大阪喜びの集い


水渡兄

(大阪喜びの集い、2005/04/02)

引用聖句:ヨハネの福音書5章24節-25節
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
25まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

こんにちは。懐かしいみなさん、親しくしていただいているみなさん、そして新しくここでお会いできるみなさん、大変こうした機会を与えていただいたことを主に感謝しております。
これからちょっとひととき、みことばについてごいっしょに学ばせていただきたいと思いますけれども。

人はだれでも自分を励ましたり、いざという時に頼りにする言葉というのを、それとなく心の中に持っているのではないかと思います。
よくありますのが「頑張れ。」、自分に対して「頑張れ。」とか、あるいは「我慢」だとか。
私の場合には、「時が解決してくれる。」という何かちょっとややこしいことを、サラリーマン生活のかなり長期間に亘ってモットーにしてきましたけれど。

確かにこうした言葉は一時的には気分転換と言いますか、頭を切り替えたり、忍耐したりするときに役に立たないわけではないと思いますけれども、本当に重要な問題、深刻な問題にぶつかったときには、決してこのような言葉では私たちは心休めることはできない。
ほとんど助けにならないということではないかと思います。
この今の時代、次から次へ色んな尋常でないことが起こっておりますから、特に聖書はこれを終わりの時代、終わりの時というふうに呼んでますけれども、こうしたときには、とてもこの世で言われているような言葉、あるいは人間の言葉ではどうしようもない、そういう大きな悩みや深刻な不安や色んな危機感や、そういうものにみな絶えず悩まされていると思います。

聖書を通じて私たちに語られているみことばというのは、私たちのあらゆる悩みに究極の答えを与えてくださっている。また、そのための神の備えを示していてくださるということが言えると思います。
何より聖書は、人間がなぜ悩まなければならないのかということ、それは人間がもっている罪のゆえだということを明確に答えています。
神が最初に人間に与えてくださったことばは、創世記の中に出てまいりますけれども、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。すべての生き物を支配せよ。」という人間に対する祝福のことばでした。

ところが悲劇の始まりというのは、こうした神さまのせっかくの祝福、そして人間を造ってくださったその御愛から離れて、サタンの誘惑にのって、自分勝手な道を歩み始めた。
これを聖書は罪というふうに呼んでいるわけですけれども、この罪によって人間は自分の欲望に縛られ、また不安と焦り、そして人と見比べては絶えず傲慢になったり、劣等感を感じたり、そういうあわれな存在に変わった。
いわば当て所もない生き方をする存在になってしまった。しかもその罪の代償として、死というものを絶えず恐れながら歩まなければならない。

これが人間の姿だ、聖書はそのように教えてくれてますし、私どもも聖書を知って初めて、人間の本当の姿というものを教えられたように思います。
ですから肉体的には生きていても、霊的には死んだ者。神さまから見れば失われた者ということになります。しかし神さまは決してそのような人間の苦しむ姿をあわれまれないでおられる、そういう方ではありません。
何とか罪人をやみの中から、そして死の陰から連れ出し、ご自分のもとに立ち返らせたいというふうに絶えず願っておられます。

その神のみこころをダビデは次のようにたたえました。詩篇をちょっとご覧いただきたいと思いますが、

詩篇107:10-14、16
10やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、
11彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。
12それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
13この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
14主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。
16まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、これが人間の姿でありますけれども、主なる神はこのような者を何とかやみの中からご自分のもとへ連れ出したい。
そのためにかせを打ち砕かれた。そして、19節になりますと、

詩篇107:19-20
19この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
20主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。

みことばを送って彼らをいやし、というふうに書かれています。
ダビデのようにこの主のみことばに従おうという者、主の恵みの呼びかけに応えようという者はまだわずかであって、多くの民が死の陰を歩んでおります。

で、しかもそのままではさばきを受けて、永遠の滅びに落とされます。そのさばきは近づいているのです。というときに神さまは御子イエス様を犠牲にして、人間を救おうというご計画を実行に移されました。
イエス様を地上に遣わし、十字架における身代わりの死を通して人間を罪の奴隷から解放する道を開かれたのです。
ですからダビデが言う、かせを打ち砕く方、いやすための神のみことばというのは、結局イエス様のことにほかなりません。

イエス様はこの終わりの時代に地上に来られ、まず神の愛を説き明かし、罪人が悔い改めて神のもとに立ち返り、永遠のいのちにあずかるようにと呼びかけられました。
また、そのみこころの成就のために十字架の上で血を流し、肉を裂き、そして三日後によみがえってくださったのです。
このように神の御子であり、神のご意思、つまり神のみことばであるイエス様に対してどういう態度を取るのか。それが人間が永遠のいのちにあずかるのか、神のさばきを受けて永遠の滅びに至るのか、その分かれ目になるのです。

