ベック兄メッセージ 使徒パウロは、もちろんわれわれの模範でありますけども、彼はよく二種類のキリスト者について書きました。ある兄弟姉妹に、「私はいつもあなたがたのために神に感謝しています。」と言うことができ、ほかの兄弟姉妹のことを考えた時パウロは「私は困ってる。悩んでる。苦しんでる。」と書かなければならなかったのです。 どうしてそんな違いがあったなのでしょうか。ある兄弟姉妹は、「イエス様はまだまだ来ない、そんなに待たなくてもいい。」と思い、ほかの兄弟姉妹は首をながくして、期待を持って「今日かもしれない」と望みながら生活したのです。 ある兄弟姉妹は自分のために生活し、自分自身を実現しようと望み、別の兄弟姉妹は、イエス様のために生活したい、イエス様に喜ばれたいと切に望んでいました。 イエス様だけがさかんになり、私は大切ではないという心構えがなければ、私たちの人生は的外れそのものです。 ある兄弟姉妹は中心になりたい、役割を演じたい、もしそうでないと不平不満を言います。別の兄弟姉妹は、イエス様にのみ栄光を帰して生きたいと心から望んでいます。ある兄弟姉妹はつまずきを与え、分裂を起こす者であり、別の兄弟姉妹は命がけで集会全体の一致が現われることを望み、そのために祈り続けます。 一言でいいますと、ある兄弟姉妹は暗闇の中にいるのであり、「自分はOK。富んでる、豊かになった、乏しいものはなにもない。」、と思い込んでしまっているのです。別の兄弟姉妹は、マルコの福音書5章に出てくる女のように、イエス様の前に出てひれ伏し、イエス様に真実をあますところなく打ち明ける兄弟姉妹です。「妥協するよりも死んだほうがましだ。」と決心したパウロは、ローマの刑務所の中で次のように書いたのです。「兄弟たち。私を見習う者になってください。」と。 「私を見習う者になってください。」、パウロの祝福された人生の特徴は、彼の砕かれたこと、彼の「謙遜」でした。 確かに彼は、人間的に考えれば誇ろうと思えば誇ることができたんですけど、彼はいつも自分の限界を知り、全能なるイエス様によりすがったのです。こういうふうにパウロは用いられ、多くの人々は彼を通して祝福されたのです。 このパウロが、ルステラという所で奇跡を行なった時、人々は驚き彼を非常に誉めそやしました。その時パウロは群衆の中に飛び込んでいって叫んだのです。 「みなさん、みなさん。私もあなたがたと同じ人間です。」と。 パウロは、私はあなたがたと同じ人間ですと言ったのです。このパウロは、はじめからイエス様に用いられる使徒ではなかったんです。徐々に主の恵みによってなっただけです。 このパウロは、回心の直後に自分自身を考えました。それをコリント人への手紙第I、15章9節に言っています。すなわちパウロは教会の長老に、「羊皮紙と筆を持ってきて、使徒たちのリストを作りなさい。はじめにペテロ、ヤコブ、ヨハネの順に書き、もし終わりにまだ書く余地があれば、一番小さな字で、使徒たちの中で一番小さな者パウロと書きなさい。」と言いました。パウロはこれほどへりくだったのです。 私は言いたいのです。すなわち「パウロよ、あなたは一番小さな者ではない。この私はもっともっと小さい者なのです。」と。 これから数年後、パウロはエペソ人への手紙に見らるるように、彼らにイエス様の教会について書き送っています。その中で聖徒たちについて書いたのです。 「羊皮紙と筆を持ってきて聖とたちのリストを作りなさい。あなたの知ってる聖徒たちの名前を書き連ねて、なお紙の余りがあったらその一番下で、一番小さな字で、聖徒たちのうちで最も小さい者パウロと書きなさい。」と言いました。 私は言いたいのです。すなわち「あなたは聖徒たちのうちで一番小さな者ではない。この私はもっともっと小さい者です。」と。 パウロは自分の生涯の終わりにあたって、イエス様にあっての息子テモテに、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださったことを、あなたは知ってる。羊皮紙と筆を持ってきて罪人のリストを作りなさい。その時、一番はじめに一番大きな字で、罪人のかしらパウロと書きなさい。」と言います。 私は言いたいのです。すなわち「パウロよ、あなたは決して罪人のかしらではない。この私はもっともっと、大きな罪人です。」と。 けどもパウロはこれだけでなく、最後にもう一つの言葉を残していました。 「テモテよ。筆と赤いインキを持ってきて、もう一度、使徒たちのリストをとって、次の言葉を書き入れてください。『主の恵みにより、主イエス様の使徒パウロ』と書き入れてください。 次に聖徒たちのリストを持ってきて、『主の恵みにより、イエス・キリストのうちにある聖徒パウロ』と書き入れなさい。 罪人のリストを持ってきて、『主の恵みにより、小羊の血によって贖い出され、買い取られ、聖められた罪人パウロ』と書き入れなさい。」 主イエス様の恵みを誉めたたられる兄弟姉妹は本当に、幸せです。ペテロはその第一の手紙の5章10節に次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:10
