引用聖句:ヨハネの福音書13章34節-35節
今日また、このように多くの兄弟姉妹とともに、イエス様の与えてくださったみことばを是非ごいっしょに味わわせていただきたいと思います。 この場にもイエス様、いてくださり、また私たちのためにこのような場を備えてくださったと思います。このイエス様を覚えつつ、みことばをともに学ぶことができたらというふうに思います。 今、兄弟に読んでいただきましたけれども、今日はヨハネの福音書、このところから学ばせていただきたいと思うのですけれども。 みなさまと同じ経路を通って救われたということではありませんので、みなさまと共通というふうに言えるかどうかわかりませんけれども、私どもは長い間サラリーマン生活をして、自己実現ということを最大の目標に生きて来ているわけです。 そういう者にとって愛というのは、今日、兄弟のお祈りにもありましたけれども、愛というものが自分にとってどんなものであったろうかと今考えますと、やはり自己愛、自分を愛するということに最大のやっぱり力点があったのではないかと思います。 他人への親切とか、隣人への愛とか、そういうことも無関心だったわけでもありませんけれども、気持ち良くお付き合いすることができる、その程度ということで、それ以上のものはやはり負担になるとか、色んな思いで、それほど愛を大事なものとして考えてきたわけではないと思っています。 特に、神さまから愛されている神の愛ということなんかは、全く考えてもなかったと。 そういうことを言われても「何それ?!」という感じで、ほとんど自分の問題とは、とても思うことはできなかった。そんな自分だったというふうに思っています。 そういう者でありながら、でもイエス様は本当にあわれんでくださって、ご自身の十字架の贖いを通して私たちを救いへと導いてくださった。そのご愛、主の愛というものを本当に私たちのような者に示してくださった。 相変わらずそのご愛に応えることの大変少ない者であり、また自分勝手なことをいつもしてしまう者でありますけれども、主は色々なことを通じて私たちに主の愛について示してくださり、また導いてくださいますので、本当に感謝なことだと思っております。 先ほど引用していただいたあの部分は、イエス様が、いわゆる最後の晩餐という席の場で弟子たちに残されたみことばです。 その最後の晩餐のところをちょっと見てみたいと思いますけれども、先ほどの読んでいただきました部分のちょっと前です。 ヨハネの福音書13:1-7
こういうふうに描写されている最後の晩餐の席で、先ほどのみことばを弟子たちにお与えになったわけです。 もう一度そこの部分を見ますと、 ヨハネの福音書13:34
というふうに仰っています。 新しい戒めという意味ですけれども、これはモーセを通して主なるまことの神さまの律法が与えられたわけですけれども、その律法とは別に、神さまはイエス様を通して新しい神の義というものを示されました。 イエス様を十字架に犠牲にされて、そしてそのイエス様を信じる者を義と認める。そのように新しい神の義を示されたわけです。 そういうその新しい恵みの時代というふうに言われていますけれども、それにふさわしい戒め、いわゆる律法とは違う、律法の上にのっとてはいますけれども、イエス様の十字架を通して与えられた新しい時代、私に与えられた恵みとしての戒めということを意味していると思います。 ですから戒めと言っても、決して私たちを縛る、あるいは責め立てるというようなところに力点があるのではなくて、主はともに働いて私たちを助けてくださる、そういう恵みとしての戒めであるということを理解しておくことがまず大切だと思います。 ですから主はこの場で弟子たちの足を洗うということをもって、このことばを語られたのです。 それは決して一方的にこれをやりなさいということではなく、イエス様ご自身が働いて、そしてまた弟子たちにこのようにと言って示してくださる、その戒めであるということであります。この点についてはまたあとで触れたいと思います。 このように新しい戒めと呼んで、特別に強調された理由ということを考えてみますと、イエス様がこれからおられなくなる。そのあとに残された弟子たちが信仰を守り、成長する。そのためにイエス様はこのみことばを残されたのです。 ご自分が天に昇られたのちに、残された弟子たちがどんな危険な状態に置かれるかということを主はよくご存知でありました。 これは私たちの今置かれている状況でもありますけれども、一つは外からの攻撃、色々な迫害だとか差別だとか、あるいはさげすみだとか。 色々な場面を通じてのいざこざ、その他たくさんのことを私たちも経験するわけですけれども、そういう外からの攻撃を信ずる者は覚悟しなければいけない。 もう一つは、私たちの内からの攻撃。つまり、私たちの内に深く根を張っている罪の性質からの挑戦。このことにイエス様は特に注意をするようにということを仰りたかったのだと思います。 