引用聖句:ピリピ人への手紙2章6節-11節
この2、3日間はだいぶ涼しくなって、だいぶ過ごしやすくなりました。でも今年もかなり暑い夏であったことを覚えています。毎年、夏の最高気温はどんどん更新しているんですね。 そういう記録がありますけれども、ちょっと昨日見てみましたら、やはり今年は去年よりも0.何度高くなって、とうとう41度を超えてしまったという、何か異常な状態が続いているんですね。 この世の終わりも近づいてくると何となく思わされます。 このように夏は暑い日が特に最近は続きますけれども、こうなると水が非常に恋しくなるのですね。 余談でありますけれども、私たち被造物はかなりの部分が水で出来ているのですね。ちなみに、その人間の体の約70%が水で出来ておりますし、野菜、果物の中には90%以上が水で出来ている種類もあるということでですね、このデータを見ても水は私たちが生きていく上で、なくてはならない大切な物質である、神が備えてくださった大切な物質であるということが解かるんですね。 今日は、まずこの水に関しまして、聖書の中に出てくる川と湖についての話からちょっと始めさせていただきたいと思います。 ご承知のように、イスラエルには、ヨルダン川という代表的な川があります。乾燥地帯であるイスラエルのこのヨルダン川の水によって、その周辺は緑で潤わされているのです。 乾燥地帯でも、いのちがあれば豊かに潤されます。ちょっと、神の恵みの川に例えて書かれている賛美があります。 詩篇65:9-13
この詩篇と同様に、ヨルダン川の水は流域に生息する動植物が、日々必要とする量をはるかに上回っている、そういうもので流域は豊かに潤されているのです。天からの恵みの水と言えるのではないでしょうか。 またヨルダン川の水は、目には見えませんけれども上流の山岳地帯を流れる時に、溶かし込んだミネラルなどの栄養分が豊かに含まれているのですね。これらは動植物の成長に必要な栄養素となっているのであります。 そして、ヨルダン川は二つの湖、ご存知のようにガリラヤ湖と死海に注いでいるのですね。ガリラヤ湖は、イスラエルの北端に位置していて、新約聖書の中にはゲネサレ湖、それからガリラヤ湖、あるいはテベリヤ湖という名前で出て来るのであります。 そして、ご存知のようにガリラヤ湖の西側にあるガリラヤ地方は、イエス様との関係が非常に深い地域なのですね。 イエス様は、このガリラヤ地方で子供時代を過ごされ、また生涯の多くの部分を、この湖のほとり、あるいは近くの町々で説教の働きをされました。 多くの奇跡もなされたのは、皆さんご存知であると思うのですけれど、そのカナの婚礼の話で有名な、イエス様の最初の奇跡もこのガリラヤのカナで行なわれましたし、山上の垂訓も近くの山でなされたのではないかと言われているのですね。 また4福音書に共通に出ているパンの奇跡なども、近くの山で行なわれたと書かれていますし、何よりもマタイの福音書によりますと、復活されたイエス様は、ガリラヤの山で弟子たちと会ったと書かれております。 また、ペテロをはじめとする多くの弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師であったんですね。彼らはこの湖から取れる魚で生計を立てていたということから、この湖は魚も豊富だったということです。何か調べてみると20種類以上の魚がそのガリラヤ湖には住んでいるということが出ていました。 ヨルダン川から流れてくるその豊かな栄養によって、植物もよく生長し、湖の周りは緑が豊かであるのですね。このようにガリラヤ湖は生きた湖なのですね。 それに対してもう一つの湖、死海ですけれど、これはイスラエルとヨルダンの国境に位置している湖です。ガリラヤ湖に比べると非常に大きな湖なのですね。死海は塩の海とか、アラバの海、東の海、そして単に海という名前で、旧約聖書の中にだけ出て来る湖です。 ガリラヤ湖を出てから、このヨルダン川はいくつかの川と合流して、大きな川となって死海に流れ込んでおります。ですからその流れ込む水の量というのは、ヨルダン川よりはるかに多いのですね。 そしてこのような大量の淡水が流れ込んでいるにもかかわらず、この湖は動植物が住むことができない湖、ですから死海という名前が付けられたのでしょう。 それは死海の塩分濃度が海水の約6倍もあるということで、海の魚でさえそこでは生活できないような環境になっているのです。もちろんですから一般の生物なども、その中には生活できないのですね。この両方の湖とも同じヨルダン川の水が流れ込んでいます。 それにもかかわらず、今述べましたように、大きな違いがあるのは何故でしょうか。それは、二つの湖が置かれた地形的な特長が原因であるとされているのです。