御心にかなう者となったダビデは、絶え間なく祈り続けました。 「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと、私の心を試してください。」 私たちが、心からなる願いを持って、自らのうちを主の光によって照らし、試していただく必要があります。主の光に照らされると小さくなります。顔をあげられなくなります。どうしよう、としか考えられないでしょう。 ヨハン・セバスチャン・バッハは心から証したのです。 「私は私の生活を見ると、私の口から次の言葉が出てきます。主よ、私の神よ。あなたは私のために何をなされたのでしょうか。たとえ私の舌が1,000枚あっても、あなたのなされたことを言い表わすことができません。 あなたは何と善良なのでしょう。あなたの愛はなんと豊かでしょう。だからあなたに賛美と栄光の歌を歌います。」 平山兄メッセージ コリント人への手紙第I、16:13
このみことばから、「立ちあがれ、そして目を覚ましていよ。」ということを一緒に考えてみようと思います。 一年の一つの節目が終わりまして、21世紀の最初の年を迎えて、何か気分が変わったような気がします。 このように私たちは節目節目を見ながら、次に来る節目を期待しながら、一時一時をすごしていますけれども、聖書では「主に会う備えをせよ。」、こう私たちに呼びかけておられて、顔と顔をあわせることができる主の時は、盗人のように来る、いつその節目が来るかは私たちにはわかりません。 しかし主の日はいつかはわからないけども、必ず訪れてそれは近いのです。こうあります。 エゼキエル書30:3
ベック兄もよく「再臨は近いよ。」とおっしゃられます。聖書の中で備えのない愚かな娘たちの話があります。愚かな娘たちは、花婿を迎えるための油の準備をしていなかったんですね。備えあれば憂いなし。こういうことわざがありますように、私たちは「だから、目を覚ましていなさい。」、こうありますようにその時を常に意識して、心待ちにすることです。 私たちが主の日の備えをせずに、「そのうちに」、こう思うんならば時は早くたってしまって、遅れをとることになって、その結果は聖書にあるハデスへと向かいます。 主の日を備えをして待つ者に、主はいつも語りかけて倒れないように支えてくださいます。 神様はエゼキエルに「人の子よ。立ちあがれ。わたしがあなたに語るから。」とエゼキエルに力をつけてくださったように、私たちが主を仰ぎ見る生活をするんならば、必ず御手を伸ばしてくださいます。 今年はどのような年になるのか、私たちにはわかりません。わかりませんが、人間は神様の御前に立つ者とされて、神様と交わるように創造された。このことは確かなことです。そうすることが、人間の自然のありようなんですね。 私たちが心静まり、意識して主を待つ時、主は必ず声をかけてくださいます。それはサムエルに声をかけてくださったと同じように、声をかけてくださる。サムエルには「そのうちに主が来られ、そばに立ってこれまでと同じように『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは『お話ください。しもべは聞いております。』と申し上げた。」 サムエルがこのように「はい。しもべは聞いております。ここにおります。」と答えることができたように、私たちも立つべき場所に立つならば、主は声をかけてくださいます。 多くの人々は、自分の本当に立つべきところを持っていません。人々はなぜ立つべきところから離れてしまったんだろうか。人間はだれもがあるべき状態に向かって、一歩一歩前進しなければならないんです。 その前進はイエス様によってなされます。そのためには、目を覚まして主の前に立つことです。 主の時を迎え、すでに多くの兄弟姉妹が召されました。兄弟姉妹は永遠のいのちを得、天に凱旋されたんです。その召されるさまは、喜んでであります。 神様の中に生かされてる者は、行きつくところを知ってるんですね。私たちが神様の中に生き、動く、すなわち神様の中にこそ私たちの存在する場所があるんであって、私たちの存在価値があるってことです。 主を信じる者には神様がともにいてくださり、恵みを豊かに与えてくださって、その豊かさの中で生きることができ、何不自由することがないんですね。このようにイエス様は私たちに恵みを豊かに与えたくて与えたくてしょうがない。それほどに私たちを愛そうとなさってるんです。 聖書の中にありますが、私たちは自分自身を明かりのところへ出す必要があるんですね。それは悔い改めによってなされます。 私たちがイエス様という明かりの福音を聞きながら、ものかげに忘れ去るように、イエス様を心のすみに追いやるんであるならば、この人にとってこれほど悲惨なことは、悲しいことはないだろうと思います。 明かりは暗闇を照らすものであり、明るくする必要のある場所に置かれるものです。イエス様という世を照らす光も、私たち一人一人のこの心の中に入ってなければならないんですね。 聖霊として住んでくださることによって、朽ちるものによる豊かさではなくて、朽ちることのない永遠の豊かさで満たされるんです。イエス様を受け入れる、イエス様と共にいるってことそこが、私たちの立つべきところなんです。 人はよくまだ時がある、機会は過ぎ去ってはいない、その時になれば自分も信じようと言うかもしれない。しかし明日は炉にくべられるかもしれない野の草のように、今のこともわからない者に先のことなんか全くわからない。この世における私たちの一生は実に、一陣の風に吹き飛んでしまうような、灰のようなものかもしれない。 