引用聖句:マタイの福音書11章28節-30節
こんばんは。それでは、マタイの福音書の11章の28節、29節、30節から学びたいと思うのですけれども、この完璧なみことばに、これ以上何を付け加えるものがあるだろうかというぐらいのイエス様の救いのみことばがここにあると思います。 そして、いちいち吟味してみますと、この3節の中から、イエス様という方が、いかにへりくだって、謙遜な方であるかということを改めて思わざるを得ません。 ですから、へりくだり、謙遜とか、そういう言葉を頭に置いていただいて聞いていただければ混乱なく聞いていただけると思います。 たましいに安らぎが来ます、とイエス様はここで約束してくださっているのですけれども、たましいの安らぎ、心の平安、これはもう、ここにいる私たち全ての者が本当にいつも絶えず、毎日欠かさず欲しいなと、心から願うものではないでしょうか。 だれでも求めるもの。それが安らぎ、平安であります。だからこそ世の中には人を楽しませたり、喜ばせたり、そういうことを目的としたものが満ち溢れています。 音楽であれ、映画であれ、何であれ、何とか人を楽しませよう、安らぎを与えようと、そういうことを試みるものが山ほどあると思うのですけれども、でも私たちの心に安らぎをもたらすものは、そういう一時的なものではなくて、やはり最終的なもの、決定的なもの、これこそ本物だというものでなくてはならないと思います。 答えを言ってしまえば、イエス様ご自身こそ、その方であると、その答えであると申し上げて全く差し支えございません。 そのイエス様は、私たち人間の安らぎが無い原因、安らぎ、安らぎと言って求めるからには、じゃあ今、安らぎが無いということを証明しているようなものですけれども、その安らぎの無い根本的な原因をご存知なのです。 たぶんパウロのこのことばは、それに当たると思うのですが、ローマ人への手紙の7章の24節でパウロは、 ローマ人への手紙7:24
と告白しました。私は、ほんとうにみじめな人間です。本当の意味で、どこまでもみじめな人間です。 ちょっとみじめな経験をした、というのではなくて、どこまでも、心の底の底までみじめな人間です。みじめな存在です、とパウロは、こういうふうに証ししたのですけれども、この証しを私たちも自分のものとするまでは、決して永遠の安らぎはやって来ないのではないでしょうか。 ですから、このパウロの経験、証しは、私たちひとりひとり全ての者に当てはまるものです。 もう少し砕かれた表現で、 ヨハネの手紙第I、1:8-10
パウロは、私は、ほんとうにみじめな人間ですと言ったことの中には、自分は本当に罪人である。本当の意味での罪人であるという意味合いが込められていたことは、間違いないところだと思います。 ですから、聖書が私たちに告げているのは、あなたには罪があるから悪いというのではなくて、その罪を認め、明らかにしないから悪い、ということを告げているわけです。 聖書は、私たちの罪そのもののゆえに罰するのではなくて、それを認めない、明らかにしない、明るみに出さないということに対して、厳しい目を向けています。 ですからパウロが、自分の本当のみじめさに気付いて、明らかにしたことは、そのままパウロの永遠の安らぎに連なっていきました。 パウロが自分のことを、ほんとうにみじめな人間ですと言ったのは、自分の存在そのものについて言ったのです。 でも、もしパウロの証しがそこで止まってしまったならば、本当にみじめなわけですけれども、そのあとのことばは、イエス・キリストのゆえに、感謝する、という、たちまち感謝につながっています。 ですからパウロと同じように、私たちも、自分の心の中の罪の姿を知って絶望したり、落ち込んだりいたしましたけれども、イエス様の十字架を仰いで、すぐに感謝に変わったことは、おそらく全てのここにいる兄弟姉妹の証しではないかと思います。 不思議なことに、ある日突然、本当に自分は罪人だなぁということが理屈を超えて示されて、だからこそイエス様は十字架につかれたのだな、ということが理屈を超えて心の中に入って来て、そのようにして私たちは救われたのではないでしょうか。 ですから、「安らぎ」という言葉を始めに申し上げましたけれども、心の安らぎの土台というのは、霊的な破産、本当に自分はみじめな者であるという、霊的な破産がそれであります。 イエス様は、「悲しむ者は幸いです。」とマタイの福音書の5章4節で仰いましたけれども、 マタイの福音書5:4
