引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、5:16節-18節
こういう役目を仰せつかる毎に思いますのは、よくそういう話す人が一番祝福されるというふうに言われるし、まったくその通りだと思うんですが、その祝福の一つはここに立つまでに非常に多くの葛藤があるということであります。 本音を言いますと、不様な格好はしたくないという思いであります。格好よく決めたいとか、ついそういうふうに思ってしまう。しかしそういう思いで聖書をいくら開いても、みことばはまったくしみ込んで来ませんし、ますます思い煩いが波立つばかりで、そういう葛藤なんですね。 またイエス様の前に頭を下げて小さくなる。色々思い煩う。その葛藤、そういう葛藤の過程がもしかしたら大きな祝福の一つなんじゃないかなというふうに常々思っております。やっぱりここでどんな話をするか、みなさんが良かったと言ってくださるかどうか、そういうことは非常にちっぽけなことだなあ、ということであります。 イザヤ43:4
今日は、私の親友の結婚式がありました。私もちょうど一ヶ月くらい前に御代田で結婚させていただきました。 やはり結婚式の準備の中で、本当に色んな思い煩い、葛藤がありました。自分たちの望み通りに行かないこともしばしばありました。そういうときはやっぱりすごく思い煩って、心配して、うろたえるんですけれども、何度となく姉妹と話し合ったことは、「自分たちが格好悪くても別にいいじゃないか。恥をかいたって、別にいいじゃないか。むしろ聖書の原則からいえば私たちが弱くなり、恥をかくときの方がイエス様は働いてくださる。その失敗を通して、その恥を通して、弱さを通して主が御自身の力を表わしてくださるんだから、いい格好をしようとしなくてもいいじゃないか。」、ということをよく話しておりました。 結果的に、本当に自分たちでは想像もしなかったこと、主が御自身の喜びを注いでくださったと思っております。それ以来、それまでそんなに親しくなかった自分たちの家族との交わりというものも、非常に密になりまして、現代の文明の利器である携帯電話で色々メールを送ってくれたりするようになりました。 私の母はまったく携帯電話が出来ずに、不携帯電話なんてよく言ってましたけども、全然持ってなかったんですけども、ある時母からメールが2行くらい入ってきまして、その2行のメール、1時間以上かかって打ったとか言うんですね。それで姉妹と色々やり取りをしたり、なんか家のペットの写真を送ってきたりとかしております。 どんな形に私たちがなったにせよ、主は変わらない方でありますし、そして主は今読んで頂いたみことばのとおり宣言しておられます。 わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 よく語られますように、まことの神さま、聖書の神さまの愛は無条件の愛といわれます。私たちが何か出来るから、高価で尊い。私たちが素晴らしいことをしているから、愛しているというのではなくて、何にも出来ない、何にもしないところからすでに高価で尊いと言ってくださっています。 聖書の中で、「神が喜ばれることが何であるかわきまえなさい。」、というみことばはよく出てまいります。こういうこと、こういう状態のときに神さまは喜ばれないとか、あるいはこういう歩みをするときに主は喜ばれる。しかし愛されるようになりなさいという言葉はどこにも出てきません。 そうではなくて、愛されてる子どもらしく歩みなさいというふうに言っております。神さまの愛はまったく無条件の愛であります。この世の価値観、この世の評価とまったく相容れないものじゃないでしょうか。 この世はまったく競争社会であり、人の前に立った、人の後ろに下がった、上にいった、下にいったという、そういう評価をいつの間にか、そういう基準の中で生きており苦しんでおります。上がったり、下がったりしております。 しかし聖書は次のように言っております。 コリント人への手紙第I、4:3-5
最近この箇所で非常に元気をもらいました。人は色んなことを言ってまいります。そしてその人の言葉というのは人によってまったく違う。それにいちいち振り回されていると、ホントにズタズタになってしまうように思います。 もちろん謙虚に耳を傾けるということは大切だと思いますけれども、パウロは「人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。」、と言いました。 私も結婚して一ヶ月ちょっと経ったんですけれども、最近よく言われるのは「森田兄弟、太ったんじゃない?」って言われるんですね。ある人は今日なんか「森田兄、痩せたんじゃない?」って言うんです。自分でもどっちだか分かんなくなってきたんです。 一つだけはっきり言えることは、ベルトの穴を緩めることが増えたということがありますけれども、それぐらい人の見方というもの、人の言葉というものはまったく正反対のことを仰るわけです。 