神様の目から見ればそのように、存在すら無きにひとしく、人の生涯の終わりというのは実に早く来るだろうと思います。 みなさんはよくご存知のように、「若い日に主を覚えよ。」こう聖書にあります。みことばを聞いて背を向けるのは罪です。 世の中には賢いといわれる人々とか、富んでいるといわれる人がたくさんおいでになると思いますが、ただ現在のみを考えて未来の備えをしないんならば、これほど愚かなことはないはずです。 「人間には一度死ぬことと、死後にさばきにあうことがさだまっている」とへブル人への手紙にあります。このように人間は必ず死ぬ。今日の次が明日であるように、もし今日死の備えがないんであるならば、どうして明日の備えができるだろうか。先は不確かです。 日々にその備えをする者、すなわち「心貧しく飢え乾き死を渇望する者は幸いです。」と聖書にありますね。 世の中は一見平和そうに見えます。中東の和平なんかは表面的解決にすぎません。 同じようにこの世に調子を合わせて過ごすひとときは表面的であり、ほんの一瞬のやすらぎでしかないでしょう。私たち人間の自己満足にすぎません。 神は言われます。 コリント人への手紙第II、6:2
永遠のいのちを得られるのに、耳を傾けないで時をすごして、悲惨なこれからを迎えることになるんならば、本当に悲しむべきことです。 私たちは死ぬ時を恐れず、むしろ喜ぶように今生きることを目指すべきです。すなわちそれはイエス様と共に生きることです。そうすれば、あらゆる望みと平安は目先にあるんではなくて、永遠の営みにあることを知るはずです。 その人にとってただ現在のみを考えて、未来の備えをしないんならば、なんとむなしく、愚かであるかおわかりいただけると思うんですね。 人々は今なすべきことをする必要があって、なすべきです。みことばにふれて主の御手が伸ばされてる時に、永遠のいのちの富を天にたくわえることです。滅びる富を求めてこれに頼るのは本当にむなしいことですね。 人が作られたものに慰めを求めない時に、創造主である神様を素直に知ることができるんです。そうすればその人にとってすべてとなるんですね。みことばにふれたらば、ただちにイエス様に従うべきです。 新しい年のスタートに、一人でも多くの方がイエス様という立つべきところに立って、共に祈り、目を覚まし続け、勝利の栄冠をいただくことができますようにお祈りします。 最初に引用しましたみことばを読んで終わりますが、 コリント人への手紙第I、16:13
辻田兄メッセージ 今年の元旦は21世紀スタートの年ということで、いつもの年以上に何か新しいことに期待したいという決意といいますか、雰囲気が町中にまたお一人お一人の心の中にあるのではないでしょうか。 私自身もこれまでを振り返ってみますと、イエス様に出会って20数年経ちましたけれども、ややもすれば主の恵みに慣れすぎて、救われた当初の新鮮な喜び、主に対する熱き思い、また主に対する感謝、これらが少し薄れかけていないかと私自身恐れを感じます。また反省もさせられます。 ヨハネの黙示録2:4-5
はじめの愛に戻ること、言い換えますと、主との交わりを第一にすること、これが新年を迎えるにあたっての私に示されたみことばであります。 ちなみにベック兄の書かれましたヨハネの黙示録の本の中で、初めの愛についてこうメッセージしてくださっております。 「初めの愛とは二心のないイエス様への愛であり、真の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、みことばに対して無条件に服従することであり、兄弟姉妹に対して、真心からの愛を持つことです。」 そして私たちに対して、「私たちは初めの愛を失ってはいないでしょうか?」、と問いかけてあります。 主を愛している人とはいったいどのような人をいうのでしょうか。ルカの福音書10章38節から42節に、このようなマルタとマリヤのお話があります。 ルカの福音書10:38-42
ここでマルタは、イエス様を喜ばせようとして一生懸命働きました。マリヤはマルタの手伝いをせずに、ただ黙ってイエス様のそば近くに座って、イエス様のお話を聞いていました。 私たちはどちらかといえば、とかく目に見える状態で何事も判断しがちであり、てきぱきとよく働く人、しかもイエス様あるいは教会のために仕える人となると、高く評価しがちです。 しかしイエス様が喜ばれたのはイエス様との交わり、すなわち主が何を語られているかをよく聞くことでありました。幸いにも私たちには、いつでもどこででも聞くことができる、神の言葉である聖書が与えられております。 毎日、あるいは問題をかかえる時は、とくに一日に何回でも、主はなんとおっしゃっているのか、とみことばを読み、主のみことばを聞くことが非常に大切なことだと思います。 最近東京の周辺においては、あちこちで家庭集会がほとんど毎日のように開かれておりますので、家庭集会に積極的に参加することは多くの霊的な糧を得られ、励まされ、得ることも多いと思います。 それとともに、一人で主の前に静まって主との個人的な交わりを持つことも、また必要なことだと思います。 イザヤ書30章15節以降にこのようなみことばがあります。 イザヤ書30:15、18-19、21
