2003年元旦御代田メッセージ


ベック兄、和田芳明兄、和田宗勝兄、長岡兄、片桐兄、岩崎兄、芳竹兄、野田兄、森田兄、松見兄

(御代田、2003/01/01)

ベック兄メッセージ

明けましておめでとうございます。今年こそまた多くの人々が救われ、そしてイエス様に迎えに来てもらいたい気持ちでいっぱいです。
まずニ箇所お読みいたします。

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

サムエル記第I、18:17
17勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。

主イエス様の御心が、全ての人が救われることであり、悪魔の願いはまさにこれと正反対で、全ての人が呪われることです。
イエス様の御心が、人間が真理を知るに至ることであり、悪魔の願いは全ての人間が試みに遭って誘惑され、間違った道に行くことです。
主イエス様の御心と悪魔の願いが、このように対立しているように、あらゆる主を知るようになった者は、この戦いの中に投げ込まれています。
キリスト者の生活は決して遊びごとではないということです。ふさわしい歩み、あるいはふさわしく歩むことでなければならない。
我々の模範であるパウロは告白しています。

エペソ人への手紙4:1-3
1さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

次に、信ずる者の生活は競争として説明されています。

ヘブル人への手紙12:1
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

それから信ずる者の生活は、旅人や寄留者の歩みにも例えられています。

ペテロの手紙第I、2:11
11愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

と。主に従う兄弟姉妹は、寄留者あるいは異分子として、この世の中で歩まなければならないと聖書は言っているのです。これを一言で表現するならば、キリスト者の生活は戦いそのものです。
このような歩みをするためには、人間は自分自身の力に拠ることは出来ず、イエス様の力に拠り頼む以外に方法はありません。
ただイエス様にお従いしたい兄弟姉妹は、誰でもこの戦いの中に投げ込まれたものです。従って悪魔の憎しみを感ずることのない者はまことに災いです。勿論私たちの戦いは決して血肉、すなわち人間に対する戦いではなく、我々の敵とは悪魔です。

エペソ人への手紙6:12
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と。聖書によると、三種類の敵が我々に対立しています。
第一はこの世です。この目に見える世界です。
二番目、ま、肉です。ま、我々のわがままです。
三番目、勿論悪魔です。

この世について聖書は言っています。

ヨハネの福音書17:14
14わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

聖書はまた、この世の友は神の敵であるとはっきり言っています。

ヤコブの手紙4:4
4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

と、ヤコブはイエス様に出会った人間に書いたのです。
この世との内面的な分離がなければ、ホントに主との交わりにあずかることが出来ません。

第二の敵は自分です。聖書は肉であると言っています。

ガラテヤ人への手紙5:17
7なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

ここで、肉とは人間のワガママな意思のことを意味してるのです。自分のことばっかり考える者は悪魔の奴隷。
従って悪魔に捕らえられ悪魔の虜になってる者に他なりません。

第三の敵は、この世と肉を利用する悪魔です。

ペテロの手紙第I、5:8
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

これらの三つの敵を軽く考えることは大きな間違いです。悪魔は日夜私たちを攻撃しようと隙を狙ってます。
主なる神は、聖書の中で何百回も我々に向かって言っています。

恐るることはない。私はあなたがたと共におり、あなたの代わりに戦ってるのです。

と。敵は決して想像上の偶像物ではありません。このような恐るべき敵の力のために恐れをなすことは、全く当然のことと言えましょう。けど、私たちは主と共に圧倒的な勝利者であることを赦されています。

ローマ人への手紙8:37
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

勝利者なるイエス様は、器を求めておられ、その器を通してご自身の勝利を明らかにすることが出来るのです。
そしてイエス様は同労者として、私達のような者を用いようと望んでおられます。全てはイエス様に委ねられています。
イエス様はご自分がお用いになることが出来る兄弟姉妹、すなわち全てを主に委ねた兄弟姉妹を求めておられます。

