引用聖句:ローマ人への手紙15章13節
今年の春くらいからたびたびお見舞いに行く機会がありました。そんな時に人間的な慰めの言葉は、どのようなものであれ空しいものであると思わざるを得ませんでした。 聖書のみことばだけが、慰めと平安と希望を与えるものであると確信していましたが、でもなかなかふさわしいみことばが見つかりませんでした。しかし、最近になって今読んでいただいたみことばを示されました。一言でもって希望が与えられるみことばじゃないと思うんです。そしてこのみことばによって、祈るように導かれました。 私たちの神は、望みを与えてくださる方です。私たちにとっては不可能に見えても、私たちの主にとっては、不可能はない。そして、私たちに今理解できなくても、主はいつも最善の道を備えてくださるのではないでしょうか。読んでいただいた箇所をもう一度読ませていただきます。 ローマ人への手紙15:13
パウロは、イエス様に出会って信じ救われた人々に、このように書いたのです。彼の心からの主に対する叫びであり、祈りでした。 信仰があっても、人間はやはり悩む者で苦しむ者です。けれども、その時必要なのは、望みの神に頼ることです。どのようにして人間は喜び、平和、望みに満たされるのでしょうか。パウロは答えています、「信仰によって。」、つまり主なる神に信頼することによってと言っています。 私たちは救われていても苦難に会うと、運命だからと思ってあきらめてしまう者ではないでしょうか。 けれども、聖書の言っていることは、人間はどういう状況に置かれていても、絶対にあきらめる必要はない。主は、望みの神であられるからです。 単なる偶然ということはない。主が、はっきりとした目的を持って導いてくださる、そのように聖書に書かれています。ですから、この主に私たちは頼ることができます。そしてパウロは、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいと祈りました。 私たち信じる者の生活において、最も大切なことの一つは、御霊なる主が、信じる私たちの内に宿っていてくださる。そして私たちの助け主として、いつも共にいてくださるということを 確信することではないでしょうか。 しかし、そうは言っても私たちは、現実を見るとすぐに喜びをなくし、希望を失う者であります。どのようにしたら私たちは、望みの神を見上げることができるのでしょうか。 今日は、創世記からアブラハムの歩みを、ご一緒に見てみたいと思います。 創世記12:9-20、13:1
信仰の父アブラハムにも、このような失敗がありました。 約束の地カナンに激しい飢饉がやって来ました。アブラハムは、主と相談することなく、自分の判断でエジプトに下りました。信仰的に見れば、アブラハムはカナンの地にどどまるべきでした。約束の地にいるならば、必ず神の助けがあると信じて、その試練を乗り越えるべきでした。 しかし、彼は自分の判断で妥協する方を選びました。神の御心からはずれている時は、アブラムも信仰の人ではなく、意気地なしでありました。自分の身の安全を守るために、妻のサライに頼んで妹だと言わせています。そして妻を危険にさらすようなことをしたのであります。 しかし、ここで神が介入され、アブラハムとサラは窮地から救われました。この時、アブラハムは大変に恥ずかしい思いをしています。それは、主から厳しい叱責があったのではなく、異邦の民であるパロにこう言われたからであります。 「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」こうして、一行は振り出しの地ネゲブに戻ったのであります。 なぜアブラハムは失敗したのでしょうか。この事件の前後の聖書の箇所を読んでみますと、なぜ、アブラハムが不信仰に陥ったのかが明らかになります。 創世記12:7-8
創世記13:3-4
このように書かれています。アブラハムは、カナンに入ってからその行く先々で祭壇を築き、礼拝をささげ、主からの力をいただいていました。ところが、ネゲブに移ってからは、祭壇を築いたことは記されていません。 神への礼拝が途切れた状態で、飢饉に見舞われたアブラハムは、エジプトに下ってしまったのではないでしょうか。 主なる神によって、窮地を脱し、アブラハムは最初に築いた祭壇の場所で、再び礼拝をささげることができたのであります。 創世記20:1-2
アブラハムは、一度ならず二度も同じような失敗を繰り返したのであります。 アブラハムがまたしても、自分の妻を妹と紹介したことによって、サラはゲラルの王アビメレクによって召しいれられました。 ゲラルとは、ペリシテ人の支配する町であります。なぜ、アブラハムがゲラルに滞在するようになったかは解かりませんけども、マムレの樫の木のもとにある生活を離れた結果、アブラハムは神の安息を失ってしまったのではないでしょうか。 しかし、再び主の介入があって、妻サラは無事帰されました。この時もアブラハムに、主からの咎めはなく、アビメレクにこのように言われました。 「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」 ここで、アブラハムは苦しい言い訳をしています。「この地方は、神を恐れることがないとか、サラはアブラハムにとっては、母ちがいの妹であるから妹というのは本当だとか、事実であったのかもしれませんが、偉大な信仰者である者にあるまじき、本当に卑怯な見苦しいアブラハムの姿が見られます。 アブラハムにとっては、二度にわたって繰り返してしまった、大変に屈辱的な出来事でありました。 そして自分が負うべき罪を、異邦の民が肩代わりしてくれ、自分は主から何の咎めがないこと、そのことはかえってアブラハムの心を打ち砕き、身の置き所もないほど恥じ入ったに違いないのではないでしょうか。 