主との交わりの一つとして、これまで主のみことばを通して、「語られることを聞こう。」という点をお話してまいりました。主が何を語られるかよく聞くこと、それは聖書のみことばにいつも親しむことであります。 次に主との交わりのもう一つは、祈ることであります。私たちが困っていることや願っていることを、祈りを通して主に知っていただくことも、主との交わりだと思います。 なんでも主に相談してみることが大切であります。 ヨハネの福音書14:1、13-14
ヨハネの福音書15:7
ヤコブの手紙4:2-3
私たちは、このみことばによると、なんでも主に祈ることがゆるされていますが、その中には当然自分のわがままな祈りもあろうかと思います。私たちはどうしても、目先のことしか見えませんから、「こうなればよいのに。」、と自分自身の思いで祈りがちであります。 しかしながい目で見て、その結果が果たして本物の幸せを得るようになったかどうかは疑問です。答えは主にお任せいたしましょう。 私たちの祈りがすぐにきかれることがあったり、時にはなかなかきかれず長引いたり、またNOという答えをいただいたりします。しかしこれらは、主が私たちに最善の結果を与えるためなのです。主はいつも私たちに本物の幸せを与えようとされるのですから、私たちは主を信頼して待つという態度が非常に大切なことだと思います。 マルタもマリヤも、ラザロが死んだ後で来てくださったイエス様に、「あなたが助けに来て、早く来てくださったのならラザロは助かったのに。」、と少し恨みがましく言いましたけれども、主はまわりにいる群衆のためにも、ご栄光を現わすために、二日後にマルタとマリヤのもとに戻られました。 ここでもわかるようにマルタとマリヤの願い通りにはならなかったかもしれません。主はもっと大きな栄光を現わすために、ご計画を持っておられたのです。 さて、最後に我が家で行ないましたクリスマス会のことについて、少しお話させていただきます。我が家で毎週行なっている祈り会の姉妹方が、祈りの結果、今度のクリスマス会は祈り会のメンバーのまだ救われていないご主人方をお招きして、その方々を中心とした集いにしようと計画いたしました。 結果として、受洗していないご主人や、未信者の方が8名集われました。その集われた男性全員に一言ずつお話をしていただきましたが、その中でのお話をちょっとさせていただきます。 お一人はまだ未信者のご主人ですけども、子どもさんのことで悩んでいた奥さんが、夜中に目を覚ますと布団の中でしくしく泣いておられる。これは子どもだけでなく、妻までも、変になったらどうしようかと心配していたが、奥さんが集会に集うようになり、みなさんと交わりをもって帰ると元気になる。 しかも2・3日もたつと、またもとに戻って沈んだ様子になるが、再び集会に集うと元気になられる、ということで、主の集会に集うことの大切さを話してくださいました。 もう一方だけお話させていただきます。この方はすでに前の年からクリスマス会に集ってくださってる方です。ご夫妻で車で外出された時に、途中で大雪に遭い、途中で車にチェーンをかけられることになったそうです。奥さんが寒い寒いと言いながら、傘をさしかけておられました。チェーンをかけるのに手間どり、あまり時間がかかるので、奥さんはきっと怒っているだろうとこわごわ見上げると、奥さんの顔がとても優しい顔をしておられた。この顔はさてどこかで見た顔だったが・・・、そうだ!御代田の喜びの集いで見た顔であった、と思い出されたそうです。 本当に主は、私たちの顔色もよくしてくださいます。 箴言15:13
とあります。 姉妹の夫に向けた優しい顔は、イエス様との交わりによる喜びの顔で輝いていたのであります。 野田兄メッセージ ローマ人への手紙15:13
私たちは今、とっても大事な時代に生かされています。パウロは、同じイエス・キリストを信じる一人一人に二つのことを伝えました。 一つは信仰によるすべての喜びと平和をもって満たしてください。もう一つは聖霊の力によって、希望にあふれて生きてください。二つのことをおっしゃたんですね。 私たちの主であるイエス様は、主の中に喜びがあり、平和があり、いのちがあり、そしてイエス・キリストとつなげられることによって、決して希望を失うことはありません。パウロはそういうふうにおっしゃってくださったんです。 パウロは「信仰によって」と書きました。イエス・キリストを心から信じなければ、喜びも平和も、そして新しいいのちも、決して現実的なものとはなりません。 先日、共に働いていらっしゃるあのクリスチャンの兄弟から一つのみことばをいただきました。エペソ人への手紙の5章15節からです。 彼はこの言葉に非常に心を打たれ、ずっとノートにはさみ、毎朝出掛ける時その言葉に思いを留めながら祈って家を出ました。 エペソ人への手紙5:15-17
