引用聖句:使徒の働き20章22節
パウロはなわめと苦しみが待っているその中に、あえて入っていったのです。 これは主イエス様の辿られた道と同じ道です。パウロはどうしてなわめと苦しみの待っているエルサレムに、わざわざ行くのでしょうか。また、行けるのでしょうか。 これは、普通でありません。なぜなら、この時パウロはわかっていたはずです。もしかしたら、死んでしまうかも知れないと。それなのに行くとはどういうことなのでしょうか。 心を縛られてとは、聖霊に縛られてということです。 パウロは自分が、自分の自由にならなかった。縛られていますから、自由がきかない。心が自由にならない。それは、魂が自分の支配下にない。聖霊のご支配の下あるということです。 聖霊がパウロを自由に導くことが出来たということではないでしょうか。別の箇所では、こう言っています。 エペソ人への手紙3:1
エペソ人への手紙4:1
囚人と言うのは、どういうことなのでしょうか。イエス様の囚人となったパウロは、間違いなく以前のパウロとは違ったのです。喜びで満ちていたに違いありません。 イエス様に捕らえられたパウロは、イエス様の持っておられるあの平安で満たされていたに違いありません。なぜなら、主に捕らえられることは、本当の自由を意味するからです。自分から解放されたのです。強力な自我から解放されていたからです。 捕らえられて自由になるととは、不思議な話しですが、それこそが、人間の魂の奥深くにある飢え渇きです。人間は自分が何を求めているかも解らず、何が本当に必要なのか、知らずに生きています。しかし、主なる神様に、主イエス様に捕らえられていることこそが、本当の意味で人間を自由にするのです。ローマ人への手紙でパウロはこう書き送りました。 ローマ人への手紙6:16-23
ここでパウロは罪の奴隷であった時と言っています。それはもう過去の話しですよ、ということです。救われた人は罪の支配下にはいないのです。 罪はどうしようもなく犯してしまいます。それはそうです。罪の体にいるのですから。しかし、罪には支配されないのです。これは大きな違いです。聖書はそう言っていると言うことです。 こう言われていることに対して、ただそのまま受け取るだけです。 ローマ人への手紙6:11
理解して納得しなさい、とは言っていないのです。やっぱり、ピンとこないけれどいい。主がそう言っているのだから、そう思いなさいと。そして、あなたがたがどう思おうとも、これが本当のことなのですから。ですからそう思えばいいのです。とても簡単です。 肉はいつでも死に渡されなければならないのです。そうでなければ、いのちの働きがないからです。まず死があって、よみがえりがあるのです。ですから、自分は死んだ者だと、思いなさいと言われています。その事実をいつでも認めることです。 死があるところに、よみがえりのいのちは、働きます。逆に言えば、もし死がなければ、そこにはよみがえりのいのちの働きはないということです。 ですから、私達はとっくに十字架につけられたのです。私達に主のいのちが生きるためにです。しかも、その時私達は一人ぼっちで十字架につけられたのではない、主イエス様が一緒だったのです。 パウロにとって、イエス様は主の主なのです。パウロにとって、イエス様は誰よりも、何よりも慕わしいお方であり、実際にパウロは愛していたのです。 私達はどうなのでしょうか。イエス様をもっとよく知りたいとは、思わないでしょうか。より深く交わって頂きたいと、思わないのでしょうか。 愛する人をもっとよく知りたいと思うのは、ごく自然であり、当然のことです。 その人と親しくなりたいと思うのは、当たり前です。だから、私達もそうなのです。 ルカの福音書9:51
私達の主イエス様は、エルサレムで十字架につけられなければならないことを、もちろん知っていました。私達の主イエス様は、そのエルサレムから、目をそらすことをしませんでした。御顔をまっすぐに向けられたとあります。ですから、イエス様は、ご自身の死に向かって進まれたのです。 そして、パウロもエルサレムに上ったのです。なわめと苦しみが待っていることが、聖霊に示されていました。主イエス様と同じ道を辿ったのです。 パウロ自身がこの件に関して、はっきりと証ししている箇所は、 ローマ人への手紙14:7-8
