主はわが旗(アドナイ・ニシ)


黒田禮吉兄

(吉祥寺福音集会、2011/05/08)

引用箇所:出エジプト記17章15節-16節
15モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
16「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

兄弟に読んでいただきました出エジプト記の17章15節から16節を読みますと、モーセはアマレク人との戦いの後、祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼んだとあります。
アドナイ・ニシとは16節によれば、「主の御座の上の手」のことだと書かれていますが、どうも意味がはっきりしません。むしろ15節の脚注をご覧いただきますと、15節の脚注のところに「主はわが旗」と書いてあります。この方が私にとっては明快であります。
祭壇において、モーセの掲げた旗は、敵に対する勝利の旗でありました。神はご自分のご性質の一つをアドナイ・ニシとして、モーセに現されました。

礼拝とは、このように私たちが主の勝利の旗を掲げ、主に感謝し、賛美することを意味するのではないかと思います。
今日は、この「主はわが旗」ということについて、出エジプト記の17章をご一緒に読みながら学んでみたいと思います。17章8節。読んでいただきました箇所の1ページ前になりますが、17章8節からもう一度読ませていただきます。

出エジプト記17:8-16
8さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
9モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
10ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
11モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
12しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
13ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
14主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
15モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
16「それは

『主はわが旗』

出エジプト記17:16
16のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

最後のところは、私が勝手に「主はわが旗」と読み替えて読んでみました。

ご承知のように、イスラエルの民がエジプトから出発したとき、主なる神は、イスラエル人に近道を通らせずに、あえて荒野の道に向かわせました。一つの理由は、彼らが長年奴隷であり他民族と戦える状態になく、武器もなかったからであります。
しかし、ついにイスラエル人の前に敵が現れました。このとき襲ってきた敵、アマレク人は創世記に出てくるエサウの子孫と言われていますけれど、先祖のエサウのように野生的で、好戦的な民族でした。
イスラエルの民は、どのようにしてアマレクと戦ったのでしょうか。四つに区切って、ご一緒に考えてみたいと思います。

第一番目は、神の権威によって戦ったということであります。モーセは、ヨシュアを戦いの指導者としてたて、戦いに出て行くよう命じました。
ヨシュアは戦いの訓練を受けていないイスラエル人を率いて、わずかな武器を持って、それでも恐れることなくアマレク軍に挑んでいきました。
このとき、モーセは神の杖を手に持って、戦いを見下ろすことのできる丘の頂に登ったのです。そして、戦場を見下ろしながらモーセは手を上げたのであります。

モーセが手にしていた、神の杖とは何でしょう。元々は、羊飼いであったモーセが羊を追うのに使っていた道具に過ぎません。
けれども主なる神が、最初にモーセに声をおかけになった時に、その杖は神の杖に変えられたのであります。
出エジプト記4章の1節から5節を読んでみたいと思います。

出エジプト記4:1-5
1モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」
2主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
3すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
5「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」

出エジプト記4:17
17あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。」

必要なときに杖は蛇に変わり、杖はそれでナイルの水を打つと水を血に変え、葦の海に向かって杖を差し伸ばすと海が真二つに割れる、奇跡の杖にしてくださったのです。
モーセが手にしていた杖は、もはやモーセの杖、羊飼いの杖ではありませんでした。それは、神の杖になっていたのです。この杖を通して、神ご自身が力あるしるしを行なわれます。
神の杖は、神の権威の象徴であります。ヨシュア記の1章9節。

ヨシュア記1:9
9わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

主はモーセとともにおられたように、ヨシュアにもこのように語られました。
ダビデも、確信に満ちた祈りをする者でありました。そのところを読んでみたいと思います。詩篇27篇の1節。

詩篇27:1
1主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

3節、

詩篇27:3
3たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

神の杖を通して、神の力をヨシュアとイスラエルの民は知ることができ、主はイスラエルとともにおられるとの確信を持って、自分たちよりもはるかに強い敵に立ち向かうことができたのであります。
ここで、もう一つ大切なことは、ヨシュアのモーセに対する態度であります。ヨシュアは、モーセが言った通りにしてアマレクと戦ったと書かれています。
新約聖書のテサロニケ人への手紙第I5章の12節。