今も、この時代と同じように非常に悪い時代に入っています。人間がどうしてこんなことをやってしまうんだろう、という事件が頻発しています。私たちの社会は豊かになって、食べ物や着物が十分に与えられる時代なのにもかかわらず、私たちの心の中は疲れきり、すさみ、非常に寂しい状態になっています。家庭や社会が崩壊していくのは、その一つの表れだと思います。 今の社会は、自分の考えで生きてきたつけがそこに来ているのではないか、私は聖書からそう学ばざるをえません。 自分の正しさを求めていく生き方の答えは、「混乱」です。ローマ人への手紙を書いたパウロは、はじめは徹底して自分の生き方を貫いて来ましたけれども、それは人を殺すことまでも平気な彼になっていました。主は彼の心に光をあててくださり、彼はそれからは非常に小さい者に変えられていきました。 昨年は、自分の生き方も「歯車が狂っている」、そういう生き方をしているのにもかかわらず、それに気がつかない日が何日も続きました。イエス様は、私たちが弱い、小さい、自分が間違ってると思った時に、はじめて生きて働いてくださいます。現実に私たちを導いてくださり、必要を満たしてくださり、具体的に助けてくださいます。 最初にお読みいたしましたローマ人への手紙から、私はいつも軌道修正を私の心に投げかけます。一つの質問は、「あなたはどこに立っているんですか?」、イエス様がいつもそう聞きます。二つめは、「あなたはどこに向かって生きているんですか?」、そういうふうに問いかけます。 このみことばの中にはっきりとした答えが二つ出ています。 私たちの立つべき土台が、いつもイエス・キリストそして主の言葉であるものに土台をもたない限りは、私たちはいつも自分の中に閉じ込められていきます。 不幸になる一番早い方法は、自分だけのことを考えれば簡単に不幸になっていきます。知らない間にこの世の中の何かを求めだした時に、私たちはどこに向かっているのか、間違えて歩みはじめます。 テトスへの手紙1:2
どんな人にも、イエス様の十字架の愛が投げかけられています。私たちの主であるイエス様は、肉眼で見ることができませんのでわかりづらいですけれども、本当に信じた一人一人に、具体的に必要を満たしてくださるかたちで、私たちの心の中に働いてくれます。 イエス様は私たちに喜びを与え、平和を与え、そして「ここに向かって生きるんだよ」ということをわかりやすく導いてくれます。やっぱりイエス様から目を離すと私たちは混乱の中に入っていきます。 ローマ人への手紙15:4-6
新しい年は本当に自分は何もわかりません。できません。どうしたらいいでしょうか。イエス様が導いてください、そういうふうに祈りながら、新しい一年を始めさせていただきたいなと思います。 私たちがイエス様から目を離すと、何が起こるかわからないような、すごい危ない時代に入っています。一人でも多くの方が、私たちの罪のために十字架にかかられ、血と肉をさかれたイエス様に心から思いをはせるようになると本当に嬉しいと思います。 古田公人兄メッセージ 先日本屋さんへまいりましたら、一冊の小冊子をいただきました。それを開けて見ておりましたら、ある牧師さんの文章が目に留まりました。お書きになってることは、若い日に神学校で学ばれたこととして「聖書に問う方法であった」、と書かれておりました。 何か少し違和感を感じたんですけども、この短い時間そのことをもとにご一緒に考えてみたいと思います。 ルカの福音書の7章36節から40節を読んでみたいと思います。 ルカの福音書7:36-39
と書かれています。この、イエス様の前にやってまいりました女性は、心に重い痛手をいだいてやってきたのだと思います。人の目を避けながら、でもかけ込むようにイエス様の前にやってまいりました。 彼女は、でもイエス様の前で何一つ申し上げることはできませんでした。ただあふれ出る涙とそしてイエス様の御足にぬってさしあげた香油のその行為が、彼女の心を語っているのだと思います。 私たちには、それが悔い改めの心であり、またイエス様の本当に喜ぶ、イエス様を愛する心であったと推測するしかありませんけれども、でもイエス様はもちろん彼女の心の奥の奥まですべてをご存知であったと思います。 彼女はイエス様に何一つ問いかけようともいたしませんでした・・・ (テープ A面 → B面) ・・・信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。」と豊かな祝福をいただきました。 対照的にイエス様を食事におまねきしたパリサイ人はどうだったでしょうか。彼はうたがいの心をもっておりました。イエス様をお迎えしながらも、その出会いは実を結ぶものとはならなかったと知らせられます。 この出来事を通して思い出すことは、本当に大切なことは「聖書に問う方法」ではない!大切なことは「悔い改めて、あわれみを請い求める心であり、十字架の死を仰ぎ見る心だ」ということを知らせられるように思います。 イエス様は、「あなたがたはわたしが話したことばによって、もうきよいのです。」、とある日仰せになりました。「もう、きよいのです。みことばを受ければ、もう、きよくなってるんです。聴く耳がありさえすれば。」とお話になったのだと思います。 またパウロは「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である。」と何度も語りました。 イエス様がお語りになったみことばもこのパウロの言葉も、十字架の言葉の確かさ、言い換えますと十字架の言葉は私たちのうちに生きて働く!ということを言っているのだと思います。 十字架の言葉は、結局のところ「ご自身のいのちに代えてまでイエス様はあなたを愛しておられる!」ということなのではないでしょうか。 だから、「あなたはもう、一人ではないし、あなたを責めたてるものは、もう、ありえない。あなたは大丈夫だ!」ということであろうと思います。イエス様の宣教の最初の言葉を思い出したいと思います。 悔い改めて、福音を信じなさい。 「悔い改めて、福音を信じなさい。」