すなわち二つの湖のきわだった特長は、二つの湖とも地中海の海面よりも低い位置にあるということ。 特に死海は極端に低くて、なんと海面下400メートルも低い所にあると言われているのですね。 ガリラヤ湖に流れ込んだヨルダン川の水の一部は、周辺の動植物の生命維持のために使用されますけど、ほとんどが再び下流のヨルダン川へと流れて行ってしまう。 入ったものがほとんど全部外に出ているという、したがってその湖の中にある塩分濃度というのは、一定に入ってきたものと同じくらいで維持されている。 言い換えればそのガリラヤ湖の水質は、生命を維持するのに適したものに直接されているという、これも神様の知恵であると思うのですね。 一方死海は、その水面が地中海の水面よりも極端に低いために、ヨルダン川から入った水をさらに他に流すことができないのですね。ですからそこに溜まってしまっているのです。 その周囲は高温で乾燥しているために、流れ込んだヨルダン川の水分だけがどんどんと蒸発して、塩分が先ほど言ったように海水の6倍ぐらいの高濃度、正確に言うと25%といわれたいますけど、そんな高濃度の食塩、塩分濃度のものなんです。ですから生物がその中で生活することができないのですね。 もちろん栄養素は必要でありますけど、栄養素が極端に多すぎると、かえって植物を枯らしてしまうということなんですね。少し長くなりましたので、これからの学びのために二つの湖の特長を要約させていただきますと、次の3点であるのですね。 第1番目、ガリラヤ湖、死海ともに同じヨルダン川の水が流れているということ。 第2番目、ガリラヤ湖は入った川の水をほぼ全量、自分で溜め込むことなく下流に放出するということ、ですからそのことを通して、自らが生き生きとしたいのちのある湖として保っているのですね。 第3番目、一方、死海は出口がないために、ヨルダン川から流れ込んだ水がすべて湖に溜まって、乾燥地帯であるために、その水分だけが蒸発してしまって、生き物が住めない死んだ湖となってしまっているということです。 そしてこの今まで見てきたガリラヤ湖と死海という際立った二つの湖の特長から、私たちはその2種類の生き方をしている人間を連想することができるのではないでしょうか。 すなわち、ヨルダン川を天からの恵みと私たちがいただく恵みと考えた場合、ガリラヤ湖は、いただいたものを惜しげなく他の人に与える人の姿を象徴しているのではないでしょうか。 そして死海は、そのいただいたものを出し惜しみして、すべてを自分の中に溜め込んでしまう人の姿を現しているのだと思うのですね。 それぞれのカテゴリーに属する人についての関連するみことばを、ちょっと見てみたいと思います。 まず死海のような人について、神の恵みを自分のためにだけ蓄えてしまうような人について考えてみたいと思います。 マルコの福音書7章20節から23節、イエス様はここで、生まれつきの人間の外側に現れる性質は、その人の内側に宿っているものであると、ここで言われているのですね。有名なところです。 マルコの福音書7:20-23
ここに書かれているように、生まれたままの罪の支配下にある私たちの心の中には、いろいろな良くない性質が存在しているということを言っているのですね。 ここにあるように、貪欲という性質もその一つであると、その結果、人の外側に自己中心で他人のことよりも、自分のことを大切にするといういろいろな行動が出てくるのですね。 人はこの貪欲という性質を持っているので、主からいただいた恵みを、できる限り自分のものとして蓄えておくことを望み、喜んで他の人に分け与えることを好まないのではないでしょうか。 喜んでできるとしても、それは自分にとって利益になる人、都合の良い人に対してだけであって、自分にとって利益にならない人、すなわち好まない人とか憎む人、自分に敵対している人に対して喜んで分け与えるというのは、なかなか難しいのではないかと思うのですね。 喜んであげることはできないですね。たとえ出来たとしても、心の中では嫌な気持ちを持ってしまうのではないかと思うのですね。 なぜならば、生まれたままの人は、死海のような心を持っているからと言えるのであります。聖書の中に、このような人のことについて書かれた所がありました。 箴言28:22
なかなかうまく当てている言葉ではないでしょうか。自分で財産を得ようとしても、かえって欠乏が来るということをここに言っているのですね。 このようにあせって貯めても、彼らが主からいただいた恵みをすべて蓄え込んでも、自分のためにはならずにかえって死海のように、自らを破滅に追いやるものであるということを言っているのですね。 こんどは新約聖書から見てみたいと思います。イエス様は、ここで次のようなたとえ話をされております。 ルカの福音書12:15-21
