引用聖句:マタイの福音書5章4節
ちょうど花見の時期だということで、テーマとして適切であったかどうか、ちょっとどうかなという点がありますけれども、世の中お花見で一時的な色々な楽しみとか慰めとかいうものがあるわけですけれども、本当の意味での慰めというのをもっておられる方は、そういらっしゃらない。 多くの方が苦しみをもち、悲しみを体験し、大変に苦しんでいらっしゃいますけれども、でもなかなか本当の慰めということに出会うことができなくて、返って一層苦しんでおられるというように見られます。 そもそもあの創造主である神様は、人間が幸せに生きるようにと、神の家族として神様の深い愛の中で守られて生きるようにと造ってくださったわけであります。 ところが最初の人間であるアダムが罪を犯したために、以後すべての人間は生まれながらに罪とその報酬である死の枷とに縛られて、神様から切り離されて、この地上をさまよい歩く存在になってしまったと、このように聖書は語っているわけであります。 その結果、どのようになっているかということで、例えば伝道者の書の中には、人間の一生は悲しみであり、というようなことばまで出てくるわけであります。 伝道者の書2:23
これは本当にそうであっては困ると思うのですけれども、本当の慰めを知らない、絶えずさまよい歩き、慰めにならないものを追いかけ求めているという人々にとっては、結局は一生は悲しみである、むなしい、すべてはむなしいと伝道者の書のような結果になるのではないかと思います。 でも神様は人間のこういう状態を喜んでおられるわけではありませんし、絶えず罪を悔い改めて、ご自分のもとに戻るようにと呼びかけ、それによって罪を悔い改め、また、どこに本当の慰めがあるかということを知って、喜びと平安、希望を得るようにと呼びかけておられるわけであります。 こういうように、主の呼びかけを受け入れた人々、その人々に与えられる神の愛と慰めについては、さまざまなみことばが聖書の中に登場します。 聖書の全篇にそれが満ちていると言ってもいいのではないかと思いますが、そのひとつにダビデの有名な賛歌、詩篇の23章というのがあります。ちょっとそれをご覧いただきたいと思います。 詩篇23:1-3
ダビデはまず自分を羊、そして主を羊飼いに例えて、羊飼いによって守られる羊の喜び、守られ導かれる羊の喜びをうたっています。 羊は羊飼い無しにはただ迷うだけのものですけれども、主はその羊に平安といのちのよみがえりを与え、義の道へ導いてくださるとうたっているわけであります。 義の道というのは、罪赦されて、神の前に出ることが赦された。そのような者としての歩みであります。 ついでダビデは、羊が歩む道は決して平たんでないということも語っています。今の引用個所のすぐ次、23章の4節からになりますけれども。 詩篇23:4-6
羊の歩む道の厳しさを、彼は、死の陰の谷を歩くことがあっても、というふうに表現しました。しかしその場合でも、死の陰の谷を歩くような厳しい歩みに導かれたときであっても、また、そういう場合だからこそ、羊にとって羊飼いである主とともにいることが何よりもの慰めになるということを証ししているわけであります。 そして、あなたのむちとあなたの杖、それによって羊は守られ、導かれ、困難な道をも歩み通すことができるわけであります。 しかも主はその、言わば試練の中で私たちを養い育て、霊的に聖め、満たしてくださる、つまり、「私の杯は、あふれています。喜びであふれています。」とダビデはうたいます。そして、「いつまでも、主の家に住まいましょう。」と永遠に主のものになることを願うわけであります。 それは永遠のいのちへの願いであり、罪と死の重荷から完全に解放されるという、最終的な慰めを待ち望む祈りでもあると思います。 もちろん慰めという限りは、傷付いた者、悲しむ者、そうした者をいたわり、心をいやし、慰めるということでありますけれども、主の慰めというのは、今ダビデの賛歌の中から見ると、いくつかの特徴があるのではないか、普通の慰めと違う特徴があるのではないかというふうに考えられます。 つまり、ただ普通に慰めるということではなくて、絶えざる平安だとか、喜びだとか、希望、そういうものへ繋がっていく、深まっていく慰めであるということがまずひとつあると思います。 