引用聖句:エペソ人への手紙4章32節
ちょうど、向こうも桜が咲いています。今日はすがすがしいお天気です。家内が天気予報見て、「雨だわ。」と言っていたのですが、天気予報する人の思いと主の思いが違ったようで感謝です。 数が月前、エペソ人への手紙を全部読むように示されて、その時、この4章の32節がとても心に残り、このみことばによって心が癒される思いがしました。 エペソ人の手紙は、今まで何度も読んでいても、32節にこんなすばらしいみことばがあるのかと思わされました。口語訳聖書では、次のようになっています。 エペソ人への手紙(口語訳)4:32
比べてみると、心優しい、親切と、新改訳聖書はとてもわかりやすいですね。心優しい、親切。暖かさを感じます。 毎日、何とはなしに、心にこのみことばが思い出されてそらんじるというか、口ずさんでいるうち、みなさんもそう思うと思いますが、妻に対して、夫に対して、集会の人に対して、未信者の人に対して、「親切にし、赦し、」と言われると、それだけで、まいってしまうと思うのですね。 「あ、今日は親切な、心優しい人になろう。」と思っても、1時間で、みじめな思いになると思います。でも、ここで言われている大切なメッセージは、親切にしなさい、心優しくなりなさい、赦しあいなさいと言うよりも、その後の「神がキリストにおいて、あなたがたを赦してくださったように。」というこのみことばが、32節のキーワード。いや、むしろ、聖書全体のキーワードになっていることを示されました。 もし、この真中のみことば「キリストにおいて、赦してくださったように。」という言葉なしに、お互いに親切にし、互いにゆるしあいなさいと言われても、それは、自分の頑張りや努力になり、それはとてもできないと思います。 それを、まじめに誠実にやろうと思うと、もう、いわゆるクリスチャン・ノイローゼになって、「私はなんてダメな人間だ、なんと罪深い人間だ。私のような人間は、イエス様に受け入れて頂けない。今日も、ごめんなさい。」で、「ごめんなさい」、「ごめんなさい」で、行き詰まって、自己破産してしまうのではないかと示されました。 でも、このみことばの間に、「神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように。」というみことばがまさに、福音ではないでしょうか。 神が、御子イエス様をこの地上にお送りくださって、救い主を送ってくださって、私達の罪を赦してくださった。そのように、お互いに親切になり、心の優しい人になり、赦しあいなさいということが、とても重要なことであり、わたしたちを主が赦してくださったということが、聖書全体が私達に送り続けているメッセージです。 エレミヤ書15:16
聖書のみことばは、私達の霊的な糧になります。壁にかけて飾る芸術品ではなくて、実際に食べて、そおみことばが、私達の心の喜びとなる。 マタイの福音書11章28節にも、心優しくへりくだっているからと、イエス様はご自分で自己紹介されていますが、その優しくという言葉が、エペソ人への手紙でも出てきています。それは、「イエス様と同じような人になりなさい。」と言われているようで、私達は、「そんなことできるか。」と言ってしまいます。エペソ人への手紙を書いた、そういうパウロは、どういう人だったかを、今日は学んでみたいと思います。 使徒の働き8:1-3
サウロは、パウロの前の名前です。サウロは、ものすごく迫害に熱心でした。自分のすることはひとつも間違っていない。神を冒涜する、とんでもない、いかがわしい者がはびこってると、怒りに燃えていた。 使徒の働き22:4
自分は、そんなに激しい迫害をしたとパウロは語っています。 使徒の働き9:1-4
使徒の働き9:13-16
