引用聖句:マルコの福音書5章1節-13節
今の箇所は、わたしの大好きな箇所なんです。というのは、このゲラサ人の地に住んでいた、半分狂った男は、まぎれもない、自分自身の姿と思えるからです。 この人は、普通の人とは変わった生活をしていたことは、すぐにわかります。おもに、3つの点で、私と似ていると言いますか、神様から離された人の特徴を持っています。 まず最初のこの人の特徴は、「墓場に住んでいた」ということです。墓は、死んだ人のはいるところで、普通墓場は、誰も住みたくない場所です。死が支配し、光が支配する闇の中。その中に彼は、なぜか住み着いていました。普通の家ではなかった。このことは、全く不思議なことでした。 しかし聖書から見ると、神様から離れて生きている私達人間は、生まれつき墓場に住んでいるような、死の地に住んでいると言えるのではないでしょうか。聖書によく、罪と出てきますが、罪というのは悪いことをするとか、汚れたことをするとかいうことではなくて、死の地に住んでいることであります。 光のない所にいること。なにをしているかではなくて、どこにいるかを、聖書は問題にしています。 アダムとエバが神様に罪を犯し隠れました。神様が、彼らにおっしゃったことは、「あなたは、どこにいるのか?」でした。あなたは、何をしているのかではなく、あなたは、今、どこにいますか?と質問されました。いったい自分はどこにいるのか?そのことに気づくことが、何よりも大切なことに思います。 私は長い間、神様を知らずに生きていました。そして、自分がどこにいるのか、わかりませんでした。どっから来て、どこに行くのかもわかりませんでした。そういう意味で、全く、闇の中に住んでいました。 イザヤ書9:2
闇の中を歩んでいた民。死の陰の地に、死の支配する真っ暗闇の中に生きている。人間は、生まれつきそういうものである。神様から離れていると聖書は教えてくれます。 その死の陰の中で苦しみながら、自分がどっから来て、どこへ行くかもわからないままに、むなしいものを求めて、あれをし、これをし、どこかに救いがあるともがいている。それが、私達の姿では、ないでしょうか? そういうものの上に光が照ったとあります。もちろん光とは、イエス様であります。この男は、墓場を住みかとしていました。その彼のところに、イエス様が来てくださいました。 2番目の特徴は、人間の力では、押さえることのできない力によって、支配されていたということです。4節に マルコの福音書5:4
鎖もひきちぎる。彼のその恐ろしい力を押さえることができる人は、誰もいなかった。彼を助け出せる人は誰もいなかった。 死の地に住み、その人は、罪の力に支配される王になるということです。 ローマ人への手紙7:15-17,24
自分がしたい良いことを行うことができず、したくないことばかりしてしまう。そういう状況は、確かにみじめであります。しかし聖書は、神様の命を持たない人は、みなそのように歩んでいると教えてくれます。 わたしは、本当にみじめな人間です。こういうふうに気が付かされた人は、幸いではないでしょうか。 自分は、まだ何かできる。頑張ればなんとかなる。努力すれば良い行いに歩むことができる。そう思っているうちは、本当の意味で、命の道に明け渡すことができません。 この男の人は、おそらく自分でも、何をしているかわからなかったと思います。なぜ、自分がそのような恐ろしい力に、おかされているかもわかっていなかったかもしれない。そして、誰ひとり、助け出すことができなかった。 聖書には、同じような人がたくさん出てきます。どこに行っても、解決を見いだすことができなかった。その人がイエス様のところに来て、はじめて救われる。それは、聖書の中の登場人物だけでなく、私達、イエス様に出会った一人一人の経験ではないでしょうか。 学生時代、「本物を知りたい」、そういう思いで、あちこちに行き、いろんなことで一生懸命でした。そして、それぞれ自己満足はあっても、イエス様に出会うまで、それがむなしいことに気が付くこともできませんでした。 イエス様に出会ってはじめて、自分が孤独な者であったこと、迷える者であったこと、本当に飢え渇いていた者であることに気づかされました。それは、イエス様を知って、出会った人の共通する体験です。 