引用聖句:ローマ人への手紙8章26節-27節
今、兄弟が言われましたけれど、仕事を失うっていうことは、兄弟方にとっては大変なことではないかと思います。仕事を変わるっていうことは、本当に大変つらいものがあります。 好きで変わっているわけではないっていうのが、ほとんど皆さん、そうだと思うんですけれども、自分の心の内側をじっくり見たときに、そういったことも分からされるのではないでしょうか。 仕事が無くなれば、当然悩むことになると思います。当然、それなりに大きな事情があったのでしょうし、会社全体としての仕事がうまくいかない面もあったのでしょう。 私たちの周りでは、うまくいかないことだらけが続いている。そのうまくいかないことの中で、毎日生活しているのが現実ではないでしょうか。 兄弟方にとっても、仕事がうまくいかないというのは、よくあるでしょう。そして、夫婦の問題では、夫婦仲がうまくいかない。うまくいっているように、仲良しに見えるけれども、実は本当の心からの一致は無いとか。親子関係についてもよく聞かれます。 親子と、自分の息子と何年も口も聞いたことがないとか、そういったこともよくききます。何もかもうまくいかない。思い通りにならない。当然、毎日の生活に満足感がない。そのように思っておられる方も、結構いらっしゃるのではないでしょうか。 結局私たちは、生きていること自身がうまくいかない、ということではないかなあというふうに、思ったりもいたします。信仰は与えられたけれども、とにかくつらい。疲れ果てた。そういった言葉も、多くの人から聞くこともあります。多くの方がまた、体験されていることでしょう。 しかし信仰者の中の、また一方の多くの方々は、自分は何と幸せなんだろうと、言っておられる方も多くいらっしゃいます。イエス様は、この私を愛してくださり、いつも、どんなときにも、最善に導いてくださる。そのイエス様に感謝しています。 そう仰っている方々。自分は、そのどちらにいつも属しているのでしょうか。 大切なことは、みことばだけが自分の頼り手になっているかどうかということではないでしょうか。みことばを信頼すれば、勇気がわいてきます。みことばを信頼すれば、主が守ってくださる、ただそれだけが私たちの守りではないでしょうか。今読んでいただいた箇所もそうです。 ローマ人への手紙8:26-27
すごい守りのみことばではないでしょうか。 もう一箇所。ヘブル人への手紙の12章。先ほど礼拝の時にお読みした、イエス様が私たちに与えてくださっている、罪との闘い。 ヘブル人への手紙12:5-7
ヘブル人への手紙12:11
ヘブル人への手紙12:14
救いの、また、勇気づけられるみことばではないでしょうか。主が必ず守ってくださる。主はご計画をもって、私たちを導いてくださっている。本当に希望のみことばではないでしょうか。 そしてまた、 ヨハネの手紙第I、5:14
何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。こう言える人は、何と幸いなことでしょうか。 みことばに頼り、主を信頼し、すべてのことをゆだねることができる。どんな状況下にあっても、どんなにうまくいかない状況下にあっても、平安を与えてくださるイエス様に心から感謝します。つらい中にあって、そう言える人は、本当に幸せな人ではないでしょうか。 しかし、この、うまくいかない自分の人生について、人に解決を頼ればどうなるのでしょうか。頼られた人は、まずこう言われるでしょう。「あなたは正しい。」と、そうアドバイスしてくださるでしょう。 そして、多くの慰めの言葉をかけてくださるでしょう。人を信頼し、人を見て訴えれば、人を見て言う人のところにま、当然相談に行くでしょう。ですから、慰められ、相手のせいにし、そしてその問題が仕事であれば、仕事から逃げることも考えさせられるでしょう。 仕事が悪い。会社が悪い。会社を辞めることも考えるでしょう。また、夫婦のことであれば、離婚までも考えてしまうのではないでしょうか。 人は自分にとって最も都合の良いことを考えてしまいます。そして、自分の都合の良い考え方を、御心ではないかと自分に言い聞かせてしまうわけです。御心だから会社を辞めようとか、御心だから離婚しようとか。主が、自分の仕事を辞めさせようとしているとか、そのようになってしまうのではないでしょうか。 罠にかかってしまうわけです。私たちは、十字架の救いに授かった者です。が、しかし、その私たち、自分自身が、自分自身や、人に頼り、自分を満足させることは、その罪に支配された古い昔の生活に戻ってしまえば、いくらクリスチャン活動を続けていても、霊的にはまったく死んだ状態になっているということではないでしょうか。 ローマ人への手紙にはこのようなみことばがあります。 ローマ人への手紙8:13
とあります。もし肉に従って生きるなら、霊的に死んでしまうということではないでしょうか。救われた私たちは、滅びる人間から、神の所有物に変えられていきます。神の子どもです。 ローマ人への手紙8:14
とあります。 ローマ人への手紙8:15-16
ローマ人への手紙8:34-35
云々、とあります。 私たちは神の所有物、神の子どもとされました。御霊を受けた者とされました。しかしその私たちを、神の愛から引き離そうとするのはだれでしょうか。それは人間ではないでしょうか。そしてまた、自分自身ではないでしょうか。 自分のわがままを、自我を、自己の満足を求めたとき、私たちは罠にかかってしまうのではないでしょうか。 テモテへの手紙第I、4:1-2