読んでいただけばわかると思いますが、注意して読んでみますと、多くの聖徒たちを次々と捕え、死に至らしめたパウロに、ここで何もとがめ立てをなされていない。 そして、「主よ、あなたは、どなたですか?」とサウロが尋ねたときに、「あなたが、迫害しているイエスだ、」と答えました。聖歌の459番をさっき歌いました。この2節が大好きです。 わたしたちは、バカでとんまでヘマをたくさんします。ヘマをした時、困りますから祈ります。小さいことからたくさんあります。「イエス様よろしくお願いします。」と祈ります。 先日は、法務局の印紙を数万円買い違えて返金できないとき、「イエス様、イエス様」と叫んだ時、イエス様は、「わかたっよ」とうなずいてくださるのを覚えました。 もし、これをまず家内に言ったら、「え、どうして、そんなことしちゃったのよ。」とたしなめられます。でもイエス様は、心優しくへりくだった方ですから、「ああ、そう、わかったよ。」とおっしゃるだけの方だなと、みことばからイメージしました。 「わたしは、心優しくへりくだっているから、私の所に来て休みなさい。私の荷は軽いから。わたしは、休ませてあげる。」とイエス様はおっしゃってくださいました。 わたしの所に来たら、まずお説教して、「あなた、ここにすわって、もっと悔い改めなさい。」と言われない。 ここでも、パウロに、「あなた自分のしたことがなんであったか、わかったのか。」とひとことも責められたとは、聖書には書いていないですね。 聖書はその通りに読みなさいとありますから。聖書は、ここでは、「あなたの迫害してるイエスだよ。」とおっしゃっただけです。 パウロは、イエス様じゃなくて、イエス様を信じた人を迫害してきました。だけども、迫害していたナザレの大工の、神を冒涜するイエスを信じる者を許しておけない。イエスが十字架で死んで、やれやれと思ったらとんでもない。それを信じた者がうようよしている。「もう、けしからん。」というのが、パウロの思いでした。 ですから、なぜ、私を信じる者を迫害するのかと言うべきところです。でもイエス様は、「なぜ、わたしを迫害するのか。」とおっしゃったのです。 パウロはそこで愕然としたのです。わたしの大事な、愛する兄弟姉妹である、信徒である者たちを迫害するのかとおっしゃられないで、「なぜ、私を迫害するのか!」とおっしゃいました。 ということは、パウロは、イエス様は墓に葬られていなくなったと思っていた。でも、そのイエス様の声が聞こえ、自分を打たれたわけです。そしてそのお方が、ご自分で神であることをわからせたと思うのです。 ここでパウロは、メシア像が変わったのです。そして、イエス様に対する態度が、180度変わってしまったのです。そして、迫害するどころか、絶対的な圧倒的な愛に、全身全霊がふるえる思いに導かれていくのです。 聖歌459番の2節も、「そんな愛を忘れて、道にそれた私を、とがめだてもしないで、迎え入れてくださる。」、もし私達が行き詰まって、そして失敗して、親切にもできなく、誰も赦すこともできず縛られ、自分がみじめになったら、この459番を静かに歌われたら良いのでは思います。 「とがめだてもしないで、迎え入れてくださる。」それがイエス様であることを、この時、パウロは、御霊によって学ばされたのです。 聖歌459番の2 そんな愛を忘れて、道にそれた私を とがめだてもしないで、迎え入れてくださる。 わたしをも愛して、死なれたお方は 神の子のイエス様、ひとりだけだ。 サウロに対して・・しかも、それだけではなくて、町にはいってしなければならないことが告げられました。 アナニヤが、「あんな恐ろしい男とはいやだ。」と言い、弟子達も、彼を恐れていました。本当うに、サウロ=パウロは、たいへんなことをしてきた人物だったんだと思うのですが、その人物に対して、使徒の働きで、主はこう言われたのです。 使徒の働き9:15
もう、いきなり、十何人飛び越して社長になった、大会社の社長さんがいましたが、もう、いきなり聖徒たち、12使徒を飛び越えるほどの選びの器として彼は抜擢されました。 「こんな人物に、こんなに、よくしてやっていいのか!」と私達は思いたくなります。でも聖書の言うことは、違うのです。 イザヤ書43:25
パウロのためでなく、自分のためではなく、ご自身のために、そむきの罪をぬぐい去り、もう罪を思い出さないと主は約束してくださった。 サウロはこのみことばが、やはり自分に向けられ約束されていたことに気が付いていた。 イザヤ書44:22
ホセア書14:4
エレミヤ書31:34