テサロニケ人への手紙第I、5:12
12兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。

同じようなみことばになりますが、ヘブル人への手紙の13章17節。

ヘブル人への手紙13:17
17あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

ヨシュアは、主によって立てられたモーセの権威に従順に従ったのであります。結局イスラエルの民は、神の権威によって、主の御名によって、戦ったのであります。

第二番目の点は、祈りをもって問題に立ち向かったということではないかと思います。
モーセが神の杖を持って手を上げているときには、イスラエルが優勢であったとおあります。言うまでもないことですが、モーセは神ではありませんから、モーセが手を上げたから勝ったのではありません。
モーセが天に手を差し伸べて神に祈り続けたから、イスラエルは信仰の力によりアマレクを打ち破り勝利を得たのであります。

戦争した経験も、訓練も受けておらず、武器も持たない彼らが、精錬された軍隊に打ち勝った。これは、まさに主なる神のなせるわざであり、また信仰の力ではないでしょか。
私たちが、問題や困難と取り組まなくてはならないときにも、自分の知恵や力に頼ることなく、主に祈りつつ、主なる神の助けを求めることが大切ではないでしょうか。
祈りを通して、神様からの知恵や力が与えられ、自分では不可能と思えることの中に、主がみわざを現してくださるのであります。ローマ人への手紙12章12節。一文章だけですけれども。

ローマ人への手紙12:12
12望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

とあります。
もう一箇所、エペソ人への手紙の6章の12節。よく知られているみことばですが、12節から18節を読ませていただきます。

エペソ人への手紙6:12-18
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15足には平和の福音の備えをはきなさい。
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

三番目のことは、互いに支えあって祈り続けたということであります。
モーセが手を上げているときには、イスラエルが優勢になり、手を降ろすとアマレクが優勢になりました。この戦いの勝敗は、ヨシュアによるのではなく、モーセのとりなしの祈りにかかっていたのです。
それゆえモーセは、手を上げて祈り続けなければなりませんでした。しかし、次第に手は疲れ重くなってきて、やがて手は降りてきてしまいます。

そこでアロンとフルは、モーセを座らせ、両側からモーセの手を支えました。ですから、モーセは日没まで、手を上げ続けて祈ることができたのです。そして、その結果、弱いはずのイスラエルは大勝利をおさめたのです。
どんなに熱心に祈っていても、やがては疲れを覚えることがあるのではないでしょうか。一人だけで祈っていても、次第に祈れなくなってしまうことがないでしょうか。
私たちは、どんなに信仰熱心であっても、一人だけでは弱い者です。ですから、私たちは互いに支えあい、励ましあって祈ることが必要なのであります。私たちは、主にある兄弟姉妹と、互いに支えあって祈ることができるのであります。

マタイの福音書26:40-41
40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
41誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

本当に私たちは、弱い者であります。

ヤコブの手紙5:16
16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

もう一箇所、ローマ人への手紙の8章26節、27節を読ませていただきます。

ローマ人への手紙8:26-27
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

私たちは、目の前の現実に一喜一憂するのではなく、絶えず祈り続けることが求められています。
イスラエルの民がアマレクと戦ったこの箇所は、祈りの必要性、重要性ということを説いています。
しかし、これだけで終わりではないのであります。

四番目に、これは今日の主題の一つでもあります。勝利を与えてくださる主を礼拝したということであります。
ヨシュアは、アマレク人たちを剣の刃で打ち破りました。しかしモーセは、戦いの勝利の栄光を、決して自分自身にも、ヨシュアにも帰すことはありませんでした。
モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシ、『主はわが旗』と呼びました。その旗は、戦いにおける勝利の旗でした。これは戦いにおいて、主がイスラエルの先頭を進まれ、主ご自身が敵と戦い、自分たちに勝利を与えてくださったという意味であります。

モーセは祈りに答えて、イスラエルに勝利をもたらしてくださった主を、賛美、礼拝したのであります。
主の戦士であったダビデの例を、詩篇から見てみたいと思います。

詩篇20:5-7
5私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。
6今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
7ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