それは本当、笑えるような話でそれはいいんですけども、しかし人間の言葉ではなくて、永遠に変わらない神の言葉にだけ信頼をおかなければ、私たちは本当に上がったり下がったりするんじゃないでしょうか。わたしの目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。 今日の兄弟の証でもありました。兄弟は、自分では家具の職人になりたくて放浪したというふうに言っておられましたけれども、本当心のもっと奥に飢え渇きがあったんじゃないかと思います。「もっと確かなものになりたい。何かが欲しい。」、そういうものが自分の、意識していなかったかもしれませんけども、心の奥底にずっとあって、それがあのような一つの行動となって現れたのではないかと思います。 しかしその兄弟が、北海道まで行ってまことの神さまの愛に出会った。そのとき初めて心が満たされた。今日は仰いませんでしたけれども、ベック兄と札幌の大通り公園で、人通りが激しい中で二人で座って、泣きながらお祈りをしたと言っておられました。 自分ではそんなものを求めて北海道まで来なかったのかもしれませんけども、しかし一番大切なこと、大切な神さまによって愛されているということを兄弟はそこで知って、本当に満たされたのであります。 わたしが結婚した姉妹も、今ここにいる兄弟の結婚式に導かれまして、そのテーブルの名札の裏にあったみことば、このみことばで神さまの愛を確信して、父のものとなったそうであります。 もっとも大切なことは、このまことの神さまによって私もまた愛されてるということを知ること。そしてその愛にまったく気付かずに、神さまなんかいないかのような生き方をしていることが、聖書のいう罪であり、喜びのない虚しさの原因であります。そのことを聖書は「死」と表現しております。 何をやっても満たされない。何をやっても虚しさから解放されない。ただ時間だけが過ぎていくという、このある意味恐ろしい状態だと思いますけれども、まるで大きな河の流れで流されていって、いつか滝に落ちていく。その河の流れに流されながら色んなことをやっている。そういうのがこの人間の姿じゃないでしょうか。私もかつてそうでありました。 しかし神さまの愛に出会ったときに、そのような虚しさから、孤独から解放されたわけであります。 少し視点を変えてみますと、現代のこの世の中でもよく似たような表現が一般的に見聞きされるのではないかと思います。すなわち人間は素晴らしい、あなたは素晴らしい、というような表現です。 例えば、あらゆるヒットソング。若者に受けるようなそういう歌とか、あるいはさまざまな書物でもそうですけれども、人間はやれば出来る、あなたは素晴らしい可能性をもっている、きっと素晴らしいことが出来る、だから諦めないでほしいというようなメッセージがよく語られます。 しかしそれは非常に危険なものではないかな、というふうに思うんです。なぜならば聖書は私たちの中に素晴らしいものがあるとは一言も言っていないからです。 あなたは素晴らしい可能性をもっている、あなたはやれば出来るということは、聖書のどこにも書いてません。まったく逆のことが書いてあります。 ローマ人の手紙7:18-24
ここは私にとっては一つの思い出深い箇所であります。吉祥寺集会でイエス様と出会う二週間前だったと思いますが、東京のある別の一般の教会に自分一人で行ったことがあります。 そのときにこの箇所が学ばれました。「何か質問がある人はいらっしゃいませんか。」、と私を見ながら仰いましたので、兄弟の方も10人くらいしかいなくて、みんな私の顔を見ていましたので、これは質問しなきゃいけないということで、私は言いました。 「これはちょっと極論じゃないでしょうか。確かに悪い部分もあるけれども、良い面だってたくさん人間持っているんじゃないでしょうか。その良い面をもっと磨いていって、伸ばしていくことによって、人間は少しでも良くなるんじゃないでしょうか。またそういう生き方こそが、ホントに神がおられるとしたら、正しい喜ばれる生き方じゃないんでしょうか。」、と言ったんです。 そのとき、その牧師先生は自転車のことをちょっと話されまして、自転車で坂道を上がって行くのは苦しいけども、下りるときはあっという間に下りると。人間にとって善をするのは非常に困難なことだけれども、悪をするのは非常に簡単であるという話をしてくださいまして、それはなるほどそうだなあと思いました。 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。 絶対に出来ないと思いますけども、もしこれが逆だったら簡単に出来るんじゃないでしょうか。 いつも不満を言ってなさい。いつも祈らないでいなさい。すべての事についてブツブツ言っていなさい。 そう言われたら何か出来そうな気がしてくるんです。私たちはそういうもんじゃないかと思うんですけども、しかし聖書はですね、私たちの内に善はまったくない、神さまに喜ばれるものは何一つない。8章の8節には、肉にある者は神を喜ばせることができません、とあります。生まれながらの人間は、と言い換えてもいいと思います。 生まれながらの人間は、神さまの前に素直になろうとしない人間は、神さまに愛されてはいるけれども喜ばれてはいない。 現代の、先ほども言いました色んな言葉というのは、人間の内側は素晴らしいというような方向であります。これは非常に巧みなサタンの言葉ではないかと思います。 主は何と仰るかといいますと、やっぱり主もあなたは素晴らしいというふうに先ほどの箇所で仰っています。 一体どこが違うんでしょうか。実はこれ、正反対の表現であります。もう一度イザヤ書の43章の4節を見ていただきたいと思います。 イザヤ43:4
