引用聖句:マタイの福音書25章14節-28節
今、引用していただいたお話は、イエス様が同じしもべであっても、主人が帰って来たときにはその行ないが吟味されること。そしてある者には称賛と報いが与えられ、ある者は報いが与えられないばかりか、すでに与えられているものも取り上げられる恐れがある。こういうことを示されたわけです。 5タラントにしろ、2タラントにしろ、忠実に働いて、任せたものを増やしたしもべ。そのようなしもべには多くを任せるが、そうでない、主人を信頼せずに、その期待に応えようとしなかった者からは、すでに与えているものも取り上げる。こういう大変、耳の痛いお話でございます。 ここでこのお話から色々なテーマが出てくるわけですけれども、今日は時間が絞られていますので、私がごく直接一番心に感じたところを今日ちょっとご紹介させていただきたいと思うのですが。 どんな報いが与えられるのか、どんな報いが用意をされているのかということについて、ベック兄が以前に、みことばを引いて大変丹念にお話をされています。 そのときにベック兄が紹介しておられた報いの中には、いのちの冠とか、義の冠、それから栄光の冠、あるいはイエス様とともに支配する恵みに、御座に着くという、そういう恵みをいただく。 あるいは御国を受け継ぐ。豊かな収穫にあずかる。あるいは誉れ、奉仕の報い、栄光にあずかる、等々色々な項目に分けてお話をされています。 そういうことでたくさんの報いを称賛、あるいは私たちには思いも及ばないような、今想像もつかないようなことをイエス様は用意をしていてくださる。 信ずる者のために用意をしていてくださるということを聖書は語っているわけですけれども、そのような報いにあずかるために私たちはどういうことをしなければいけないのか。 ここで言う、いわゆる良い忠実なしもべということです。これはどういうことを言うのかというところを、まずちょっとみことばで見てみたいと思うのですけれども。 ひとつは、豊かに蒔くものであること。あるいは自発的に自ら進んで働いて、犠牲をいとわないこと。イエス様を第一にすること。こういうことがまず挙げられると思うのです。 そのみことばとして、 コリント人への手紙第II、9:6-7
とあります。豊かに蒔く者、それから自分の犠牲をいとわない者。自ら進んで主のためにささげる、そのような思いをもっている人。このような人のことをこの報いを受ける条件として、ひとつは聖書の中に見ることができるのではないかと思います。 またもうひとつは、試練に耐える人、最後まで忠実である人。そういうみことばとして、 ヨハネの黙示録2:10
ここではいのちの冠という報い。イエス様が与えてくださる。そういう恵みが約束されています。 それから、目に見えるものや、この世の欲から解放されて、主の現われを待ち望む者である。そういうことも条件として聖書の中には出てまいります。 テモテへの手紙第II、4:8
これは義の冠ということで聖書に約束が出てまいります。このような一部を挙げただけですけれども、このようなみことばを見ますと、それ自身大変高い、私たちにとっては高いハードルがそこにあるように思われます。 喜んで豊かに与えなさい。あるいは主を第一にするということもそうですし。それから試練を耐えて、最後まで忠実であること。あるいはこの世の欲から遠ざかって、主の現われを待ち望むこと。 このどれを取っても私たちにとってはこれは大変なことです。それを乗り越えないと、私たちは報い、イエス様が与えてくださろうとしている、用意されているものをいただけないのだろうか。これが今日引用した個所の中から出てくるひとつの疑問であります。 でもその答えはこの引用した個所にすでに含まれていると思います。イエス様は私たちに自分の努力でこうなりなさいと仰っているわけではないわけです。 イエス様にとどまっているならこうなるということを、仰りたいのではないかと思います。なぜなら、そのために主なる神様はイエス様を私たちに与えてくださった。イエス様は十字架上で肉を裂き、血を流し、私たちの罪の贖いをしてくださった。 そのことは今のような、高いハードルを前にした私たちにできないことを要求されるためにそうしたのでしょうか。決してそのようなことはないと思います。 イエス様が成してくださったみわざ。十字架のみわざというものはどういうものだったのかということを、もう一度考えたいと思いますけれども。 ひとつは間違いなく私たちの罪を洗い流していただくためでありました。十字架の上でその罪の赦しを得るために血を流してくださり、私たちと神様との間を隔てる壁を取り除いてくださった。そうして神様との平和を与えてくださった。私たちが大変大きな平和をいただいているのはそのためであります。 これはイエス様無しに決して与えられることのない大きな、そしてまた私たちの本当の喜びの出発点となった大事なことであります。この方に頼るならば、どんなに高いハードルがあっても、これから乗り越えられるのではないかという予感が与えられるのではないでしょうか。 十字架で贖っていただいた十字架のみわざのもうひとつ大事な点。その点について考えてみたいと思います。 それはイエス様にあるいのち、私たちの古い人の中にはない、まったく新しいいのちをイエス様はくださったということであります。 ローマ人への手紙6:4