冒頭の引用、先ほど読んでいただいた引用句をもう一度ご覧いただきたいと思いますが、この引用個所はイエス様、そのことを示すイエス様のみことばです。
もう一度拝読します。

ヨハネの福音書5:24-25
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
25まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

このイエス様のみことば。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、つまり主なる神さまの愛のご計画、神の愛を信じる者は、そしてわたしを受け入れる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことはない。」と仰っているわけです。
しかもその選択の時、それが今だということをはっきりと示されたわけです。

今が終われば救いの道は閉ざされる。そのことをイエス様もはっきりと人間のひとりひとりにあたりになり、そして永遠のいのち、神さまが示してくださる永遠のいのちに是非あずかってほしいという願いを語られたわけです。
死からいのちに移るというのは、先ほども申しましたように、やみから救い出され、罪赦されて、永遠のいのちを受けるということです。

それでは私たちはどうすればいいのか、人間はどうすればいいのかと言うと、何ら行ないの上で特別な努力を必要と要求されているわけではありません。
みことばに明らかにされている神の御子、イエス様のもとに来て、これまでの罪の生き方を捨てて、救われたいと思うこと。救われたいと思うこと。これだけです。
決してみことばを理解することではなく、聞くことであります。

先ほど冒頭のところで、聞く者は生きるのですと言われています。理解をするのではなく、イエス様の呼びかけを聞く、聞く耳を持つ、聞いて心の中にまず受け入れる。このことがイエス様の呼びかけに応える道であります。
イエス様の呼びかけというのは先ほども言いましたが、「主はあなたを心から愛している。私たちひとりひとりを心から愛している。」
そしてイエス様は、「わたしはあなたの罪のために死んだ。十字架の上であなたの罪を贖った。そしてあなたがわたしのところへ来るのを待っている。」、この三つです。

「あなたを心から愛している。あなたの罪は贖われた。あなたが来るのを待っている。」、このイエス様のことばを聞くこと。それに対して聞く耳を持つこと。
そうすると、ひとりひとりの心の中に悔い改めの心、そしてイエス様を受け入れたい、イエス様にある喜びを平安を得たい。そういう気持ちが自然と起こされます。
私たちが理解しないと起きてこないものではありません。素直に幼子になって、耳を傾ける。心を開く。

決してこの世の中にいても無駄に悩むことはありません。無駄に苦しむ必要もありません。無駄に心配することもありません。
イエス様が備えてくださっているこうした救いを通して、本当の平安と喜びがあるということを聖書は繰り返し、繰り返し語ってます。
永遠のいのち、神との平和、罪の赦し。すべて、この聞くことから始まるわけであります。

ここにたまたまコリント人への手紙第Iの1章18節が掲げてありますけれども、このみことばの力をパウロはこのように、

コリント人への手紙第I、1:18
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

十字架のことばというのは、イエス様が十字架に架かられて、その罪の赦し、贖ってくださった、永遠のいのちを備えてくださったという、この聖書が語るみことば、この十字架のことばこそ神の力である。
私たちの中で受け入れる、人の心の中で神の力として働いてくださる大きな大きな恵みであります。

色々な悩み、私たちが抱える問題の多くの解決、根本的な解決がこの神の十字架のことばの中にある。神の力として働いてくださる。
そのことをご自分のものとしたとき、ひとりひとりが今までの生き方と違う新しい希望と前向きな勇気を与えられる。そうした生き方ができるということです。
これが、死からいのちに移っているとイエス様は仰ったわけです。そしてこの地上の歩みがそれですべてではなくて、さらに天において、御国において、私たちはより大きな、完全な喜びとそして平安とを与えられる。

今の十字架のことばということ、本当に神の力ということ、大事なことだと思いますけれども、この十字架のことばは救われる時だけではなく、救われた後に大変重要な役割を果たしてくださいます。
大きく私たちの心の中で働いてくださる。それはひとつは御霊をともにいただく方であります。
救われた時に、主は私たちのために助けの主を与えてくださった。それが御霊であり、聖霊であります。

私たちにない心でもって、神の力、その御聖霊でもって与えられているみことばをより深く、より自分のものとして私たちの導き、支え、そしてイエス様をよりよく知る、イエス様につながる、このような道としてみことばを生かしてくださいます。
ですから救われる時、それから救われた後、このみことばに頼ることがいかに大事であるかということをもう一度また認識する必要があるのではないかと思います。