というみことばには二つの呼びかけがございます。私たちに対して二つの行動を促しておられます。 悔い改めることと、信じることであります。 イエス様がおっしゃることは、「この二つだけはあなたにかかっている。それ以外のことはみんな私が引きうけたから。」と仰せになっているのではないでしょうか。 私たち一人一人を愛のうちに創造してくださり、私たち一人一人のためにすべてを捨てて十字架にかかってくださり、そして今は復活して私たち一人一人のためにとりなしの祈りをしてくださっている、そうしたことは全部イエス様がご自身から成し遂げてくださったと仰せになっているのであります。 主が仰せになりました、あなたにかかっている二つの態度、すなわち悔い改めることと信じること、この二つをあなたが引きうけるなら、もうあなたの心の中には「わたしの愛がおしよせる波のように迫っていくのだ」と仰せになっているように思います。 十字架の言葉は、この世によくある処世訓ではありませんし、また知識でもありません。生きて働く神様の力です。それは、私たち一人一人をイエス様のうちにまねいてくださる力です。寒い、ほんとに暗い夜空の中をたとえ一人で歩いておりましても、あるいは肉親と離れたさみしさの中におりましても、もし私たちがイエス様が私たちのために何をなしてくださったか、そして私たち一人一人のためにどれほど主が涙を流し、血を流してくださったかを思うとき、私たちの心は、熱くなり、潤いをいただくものいただくものであります。 私たちが生きているということにはもちろん問題がありますけど、イエス様に信頼するなら、主はその一つ一つを祝福のもとと変えてくださいます。 だから希望があります。十字架の言葉は神の力です。それは、信じる者には具体的に経験できることであります。十字架の言葉によって、私たちは確実にそして具体的に変えていただけることを確信したいと思います。 どうも、ありがとうございました。 松見兄メッセージ 東京の山の手線の渋谷と目黒の間に、恵比寿という駅がございます。恵比寿の駅の山手線の内側は、今近代的なビルが建って、にぎやかなエンターテイメントの場所になっておりますけども、あそこは昔は札幌ビールのビールの工場がありました。 今から30年前に、私はそこであのアルバイトをしておりました。2週間ほどだったと思います。どういうアルバイトかと言いますと、空になったビール瓶、回収されたビール瓶がベルトコンベアーで流れて来まして、それをジーと見ておりましてですね、欠けた物があったら拾って穴に捨てると、これを繰り返すアルバイトでありました。 もう一つローテーションがありまして、一時間置きかそれぐらいで交代いたしまして、今度は捨てたビール瓶を、その穴の中に鉄の棒を突っ込んでバンバンこう打ち砕く、ひたすらそれを繰り返すというアルバイトで、今思い出してもそれが一番おもしろいアルバイトでございました。 結局その回収されたビール瓶は、そういう具合に全く使い物にならなくなるんですけども、通常、物は壊れて使い物にならなくなります。 目に見えるものは砕かれますと全く使い物にならなくなる、それが目に見えるものの当たり前の特徴だと思います。 ところが、何度も私たち、みことばを通して学んでいます通りに、私たちの心だけは別です。私たちの心はそういうふうに砕かれて砕かれて、ますます完全になり、使い物になるようになっていくのですね。 ちょうどそのアルバイトをしていた当時、私はまだ救われたばかりの頃でした。そして不思議なことに、今に至るまでそのひたすらビール瓶を打ち砕くあの作業をはっきりと覚えて、何か素敵なイメージのように覚えております。 瓶は砕かれて使い物にならなくなり、捨てられますけれども、私たちの心はイエス様によって毎日の生活を通して砕かれて、ますますイエス様によって使い物になるようになってまいります。 不思議なことですけれども、心だけは砕かれて初めて完全になります。これは詩人の八木重吉も書いておりますけども、 全きたましいは腐れている 砕かれたたましいは完全である と、逆説的な詩を書いております。 2箇所だけ聖書をお開きしますが、 詩篇34:18
これこそ、イエス様が十字架を通して私たちに提供してくださった救いそのものであります。イエス様とともにある砕かれたたましいこそ、完全なたましいである。イエス様が私たちの不完全な心のバランスをとってくださいます。不完全なところを砕いて造りなおしてくださいます。 毎日毎日、イエス様はその作業を私たちの目に見えない心の中でしてくださいます。毎日私たちは苦い思い、苦い経験をして、去年も暮らしてきたかもしれませんし、今年もそういうことは毎日毎日あるにちがいありません。 けれどもそういうことを通して、イエス様は私たちの心を砕いて、イエス様の御心にかなう、役に立つ者にしてくださろうとするんですね。 去年一年間は、目に見えないところでたくさんそういうことをイエス様はしてくださいました。そして実際、考えてみますと私たちは結局、「イエス様によって砕かれるために生まれてきた」と言っていいのではないでしょうか。 天国への準備期間として、私たちはこの地上を歩むうちたくさん砕かれて、イエス様と顔と顔とを合わせてお逢いする時に、ほんとにそれだけ、砕かれた分だけの栄光をいただくようになると確信しております。 