このイエス様の慰めのみことばは、そのままパウロに当てはまりますし、もちろん、私たちひとりひとりにも当てはまります。 その悲しみの度合いに応じて、悲しみが大きければ大きいほど、イエス様の慰めもまた、大きいものになります。絶望的な思いになればなるほど、たちまちイエス様の十字架の恵みが、喜びが私たちの心を覆うようになります。 ですから、たましいの安らぎは、やはりパウロが経験したのと同じように、霊的な破産、そして、イエス様の十字架。なにゆえイエス様は、あのように十字架に架かられたのかと、その答えとしての十字架を私たち自身が個人的に受け取るところにございます。 イザヤ書の53章で、イエス様の十字架のそのみじめさが、いかなるものであるか、ということが表わされておりますけれども、言葉でみじめさというものを表わそうとしたら、これ以上には表わすことは出来ないかもしれないと思うほどです。 イザヤ書53:1-6
パウロが、私は、ほんとうにみじめな人間ですと告白して、そして、イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝しますと言うことが出来たのは、まさしく、このイエス様の十字架のお姿にあります。身代わりとして私たちのみじめさを全部、イエス様が背負ってくださったからです。 ですから、イエス様のそのみじめさを、このイザヤ書の記述を通して、まずして、みじめさをこうして知ることは、イエス様の死を知ることでありますけれども、同時にまた、みことばが告げるように、イエス様の復活にあずかることでもあります。 死と復活。みじめさと感謝。死と復活。これがいつでもワンセットとなって、私たちの救いの喜びの土台となっております。 やはり、砕かれること、へりくだること、みじめさを知ることと、イエス様の十字架を通しての永遠の喜びとは、切っても切り離すことはできません。ですから、たましいの安らぎというのは、ここにこそあるわけです。 イエス様は先ほどの11章の28節からのみことばの中で、「疲れた人は来なさい。」ということを仰いましたけれども、ことばをちょっと変えてみると、「みじめになった人は来なさい。」「自分はみじめだなぁと、本当につくづく思った人は、私のところに来なさい。」と。「あなたを休ませてあげます。」と。 「なぜならば、わたしがもうすでに、あなたのそのみじめさを背負って、十字架で死んだから。」、この時はまだ十字架の前ですけれど・・・ そして、さらに興味深いこと。興味深いと言ったら変ですけれども、イエス様が何と仰ったかと言えば、「わたしから学びなさい。」と仰いました。 「わたしから学びなさい。」、色々解釈が出てくるかもしれませんけれども、どうも素直に読んでみますと、このわたしから学びなさいと仰ったのは29節です。 マタイの福音書11:29
素直に読みますと、心優しさ、へりくだり。そういうものを、私から学びなさいというふうに読めるような気がします。 へりくだり、謙遜。それをわたしから学びなさい。こういうことを仰ることのできるのは、イエス様お一人だと思います。これはイエス様の自己紹介にあたるわけですけれども、「わたしはイエスと申します。わたしは心優しく、へりくだっています。」 これを、もし私たちが同じような自己紹介をしたら、全く笑い話になってしまいます。イエス様だけがこのような自己紹介をお出来になるわけです。 本当に人生というのは、ひたすら死ぬまで、謙遜とか、へりくだりを学ぶ歩みであると断言したいと思います。 謙遜な様を装うとか、謙遜なように見せるとか、へりくだりを学ぶとか、目に見える形でのことは、いくらでも修行をしたり、意識的にそうやったり、そういうことは、いくらでもできると思います。 でも、心の中の本当の謙遜。