3つ目の特徴として、この男は、自分自身を傷つけて生きていました。罪の地に住み、罪の力に支配され、その結果、自分自身をずたずたに傷つけていた。 もちろん、誰も自分自身にこんなことをしたいと思うはずがありませんけど、自分自身をぼろぼろにしておりました。 パウロは、イエス様と出会ったとき、イエス様は彼に、「とげのついた棒を蹴るのは、痛いことだ」とおっしゃいました。罪の中に生きること。イエス様のもとに来ないこと。本当の神様から離れて生きている人は、みな、自分自身を傷つける生き方をしてしまうということではないかと思います。 さっきも言いましたが、私も、イエス様を知る前にいろんなことをしました。あとから思うと、確かに疲れ切っていたと思います。あれをしては倒れ、これをしては疲れ、どこに行っても満足を見いだせない。そういう状態でした。 自分自身がぼろぼろに疲れ切って、傷ついているんですけど、そのことにすら気が付いていなかった。しかし神様は、そういう人間の、どうしようもない姿を天の高見に座って、ご覧になっているだけのお方でしゃないと、聖書は教えてくれます。エゼキエル書16章 エゼキエル書16:4-6
神様から見れば、私たち人間一人一人は、血の中でもがいている者であると教えてくれます。 そういう者たちを見捨てることをしないで、生きよとおっしゃってくださる。繰り返して、生きよとおっしゃってくださる。命を得よとおっしゃってくださる。ただ言うだけでなく、命そのものである、イエス様を遣わしてくださり、イエス様をお与えくださっています。 山室軍平という救世軍の方が、「平民の福音」という本を書いておられます。この中で、わたしの好きな話しがあります。 ある深い井戸に、ある人が落っこちてしまいました。どうすることもできずに、「助けてくれ−−」と叫んでいるのです。最初に、通りかかったのが、孔子さまでした。彼は、「孔子さま、助けてください。そうか、ここから引き上げてください。」と叫びました。 孔子さまは、彼を見下ろして、「ああ、そんな所に落ち込んでしまって、なぜあなたは、落っこちているのか。もっと、頑張りなさい。良い行いをたくさんしなさい。そうすれば、そこから出る事ができるに違いない。」そう言って去ってしまいました。 つぎに来たのが、お釈迦様でした。お釈迦様なら、きっと助けてくださる。また、彼は叫びました。「お釈迦様。助けてください。」 お釈迦様も彼をご覧になり、「どうして、あなたはそんな所に落ち込んでいるのか?でも、仕方がない。人生とは、そういうものである。悟りなさい。」そう言って立ち去ってしまいました。 最後に通ったのは、イエス様です。「イエス様、助けてください。」と、彼が叫び終えるやいなや、イエス様は、上からさぁっとはしごを下ろし、そのもがいている彼の所まで、降りて来てくださいました。 そして、自分自身も泥だらけになり、ずぶぬれになって、彼を引き上げ、押し上げ、彼を助け出し、傷口を介抱した後で、「わたしが、したように他の人にもしてあげなさい。」と、おっしゃったそうです。 これを聞くと、孔子様や、お釈迦様が好きな人は怒るかもしれませんけど、しかしこの話しは、人間の作り出した宗教や、道徳の限界をよく示している話しではないでしょうか。 人間の力、人間の教え、人間の作り出すそのようなものでは、誰も私達を救うことができない。ただ、イエス・キリストだけが、その暗闇から、死の支配する地から引き上げることだできるお方であります。 わたしも、このゲラサの地に住んでいた、この狂った男のようでした。でも、イエス様から目を離すと、すぐにそうなってしまいます。しかしイエス様に叫ぶと、イエス様は必ず答えてくださり、新しい力を送ってくださって新しい歩みをさせてくださいます。 最後に、聖書を読んで終わります。 ピリピ人への手紙2:6-8
申明記4:7
今日、はじめてここにおいでくださった方も、たくさんいらっしゃると思いますけど、私達が呼べば、すぐ近くにいてくださって、必ず答えることがおできになる。 答えることがおできにならなければ、それは偽物です。本物の神様は、生きておられ、必ずご自身を現してくださいます。 ですから本当に、子どものように、イエス様を呼び求めて頂きたいと思います。 以上で、終わります。 |