今日最も必要なのは、主の同労者です。初代教会の人々は言えたのです。

私たちは神の同労者です。私達は神と共に働く者としてあなた方に懇願します。神の恵みを無駄に受けないようにして下さい。
頭なるイエス様は主の体である兄弟姉妹を通して働きになり、ご自身を明らかになさりたいと思っておらるるのです。
全世界に出て行き、全ての救われた者に福音を述べ伝えなさい。主イエスを紹介しなさい。

これこそが我々の果たさねばならない義務なのではないでしょうか。最後にもう一箇所読んで終わります。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。





和田芳明兄メッセージ

明けましておめでとうございます。年があらたまって、何か新しい気持ちをもって進みたいと決心された方も多いのではないかと思います。
聖書の中に、「大事なのは新しい創造です。」というみことばがあります。しかし新しいこととは何でしょうか。この目に見える世の中に新しいことはあるでしょうか。
新しい自分の決意、また新しい家、車、洋服、実は今日新しい洋服なんですけど、初めて着た洋服です。ちょっとまだ身に付いてませんけども、そういうものは時が経てば古びていきます。

聖書のみことばに次のようにあります。

伝道者の書1:9
9日の下には新しいものは一つもない。

確かにカレンダーは2002年12月31日で古い年月は終わり、2003年1月1日から始まりました。
しかし静まって自分の心の状態を見る時、昨年と何も変わらない自分を発見するのではないでしょうか。

私は職業柄、現実的にそのことをよく体験します。例えば12月の31日に成田を出発してハワイへフライトします。6時間の時間は経っているけれども、また同じ日、12月31日にハワイに到着いたします。
そして一泊して翌朝、確かに1月1日でありますけれども、ハワイから日本へ戻ります。すると到着日は時差の関係で1月2日となり、現実的には1月1日は太平洋上空で消滅してしまいます。
気持ちも特に新しい年を迎えたという確信とか実感はありません。そういうようなことをよく私は体験いたしました。

では、その本当の新しいこととは何でしょうか。それはその人が過去のいろんなこと、自分のわがまま、苦しみ、問題から解放され、本当の心の平安、まことの喜び、将来の希望に満たされた人生を歩むことではないでしょうか。
つまり自分自身が本当に天国に行くことが出来るか、という確信を持っていることではないかと思うんですね。

こういう話を今回体験したんですけれども、飛行機は飛び上がりますと当然雲の上に出ます。そうすると雲の上に出る時に非常に美しい雲の群を下に見ることが出来ます。横に座っていたスチュワーデスが「まあ、天国みたい」っていうことを言ったんですね。
で、すかさず私は「天国行きたいの?」って聞いたんですね。
「行きたいです」
「でも行く確信があるの?」
「ありません」
「和田さんは?」
「あります」っていう話をしたんですね。
「それはどういうことですか?」っていう話をして、まあ雲もそうですけども、「空も星も人間が造ったものだと思いますか?」
「いや思わないです」
「そうでしょ。これを造られた偉大なる方がおられ、そして私たちはその方を本当に知らない。ただ何となくそういうものを見て何か偉大なものがあるということを思うだけです。しかし本当にこの天地万物を造って、私たち人間も造られた偉大な方がおられ、その人が私たち一人一人を愛して下さっている。その愛の中に入る時に、私たちは天国に導かれますよ」
っていう話を、飛行機が離陸してほんの数分の間で話をしたんですね。

そして、「出来ることは本当に自分自身がどうしようもないわがままな者であり、本当にどうすることも出来ない自分の思いを持っている者である、そのことを偉大なる天地を造られた方にごめんなさいをして、そして新しい人生について考える機会を持つことが出来るのではないでしょうか。」、という話をして、実はここにもっと詳しく書いてあるリンデの本がありますから、っていうことでその本をお渡ししたんですね。

その結果どのようになったか私はまだ知りません。しかしイエス様のみことばは良き種であり、必ずいつか主が自身、芽を出し、花を咲かせて下さる、それはもういろんな形で見せられていることを覚えます。
私たちはあらゆる機会を通して主のみことばを述べ伝えなさいと言われております。時が良くても悪くてもそのことをしなさいと、主は私たちに命じておられます。