本当のへりくだりというものは、イエス様を通してしか決して学ぶことはできないと思います。 そういう意味では、小さい子どもにはとても敵わなくて、小さい子どもたちは、本当に謙遜そのもの。もう、そこにいるだけで謙遜そのものという感じがします。 五月に、ここで子供たちが歌を歌いました。けれども、本当に楽しくて、見ているほうは楽しくて、楽しくて、とても喜んだわけですけれども、どうもその背景にあるのは、子どもたちの謙遜な姿に、私たちは喜んだのではないかな、と思います。 謙遜というのは、何も聖書を通してばかりではなくて、すでに、もうこの世にあっても、目に見えるこの世の中にあっても、やはり人生の中で、相当な立場を占めているということも申し上げなければいけないと思います。 どこかでお話したことなのですけれども、サザエさんの作者の長谷川町子さんという方がいらして、この方がご自分の一生を、伝記を漫画で書き下ろしたものに、「サザエさん打ち明け話」というのがあります。 その中で、歳を取ってしまったお母さん、耄碌したお母さんとの対話が出てきます。 もう昔話もできないほどに耄碌してしまって、ろくに会話もできない。そういう状況になっていたのですが、詳しくは、あの漫画のほうをお読みください。 そういう状況になっていたのですが、ある日、長谷川町子さんが、「お母さん、人生で一番大切なことは何ですか?」、そうすると、その耄碌したはずのお母さんが、「はい。それは謙遜でございます。」と答える場面があるのです。 「はい。それは謙遜でございます。」、そして長谷川町子さんが、「へぇー!」と言って驚いて、「あら。まだそんなに耄碌していなかったのかしら。」、そういうふうにつながっていますけれども・・・ 確かに謙遜という言葉は、やっぱり人生の中で、どこででも、それは良いものだと認められるものですし、だれでも、いいものであると認める内容の言葉だと思います。 謙遜ということは、世の中でも広く認められることであります。 けれども、人間の示す謙遜というのは大したものではなくて、それに比べて、イエス様が人となられて、十字架についてまで示された、あの謙遜は、もう、言葉にならないほどの謙遜、へりくだりではないでしょうか。人となっただけでも、もう大変な謙遜であります。 何かの例えに、もしあなたがあそこに這っているミミズになりなさいと言われたらどう思いますか。イエス様が人間になるということは、言ってみればそれに少し近いことですよ。というふうな説明を聞いたことがありますけれども、少し近いのではないでしょうか。 そしてマタイの福音書の26章の39節で、十字架を前にしてイエス様が仰ったことばの中に、イエス様の途方もない謙遜が示されております。 マタイの福音書26:39
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。わたしの願うようにではなく。これは、私たち人間の思いとは正反対ではないでしょうか。 私たちは、私たちの願いだけが叶うようにと祈ります。イエス様は、わたしの願うようにではなく、みこころのように、なさってください。と、ご自分の十字架を前にして祈ってくださいました。 そして目に見える形で示されたイエス様の謙遜は、ヨハネの福音書の13章の中に映画のフィルムを一コマ、一コマ見るかのように書き記されています。これを書き記したヨハネが驚きの目をもって、その場面を見ていたということが伝わってくるかのようです。 ヨハネの福音書13:5-7
云々と続いていますが、イエス様が一日中歩いて、汚れきった弟子たちの足を、弟子たちの頭よりも低くなって洗ってくださったという、そのお姿を想像するだけでも大変な、ちょっと想像できないことをイエス様はなさったのだな、ということがわかります。 しかも、そのあとの14節が非常に私たち人間にきつく響いてまいります。 ヨハネの福音書13:14
ヨハネの福音書13:13