ダビデ王という王様がおります。詩篇の多くを記した素晴らしい僕です。でも彼は、ここにいるおそらく誰も犯したことのない大罪を犯すのです。 姦淫をし、殺人をするのです。主を知っているはずの、そして主によって油注がれたダビデが、大罪を犯すのです。自分の思いのままに姦淫を犯し、夫のウリヤを戦場の最前線に送り出して戦死させる。 詩篇32篇は、ダビデが罪にさいなまれ、平安をなくし、その時、主が彼をどのようにお取り扱いになったかを示しています。 詩篇32:3-5
口語訳聖書では、主に告白しようとした、その時と訳しています。主に告白するだけで赦されて、そんなことでいいのかと思う。普通の人はそう思うでしょう。 私の家内の父が、11月に召されました。義父さんとのやりとりで、こんな出来事がありました。8月の末ころ、待ちかまえて、挨拶もなにもなく、 「あれかね。キリストでは、『ごめんなさい。』って言えば、人を殺しても、赦されるのかね?」と、こう言うのです。もうその血相と言えば、すごいんです。わたしが義父からあんなに言われたことは、23年間、なかったんです。私に対して声を荒げたことない義父さんだったんです。 でも、その時はやせこけて、目をらんらんとして、正座して、こういうふうにして私につっかかってきたんです。「ええ、まぁ」と、言ってるうちに義父さんの怒りが爆発して、 「冗談じゃないですよ。わしは、曲がったことは大嫌いだ。」 あとで、義父さんは、イエス様信じて亡くなる前に、心にいろいろな葛藤があって、心にとがめとなったりして質問されてたことを知りました。でも、その時、 「信さん、見損なった。こんなくだらないもの信じてるなんて。」 困ったなと思いましたが、でも、「あ、そうだ。今、神様の義と、神様の愛について、これを語るきっかけを与えられたんだ。」と思うと平安になり祈りました。 その日義父さんが、縁側でひとりで座ってるとき、「義父さん、今朝ほど、人を殺しても、ごめんなさいすれば赦すのかとおっしゃいましたよね。神様は、義父さんといっしょで、どんな小さなことも、曲がったことも許せない。もう私達が心の中で憎いと思ったことも、人殺しだとおっしゃる方ですし、見抜く方なんですよ。」 そう言うと、義父さんは、「そうかぁ。」と言いました。 「だけども、イエス様をこの地上に送ってくださって、神様は義なる方であると同時に愛の方なんです。それは、私達の思いをはるかに越えて、ものすごく大きな愛のお方なので、『ごめんなさい』と言って、十字架にかかったイエス様を見つめて、あの十字架は、私のためであったと受け入れて、『ありがとうございます。』そうするとき、イエス様は、わたしに代わって十字架で死んでくださっただけではなくて、全部赦して何もしなかったように、雪のように白くして、喜んで迎えてくださるお方なんですよ。」 義父さんは、「そうか、聖書というのは、そういうこと言ってるのかね。」このとき、もう23年間で、はじめて福音を語ることができました。 義父さんは1ヶ月くらいたって、イエス様についてもう一度聞き、お祈りして、ぐうと変わっちゃいました。「もう、わたしは世界中で一番幸せだ。実の娘ふたりに、看病してもらい、幸せだ。」そして、眠るように義父さんは、神様の赦しを知って安らかに天に召されていきました。 そういうイエス様の愛に、わたしたちも預かることができるだけではなく、何人、人を死に追いやったかもわからないパウロも、この9章を見ますと、何もとがめだてられていない。 22章でも、そのことを自分で証ししています。そこでも、イエス様にこうとがめられたという記述がない。 ルカの福音書の15章の放蕩息子の記事を読んでいましても、お父さんは放蕩息子になぜ、あんなに財産をやっちゃうのか。彼が、遠くに見える、はるかかなたに、見つけて、お父さんのほうから走り寄って、息子をを抱いて口付けして、お兄さんがやっかむほどの宴会をして喜んでいます。 ザアカイも、ザアカイよ降りてきなさい。泊まりなさい。それで、すっかり変わっちゃうわけです。 「おい、ザアカイ。お前は、人のお金を余計に取ってるでしょう。だから、それを返してあげたら良いんじゃないの。」とか、イエス様がとがめられたとは聖書に書いてありません。 