ただその場で心を慰めてくださるというだけではなく、そのように主にある平安、喜び、希望、先ほどの、私の杯は、あふれています。 そして、あなたのもとで永遠に住まいましょうと、いつまでも住まいましょうということばにあるように、永遠の喜びに、希望にまで深まっていく。そのような慰めであるということが言えると思います。 また、何よりもそういう裏づけのある、主にあってみことばを通して、数々の約束が成されていますけれども、主とともにいることによって、そのような平安や、喜びや、希望が与えられる。そういう裏づけのあるまことの慰めである。 それから、それは死の陰の谷を歩くことがあってもとあるように、いつでも、どんなときでも、主に従って入れば与えられる。いつでも泉のように湧き出ている、汲み出すことのできる、そういう慰めである。ただ、人が主の前にへりくだり、悔い改め、そして信頼する限り与えられる慰めである。 それ以外にはいかようにあっても、どんなすばらしい慰めであっても私たちは高ぶる者である限り、与えられることはない。このようなことをダビデの23章から慰めについて読み取ることができるのではないかというふうに思います。 私たちにとっては、ダビデの言う羊飼いとはイエス様のことであります。神の御子であるイエス様ご自身が私たちの羊飼いであります。イエス様もそのように、自分は、良い牧者だと仰られました。 ヨハネの福音書10:11
とあります。イエス様はこのみことばどおりに、私たちのために十字架に架かって死んでくださいました。羊のために十字架に架かって死んでくださいました。 それによって迷子の羊のように苦しみと悲しみの中をさまよっていた者たちが、罪と死の重荷から解放されて、神様が初めから予定されておられた永遠のいのちを与えられ、また、まことの慰めをいただくよう、守り導いてくださる。このように働いていてくださるわけであります。 ところで、冒頭に読まれました先ほどのマタイの福音書5章4節の、 マタイの福音書5:4
というみことば、 マタイの福音書5:4
これもイエス様が語られた有名な山上の垂訓のみことばです。 これは弟子たちに語られたということであって、一般に「悲しむ人」という意味で語られたのではないというふうに注釈されているようでありますけれども、それにしてもイエス様が、悲しむ者や苦しむ者、そのような者に特別に目を留めておられたということを、やはりここからも知ることができると思います。 事実、宣教の旅の中で、悩みや悲しみの中にある罪人、そして、平安や慰めを必要とする人々、その人々をみもとに呼び寄せては、さまざまな形でその苦しみの中から救い出すように働かれたわけであります。 聖書の中の福音書の中に、サマリヤの女とか、長血の女とか、あるいは悪霊につかれた人だとか、色々な人たちが出て来ますけれども、みなそのように苦しみをもち、悲しみをもった人たちであります。イエス様はその方に、そういう人たちに目を留められた。 そしてまた、人々のあざけり、虐げの中で父なる神のみこころに従って、すべての人のためにのろわれた者となって十字架に架かってくださった。このことをイザヤ書の53章が語っているわけでありますけれども、 イザヤ書53:3-5
イエス様は私たちの悲しみに特に目を留めてくださっただけではなく、自ら悲しみの人となって、十字架の贖いを成し遂げてくださった。ですからイエス様は、人間としての苦しみ、悲しみを知り尽くしておられたわけです。 だからこそ、悲しみ、苦しみの打ちひしがれた人たちがまず悔い改めに導かれ、救いを体験してほしい。イエス様にある平安と喜び、希望、まことの慰めを得てほしい。そのように心から願っておられるのではないでしょうか。 そう考えますと、先ほど挙げた主の慰めのいくつかの特徴にもうひとつ加えて、イエス様が身をもって示してくださったように、主の慰めとはご自分を犠牲にしてでもあたえてくださる。そういう慰め。ともに私たちの重荷を負って歩んでくださる。そのような心底愛にあふれた慰めである。このように言えるのではないかと思います。 