本当にまことの人生において喜び、希望、そしてまた将来満たされた人生を歩むことは、決して人間の努力や計画で得ることは出来ません。
それができるのは、唯一主なるイエス様です。
イエス様ご自身が私たちを愛して下さっているが故に、私たちは本当に主の前に頭を下げ、イエス様の十字架の購いによって、そのわがままが赦されていると確信します。自分の人生を主に委ねる時に、私たちは考えられない喜びと希望に満たされます。

私自身17年前にそのことを体験して、本当にこの喜び、人間のその貧しい言葉で表現することは出来ませんけれども、その喜びを一人でも多くの方に伝えたいと、仕事の中において主によって備えられた魂がいるならばどうぞ教えて下さいと、絶えず祈る毎日であります。

やはり新しく作られること、それは自分で作ることは出来ませんけれども、主イエス様によって私たちが本当に変えられることが大切ではないでしょうか。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って,見よ,すべてが新しくなりました。

と聖書の中にあります。イエス様は私たちの罪のわがままの身代わりとして十字架の上で死んで下さいました。そして三日目の甦りを通して新しい道を開いて下さいました。
この本当の新しさの中に、自分自身の人生の希望と、喜びと、将来を見出すことができれば幸いに思います。

一昨年話題になった『レフトビハインド』という本がありますけれども、出版されて一年経った時に650万部という売上を上げたそうです。しかし、去年は5000万部という売上になったそうです。
そのように、確かに物語でありますけれども、イエス様が来られるという警告を私たちは本当に真摯に受け止め、そしてイエス様が来る前に私たちはどのような態度をもって日々生きるか、そのことをこの新しい年を通して、イエス様を信じている方は、本当に主の来られるまで、自分の家族、友人、知人のために救いを祈り、そしてまだイエス様を信じておられない方は、本当の新しい人生をこの新しい年に見付けることが出来れば幸いではないかと思います。

では最後に一箇所読んで終わりたいと思います。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

すべてのものを恵んで下さらないことがありましょうかと、主は約束して下さっております。本当の人生の希望、喜び、将来をイエス様の中に見出すことが出来れば幸いではないかと思います。
ありがとうございました。





和田宗勝兄メッセージ

敬愛します日本の兄弟姉妹、そして北米・カナダの兄弟姉妹、明けましておめでとうございます。そしてご無沙汰しております。
今日は吉祥寺からまいりましたけども、現在ドイツの方に住んでおります和田宗勝と申します。
北米の方々にはマークという名前で呼ばれていましたので、その方が恐らく判り易いと思いますので是非思い出して下さい。

皆さまのお祈りに覚えられて、この日、皆さまとお会いできる日を楽しみにしてました。
そして皆さまのお祈りに覚えて下さっていることをひしひしと感じて、この日を迎えることが出来ましたことを、この場を借りてお礼申し上げたいと思います。
そして私一人だけではなくて、私の一時帰国に際してですね、ドイツの兄弟姉妹がくれぐれも皆さまによろしくと、何度も何度もお電話を頂きましたので、この場を借りてお知らせ申し上げます。

まず一箇所、旧約聖書の列王記第IIからお読みします。

列王記第II,6:15-17
15神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

この箇所からですね、今年は「目を開いて見えるようにして下さい」という祈りをもって歩めたらなと思います。
どうしてこのようなタイトルを自分で付けたかといいますと、2002年もそうだったんですけども、来たる、もう来ましたけども、2003年も全く見えなくなる年ではないかなと思わされたからです。
単純に見えなくなるということについて考えられるのは、自分自身が見えなくなることと、もうひとつは見えなくされることではないかなと思わされます。

ま、それは私自身が去年からドイツの方に赴任しまして、全く海外生活というのも初めてです。自分の祖国を離れて、異国の地でですね、異国といっても喜びの集いに集ったというのは全く生活のうちには関係ないもので、生活自体は未信者の方々と同じように生活するわけですので、仕事のみならず、私生活についても、これは知らなかった、あれは知らなかったっていう失敗と学びの連続です。
だから、ここまで過ごせて来れたのも、何を自分が覚えたかってのがあんまり覚えてないくらい、もう目に見えるものに翻弄されてきたとしか申し上げられません。
また同時にですね、そういうことに翻弄されてた、翻弄されてしまう自分に対して、見えないところで働いておられる主の奇しい業を見なさいということを言われているのではないかなという風に思わされます。