云々とあります。 救われ、一見クリスチャンになりましたけれども、一見クリスチャンに見えても中身が古い、過去の肉に左右された、支配された古い自分になっている。そのことに、自分自身も気付かないでいたりしてはいないでしょうか。 テモテへの手紙第IIの3章。救われた私たちに対しての警告のみことば。新約聖書の多くの箇所、手紙を通して、みことばは私たちに警告の言葉をたくさん与えてくださっています。 テモテへの手紙第II、3:1
テモテへの手紙第II、3:5-6
云々とあります。 テモテへの手紙第II、3:7-8
とあります。大変厳しいみことばですけれども、私たち信仰者に対しての主からのみことばではないでしょうか。信仰は、本物の信仰は、私たちに対してどんな環境下であれ、私たちに平安を与えてくださり、喜びを与えてくださり、そして将来への希望を与えてくださいます。 が、しかし、似ているけれども、違った信仰に変化してしまえば、大変なことのなるのではないでしょうか。 信仰は、聖書の知識ではありません。知識はないよりあるほうがいいでしょう。そしてまた、敬虔な行ないでもないということです。そうではなく、信仰はイエス様とともに生きることではないでしょうか。聖霊さまとともに歩むことではないでしょうか。 心の奥底から、ともに歩んでくださるイエス様に感謝します、ということではないでしょうか。これは大変なことです。 仕事のことが先ほど出ましたけれども、私たち、自分の仕事のことでもそうですけれども、仕事のことでは本当に100%毎日、仕事、仕事で働いているのが、私の場合も現実です。 仕事は楽しいんです。仕事を失職した兄弟は、もう悲しかったんでしょうけど、どんな兄弟方でも、どんな仕事の内容でも、自分のやってる仕事は本当に面白いし、楽しいんです。 で、この世の現実の中で行動しています。ですから、この世の流れの中に乗って、それを規準にして動いて、そしてその中で自分の喜びを求めているわけです。ですから、いつの間にか仕事が100%、この世が100%と、引き込まれていくわけです。 当然仕事は、うまくいく場合といかない場合があります。うまくいっていれば、自分の力の結果として、自分を誇ってしまいます。うまくいかなくなれば、これもまた人のせいにして、自分は正しかった、だけど相手が悪かったと、自分に言い聞かせ、高ぶる者となってしまいます。 このような経験も、多くの兄弟方が、姉妹もいらっしゃるでしょう、経験しておられることではないでしょうか。自分自身もやはり仕事のことでは、多くの問題を抱え、とにかく売り上げて、利益がないと、会社はやってけないわけですから、大変苦しみを伴うわけです。 早く受注して、何とかしなければという一方で、今は主の恵みを待つときが与えられている。主がされていることだから、今が最善のときである。そうですから感謝します。 心の中では、イエス様に感謝する思いと、そしてまた自分自身で何とかしなければいけないという、その思いが対立して、争いが起こっているわけです。 現実に起こることが、態度に表われてしまう。そういった中、ちょっと気が付いた、好きなみことばなんですけれども、ペテロがイエス様から、「舟を下りて歩いて来い。」と言われたときのみことばがあります。 ペテロは現実を見て、怖くなり、「主よ。助けてください。」と叫びました。イエス様は、「信仰の薄い人だな。なぜ、疑うのか。」と、言われた箇所。みなさんご存知でしょう。 本当にイエス様に頼って歩めば、何も恐れることはない。そして、希望が与えられている。向こう岸までたどり着くことができる。しかし波を見て、風を見て、少しでも疑いをもったとき、私たちは水の中に沈んでしまうのではないでしょうか。 イエス様からの希望の約束のみことばがあります。マタイの福音書7章の7節。イエス様が与えてくださった完全なる約束のみことば、そういう言い方が良いのかどうかわかりませんけれども。 マタイの福音書7:7
みことばを信ずることができるということは、何と幸いなことでしょうか。そしてみことばに頼り、すべてをゆだねることができるということは、素晴らしいことではないでしょうか。 「信仰の薄い人だな。」と、イエス様はペテロに語りかけました。信仰が薄いとか濃いということが、また、イエス様にそのことも認められているということは、何と私たちにとって希望のあることではないでしょうか。 私たちの信仰の状態は、イエス様はいつもご存知です。そして、いつも私たちのことを心配してくださっています。主はともにいてくださる。御霊さまが、深いうめきによって自分のことをとりなしてくださっている。そう確信できれば、本当に幸せなことではないでしょうか。 結局のところ私たちは、信仰を与えられた私たちは、もう一人では生きていけないということではないでしょうか。主とともに歩むということです。 人と歩むということではないわけです。イエス様と歩む。聖霊さまと歩む。イエス様との本心からの交わりと、悔い改めの生活が、大切なことではないでしょうか。 主にあって、真実の祈りの交わり、そして自分の家族との正直な交わりが必要でしょう。そしてまた、敬愛する兄弟姉妹との心からの交わり。嘘のない、本心で信頼して、正直な、かけひきのない交わりが大切ではないでしょうか。 