ですから自分に都合の悪いことこそ、特に私たちはイエス様からのものだと感謝して受けとめて、その苦き味わいではあるでしょうけども、十分に味わって主の導きをいただくべきではないでしょうか。 とは申しましても、どこまで私たちが砕かれるか、実はあまり自信がありません。イエス様だけがしてくださることであります。 私たちの側はどうかといいますと、やはりわがままな思い、自分の計画、自分はこれをしたいのだ、あれをしたいのだ、こうありたいのだ、という思いが先に出てきます。ですから結局、不完全なまま一生を、この地上の歩みを終えるかもしれません。 けれども、私たちはそんな者でしかありませんけども、本当に完全に完璧に、残すところなく身代わりとなって砕かれてくださったイエス様ご自身がいらっしゃいます。ですからたましいの砕かれた、心の打ち砕かれた者の近くにいてくださる。私たちの近くにいてくださるイエス様が、私たちの心を完璧に守ってくださいます。 イザヤ書の53章の10節で、ここにも「砕かれた」という言葉があるんですけども、何ということかこれはイエス様について、彼が砕かれたと書かれてるんですね、 イザヤ書53:10
身代わりとなって、完璧に砕かれてくださったイエス様をみことばは証しています。このイエス様が私たちを導いていてくださいます。この方とともに歩むことによって、私たちの心はバランスよく保たれます。 本当に「イエス様は、私たちのバランスである」、と言ったらちょっと失礼かもしれませんけども、本当に慰め主であり、 落ちこんだ時は引き上げてくださり、よその方向へ行こうとした時にはもとの道へ戻してくださる、そういう意味でのイエス様は、私たちのバランスそのものでいらっしゃいます。 結局私たちの心は、砕かれるほどにイエス様は私たちの心に入ってきてくださいますし、イエス様が私たちの心に入ってくるほどに、私たちは砕かれるようになります。そのような、主の導きを今年もたくさんいただきたいと思います。 最後にガラテヤ人への手紙の6章の15節をお読みしたいと思います。 ガラテヤ人への手紙6:15
実は最初に申し上げたビール瓶を壊すアルバイト、鉄の棒でこなごなに砕かれたビール瓶は、実はこれはまた溶かされて新しいビール瓶に作り替えられます。 私たちもイエス様によって心をたくさん砕いていただいて、新しい心に造りかえていただきたいと思います。大事なのは新しい創造です。 どうも、ありがとうございました。 蘇畑兄メッセージ 福音というものについて、「一言で語れ」と言われたらどうしたもんだろうかと思います。 偉大なもの、口で言い表すことのできないほど素晴らしいもの、というような表現しかできないような気がいたします。パウロはテモテへの手紙第Iの中で、 テモテへの手紙第I、1:11
というような言い方をしてるんですね。 一言で福音とは何かといえば、それはキリストのうちに神の御心のすべてがある、それが福音である。あらゆる問題の解決があり、本物の望みと、確信のある人生と、ゆるがぬ平安とがある。言いかえれば、全き救いがそこにある。それがキリストの福音だといえると思います。 この福音の中に神の真理が啓示されており、それは人知をはるかに超えて高く深いものである。私たちは福音について知れば知るほど、その素晴らしさ、偉大さに、驚かざるをえないものであります。 福音のもたらす喜びはいつも新しいものでありますけれども、福音の素晴らしさ偉大さについての驚きもまた、いつも新しいものであります。 ローマ人への手紙11:33
と、ま叫ぶように記しています。 イエスキリストを通して示された「神の義」は、かつて人間の心に浮かびえないようなものでありました。それは人間の義をいっさい否定するものであり、ただ信仰によって恵みとして一方的に与えられる義であります。それは、だれも自らを誇ることのないためである、と記されてある通りであります。 神は十字架によって人間の罪の根源である高ぶりを徹底的に打ち砕き、罪を取り除いてくださいました。罪を十字架によって処理してくださいました。そして、その罪にかえて信ずる者に義の衣を着せてくださいました。 この神の義とはキリストご自身であります。ですから、それは生きている義であります。私たちのうちにいのちを与える義であり、私たちを聖め満たすところの、また真の知恵を与えてくれるところの義でもあります。 コロサイ人への手紙2:9-10
とパウロはコロサイ人への手紙の中で書きました。 ヨハネの福音書1:14、16
とヨハネは記しました。 神の知恵と恵みが満ち満ちたもの、それが福音でありキリストご自身である。信仰の歩みを通して、私たちはそれを一つ一つ経験していくわけです。 福音を知れば知るほど、私たちはその福音の偉大さ、人間の理解をはるかに超えた、人間の言葉で言い表すことのできない、その福音の偉大さに圧倒されるのであります。 コリント人への手紙第I、1:30
と記されています。 キリストは、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方である、とエペソ人への手紙の中に書いてあります。 へブル人への手紙の1章3節はよく知られているように、 へブル人への手紙1:3