ちょっとそのひとつをご紹介したいんですけれども、自分がドイツに赴任した時にですね、アパートを探すにしてもものすごい苦労したんです。
大体日本人の方は日本人が集まるところに住むんですけども、私は何故かそこに全く空きがなくて、どうしても町の外の方に目を向けなければいけなくなりました。
結局見つかった場所が、ホントに人里離れた場所でですね、自分の庭に馬が走ってるんですよね(笑)。そういう所に住んで、買い物も隣町まで車で行かなければ到底行けないという陸の孤島のような状況です。
それで上司から、どうしてこんな田舎に住むんだと言われたんですけども、大家さんが優しかったっていうのもあるんですが、簡単に決めたんです。
でも、確かに引っ越して来て、ああここで新しい生活が始まるんだと思った時に、何にもない状況を見てですね、確かにここで一体何を僕はやるんだろうと思ったんですね。

そんな時にある一通の手紙をドイツの友人から貰いました。97年に一回日本に来たことがあるセバスチャンという兄弟と、奥さんのアンドレアという姉妹です。
それは僕の新しい住居の住所を知ったとともに、そこにイエス様を信じている兄弟姉妹がいるんだよというお知らせだったんですね。これはホントに大きな驚きでした。自分で「ウソ、こんな田舎に」っていう風なことで、信じられませんでした。

その手紙に書いてあったみことばがヨハネの福音書10章の28節で、

ヨハネの福音書10:28
28また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

っていう言葉が書いてありまして、ホントにびっくりしました。
とは言っても、どんな兄弟姉妹か判らなかったので、私からコンタクトする気は全然なかったんですが、その兄弟姉妹が私の方に最初にコンタクトして下さいました。
それで週末の土曜日に招待されて、また日曜日にはそのフランクフルトの近くに集会があるということが判りました。

あらかじめこれはベック兄姉にもご相談してたんですけども、残念ながらベック兄姉の関係でご存知な集会はないということでしたので、私にとってはものすごい驚きだったんです。
兄弟姉妹のところに招待されて、いろいろ自分の救われた経緯、またドイツに来た経緯をお話して、『実を結ぶ命』を持って行ったんですけども、その本は彼らの本棚にしっかり入ってました。
彼らはゴットホルドベック兄だっていう名前でしか知らないですけど、実際にその方の主にある働きを通して実を結んだ魂がここに、自分達の家に来たんだということを喜んで下さいまして、ホントにそこから新し交わり、新しい兄弟姉妹を知ることが出来ました。

今お読みした列王記第II、6章の16節から17節にですね、若い使いが朝起きたら敵が城を取り巻いている、どうしたらいいんだという時にですね、エリシャは、彼の目を見えるようにして下さいと祈ってくれました。
まさに主が目を開いて下さるとこうも違うんだなということを、わずか住居を見付けるということだけなんですけども、これだけでもすごい大きな恵みを頂きました。
毎日いろいろこのような小さなことと言ったら申し訳ないんですけども、主からたくさんの慰めと導きを頂いております。そして、そのフランクフルトの兄弟姉妹と知り合うことによって、今私はミュンヘンの方にも住んでるんですけども、ミュンヘンの方でも新しい兄弟姉妹を知るきっかけを与えて下さいました。

仕事と私生活で、一日中がんじがらめにされていて、一体自分の生活は何なんだというところを思うんですけども、その一方、主の静かな導きを知らせる歯車が回り出してまして、今はそれに期待する毎日です。

また他方、見えなくされることということについてちょっとお話したいんですけども、私が今住んでいるといいますか、駐在しているドイツ全体はですね、ホントに今見えなくされている状況だと思うんです。
これはドイツのグーマズバッハっていう所の、子ども集会のクリスマス会に参加した時にですね、ある兄弟が学びの中で新聞の切り抜きを紹介して下さったんです。
これをちょっとお読みします。