そのような罪の性格というのは救われた者、あるいは、信じ、イエス様に従っていると確信している者であっても、日々現われる、あるいは油断をすればすぐその支配下に置かれてしまう。そういうものであります。 傲慢だとか、高ぶりだとか自己義認だとか、自分で自らを正しい、自分は正しい、こう思っているのです。 さばき。人をさばくさばきの霊。あるいは陰口、ねたみ、争い、聖書の中にはたくさん、そういう警告が出てまいりますけれども、こういうものは私たちの中に日々現われ、特に、救われた者同士の、兄弟姉妹の関係においても極めて具体的に現われる。 このことをイエス様はよくご存知であったと。そのために、このような攻撃から守るために、一番残したい戒め。主が去って行くにあたって、残したかった戒め。 それがこの、「互いに愛し合いなさい。」、「わたしが愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。」というみことばだったのです。 今のような攻撃、外からの攻撃、あるいは内からの攻撃、こういうものと私たちは戦うために、あるいはそれから守られるためにどうすればいいか。 何よりも私たちひとりひとりがしっかりとイエス様につながっているということはいうまでもないわけですけれども、同時に、兄弟姉妹、ともなる祈り、あるいは交わり、こういうものを大事にして助け合って進むこと。 このことがどんなに大切なことか。私たちの経験でもこれはすぐに答えを出せることだと思います。 ひとつは、互いに重荷を負い合う。悲しむ者とともに悲しみ、悩む者とともに悩む。そして喜ぶ者とともに喜ぶ。 聖書のみことばに出てきますけれども、このように重荷をともに負い合う。そのことによって、私たちがどれほど平安と、そして主の恵みをいただいていることか。これがひとつであります。 それからもうひとつ、また重要なことですが、この兄弟姉妹の交わりの中において私たちは自分の姿を知ることができる。 「イエス様に従っている。」と言っている心がどのような心であるかということを自ら示される。 昨日もお交わりの中で、このことについて自己点検ということばが出てましたけれども、あるいは軌道修正ということばも出てたと思いますけれども、私たちの信仰の自己点検、心の自己点検、そして軌道修正。 その場というのはひとりひとりの祈りの中にもあたえられますけれども、ともなる交わり、あるいは祈りの中でよりはっきりと示していただくことができる。そういうことが私たちの経験を通しても言えると思います。 だからこそイエス様は、わたしが愛したように、そのようにあなたがたも愛し合いなさい。兄弟姉妹の交わりを大切にし、その中で互いに愛し合いなさい。 で、わたしが愛したように、というのは、どのようなことか。それは自分を小さくして兄弟姉妹を大切にすること。忍耐強い愛をもって仕えること。等々です。 先ほど挙げたような、傲慢だとか、高ぶりだとか、さばきだとか、ねたみだとか。私たちが陥りやすい肉の行ないとは全く違う態度。それが、わたしが愛したように、ということの具体的な中身だと思います。 先ほども申し上げましたように、イエス様は弟子たちひとりひとりの足を洗うという模範を示されました。 これは、主である方が自分を低くして、そして弟子たちの足を洗う。いかに私たちは高ぶりや傲慢や人を支配したい、自分が中心になりたい、自分は正しい、こういう者であるか。 それに対してイエス様は、足を洗うということをもって、わたしのように、と仰ったわけです。 このことについては本当に色々な兄弟姉妹、みなさんが自ら戒めておられるとこだと思いますけれども、色々な声をもつ、あるいは責任をもつ、こういう立場になりますと、あるいはまたそうでなくても、自分をどうしても正しい者だ、あるいは、それなりの者だというふうに思いがちであります。 ちょっと思い出したことがありますので。 私、洗礼を受けたときに、洗礼槽に浸かるすぐ前のところで、ベック兄に、「ベック兄に洗礼を受けた方の数ってすごい数でしょうね。」、うっかりそう言っちゃったのですね。 ベック兄はすごい怖い顔をしてね、「そんなこと関係ないよ。」と仰ったのです。あの普段は穏やかなベック兄があんな顔をされたら、ちょっとびっくりしたのですけれども。 そのくらい、やっぱり自分ではなくて、イエス様なんだということを絶えずベック兄弟のような方であっても、注意しているのだな。思わされました。 ムーディーという人の伝記の中に、ムーディーって大変な伝道者で、色々な説教が大変有名で、であるとき、「あなたの説教を聞いて本当に感動しました。」って人から言われたときに、「サタンも私にそのように言います。」と答えたという伝記がありました。 これもベック兄が何かのテープのところで紹介していましたけれども、それと同じように、サタンに惑わされやすい。これはだれかれ、ということではなくて、私たちの共通の問題ですから、それだけいつもみんなが注意していなければいけないことだと。 イエス様が愛したように、ということは、本当に私たちがいつも心していなければいけないことなのではないかというふうに思わされました。 ペテロはこのことを、互いの愛は多くの罪をおおうというような言い方をしています。 ペテロの手紙第I、4:7-10