と記してますけども、御子の福音もまた神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れと言えるんじゃないでしょうか。 この福音の中にいっさいのものが満ち満ちている。間違いなく言いうるのであります。イエスキリストの富は無尽蔵の富であります。この世の富ではなく天的な永遠の富であります。 この世にあって、人間が永遠なるもの、永遠の世界に触れることのできる唯一の確かな、(まいはいぶつ?)こそ福音であり、仲介者こそキリストご自身であります。 ここに人類が求めてきた本物の、間違いのない真理が啓示されているのであります。 僕はあの中国の孔子の言葉が大好きであります。「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」、と彼は言いました。 朝、真理が何であるかを知ることができれば、夕べには死んでもいい、何と言う気丈夫な心でしょうか。クリスチャンもそうでなければならないと私はいつも思ってます。 キリストととの出逢いというのは、結局あらゆるものにまさる真理との出逢いであります。私たちはこの中にいっさいのことを見出すことができる、と確信してます。 この目に見える世界には確かに出口がありません。この見える世界だけであれば、それは絶望でしかありません。 しかし目に見えないところの世界、永遠なる世界を私たちにはっきりと示してくださるもの、それは福音であり、イエスキリストご自身であります。 だれもがその世界を確かに見ることができる、確かにそれを知ることができるのであります。 ただ私たちが霊的な盲目であり、自分の問題に気づかず、聖書が言ってる本当の問題が何であるかに気がつかないがゆえに、私たちにとってはそれは謎のように思いますけども、すべての人がその真理に触れることができ、永遠なるものについてはっきりとした確信をもつことができる、そしてそれによって私たちははじめて自分の人生の唯一最大の課題を果たし終えることができるのじゃないでしょうか。 そして、はじめて私たちは心から安心するのじゃないでしょうか。 イエス様を通して真理を知るようになれば、人はほんとにそのことだけで歓喜雀躍いたします。いつもそのことだけで喜びます。 イエス様はマタイの福音書の中で天国とはこのようなものです、とおっしゃって、畑に隠された宝物を見出した人のことを記されました。 彼はその隠された宝を見出したときに大喜びで帰り、とわざわざ書いていらっしゃるんですね。「喜んで帰り」、と書いていないんですねぇ。「大喜びで帰った」、躍り上がるようにして帰ったのであります。そしてその畑を買ったと言ってるんですね。 救い主を知るというそのことだけで、私たちはもう充分に満ち満ちたものとなるのじゃないでしょうか。そしてそれこそが、また本当の生きる力の源、主に仕えるエネルギーの源なのじゃないでしょうか。 ですからペテロはその手紙の中で、「主のもとに来なさい。主は人には捨てられたが、神の目に選ばれた尊い生ける石です。」、と書いています。 「主のもとに来なさい。ここに無尽蔵の富があるから。キリストの福音の中に、キリストご自身の中に私たちが必要とするすべてのものが備えられているから。 だれもがそれを見出すことができるから。だから主のもとに来てください。」 聖書全体の呼びかけであります。 藤本兄メッセージ ローマ人への手紙の8章の18節から25節までお読みします。 ローマ人への手紙8:18-25
これからは、ほんとに短いイエス様への手紙を言います。 「主イエス様は、主の時に私たちを迎えに来てくださいます。その時が迫っています。それが私たちが待ち望んでいる再臨です。 イエス様に救われる前は罪を知りませんでした。まさか罪ある身が天国に行けないなどとは夢にも考えなかったのです。 主イエス様の福音に触れてから罪の存在を知り、本格的な罪との戦いに入ってしまったのです。 この今の社会と妥協して生きていけば、罪の戦いは薄らいでいきます。だから楽に見えます。 しかし罪の本質的な問題は解決していません。そのことに気がつきますと、本当の苦しみを体験するのです。 罪の問題にあいまいですと何も変わりません。聞こえるべきことが聞こえません。知るべきことが理解できないのです。ですから私たちは罪から離れなくてはならないのです。 でも私たちには善をなす力がないのです。本当に罪ときよさに対してはあいまいで無力な自分を発見します。 聖書のきよさは私たちの罪深さを明らかにしますが、私たちはやはり無力です。 ですから、心からイエス様に感謝します。十字架を通して、罪の赦しが私たちの心を軽くしてくださるのです。 イエス様は私たちを『孤児にはしない』と言われました。そしてイエス様はこの苦しみからの避け所となってくださいました。 私たちの肉は全き善を成す力がないのです。イエス様が私たちの代わりにことを成してくださるのです。 イエス様は、イエス様以外には救いがないことを教えてくださいました。 イエス様は確かにともに歩んでくださいます。ですからイエス様に身を避ければ重荷は軽くなるのです。 心の重荷が軽くなるほど、これほどうれしいことはありません。本当にうれしくて感謝です。 その主にお会いしたいと思えれるようになるのは、まさに奇跡としか考えられません。 イエス様は、私たちと顔と顔を合わせて会いたいと願ってくださいます。なぜならイエス様が天の御国に帰られたとき、『住まいを用意したら、必ず迎えに来てくださる』と言われました。 ヨハネの福音書14:1-3
ローマ人への手紙8:24-25
イエス様、ありがとうございます。 |