ヨハネの福音書15:4-5
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

イエス様につながっている、このことが私たちにいかに大切かということは、もう兄弟姉妹のみなさんは本当に痛感しておられると思いますけれども。
このイエス様につながるつながりかたは、みことばを通してイエス様とつながる。みことばによってより深くイエス様とつながることができる。イエス様がつないでおられるすべてをみことばを通して、また改めて私たちが知ることができる。
それですから神の力というのは、このぶどうの木の例えのイエス様が仰っていることをそのまま私たちのものとするための道でもあると思います。

ちょっと私自身、この一ヶ月ほど家族の間で、娘が突然召されたということがございまして、ちょっと証しに近いお話しになるかと思いますけれども、まったく予想もしないときに親としては大変辛い形で娘が召されました。
前から福音を伝えて、イエス様に頼るようにということを何とか伝えようと思っていましたけど、公に娘が受け入れたというところまではいかないときの事でありました。
ですから私たちとしても大変辛い出来事でありました。とっさに開いた聖書からは・・・・みことばしかないと思いましたね。

開きました。十字架に架けられたイエス様が死の直前に悔い改めの心を示した罪びと、罪人ですね。
同じ十字架の隣に架けられてた罪人のひとりが、死の直前に悔い改めの心を示した、その人に向かって、

ルカの福音書23:43
43あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

というふうに言ってくださいました。これは本当にイエス様が罪びとであっても、どんな罪を犯した者であっても、何とか救いたいと。
どんな場合でも、どこにおいても、どんな時にも救いたいというふうに考えておられるということを示していただいているんじゃないかと。
ですから、そのような者としてきっと主は受け入れてくださった。娘も受け入れてくださったというふうに私たちには確信が与えられましたし、それから、その時居間に掲げてあったのが、

ローマ人への手紙11:36
36すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

ローマ人への手紙のみことば。それから、たまたまなんですけれども、これは大阪集会の方にもちょっとお話しましたけれども、「今知らず、のち悟るべし。」
これは文語体の聖書のことばですが、「わたしがしていることは今あなたがたにはわからないが、あとで必ずわかるようになります。」というヨハネの福音書の中に出てくるイエス様のみことばがありますけど、その、「今知らず、のち悟るべし。」というみことばを書いて、どなたかに頼まれたということでしたけど、カードとして大きく貼ってありました。
それが私たちにとって本当に支えになりました。今、わからないけれども、必ず主は最善をなしてくださる。そのことを約束していてくださって、今はわからないけど、必ずわたしがしていることはあなたがたにあとでわかります。そう約束してくださっている。

これはベック兄も同じようにお話してくださいましたし、また、

使徒の働き16:31
31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

というみことばがありますけれども、「これは主の約束だよ。」というふうにベック兄は話してくださいました。
私たちは家族のために祈り続けて、必ずしもその結果がどうなったか、はっきりわからないでいる状態のときもありますけれど、必ず主が働いていてくださるということをまた改めて信ずることができました。

もうひとつみことばと同時に、主が色々なことを起こされるときに、必要な備えをしていてくださる方だということもこの機会に思わされました。
こんな本当に、この世から出て来て間もない者ですけれども、夫婦して図ったようにイエス様は救いへと導いていてくださいました。そしてみことばを頼りにして、二人して祈るということができるようになっていました。
それから何よりも大きいのは、イエス様だけを見上げて、みことばを頼りに歩む兄弟姉妹の群れに入れていただいたことです。

今回も多くの方からたくさんのみことばをいただきました。ひとつひとつが本当に私たちの心に安らぎを与えてくださいました。
そういうみことばによって私たちは動揺しながらも、守っていただいた。みことばが、何て言うんですか・・・城壁のようになって、私たちを守ってくださるということを初めてこういう機会に体験しました。
普段は何気なしに、ひとつひとつ、ホッとするというようなことで読んでいたみことばが、本当に神の力として私たちを守り、そして希望、新しい天国への希望、再会への希望、そしてイエス様がともにいてくださるということへの感謝が心の中から湧いてきました。

本当に頼りない歩みをしている者ですけれど、そういう者でもみことばに頼るときに、主が備えてくださっているすべての恵み、すべてはわかりませんが・・・。
一部であろうと普段気付かない恵みに、本当にあずかることができます。ですから自分の思いや現実から目を離して、みことばに頼る。そのことが本当に大事なことだ。これこそ信仰なんだというふうにわかりました。

まだイエス様を受け入れていない方、どうか、こうした人間の言葉でない、人間にはとても与えられない励ましと希望を備えたことばが、今目の前にあるということをぜひ知っていただきたい。
そして、今はそれを聞いて生きるもの、聞く機会としてどうかこのキャンプを大いに利用していただきたいというふうに思います。
最後になりますけれども、詩篇から一ヶ所読んで終わりにさせていただきます。

詩篇56:3-4
3恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
4神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。

詩篇56:10-13
10神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
11私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
12神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。
13あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。

ありがとうございました。




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