愛は多くの罪をおおうからです。これはイエス様のように足を洗うようにへりくだって、本当の真心からの愛をもったときに、私たちは相変わらず罪をもっているけれども、その罪をおおわれる。 ペテロが言っているのは、おおうからですと言っていることばは、私たちが罪人でなくなるのですとは言ってないのです。 相変わらず罪人ですけれども、そのような愛を私たちの内にいただくことによって、私たちの罪の性格もずっと弱められ、抑えられ、おおっていただける。このようなことだと思うのです。 何よりも終わりのときが近づいている。主が再び来てくださる。それまでの間、私たちは相変わらず罪人ですけれども、その主を喜びをもって迎えることができるために私たちは主の愛を多く私たちの中にいただいて、互いの兄弟の間でそれを愛という形で、あるいは支え合うという形で、重荷をともに負い合うという形であなたがたは過ごしなさい。イエス様はそう仰った。 この戒めというのは、新しい戒めというのは、もうひとつ私たちを、信じる者をさまざまな攻撃から守るというだけではなくて、この引用個所のあとに続いたところでイエス様は言っておられます。 ヨハネの福音書13:35
私たちが救われたときのことを考えてみますと、聖書を通してだけ救われたという方もいらっしゃるかもしれませんけれども、私のような場合は、初めてこういう集会、家庭集会、あるいは礼拝に集って、みなさんの様子を見て、「何かありそうだな。よくわからないけれど、何か私にとってもホッとするものがあるな。」そういうようなことを感じたのがきっかけだったように思うのですけれども、そのようにイエス様とともにおり、イエス様の愛をいただいていることよる平安、喜び、あるいは互いの間の交わりの豊かさ、こうしたものがおのずから感じ取れる。 それは私たちが百万円を費やすよりもはるかに尊いイエス様を証しする場である。そのようにして救われる方が本当に多いのだと思います。 ですから、互いに愛し合う。そのことによってこの世があなたがたを通してイエス・キリスト、あるいは神の愛を知ることができる。このように仰っているわけです。神さまはひとりひとりを救うのではなく、この世を救うためにイエス様を遣わされた。 ヨハネの福音書3:17
この世を救うためにイエス様は来られたわけですから、そのご目的のために私たちを用いる、ひとりひとりだけではなく、兄弟姉妹を通じて、その群れを通じてこの世を救うということを考えておられます。 もうひとつ、私たちはこのことを通じて救っていただいただけではなくて、そしてまた証し人として用いていただくだけではなくて、しみや、しわもなく、聖く傷のないものとなった栄光の教会、このために私たちを用いようとしておられるということが、エペソ人への手紙に出てきます。 エペソ人への手紙5:26-27
これは人間を用いて、教会としてイエス様が来たるべき世界を築き上げたい。そして、主のご栄光のためにその世界を支配したい。そのために栄光の教会というふうに言われているわけです。 私たちはもはや主を証しするというだけではなくて、主とひとつとなって、その愛によって主と有機的に結びついてその教会を建て上げる。主が建て上げられる教会の一員にしていただく。 証しだけではなくて、まさに愛によって有機的に結び付く。そのことがさらに将来の大きな主のご目的のための礎なのだということを主は考えておられるわけです。 新しい戒めというのは今申し上げましたように、ひとりひとりの信者の信仰を守る。それからそれを通じて、兄弟姉妹が愛し合うことを通じて世に証しをする。 それにとどまらず、さらに長い将来の見通しももった戒めであったということが言えると思いますし、すべてその中を私たちはともに歩ませていただける。 それは、私たちが資格があるからではなくて、私たちは罪人ではありますけれども、イエス様の救いにあずかり、イエス様の愛にあずかって、そのような道に立たせていただいた者であるということです。 全く恵みである。そこを取り違えて、私たちが何者かであるように思うところは、主が大いに警戒をされているところであります。 信じる者はえてしてパリサイ人になりがちだということです。自らを正しい者と考えてしまう。へりくだる心・・・ (テープ A面 → B面) ・・・いつの間にか主から離れて、また暗やみの中に迷い込んでしまう。 このような危険が大変にあるわけですけれども、そうではなく、私のような罪人をあわれんでくださいと、昨日も申し上げたみことばのように、私たちがいつもへりくだって、主とともに歩む。そのことが、この、互いに愛し合いなさいということの大きな土台であるということだと思います。 私たちは肉の働きを果たして抑えることができるのか。日々自分を見てると、なかなかこれは大変だなと、絶えずその限界と言いますか、自分の中にあるやみに気付かされるものですけれども、先ほど申し上げましたように、新しい戒めというのは、律法ではなくて、イエス様がそのように働くよと、そのようにわたしはあなたとともに働くのですという意味での戒め。そのことを決して忘れてはいけない。 私たちの力でそれをやろうとすることは、決して望んでおられない。そのためにその証しとして、主は私たちに御霊、助け主としての御霊を与えてくださいました。ヨハネの福音書14章からお読みしたいと思いますが。 ヨハネの福音書14:16-17