正直な交わりを保ち、いつも、イエス様との個人的な関係を求めて、そしてそれを証しすることではないでしょうか。主がともにいて、そのことをなしてくださる。 主に、イエス様に、悔い改めることはないだろうか。イエス様に、今、逆らっていることはないだろうか。自分の力で、今何かしようとしているのではないだろうか。常にそのことを問い続けることが大切ではないでしょうか。 十字架の赦しに戻ることです。自分のやってしまう罪や行ないを反省して、それを悔い改めとすることではありません。イエス様に、その聖霊さまに逆らっていることはないだろうか。そのことを悔い改めることが重要なことではないでしょうか。 私たちの犯す罪や行ないは、もうすでに、二千年前に、イエス様の贖いによって赦されています。私たちが悔い改める必要があることは、私たち自身が、その聖霊さまに逆らって生きている、ということではないでしょうか。 マルコの福音書12:29-31
主を愛し、求めよ。そして、私たちの隣人を自分自身のように愛しなさいと、言ってくださっています。 私たちは、自分の家族を愛しているでしょうか。自分の家族や親戚、知人、多くの方々と関わっていますけれども、本当に愛しているのでしょうか。 もっとも身近にいる自分の奥さんを愛しているでしょうか。奥さんは、自分のご主人を本当に愛しているでしょうか。また、親は、子どもたちを本当に愛しているでしょうか。 一人で、奥まったところで、本当の自分を捜してみることも大切なことではないでしょうか。そうしたとき、静まって自分を見たとき、本気で喜べない自分を見つける。見つけ、寂しく、また虚しさを感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。 ある地方の集会で、ご主人の救いについて、自分の情けなさに気付いて、本気で喜べない自分について、証しをされた方がいらっしゃいました。ご主人・・・ (テープ A面 → B面) 何もしない自分を見て、心が重苦しくなってしまうということでした。聖書のみことばには、 マタイの福音書12:31
という箇所もあります。自分自身の中に、その聖霊さまに逆らう者を見つけたとき、本当の悔い改めが求められるのではないでしょうか。苦しくなるでしょう。それは、主が望まれているということは知っているけれども、ほかのことで目的をすり替えているからなんです。 気が付いているようで、気が付いていないこともあるでしょう。そしてまた、気が付いているけれども、気が付かないふりをして、目の前のことに一生懸命になることもあるでしょう。 主の前に正直に、主に従って生きていきたいが、異なる自分がほかのことをまたさせてしまうわけです。多くの方々が、このことも体験されているのではないでしょうか。 ペテロが、「イエス様を知らない。」と、鶏が鳴くまで三回否定すると言われた箇所があります。この箇所は、人の内側を代表した出来事ではないでしょうか。 イエス様は、「きょう、鶏が鳴くまで、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と仰いました。 ルカの福音書22:54-62
私たちの心の内側を代表しているみことばではないでしょうか。人は無意識の中で、自分のことのみ大切にしてしまう者です。知らないでしたことに気が付いたときの、私たちのイエス様に対する態度が大切ではないでしょうか。当然ペテロの態度になってしまうでしょう。 悔い改め、自分は正直ではなく、自分のわがままを優先する者である、そして自分は何もできない者であることを認め、解決をイエス様に聞くことが、問題の解決の最大の方法ではないでしょうか。 家族の救いは、私たち自分の家族にかかっています。私たちの生きる目的は福音です。私たちは、キリストの使節とされているわけです。罪滅ぼしではありません。罪滅ぼしで自分を慰めることが信仰生活ではないわけです。 本物の信仰生活は、罪を赦してくださった二千年前のイエス様の十字架の贖いを土台とした、悔い改めと祈りの生活ではないでしょうか。 イエス様が、その御霊さまが、ともに働いてくださるのではないでしょうか。イエス様は私たちのことを、山の上で光を放つ世の光だと、例えてくださっています。 私たちは、燭台の下に隠れる者ではなく、上に置かれて輝く者だと、みことばを通して語ってくださっています。人が生きるに大切な塩にも例えられています。 マタイの福音書5:13-16
福音に与った私たちは、罪の中で滅びていく者から、イエス様の所有物に変えられました。生きる立場がまったく変えられたわけです。神の子として、世の光として、私たちはイエス様から位置づけされています。 主とともに生きる。 聖霊さまを決してないがしろにしてはいけないのです。消してはならないことではないでしょうか。最後に一箇所読んで終わります。 テサロニケ人への手紙第I、5:16-19
テサロニケ人への手紙第I、5:10
本物の信仰生活とは、そういうものではないでしょうか。主とともに、二人三脚で歩む。その聖霊さまを決して、消してはならないのではないでしょうか。 毎日の生活で、本当にイエス様に逆らっている自分を見つけ出し、悔い改めたとき、喜びと平安とそして、何と言っても希望が与えられます。 仕事の中にあって、イエス様がともに働いてくださいます。すべての中にあって、生活の中にあって、平安を与えてくださってるのではないでしょうか。生きて働かれるそのイエス様に心から感謝して終わります。 |