クリスマスとは一体なんの日でしょうか。「勿論それはおばあちゃんが家に来るからさ!」
ドイツ全体で6歳から17歳の子どもたちを中心に行ったクリスマスについての意識調査の中で、実は39%の子どもたちがその意味を知らないのだ。実に調査を行ったところ、旧東ドイツでは54%、旧西ドイツにしても36%の割合でクリスマスの意味を知らない子どもたちがいるのだ。
回答としてあげられるのが、「冬にいつもお祝いするから」、「サンタさんが来るから」また「おばあちゃんが家に来るから一緒にクリスマスをお祝いする」、またある子どもについては「サンタさんが死んだ日だから」云々・・・。

という風にそういう記事を紹介されて、私もホントにびっくりしたんです。
このような状況になって一番ひしひしと感じるのは、主を否定する力が大きく働いているということ。その力がきれいにオブラートにくるまれたようにして、全く見えない状況になっているということなんです。
自分自身もホントに目を開いて頂きたい、でも状況によっては周りの、自分が今触れている生活環境によっては、見えなくされてしまうということも有り得るのではないかなと思うんです。

これはどんな小さなことでもホントに当てはまりまして、ドイツ語でよく『幸運を』っていう時に『フィールグルック』(Viel Gluck!)っていう言葉があるんですけども、最近は『トイトイトイ』(Toi,toi,toi!)っていう言葉があるんですね。
これはテレビでもどこでも誰でも使っててですね、私もよく聞いてたものですから、得意がって使ってたんですね。そしたらある兄弟がですね、「マークそれはあなた言葉の意味を知ってて使っているのか」と言われたんです。
「え、どうして?」それは『トイフェル、トイフェル、トイフェル』まあ『悪魔悪魔悪魔』、三回悪魔の名前を、呪文を唱えることによって、悪魔の力を借りることによって幸運を呼ぶんだよという、そういう意味だということを知った時に唖然としました。

それはですね、私がその意味を知ってから、ドイツ人にまた言われた時に、ドイツ人にその意味知ってるのかと逆に尋ね返しても彼らは知らないですね。
あそうなのかというぐらい、全く私たちの環境の中で意味を知らない、全く盲目にされたまま使ってる状況、また思い込んでる状況っていうのが沢山あることを思わされます。

この年はですね、全く見えなくなる年、見えなくされてしまう年だと思いますし、またお互い兄弟姉妹が祈りによって、ホントに見えるようにして下さいと、お互いが祈り合うことによって、私たちの周りに主の軍隊が、実は主がいつも共に居て下さるんですよということをですね、改めて知る年になれればなと思います。
その召使についても、エリシャにどうしたらいいでしょうと、神さま、イエス様、どうしたらいいでしょうかと相談したことによって、エリシャが一方的に祈ったことではなく、また彼も求めたから、軍勢が山に満ちていると彼の目で見ることが出来たということは、これは本当に私たちの今年のやはり目的にも相当するんではないかなと思うんですね。

そして多くの兄弟方がおっしゃっているように、今年も盲目にされている、何も判らないで人生を歩んでいる方々のために、イエス様を紹介して、その方々の目を開いて頂くようにという祈りをもって、どこの持ち場であっても歩んでいきたいですし、またお互いに祈り合わなければ、何とも弱い者ですので、そのことを皆さまと覚えていただければなと思いました。

最後にみことばをお読みします。

テモテへの手紙第II、4:2-4
2みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

今年イエス様が来るように、皆さまとお祈りに覚えて、まだイエス様を知らない方々の救いのためだけに、皆さまのお祈りに合わせて私も自分の持ち場で歩みたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。





長岡兄メッセージ

どうも、おめでとうございます。この福音センターで普段は礼拝させて頂いております、長野市に住んでおります長岡と申します。よろしくお願いいたします。
私事でございますけど、毎年この元旦にはですね、みことばを頂きまして、一年間の信仰の目標というものを定めまして、それを忘れないようにと思って、一年を過ごしてみようと思っているわけであります。