有名な、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」というみことばの通り、イエス様はご自分を犠牲にして、そのような疲れた人、重荷を負った人に慰めを与えようとしておられるわけです。 この地上の歩みにおいて信ずる者と言えども、悲しみ、悩みを避けることはできません。 昨年私ども夫婦も娘が突然召されるという思いもかけないことを体験しなければなりませんでした。 それまで一年間ほど、心に悩みをもった様子でいたものですから、何とかイエス様にある平安、慰めを知ってほしいと思っていた矢先でしたけれども、先に逝ってしまったということになります。信ずる者でありながら、やはり悲しみと無念さというようなものがいつも付きまとって来ていました。 もっと早く、もっと親として出来ることがあったのではないかというようなことだとか、今どうしているだろうかとか、このようなことですけれども、それでもやはりイエス様が慰めをくださいました。たとえば、娘が苦しんだことについては、詩篇の22篇の24節になりますけれども、 詩篇22:24
悩む者の悩みをさげすむことなく、叫び求めていたときに聞いてくださったと。 主は高ぶる者を嫌われますけれども、正直のゆえに病気になってまで苦しまなければならない。そういった者をあわれんでくださる。だからこそ彼女が召されることを許されたのではないか。神の許しがなければ、どんな人も勝手に死ぬことが出来ないのだから、このようにみことばから私たちは慰めをいただきました。 また有名な家族の救いについての約束もあります。 使徒の働き16:31
イエス様は最後の瞬間にでも人を救うことのできる方です。ですからそのように導いてくださったのに違いない。 私たちの目でもって確かめることはできませんでしたけれども、そのように主の前にへりくだった心をもって最期を迎えたのではないかというふうに考えています。 そのように、兄弟姉妹のお祈りにも支えられて、私たちは、死は終わりではない、天国で再会できるという希望を持って歩み続けることができました。 もちろん、相変わらず悲しみとか何故などか、どうすれば良かったのだろうかとか、色々な思いが残っておりますけれども、主はもう一つみことばをそのために与えてくださいました。 「今は知らずのちに知るべし。」、これは文語ですけれども、口語の聖書では、ヨハネの福音書13章の7節です。 ヨハネの福音書13:7
そして、主は最善を成してくださる方です。「今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 だとすれば、今はただそのまま主の御手からいただく。おゆだねする。いずれイエス様が私たちの疑問を解いてくださるでしょうし、その時私たちは言葉もなく、ただ主の愛とあわれみに感謝して、その時を迎えることができるのではないかというふうに思っています。 事実イエス様の十字架を見上げていると、やはりそのようにして、今はわからなくても、必ず私たちにその疑問を解いてくださり、またその間もともに重荷を負ってくださるということを感じることができます。そのためにみことばも多く与えてくださっています。 ですから、イエス様はどんなときにも私たちの思いをはるかに超えた慰めを与えてくださいます。 「イエス様に従う者は悲しみながらでも、悩みながらでも喜ぶことができる。」、ベック兄がよくそう仰いますけれども、その通りだと思います。 イエス様無くしては、そのような慰めを得ることは決してできない。一時的に色々なものに気を紛らわすとか、あるいは別の興味を持つとか、あるいは何か宗教というものに頼るとかいうことがあるかもしれませんけれども、永遠に続く希望も与えてくださる、まことの慰め、やはり聖書の神とイエス様のもとにしかないというふうに思います。 まだイエス様をご存知でない、その慰めを体験しておられない方がいらしたら、どうかイエス様を主として受け入れられ、そして大いなる平安、喜び、希望、それをご自分のものとして体験されますように。 先ほど申し上げましたように、主の前にへりくだる者、すべてをおゆだねする者、信じ、従おうとする者には必ず与えられるまことの慰めであります。どうかその日が一日も早いことをお祈りしております。 ありがとうございました。 |