わたしの目には、という言葉があること。これは非常に大きな違いではないでしょうか。 悪魔はただ、あなたは素晴らしいとだけ言ってきます。主は、「わたしの目には」あなたは素晴らしいと言ってくださいます。何が違うかと考えたときに言えることは、言われた私たちの側の目が、どこに向くかということであります。 あなたは素晴らしいとだけ言われたときに、私たちの目は自分自身を見ます。「おゎっ!自分は素晴らしい!たいしたもんだ。俺はやれば出来るんじゃないか。」、これは言うまでもなく高ぶりの道であり、悪魔がアダムとエバを罪に落とし入れた道であります。 これに対して、わたしの目には高価で尊いと言われたとき、私たちの目は自分ではなくて、大きな愛で私たちを愛してくださっている主に向けられます。ここに私たちの救いがあり、解放があると聖書は言ってるんじゃないでしょうか。 イザヤ43:22
私たちの目が、このまことの神さま、永遠の愛をもって私を愛してくださっている、仰ってくださるその方を見上げるとき私たちは自分たちのちっぽけさを知り、無力さを知り、まったく何も分かっていない者であることを知り、全能者、すべての支配者、あまりにも偉大すぎる方のことを知るようになります。 そこに私たちの救い、平安の秘訣、喜びの秘訣があります。そのようなありかたこそ、聖書が伝えている私たちのホントの健やかな、健全な、本来の目的に沿った人間らしいありかたと言えるんじゃないでしょうか。 詩篇の104篇。これも私が個人的に非常に好きな詩篇であります。ここにきてやはり思い出したみことばです。 詩篇104:10-11
今も虫の音が後ろに聞こえます。また星も夜空に輝いております。このような、主がお創りになった私たちの知を遥かに超えたものに静かに思いを向けるとき、私たちは創造主なる神さまの素晴らしさを覚えざるを得ません。 時々御代田なんかに行ってよく思うことは、別荘の綺麗な灯りの中で交わるのもいいんですけど、時々ただ夜空を見上げて、山の自然の中に囲まれて静かにしていることの方が、もしかしたら主と親しく交われるのではないだろうかと思わされます。 野ろばも心に留めておられた方であります。その傍らには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。主はその高殿から、山々に水を注ぎ、主はあなたのみわざによって満ち足りています。 イエス様は次のように仰いました。 マタイの福音書10:29-31
雀の一羽が地に落ちるところを見ることはほとんどないと思いますけれども、主の目にはちゃんとそれが留まっている。ちゃんとその雀のことも神さまは心に留めて、支配しておられる。ましてあなたがたはと言われます。 あなたがたはたくさんの雀よりもすぐれた者です。高価で尊い。非常に価値がある者だと言っておられます。神さまは私たちの内側にあるもの、内側から出てくるものは徹底して否定され、退けられますが私たちという存在そのものを決して否定なさらないということであります。 私たちはしばしば神さまの愛を見失って、愛されていないかのようなサタンの嘘に騙されてしまうのではないでしょうか。 もう一度言いますと、私たちの内側にあるもの、内面の、アダムから受け継いでいるもの、それは主の前にまったく否定すべきものであると聖書は言っておりますが、私たちという存在そのものを、主は非常に高価で尊いと言ってくださり、本当に大切なものとして愛しておられるということであります。 そのことを心に留めるときに、主の前にひれ伏しながら、同時に主を賛美できるんじゃないかと思います。 最後にエペソ人への手紙の1章から読んで終わります。 エペソ人への手紙1:4-7
神はただ御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしよう、ご自分の子どもとして愛したい、そういう意味だと思うんです。ご自分の奴隷でもなければ、機械的な存在でもない。本当に愛の交わりをもつ親しい関係をもつ、ご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられた。ですから私たちが神さまの子どもとして、主を大いに喜び、ほめたたえるとき、主もまた本当に喜ばれるんではないかと思います。 ありがとうございました。 |