またサラにも頭があげられなかったのではないでしょうか。 私が、小学校の頃だったと思いますが、ある時、私は弟に意地悪をして苛めていました。そして弟は、父のところにそのことを訴えに行きました。私は、きっと父にひどく叱られると覚悟をしていましたが、その時父は、弟に兄である私に従うべきことを言い聞かせ、私にはいっさい何の咎めもありませんでした。 明らかに悪かったのは私の方でありました。普段から厳しい父から、何の咎めも受けなかった私は、その時父から叱責以上の無言のメッセージを受け取ったことを、今も忘れられません。 なぜ主は、このようにアブラハムの失敗に介入されたのでしょうか。それは主は、アブラハムを祝福すると約束されたからであります。皆さんよくご存知の箇所だと思いますが、創世記12章1節から3節にこのようなみことばが書かれています。 創世記12:1-3
アブラハムが失敗を犯す前に、主はこのように約束を与えられました。この約束を果たすために、主はアブラハムとサラを守られたのであります。サラが、異邦人の子供をもうけることがないように、主がアブラハムとの約束を果たすために、守ってくださったのではないでしょうか。 アブラハムは、深い悔い改めに導かれたにちがいありません。たとい一時的に不信仰に陥っても、主は、アブラハムのそして私たちの悔い改めを待っておられるのではないでしょうか。 主なる神が、アブラハムを大いなる国民とするとの祝福の約束を仰せになったのは、彼が75歳の時でありました。しかし、10年間その約束が叶えられることはありませんでした。そして、こんどは妻サラが、主の時を待つことができませんでした。 創世記16:1-4
サラが、アブラハムにハガルを与えた行動は、この当時の習慣であり、サラに子供が与えられなかったことから判断して、やむを得ないことのように思えます。 しかし、その結果サラの思惑ははずれ、女奴隷ハガルがサラを見下げるようになりました。サラのしたことは、神の前に正しくなかったのです。彼女は神の約束を信じて待つことができなくて、自分の考え、判断で最善と思えることをしたのです。彼女は人間的な判断で歩むことによって失敗したのであります。 サラに同調したアブラハムも、もちろん同罪であります。ハガルがアブラハムにイシュマエルを生んだ時、アブラハムは86歳でした。それから、主は13年間も沈黙されました。そして彼が99歳になった時に、主は再びアブラハムに現れたと聖書は記しています。 ローマ人への手紙4:18-21
パウロが書いているように、アブラハムとサラも望みえないときに望みを抱いて、最終的には主の約束を信じたのであります。 アブラハムはサラとともに、自分たちの思いで行なった結末を見て、背後におられる神を恐れ、その約束を信じるようになったのではないでしょうか。 ローマ人への手紙8:24-25
ヘブル人への手紙10:35-36
主なる神は、アブラハムがそしてサラが失敗し、あるいは絶望に陥ることをなぜ良しとされたのでしょうか。それが必要であったからであります。私たちが失敗し、絶望する時、私たちは自分に頼ることをやめ、主に祈り、主のご支配に身をゆだねるようになるからではないでしょうか。 私たちは、少しばかり祈っても答えがいただけないと、すぐに祈りが聞かれなかったとか、あるいは御心ではなかったというような者であります。信仰においても、結局自分で何かをしたいと思う者であり、役割を演じたいと思う者であります。 しかし、イエス様はそうではありませんでした。 ヨハネの福音書5:19
ヨハネの福音書5:30
読みましたみことばから解かりますように、イエス様はご自分の意思を持たず、常に天の御父の仰せのとおりに歩まれました。十字架への道はまさにそのような従順と忍耐の道でありました。 イエス様の最大の祈りとは、「わたしの思いではなく、あなたの思いが成るように。」でありました。これこそイエス様がいつも取られた態度でありました。 そして、そのイエス様の贖いの死によって、今私たちは生きる者へと変えられているのであります。 ルカの福音書22:42-44
どうでしょうか、私たちは祈っても祈っても、主の答えを見つけることができないと思う者ではないでしょうか。しかし、聖書は祈りはすでに聞かれていると語っています。 ヨブ記37:21-24
ヨブ記は、皆さんよくご存知のように、潔白で正しく、神を恐れていたヨブが、理由もなく試みを受ける話であります。 すべてを失い、自らも悪性の腫物で全身を打たれたヨブを慰めようと、3人の友達がやって来ます。けれども3人の友人は、結局のところ因果応報、すなわち過去の善悪の行ないの報いをして、現在の結果がもたらされているのだと、そのように述べるだけでありました。 ヨブは、次第に頑なにされ、「神に正義はあるのか」とそのようにまで言うようになります。そして、4人目の若者エリフが登場し、語った最後の言葉が今ご一緒に読みました箇所であります。このすぐ後で、主は、嵐の中からヨブに直接仰せられる38章へと続く大切なみことばであります。 主は、エリフを通してヨブにこう呼びかけておられたのではないでしょうか。 「あなたの訴えは、神の御前にすでに届いている。あなたは、そのことを信じ、神の時を待つべきなのだ。太陽の光は見えなくても、雲もかなたで輝いている。主の答えも、今は隠されているが、その時が来れば明らかになる。だから、神を恐れなければならない。」そのようなメッセージが語られているように思います。 最後にみことばを3箇所読んで、終わりにさせていただきます。 ヨハネの福音書13:7
ローマ人への手紙8:28
詩篇62:5-8
私たちは、本当に主の時を待てない者であります。しかし、主は望みの神でありますから、この方に信頼し、忍耐して待ち望みたいものであります。 ありがとうございました。 |