キリストがよみがえられたように、私たちも、古い自分は死んで、いのちにあって新しい歩みをするためです。いのちにあってというのは、もちろんイエス様のいのちにあって新しい歩みをするためです。ですからイエス様はいのちをくださった。 このことは聖書の中に何度もあります、有名なヨハネの福音書3章16節もそうです。信ずる者が、滅びることなく、永遠のいのちをいただくためですということが16章にありますけれども同じように、ヨハネの福音書3章の36節をご覧いただきたいと思います。 ヨハネの福音書3:36
御子に聞き従う者は永遠のいのちを持つ。聞き従わない者は、いのちを見ることがない。イエス様に従う者にはいのちが与えられている。そして聞き従わない者は、相変わらず死の中にいる。こういうことです。 同じく ヨハネの福音書5:21
イエス様がいのちを与えてくださる。死人を生かしてくださる。父と同じように、イエス様が私たちにいのちを与えてくださる。イエス様にあってのいのちを与えてくださる。このことによって私たちは全く新しいいのちをいただいているのだということを知ることができます。 ただ罪赦されただけではなくて、新しいいのちをいただいている。そのいのちはイエス様にあってのいのちというのは、どういういのちであるか。それが永遠のいのちであるということはすでに今出てきたとおりであります。 そしてそれは不滅を明らかにしてくださったことでもある。いのちの不滅を明らかにしてくださったことでもある。 テモテへの手紙第II、1:10
いのちと不滅を明らかに示されました。私たちはいのちについて、どう考えているでしょう。いのちは限りあるものだ。いずれ死を迎えるのだ。はかないものだ。そういうふうにいのちをとらえていたのではないでしょうか。今もあるいはそういう気持ちがあるかもしれません。 でも神様が用意されたいのちは不滅なのだということです。そもそもいのちは不滅なのだ。そのいのちを失っていた者に再び神様のいのちを取り戻してくださる。これがイエス様がなさってくださったことです。 もともと不滅なのです。いのちと不滅を明らかに示されました。イエス様のくださるいのちというのはどういうものか。永遠のいのちだ。 二つ目は、罪から解放されたいのちです。罪の支配から解放されたいのちであります。 ローマ人への手紙6:6
イエス様がくださったいのちによって、古い人はもう死んで、私たちの新しいいのちは罪の奴隷ではない。そのいのちに頼るなら、私たちの罪の支配を恐れることはないということをこのみことばは語っています。 ヨハネの福音書の最初のほうに、この方にいのちがあったというみことばがあります。 ヨハネの福音書1:4
というみことばが出てきますけれども、人の光であった。 ヨハネの福音書1:5
光、 ヨハネの福音書1:5
というふうに、このみことばは続くわけですけれども、やみを取り除くのが、このイエス様のいのちであります。光であります。 その光はこの世からそのやみを取り除くためでもあるし、また私たちのうちからやみを取り除く光でもある。これがイエス様のいのちであるということではないかと思います。 罪から解放されたいのち。光である。光であるいのちということです。 それから三つ目は、御霊により日々支えられるいのち。イエス様のいのちは御霊により日々支えられるいのちではないかと思います。 ヨハネの福音書6:63
いのちを与えるのは御霊です。御霊によってこのいのちは日々新たに与えられ、支えられている。そのように考えていいのではないかと思います。 御霊の働きについてはガラテヤ人への手紙の中に、「御霊の働きは、愛、喜び、平安」と出てきますけれども、私たちの古い人にはないようなその力を御霊は持っておられ、私たちのうちで働いてくださいます。 その働きはまさにイエス様がくださったいのちの働きだと言うことができると思います。 もう一度そういうことを頭に置きながら、最初に読んでいただいた引用個所のところに戻ってみますと・・・、マタイの福音書25章の14節から30節の部分です。 あの5タラント、2タラント、それぞれ主からいただいたものを、それをどのようにしもべが扱ったかということであります。何をいただいたのでしょうか。何をあずかったのでしょうか。主から何をこのしもべはあずかったのでしょうか。 色々な答えがあるのだと思います。多くの恵みをいただいた。あるいは信仰をいただいた。さまざまな主の与えてくださる報いをいただいたということかもしれません。 でもこれは今申し上げました、主のいのちをいただいた。主から新しいいのちをいただいた。おあずかりした。任された。そのしもべがどうしたかということを語っているのだというふうにもとらえることができると思うのです。 私たちがそのいのちを本当に大切なものだと考え、その力を信じてそれに拠り頼むなら、より多くのものをそのいのちは生み出してくださいます。多くの恵みを与えてくださいます。多くの実を結んでくださいます。 ところがこの怠け者のしもべがやったことは何かと言うと、そのいただいたいのち、あるいは御霊かもしれませんけれども、それを役に立たないものだと考えて、あるいは与えてくださったことが恐ろしい人だと思って、信頼しないで、それを土の中へ隠してしまった。