確かに、パウロはこう言ったのです。ですが、この御言葉を、本当の意味で自分のものとしている兄弟姉妹は、どれ程おられるのでしょうか。 私達イエス様を信じる者は、自分のために生きていないのです。そういう状態にされているということです。そしてパウロは、生きてもいいし、死んでもいいと言いました。そのことからも解放されていたのです。パウロの全ては主イエス様が決定されることを、パウロは御霊によって知らされましたから、自分で決定することは出来ませんでした。 というより、もはや決定したい思いは無かったのでは無いでしょうか。ローマ人への手紙7章でパウロ自身が言っている通り、自分自身に失望したからです。その経験はパウロにとって、益となったのです。 ローマ人への手紙7:21、24
このように正直に告白して、主イエス様に祈れる人は本当に幸いです。パウロはイエス様に出会い、信じて、救われました。私達は従いたいと思い、歩む始めると、必ずこの7章に導かれるのではないでしょうか。 これが救われた人の、自己破産です。救われた後の2度目の自己破産は、成長のためにはどうしても通らなければならない門のようなものです。この門もまた、狭い門です。 人は救われた後に、通らなければならない幾つかの門があるようです。その門を通るたびに、新しい世界が広がっているのです。新しい喜びがあり、新しい歌を歌うようになるのです。それが、イエス様をより良く知ることです。 パウロは、自分がみじめだと心から思ったのです。罪があるこの死のからだを、何とかして欲しいと、自分ではお手上げだと、誰がこの死のからだから助け出してくれるのか、叫んだのです。 これはとても辛い経験ですが、必要です。この問題からの解放は、イエス様の十字架です。ですから、実はとっくに終わっていたわけです。 十字架に隠された財宝の一つ一つを、新しく知って受け取るのです。主ご自身が必ず明らかにしてくださいます。別に何か特別なことが、パウロの上に起こされたわけではなく、御霊によってイエス様ご自身が直接教えてくださるのです。 テモテへの手紙第II、2:7
聖書全体が言っているのは、あなたがするのではない、わたしがあなたの全てにおいて、またあなたを通してする、ということではないでしょうか。 ローマ人への手紙15:18
ここでパウロが言っているのは、私ではなくキリスト、ということです。キリストが私を用いて成し遂げられた、そのことだけを話したい。キリストはご自身と御霊の力によってそれを成し遂げられた。その結果、私はキリストの福音をくまなく伝えた。ですから、私ではない、キリストです。それをここでパウロは、はっきりと示したのです。 信じる者は主の器に過ぎません。主人が自由に使うことの出来る器です。器自体に意思はありません。けれども、器が勝手に動き出すことがあるのです。主人の思いを無視して、始めるのです。 救われた人はとっくに罪と死の原理から解放されています。8章2節にある通り、いのちの御霊の原理に移されたです。けれど、肉の思いに従うことは可能なのです。 ローマ人への手紙8:5、8
ですから、肉は十字架につけられなければならなかったのです。それは主に喜ばれることがないからです。良い肉もあります。悪い肉もありますが、同じ肉に変わりはないのです。 イエス様ご自身もその肉体をまさに十字架につけてくださいました。私達全ても、主とともに十字架につけられたのは、何とありがたいことでしょうか。この恵みは圧倒的です。 主は私達の何を喜ばれるのでしょうか。私達の悔い改めでしょうか。私達がへりくだることでしょうか。私達が24時間祈り続けることでしょうか。毎回集会に集うことなのでしょうか。もちろんそれらはとても大切なことです。でも、あくまでも自分が主体ならば意味はありません。 イエス様がへりくだりそのものであり、絶えず祈り続けて下さるのは、御霊であり、そのお方をお入れしている器に過ぎない。主ご自身のご栄光が私達を通して、輝くことが出来れば、それは考えられないほどに、光栄なことではないでしょうか。 もし、主イエス様のご目的のためにこの器が使って頂けるのなら、ぜひそうして頂きたい。これが、私達の願いです。 最後に御言葉を読んで終わります。 ガラテヤ人への手紙2:19
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