あなたがたは、わたしはそう言っていますね、と。じゃあ、そのわたしがあなたの足を洗ったのだから、あなたがたもまた互いに足を洗うのは当然ですね、と非常に理路整然とした、ぐうの音も出ない、強烈なことをイエス様は私たちに仰っています。 いかに私たちがへりくだりの心に欠けた者であるかということをお見通しの上で仰ったような気がします。 イエス様は、わたしから学びなさい。おそらくは、あの謙遜を学びなさいと仰ったのだろうと思いますけれど、でも、それを学ぶことがいかに難しいことかということが、この場面を通してもよくわかってまいります。しかしこの場所にいたペテロは、その後、ペテロの手紙第I、4章の7節からこういうふうに書いています。 ペテロの手紙第I、4:7-10
おそらく、これを書き記したときのペテロには、イエス様が自分の足を洗ってくださった、そのお姿が頭をよぎったのではないでしょうか。互いに仕え合いなさい。仕え合いなさい。 イエス様は、ご自分が謙遜なお姿を示されたばかりではなくて、そこから学びなさいと仰ってくださいましたけれども、同じ個所の中で、どういうふうに学ぶべきかということのヒントもお与えになっているようです。 マタイの福音書11章の29節で、わたしのくびきを負って、とイエス様は仰いました。わたしのくびきを負って。 マタイの福音書11:29
と。どのように学ぶべきかということのヒントをお与えになりました。 マタイの福音書11:30
だから、 マタイの福音書11:29
わたしのくびきを負って。牛が鋤を引っ張るときに、肩に掛けられる道具のことがくびきでありますけれども。 全ての人に与えられている、この人生というくびき。そのくびきを負って、そこから本当の謙遜を、へりくだりをわたしから学びなさいと仰っているような気がします。 それぞれに、それぞれの人生が与えられ、それぞれに悩み、苦しみ、試練がありますけれども、おそらくそういうものは、イエス様から学ぶためのものであるということを言っていいのではないでしょうか。 こうして考えてみますと、人生というのはイエス様ご自身を学び、そのイエス様ご自身から本当の謙遜、心の中の謙遜というものを教わるところです、と言っていいのではないかなと思えるほどです。 イエス様は、わたしはへりくだっていますと自己紹介されましたけれども、とてもとてもこういう自己紹介は、私たちにはできません。人間には不可能です。 ですからこそ、このような自己紹介をしてくださったイエス様を見上げるわけです。到底、本当の意味でのへりくだりが不可能な者が完璧なへりくだった方を見上げる。こうして少しはイエス様のご性質の一部をいただけるのではないでしょうか。 結論にはいりますけれども、 ローマ人への手紙8:6
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。高慢、心の高ぶりは死に至り、御霊による思い、へりくだりは、いのちと平安ですと置き換えても、大きな間違いではないと思います。 御霊による思い、これをへりくだりというふうに置いてみましたけれども、まさしく聖霊の特徴は、このへりくだりにあります。 ですから、本当の謙遜というものが、もし私たちの心の中に芽生えたとすれば、それは決して自分の力とか、人の力ではなくて、聖霊の働きであることもまた、明らかではないかと思います。同じローマ人への手紙8章の14節。 ローマ人への手紙8:14
ですから私たちには、肉から生まれた私たちには不可能なことは、聖霊によって可能にされる、とみことばは告げています。 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。つまり、聖霊に導かれることは、十分に可能です、と書いてあるわけです。 私たちには、自分の生まれつきの性質からはもう不可能でありますけれども、聖霊がなしてくださるという希望がここに記されています。ですから、結局、イエス様から学ぶべきことの結論は、聖霊に導かれることでありますと、こういうことになります。 イエス様はご自分を、心優しく、へりくだっていますと自己紹介されましたけれども、イエス様が私たちにお与えになった聖霊のご性質こそ、心優しく、へりくだっていると、そういうご性質です。 ですから意識的に聖霊に満たされ、導かれることを願っていきたいと思います。 ありがとうございました。 |