一人の金持ちの話が出ています。ある年、彼の畑は非常な豊作であったのですね。今持っている倉には納めきれない。そこで金持ちは、大きな倉を建てて豊作で有り余った穀物を、自分のためだけに蓄えようとしたのです。 しかし「これで安心」と思った時に、「今夜、命が取り去られる」と神からの宣告を受けたのでありました。彼は、貪欲に自分の肉の命を守るために、倉まで建て替えて、有り余る穀物を貯めましたけれども、最も大切ないのちのための蓄えはしていなかったと言えるのですね。 この話から、その死海のことを思い出されるのではないでしょうか。繰り返しになりますけれども、死海は大量に流れ込んでくるガリラヤ湖の恵みの水を、外に流れ出させない、ただ溜め込んでいる結果、砂漠地帯では最も大切ないのちの水を無駄に蒸発させてしまい、命がある者が生活できない死んだ湖としてしまったのでありました。 ちょっとこの話から思い起こされるのが、新約聖書のマタイの福音書6章29、20節ではないでしょうか。 イエス様がこんな警告をされたことを私たちは思い出すのではないかと思うのですね。 マタイの福音書6:19-20
こんどはガリラヤ湖に属する人について考えて見たいと思うのです。 詩篇112:4-10
箴言22:9
寄る辺のない人、どういう人だという条件はなくて、寄るべのない人に彼は与えているのでしょうね。そういう人は祝福を受けると書かれているんです。 使徒の働き9:36-39
こういう一人のドルカスの生き方が、ここに出ているのですね。この話の中で、36節から40節で、ドルカスについて書かれているのは36節、37節のたった2節だけですので、ドルカスについて知ることができることは限られています。 ドルカスは、やもめの世話をしたということが書かれていますが、彼女がやもめだったかどうかも不明であります。解かることは、彼女が一人暮らしをしていたということと、弟子と書かれていることから、ヨッパ地方に出来た初代教会の信者で、福音の奉仕やいろいろな活動をしていたと想像されるのですね。 一人暮らしで決して生活は豊かではなかったかと想像されます。しかし、それでも彼女は主から与えられた恵みと時間を惜しんで、自分だけのものとして溜め込むことをせずに、やもめのようなもっと貧しい、困っている人たちに分け与えていたのだと想像されるんですね。 彼女は主から与えられたものを、できるだけ主のために用いたいと願い、日々の生活に必要なもの意外すべてを差し出していたのでありましょう。物質的にも、奉仕においてもですね。 貧しいやもめたちは、物質的に支えられただけでなく、やもめたちの心も支えられ、彼女たちは、その希望を与えられていたのではないでしょうか。ドルカスはまさにガリラヤ湖のたとえに一致する姉妹ではなかったかと思うのですね。 ある時、彼女は病気になって死にました。彼女の働きは終わったように思いましたけれども、次の40節から42節を読むと、次のような奇跡が起こっていることが書かれているのですね。 使徒の働き9:40-42
彼女は、死んだ後も、よみがえらせていただいたその奇跡を通しても、主の福音がさらにヨッパ中に伝わっていったということが書かれているのですね。 今まで例にあげた3人の人、主からいただいた恵みの大きさは違うかもしれません。そしてまた奉仕の質も違うかもしれませんけれども、主からいただいたものを惜しみなく他人に与えるということは共通であった人たちなのですね。 そのような人は、主から喜ばれ、祝福を受けるのであると結論できるのではないでしょうか。 ドルカスは弟子として書かれていますけれども、使徒の働き6章に書かれている記述だけでは、どのような経緯でイエス様を信じるようになり、主の働き人となったかは知ることはできません。 想像できることは、彼女はある時、福音を聞き、イエス様が彼女の罪の解決のために、御位を捨ててこの地上に下ってきてくださり、十字架に架かり、死んでくださったことを知ったことを通して、救われたのですね。生まれ変わったのです。 ピリピ人への手紙2:6-11
まさにそういう恵みを知って、彼女はイエス様を救い主として受け入れました。イエス様を救い主として受け入れた時以来、天からのヨルダン川の水が、彼女の渇いた心の中に流れ込んできたものと思われます。 それまで、死海のようにからからに渇ききって、死んだような彼女の心は、豊かないのちの川の水で満たされたガリラヤ湖のようになったのでありましょう。 彼女と共にいてくださる主は、彼女の必要を十二分に満たし、彼女は何の心配事や不足をも感じなくなりました。生まれ変わった彼女の心を現していると思われるみことばをいくつか読んでみたいと思います。 マタイの福音書6:34