去年の目標というのはですね、「今年こそは互いに愛し合おう」というものでありました。
ま、この一年を振り返りますと、互いに愛し合うということですね、なかなか出来なかったと思いますし、全く逆のことを多くやってきたのではないかなと、そのように反省させられたわけなんです。
しかしそんな状態ではありましたけど、折に触れてその目標というものを思い出して、もう一回やってみようという、そういう気持ちが一年間のうちに何回もあったわけなんですね。
それは大きな恵みとしてあったわけでありまして、そういった信仰の目標といったものもですね、無駄ではなかったかなとそのように思ったわけであります。

ということで、この新しい年の目標となるみことばをですね、年末に祈って今年も与えて頂きました。
それはヨハネの黙示録の2章の4節から5節のところだったんですね。

ヨハネの黙示録2:4-5
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

今年こそですね、初めの愛に戻ろうというのが、この平成15年の私の信仰の目標となったわけであります。
どうしてこういった目標を据えることになったのかといいますと、ここしばらくのこの自分の状態というものが、もう生ぬるいものであったためでありました。
年末に与えられたみことばがですね、ヨハネの黙示録の3章15節から17節のところであったわけであります。

ヨハネの黙示録3:15-17
15「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
16このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

このような状態から悔い改めて、初めの愛に立ち戻らなければならないと、そのように感じたわけなんですね。
では、この初めの愛とは一体何か。

私の場合は、それは文字通り救われた直後のですね、初めの状態だったわけです。イエス様を本当に愛する心、そしてイエス様を求める心、イエス様に頼るという、そういう心としてあったわけであります。
16年程前にイエス様の救いを一方的に頂いて、大いにですね喜んだ者へ変えられたわけでありますけど、その後は成長ということよりも、むしろ後退だったのではないかなあと、そのように思うんですね。

救われた当時というのは、本当によくもう聖書を読みましたし、よく祈りましたしね。朝から晩まで集会のメッセージテープを聞いたり、本を読んだり、交わったり、そういうふうにしておりました。
イエス様との交わりの中に入れて頂いたという、その大きな喜びがあったわけなんですね。
今から思いますと、あの当時というのは本当にイエス様に対して熱い思いがあったのではないかなあと、今は思われるわけです。
それを今初めの愛として振り返ることが出来るわけなんですね。

ヨハネの福音書5:19
19そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

イエス様が、この地上でいかに歩まれたかが、ここに述べられていると思うんですが、イエス様は神ご自身であられる方なのに、自分からは何も行なうことが出来ないと、そのようにおっしゃられました。
父なる神さまの望まれること、父なる神さまの御心を行なうことしか出来ないと、主イエス様はそのようにおっしゃられました。
これは考えようによっては大変に判りにくいといいますか、ショッキングなお言葉であると思うんですけど、しかしこれは考えさせられることではないかなと、そのように思ったわけです。

ある兄弟がですね、集会で司会をされた時に、次のような短い証をして下さったことがあったそうです。
私には全く成長がありません。というのは、自分に自信がないので、何をするにもイエス様に祈って、伺って、頼らなければならないからです。
するとその時のメッセンジャーとして来られていたある兄弟は、大した成長ではないかと、そういうふうに驚かれたそうなんですね。その話をつい最近思い出したわけなんです。

本当に今年一年こそ、初めの愛に戻って、主の前に静まる一年でありますように願いたいと思いました。
どうかよろしくお願いいたします。





片桐兄メッセージ

全ての新しくされた兄弟姉妹、おめでとうございます。私は御代田に住んでおる片桐と申します。よろしくお願いします。

今、兄弟たちが学ばれてましたように、日の下には新しいひとことは何もないと聖書は告げています。全て刻々と古びていくだけであります。
ところがですね、イエス様の中には日々新たにされていく命がある。だから私たちはおめでとうだと思います。

聖書には、イエス様の十字架の死と復活によって、全ての人が新しい人となっていると書いてあります。
イエス様を信じる人と信じない人の違いは、主が十字架の上で成して下さった大いなるみわざを受け取ったか受け取っていないかの違いであります。
幸いなことに、私たち一人一人は、そのイエス様のみわざを受け取って、新しい人にされたと聖書は宣言しているわけであります。
だから、私たちは過ぎ去るものを見てではなく、日々新たにされていく命を見て主を喜びつつ、お互いにおめでとうと挨拶が出来るのだと思います。