ザアカイはイエス様が泊まってくださる。誰も、ザアカイとおつきあいする友達がいないわけです。みんなが、イエス様を慕い、そのなかで、誰も来てくれないザアカイのところに、きょう泊まるよと一方的に、イエス様は泊まることにされたんです。 彼は、もうそれだけで、おそらく説教を聞いてもザアカイの心は、十分の1くらいしか返さなかったかもしれませんが、変えられたザアカイは、4倍にして返すと言うのです。 それほどのザアカイの心は、イエス様に赦された、自分の友となってくださったと言うので、なにもいらなくなっちゃったと思います。 姦淫の女も、本当は石打の刑で打たれなければならなかった。イエス様は、その女に対して、私もあなたを罪に定めません。行きなさい。再び罪を犯すことがないように。 イエス様にそう言われたら、生涯イエス様のみ声が、イエス様から離れないで、歩んで、イエス様のところに、いつも着いていったのではと思います。 それでは、当のイエス様はどういうふうであられたか。 マルコの福音書14:65
ここで、つばきをかけられた経験のある方、いらっしゃるかどうかわかりませんが、イエス様は手を縛られていたのだと思うのです。 ですから、つばきを吐きかけられ、それを拭うこともできなかったと思います。それは、たいへんな侮辱で、嘲られ、ののしられ、平手で打たれました。でも、イエス様は、なにも、とがめだてもしないで、それを受け止められたと想像できるのではないでしょうか。 イザヤ書の53章も見てみましょう。これは、旧約の福音書とも言われる所で、まさにイエス様の十字架の御姿がここに預言されていました。 おそらくサウロも、この53章を全部、暗記していたと思いますが、そのサウロが、あの自分が迫害したイエスが、この53章で預言されていたメシアそのものであったことを、彼は御霊によって示されたのではないでしょうか。 イザヤ書53:4-5
昨日も電話で相談を受けたんです。ご主人が何も口を聞いてくれない。もう毎日毎日、何も口を聞いてくれない。 ただ、自分は毎日イエス様を信じてる者として、朝の挨拶をして送り出し、帰ってくれば、とにかくできるだけ話しかける。でも、話しかければ話しかけるほど、うるさいと言われる。 息子に、「お母さんは、もっとお父さんの気持ちになって変わらないといけないのかしら?」と言ったんですって。そしたら、息子が、がんがんがんがんお母さんに怒鳴った。そしたら、自分が、なおさら、みじめになってしまった。 で、電話で「じゃ、もっと変わらなければならないって、思い当たることがあるんですか?」って、尋ねたら、「もう一生懸命やって、ごはんもお風呂も、挨拶も、通り一遍のこと全部やってる。」っておっしゃる。 息子さんは、どうしてがんがん言うのか考えると、「男の子は、叱咤激励して、そんなことでくよくよするんじゃない。」って、お母さんを励ますのにがんがん言ったみたいなんじゃないの。 「息子さんは、少し鬱で部屋にひきこもりだったんだから、がんがん言えて良かったじゃない。お母さんの味方になってくれてるんだから。」とか、話してるうちに、「そう言えば、そうね。」って。 「もう、それ以上なにもすること、ないんじゃないんの。ただ、姉妹は、イエス様をちゃんとあがめて、『私は至らないけれど、よろしくお願いします。もし、いけないことあったら教えてください。すぐやります。』って、気持ちさえ持ってれば、あとは、一生懸命頑張ってやることは何もないんじゃないんですか?」って言いました。 「息子さんに、明日の朝起きたら、昨日はありがとうって言ったらどう。」って言ったら、「ああ、そうします」ってうれしそうにされました。 ところが、何時間もしないうち、他の姉妹から電話かかって来て、「あの姉妹、ご主人のことで、悩んでるみたいだけど、なんだか教会も行ってるみたいです。どう思いますか?」っておっしゃるんです。 集会が今閉じられて、仕方なく行かれたのかしらねとか話してると。「そんなことして、良いんでしょうか?」って。「教会も悪魔の巣でもないし、前にベックさんに聞いたら、『教会にもイエス様信じてる人もいるし、逆に集会にも変な人いるよってっておっしゃってたし。