ピリピ人への手紙4:11-12
ピリピ人への手紙4:19
コリント人への手紙第II、9:8
「あらゆる恵みをあふれるばかり」とは、すばらしいことばではないでしょうか。彼女は、この主の恵みを体験したのですね。彼女は、その与えられた日ごとの恵みに感謝して、将来についての不安から完全に解放されたのでありましょう。 日ごとの糧以外、必要を感じなくなり、天からいただいたあふれる恵みを、自分の中だけに蓄えておくのはもったいないと思うようになり、その多くの人にその恵みを分け与え、そのことを通してさらに多くの人が、イエス様の恵みにあずかるようにと願うようになったのではないでしょうか。 そしてその願いを彼女は行動に移したのですね。 生まれながらの人間は、罪の性質ゆえに、主からいただいたものを惜しみなく与えるということはできません。救われた者といえども、古き性質は残っており、出し惜しみするものであります。しかし、先ほど読んだドルカスの例にあったように、イエス様の愛を知り、イエス様によって人生が大きく変えられた人は、残った古き性質がイエス様の新しいいのちによって、日々変えられていくものであります。 水は、高い所から低い所へ自然に下っていくのですね。私たちの口を大きく開けさえすれば、天のヨルダン川の水が、私たちの心に入り、私たちをイエス様の新しいいのちで満たしてくださり、肉の力、肉の努力では不可能のことも、イエス様は自然に可能としてくださるのですね。 必要なことは、自分の貧しさを認め、口を大きく開いて求めるだけであります。一言なんですけど、イエス様が仰っていることば、イエス様がある足なえに聞いていることばですけど、 ヨハネの福音書5:6
その「よくなりたい」という気持ちがあった時に、その気持ちをイエス様に申し出れば、イエス様は無代価で、いのちの水の必要な者には、いのちの水を必要なだけ与えてくださるのですね。 良い例かどうか解かりませんけれども、洗面台の洗面器の底にある排水溝の栓をはずしたままで、水道の蛇口を少し開けると、水は出てきますけれども、排水溝からほとんど抜け出てしまって、洗面器には全く溜まりません。 しかし、蛇口をどんどんと開いて、流れ出て来る水の量を増やしていくと、排水溝から出る水の量とバランスするようになって、洗面器の水はなくならないですね。さらに蛇口を開きますと、洗面器から溢れ出るようになって、これは何かの真理を現しているのではないでしょうか。 私たちが、恵みを多くの人に分け与えても、私たちの口をさらに大きく開いていれば、天からの主の恵みは私たちの中にどんどんと入ってきて、無くなることはないのですね。天の水貯めは無限大であります。私たちは、その出ていくものを心配せずに、口を充分に開きさえすればよいのであります。 あるいは、その蛇口をいっぱいに開けばいいのですね。イエス様は必要を満たしてくださいます。いくら開いても、天の水源の水は無くなることはないのですね。 私たちは、神に愛され、その愛のゆえに救いを受けた者であります。 しかし今、砂漠のように荒れ果てたこの世の中で、真の愛に飢え渇いている人、希望を失くしている人たちがたくさんいます。そのイエス様のご愛を受けた者にふさわしく、愛し合い、また、イエス様の真の愛を知らずに苦しんでいる人に、いのちの水であるイエス様の愛を知らせる人が必要があるんですね。 イエス様は、私たち一人ひとりの愛の行ないを通して、救われる魂が起こされ、神の家族が増えることを望んでおられます。 私たちからイエス様の愛を溢れ出させ、その愛が必要な人に流れ出ていくように、それぞれに何をしたらよいか祈るべきではないでしょうか。 日々の歌の107番にこういうことが書いてあるのですけれど、何かイエス様が語りかけていることばであると思うんですね。ちょっと読んでみたいです。 「1.救いも知らず、滅ぶ人に注がせたまえ、主の愛 2.救いを知らぬ人のために、今ささげます祈りを 3.愛の深さと犠牲の歌を、知らしめたまえ今こそ 4.希望を失い沈む人に、語らせたまえ主の愛 5.語り告げよ迷う人に、主と共にある安けさ 6.恵みの時は去り行く、急ぎ伝えよみことば」 いまだにイエス様が望んでおられることではないでしょうか。そのイエス様の御心を少しでもできたら幸いであると思うんですね。 最後にいくつかの聖句を読んで、終わりにしたいのですけれども、 マタイの福音書6:19-21
マタイの福音書6:33-34
ピリピ人への手紙4:6-7
今日はこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。 |