私たちが、神のみことばに従って祈るとき、主はすべての願いをかなえてくださるのです。ダビデは、そのことを確信し、勝利の旗を掲げたのであります。そして、いくさ車や馬ではなく、主の御名を誇ろうと祈ったのであります。
主は、私たちにとっても、アドナイ・ニシなるお方です。どんな状況の中にあっても、私たちは決して一人ではなく、主がともにいてくださり、主ご自身が先頭に立って戦ってくださり、勝利を与えてくださることを覚えるのです。
そして、問題や困難の中にあっても、祭壇を築き、アドナイ・ニシなる主なる神に信仰をもって賛美と祈りを捧げるのであります。

イスラエルに勝利をもたらしたのは、人間ではなく、祈りに答えてくださった主です。この勝利の主を、信仰の目を持って見上げることが大切ではないでしょうか。
祈りは、この地上という荒野における信仰生活に与えられた武器であります。私たちにとってのアドナイ・ニシ、信仰の旗は、いったい何でありましょうか。
私たちにとってのアドナイ・ニシ、それは、イエス様の十字架ではないでしょうか。イエス様は十字架上で、アドナイ・ニシ、主はわが旗として、掲げられたのであります。ルカの福音書の23章の33節、34節を読ませていただきます。

ルカの福音書23:33-34
33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

イエス様が、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださったとき、そこから罪の赦しととりなしの祈りがなされました。
その時、イエス様の両手は高く上げられたのであります。イエス様の両手が降りないように支え続けているものがありました。それは、左右の御手に強く打たれた太い釘でありました。
結果としてイエス様は、モーセのように、膝をかがめ両手を挙げ続け血潮を流し続けながら、十字架上で祈られたのであります。ですから、イエス様の捧げられたとりなしの祈りこそ、今日、アマレクと戦うイスラエルなる私たちに圧倒的勝利をもたらす主の力なのではないでしょうか。

イエス様は十字架で、血潮にまみれた両手を上げて膝をかがめて、とりなし祈られたのです。
この十字架の祭壇こそ、アドナイ・ニシ、主はわが旗、そのものであります。
旧約聖書のイザヤ書の13章の1節、2節。

イザヤ書13:1-2
1アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。
2はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、はいらせよ。

イザヤ書の13章は、バビロンに対する神のさばきのメッセージであり、同時に終末における神の審判をだぶらせて書かれている箇所と言われております。
彼らとは神の全軍であり、それらが貴族の門、すなわち、バビロンの場内に入り占領することを示しております。
そして、戦い開始の旗が良く見えるようにと、はげ山の上に主の旗を高く掲げるのであります。

私たちの多くは、主によって救われ、贖われた者であるにもかかわらず、自分たちの信仰を隠すことによって、この世の迫害にたちして本能的な対応をします。
しかし主は私たちに、高い山の上で高らかに賛美の声をあげ、御名の上に堅く立つことを望んでおられます。
なぜなら、私たちが、イエス様の御名を宣言し、主の旗を高く掲げるために堅く立つとき、敵と戦ってくださるのは主ご自身であられるからです。

神は聖く強固で、神の素晴らしさを喜ぶすべての者を、約束の地を所有させるために旗の周囲に集まり、神とともに戦いに参加するよう召集されています。
東日本の大震災もあり、終末を思わせるこの時代にあって、私たちがいつも御霊なるイエス様を自分の心にお迎えし、自分たちの生活を通して主を証しし、旗を掲げるとき、私たちはイエス・キリストこそ主であると、宣言する旗じるしを掲げることになるのではないかと思います。旧約聖書、雅歌の2章4節。

雅歌2:4
4あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。

主なる神は、ひとり子イエスを私たちのところにお送りになり、それによって、ご自身の無条件の愛を示されました。
私たちは愛なる神に仕えているのですから、私たちも愛をもって神に応えていくべきであります。私たちの生活の中でイエス様を高く掲げ、私たちの生活をもって神の愛を表す旗として歩みたいものであります。
聖書を一箇所読んで終わりにしたいと思います。ローマ人への手紙の8章の35節。

ローマ人への手紙8:35
35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

ローマ人への手紙8:37-39
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。




戻る