助け主をお与えになるという話がここに約束されています。 それから、その御霊はどういう働きをしてくださるのかというのを、ガラテヤ人への手紙ですが、 ガラテヤ人への手紙5:22-23
これは私たちではないのです。御霊がどのように働かれるか。愛、喜び、平安。今私たちが必要としている愛というのは御霊の働きによって与えられる。 私たちの中に御霊が住んでいてくださるのかどうか。これは約束されていますから、救われたイエス様を信じ救われている方には御霊が与えられている。 私たちは喜びとか平安というのを経験しています。でもその前に愛がある。 私たちは気付いていないかもしれないけれども、御霊が働かれるときにイエス様の愛が私たちの中で満ちてくださる。すでにともにいてくださるということです。 同じくガラテヤ人への手紙の6章1節。 ガラテヤ人への手紙6:1-4
今お話ししたことのすべての答えがここにある。私たちがするのではなくて、イエス様がそのようにして御霊を通して働いてくださる。 ただ私たちが注意しなければいけないのは、努力しなければならないのは、次の一点です。すなわち自分の肉が邪魔をしないように、イエス様が働いてくださる邪魔をしないように自らを小さくすること。 どんな者であっても相変わらず罪人であり、ダメな者だということを知りつつ、絶えず悔い改め、そして主を恐れ尊んで歩む。 あれをやろう、これをやろう。この世にいいことをしようと自分で計画しても出来ないということが私たちの特性です。 そうではなくて、自分が邪魔をしないと。古い自分、そのような自分中心のものが邪魔をしないこと。このことに私たちが絶えず立ち戻ることが大切だということをイエス様は足を洗うことによって示されたわけです。 導かれた頃、私は兄弟姉妹の交わりとか、それから祈り会とか、こういったことの大切さというのをよくわかりませんでした。 自分と主の関係さえしっかりしていればそれでいいのではないかというふうに思っていたように思います。 でもこれは大変傲慢な考え方。自分にはそんな力はない。主によってあらゆる方向から支えていただかなければ決して歩めない。そのような者だということを思わされています。そのような弱い者のために、主は兄弟姉妹を備えていてくださるのです。初めからそうであったわけです。 これから先も永遠のいのちをいただいて歩む。そのすべてを通じて兄弟姉妹とともに歩む。それがイエス様が望んでおられることであり、またそのような導きをしてくださる。 そのように私たちにイエス様が語っておられることは、結局は主の愛である。愛である。先ほど兄弟も祈られておりました。罪の赦し、これは出発点であります。 その前から主はひとりひとりを愛していてくださる。私たちの信仰の出発点、それから終着点、それどちらも神の愛である。わたしたちはそこから出発し、そして気付かされて、主の、神の愛のもとに再び戻る恵みを与えていただいた。 罪深い者であっても、そのようにして主はいつもともにいてくださり、私たちの内で喜びをもって主の愛を運ぶ者としたい。そのように導いてくださっているわけです。 それにふさわしい者に私たちがなっているかどうかということを、絶えず自ら振り返り、また主の光を当てていただく必要があるのだと思います。 主の愛を伝える者ではなくて、私たちの自我によってその愛を詰まらせてしまう。詰まった管になっていないかどうか。 これは私たち自身が本当に主の恵みの中を、そのすべてをいただいて歩むためにも必要なことであります。すべてそこに主が備えていてくださるということであります。 大切なのは、私たちが何ができるかではなくて、主は何がお出来になるのか。主は何をなさりたいのか。そのことが大切なことです。 それが私たちの信仰であります。主はそのためにも私たちひとりひとりを、この世や肉の行ないから聖別されるように、聖い者として主に仕えることができるようにと取り成しの祈りをしてくださいました。 それがヨハネの福音書17章に出てまいります。 ヨハネの福音書17:11
ヨハネの福音書17:17-21
ヨハネの福音書17:23-24
私たちが何ができるかではなく、主が何ができるか。主は何をなさりたいのか。 そのために私たちは絶えず兄弟姉妹との交わり、兄弟姉妹と助け合い、愛し合い、喜びをもってイエス様を証しする。イエス様とともに歩む。このことが本当に大切なことであるし、また恵みであるということを覚えて、ともに歩ませていただきたいと思います。 ありがとうございました。 |