何もそれに拠り頼むことをしないで、自分勝手なことをした。自分の相変わらずの歩みをし続けた。 これが悪い怠け者のしもべになるのではないでしょうか。せっかくイエス様が十字架の上で本当に大きな犠牲を払って、私たちに与えてくださったもの。それを私たちが第一にしているか。その力を信じていますか?その力に拠り頼んでいますか? これがこの引用個所の大事な部分ではないかなというふうに思います。 もちろんそれによって与えられる主の賜物、報い、そして再臨のとき、再び来られるとき、主が喜んでくださるか。それともがっかりされるか。そのことは私たちが主からおあずかりしたものを本当に第一に生かしているかどうかということに尽きるのではないかと思います。 先ほどの引用の中に出てまいりましたけれども、いのちの冠ということばが大変気になります。いのちの冠というのは何だろうか。先ほどのあの引用したヨハネの黙示録のことばです。 ヨハネの黙示録2:10
これがヨハネの黙示録のことばですが、ヤコブの手紙にも同じようなことばが出てまいります。 ヤコブの手紙1:12
また、いのちの冠というふうに出てきます。試練に耐える人。そういう人にはいのちの冠が与えられるということであります。 やっぱり私たちは、試練ということを大変特別な意味をもって受け取る必要があるのではないかと思います。確かにそれは、できれば勘弁してほしいというようなものでもありますし、ひとつひとつのことを取り上げると、それは肉的には大変つらいことも多くあります。 しかし主にあっては試練というのは特別の意味をもっている。 いのちの冠・・・ (テープ A面 → B面) ・・・明るみに出されたものは光である。イエス様によって明るみに出されたものは光になる。いのちになる。 これは私たちの罪のことを言っているかもしれませんけれども、また、私たちが与えられている苦しみ、あるいは色々な重荷についても言われているのかもしれません。 その重荷をイエス様の前に持って行って明らかにしたときに、それはイエス様による光になる。光に変えていただける。イエス様のいのちの現われ、その源。そうしたものをその試練によって知ることができ、また自らの中にその光をいただくことができる。こういう意味も持っているのではないかと思います。 これは昨日の家庭集会で、ある兄弟がちょっと触れられて、私もそうだなと思って思わず膝を叩いたのですけれども。 主によって明らかにされたもの、主の前に私たちが明らかにしたものはすでに光である。決して私たちの重荷ではない。すべて主がそのことを責任を負ってくださり、最善に導いてくださる。こういうことではないかと。 主のいのちは光ですということを先ほどお話しましたけれども、そのような意味でのイエス様のいのちの力というものに、本当に試練においても私たちは特に覚える必要があるのではないかと思います。 最近家族の中で近しい肉親を亡くしたその悲しみ。そういう試練に会った方々とよくお交わりをする機会が・・・、私自身もそういうところを通ったということもあるかもしれませんけれど、多くの方から声を掛けていただくのですけれども、その時に共通して、「そうだねぇ」と言えるのは、その思わぬ肉親の死によって私たちが新しく目を開かれたことがある。それは何だろう。 天国が近くなった。そういう思いをみなさん同じように話されます。確かに天国というのは、みことばも次々与えられていますし、死は終わりではないということも、みことばによって私たちは確信していますけれども、その思いをさらに支えてくださるという主の働きは、試練の中によってさらにしっかりと与えられる。そういうことが言えるのではないかと思います。 色々な余計なことが捨象されて、本当に大切なことを私たちは頼りにしなければならない。それは天国が身近になる。この世がすべてではない。死は終わりではない。先ほど申し上げましたように、いのちはもともと不滅なのだ。そのことを思わされます。 ですから先ほど、今日導かれたということでご紹介あった姉妹がおられましたけれども、この集会は多くの方、少なくない方がそういう体験をしていますけれども、それを通じて、決して死が終わりではない。そしてイエス様が与えてくださるいのち。これがあるから私たちは再会できるのだ。 そのためにもイエス様が再び来てくださる時が少しでも早まるように。もっともっとそれがはっきりとした形で私たちに示され、また体験できるように、あるいは多くの、今日お話に出ましたような賜物が与えられるためにも、どうか主が早く来ていただきたい。そういう思いを持つことができるのではないかと思います。 ですから試練を決して恐れることはありません。イエス様がいっしょにいてくださいます。イエス様のいのちが光として輝く時が試練の時。 このように、主なる神様、そしてイエス様が用意してくださったものは私たちの思いにも及ばぬ、大変大きな、そして永遠に亘る恵みです。そのことに私たちが少しでも気付くようにとイエス様がこのようにして導いてくださっていることを心から感謝したいと思います。 最後に、そのような主のいのちをいただいていることについて感謝しながら、みことばをお読みして終わりたいと思います。 コリント人への手紙第II、4:6-7
ありがとうございました。 |