているのではないでしょうか。
私達が救いの喜びにただ甘んじているのではなく、救われてイエス様の救いを確信し、イエス様の御手の歩みの中にあって私達自身が負っている罪のひとつひとつが明らかになる。
その交わりを通して、また主から与えられている試練を喜びに変えるその訓練を通して、私達は自分自身を十字架につけて霊的成長に歩むことができます。ルカの放蕩息子の箇所を見てみます。

ルカの福音書15:25-32
25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
26しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

このように、確かに放蕩息子のお兄さんのお話しは、この世にあっては常識的な判断だと思います。
しかしこの中でお兄さんは、主なる神といつも一緒にいたというふうに考えられます。そしてこの兄さんは、戒めを一度も破ったことがないと言うふうに、当然品行方正のお兄さんであった。
しかしこの兄さんは、弟が帰って来た時に、お父さんと一緒に喜んであげることができなかったという事実を持って、私達にイエス様は何を語ろうとされているのでしょうか。

私達が、乳を与えられてイエス様の救いを喜ぶ。そして主と共に歩む中にあってこのように戒めを守る。私達は戒めを守れる可能性はあります。
しかし霊的成長とは、自分自身の罪を十字架につける。そして主が与えてくださる恵みと、その恵みが十分自分自身の荷物として消化できた時に、自分の持っている深い大きい罪が明らかに出てきます。
このことができると私達は心から喜びが倍になります。そしてそのようにお兄さんも、このお父さんと一緒にこの牧場を共に歩んでいたら、このお兄さんもお父さんと同じに喜べたはずです。

私達の信仰はまさに主に依り頼み、その中にあって自分自身を本当に十字架につける、そのような環境に導かれるように祈る必要があります。
集会の祈りとか、交わり会とか、そのような所で私達はより主の御業、愛の深さを知ることができます。そしてそこで喜ぶとき、私達は霊的成長が与えられます。
そしてこのように主と共にいることが何よりも喜びであると感謝することができる。そのことを通して私達は人としての歩みができる。人としての歩みができるということは、自分自身がイエス様の命として生きて歩むことではないでしょうか。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

このようにイエス様が、自分自身をすべてイエス様に明け渡す、「イエス様が私達の心の中に生きて働いて下さい。」とそのように祈り続ける必要があるのではないでしょうか。
私達は主によって救われて、このような滅びの道から今は永遠の命と、そのことを通して希望、日々の平安が与えられています。まさにダビデが詩篇の中で言った御言葉です。私達は、いま生きて歩むことが恵みとして与えられています。

詩篇1:2-3
2まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
3その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。




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