ただ、集会の中で、集会だけが一番良いって、ほかは全部ダメて言う人がいたら異端ですよ。』とおっしゃてたので、異端の人は、みんな自分の所だけが一番良いと言う。集会の中でも、良い人もいるし、悪い人もたくさんいるし。」 ただ、ベックさん何を言いたいかと言うと、いかにイエス様を求めて、いかにイエス様と近く接近して、イエス様と一体感を持って信仰生活を送っているかですよね。 もう、集会も山の中におばあさんひとりいたら、集会に行けない。でも聖書をちゃんと読んで、イエス様がどういうふうにイエス様に接しられたこと。そして、同じようにイエス様に接して、いろんな交わりをして、場合によっては教会へ行かざるを得ないこともあるし、あんまり強く言われて、責められると集会にもどれなくなっちゃった人いるし。 わたしたちは、みことばをもって、人を裁いてしまうんですよね。 さっきのエレミヤ書にも、「親切にしなさいとあるのに、あなた親切にしてないから罪を犯している!」「あなた、ちっとも心優しくないじゃないの!」そうなると、どんどんみことばで、人を裁いていきます。 そして、「あなたは、私をちっとも赦してくれない。」なんてなっちゃう。みことばのその部分をつきつけると、みことばが私達をどんどん裁いていく。 イエス様が聖霊によってサタンの試みに会われた。聖霊によって荒野に追いやられた。サタンは何をしたかというと、聖書のみことばをもって主を試みていくわけです。ですから、それは私達が、イエス様を抜きにして、ただみことばだけで、人にあたっていくと、みんな裁かれちゃう。 ベック兄はある時葬儀で、「一番恐ろしい宗教は、キリスト教です。」とおっしゃいました。ということは、聖書はあまりにも完全な神の言葉ですから、この神の言葉で、人をマインドコントロールするなんて、いとも簡単です。だから、一番恐ろしい宗教は、聖書を使ってるいかがわしい宗教集団ですね。 そこで、どこが違うかと言えば、全部イエス様なしに、聖書の言葉をつきつけていくわけです。そうしたら、もうあげくの果てには、イエス様の十字架は失敗になってしまいます。 十字架で、わが神、わが神ってあんな泣き言言って、どうして人が救われるのかになっちゃうのです。そうなっちゃうと骨抜きです。 どうして私も、40年近く教会にいながら集会に来るようになったかと言うと、この集会はベターなんです。ベストではなくて。よりよくイエス様をあがめていられる集団だと知り、牧師にお願いしてお暇頂き、自分の人生にとって大切な時に、どうぞ集会に集わせてくださいとお願いして、今こんなふうにして、集会に集っています。 この集会に集って、イエス様に対する見方がどんどんどんどん変えられて、本当にうれしいんです。おそらく教会にいた時は、ダマスコのパウロも放蕩息子のこともよく聞いていましたが、なにもとがめず愛し賜うイエス様の愛がこんなにみなぎっていることを知らなかった。 ローマ人への手紙8:32、35、37、39
ガラテヤ人への手紙2:20
そしてわたしは、このガラテヤ人への手紙、2章21節が大好きです。ここにパウロの気迫があるのではないでしょうか。 ガラテヤ人への手紙2:21
ピリピ人への手紙1:21
コリント人への手紙第II、5章です。あら、もう時間になっちゃった。 コリント人への手紙第II、5:15
パウロは、目の見えなくなった3日間、死んだんですね。もう自分の力では何もすまいと決めたのです。それからパウロは、弱さを誇るようになりました。そして、喜んで迫害艱難も受けますと全うしました。 私達が救われたのは、結局は、イエス様と同じ姿に変えられていくことなんです。 ああしなさい、こうしなさいとエペソ人への手紙にはありますが、その前に、新しい人を着なさいとあるのです。真中の、ああしなさい、こうしなさいだけ読むと裁かれます。でも、キリストにあって赦されたように、という思いに満たされていくと、本当に変えられ、人を赦すことができるようになる。 エペソ人への手紙の3章の14節−21節です。これは、パウロの祈りである、主なるイエス様の私達に対する祈りです。 エペソ人への手紙3:14-21
ありがとうございました。 |