今ここにイエス様をご存知でない方、人生の苦しみの中にあってやっとこのセンターに着いた方もおられると思います。まずその方に聞いて頂きたいことがあります。
もう時代はですね、主に在って新しい人の時代になったと書いてあります。古い人のままでこのセンターを去らないで頂きたいと思うわけであります。そして新しい人としての自分を見つけて、このセンターから出て行きたいと思う人は、ご自分の前に置かれた小さな門に目をとめて頂きたいんです。
そして、その門の鴨居にはですね、こういう言葉が書かれていることに目をとめて頂きたいんです。

狭い門から入りなさい。救いはイエス様以外にはない。
そして新しい人になりたいならば、正直になってイエス様に自分のわがままを、ごめんなさいと言ってごらんなさい。
そして、イエス様が自分のために2000年前に十字架にかかって、父なる神に捨てられた、そのことによって自分の全てのわがままが赦されたことを感謝してごらんなさい。
そして今日以降、自分はイエス様について行きたいから、よろしくお願いしますと祈ってごらんなさい。

鴨居にはそのように刻まれていると思うんです。
そして、もしそのように祈ってみたいと思うならば、主は必ず道を開かれて、そのような祈りを聞いて下さると思います。

ここに集っている多くの兄弟姉妹方も、新たにされた兄弟姉妹方も、みな同じ門をくぐって、突然自分が新たな自分であるということに出会いました。初めの愛に出会ったわけであります。
そのような喜びというものは、私たちの力ではなく、主の力であるということをお伝えしたいと思います。ただで提供されている救いであります。
決してキリスト教を信じる、・・・・・・(テープの切れ目で聞き取り不可)

そして残りの3分ぐらいですけども、新たにされた兄弟姉妹方にお話したいと思います。
ま、私たちは新たな人にされたわけですけれども、最初の愛、最初の喜びを奪う何者かが私たちの内には潜んでいるかも知れません。

神がはじめに天と地を創造したと書いてあるようにですね、天という言葉を目に見えない世界、地ということを目に見える世界と置き換えてみると、もうちょっと判りやすくなると思います。
あるいは、霊的な世界と地上的な世界と言い換えてもいいと思います。

私たち人間はその両方を頂いた存在であるということであります。
私たちは霊的には確かに新たな人とされました。けれどもこの体を負っているわけであります。
体は古き人の遺産であると思います。ローマ人への手紙の中には、この体の中には罪が巣食っていると書いてあります。
私たちがもし主を見損じて、その罪に目をとめて、自我と体の思うままをするならば、私たちは死のために実を結んでしまうと書いてあります。

けれども、私たちの霊の内に御霊となって来て下さったイエス様がおられるということ、このことが圧倒的な勝利の体験の秘訣であります。
かたや、罪が住んでいますが、かたや勝利された御霊さまが住んでおられます。私たちがもし信仰の心を持って御霊さまに目をとめるならば、聖霊は私たちを必ず勝利の道へ導いて下さいます。
私たちが初めの愛を体験した時に目を開くと、今までの苦しみから解放されて古き人ではなく、新しい自分にされていることを知ったようにですね、毎日の信仰生活においても、主の圧倒的な勝利を整えて頂いた日々を歩むことが出来ると思います。
そして、私たちはそのために部屋を用意されているということであると思います。

コリント人への手紙第II、4:16
16ですから,私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても,内なる人は日々新たにされています。

外なる人は外界の見える部屋です。内なる人は一番家の中の奥まった部屋です。私たちには内なる人が用意されている。そして内なる人、内なる部屋で私たちは何をするのかというと、マタイの福音書の6章にこういうみことばがあります。

マタイの福音書6:6
6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

隠れた所におられる主に祈る場として、私たちは内なる人を用意されています。
私たちが外界の波を見て慌てるのは、外なる人に自分を置いているからではないでしょうか。主は内なる人として私たちをも整えて下さったわけです。
その内に聖霊が住んでいて下さる。イエス様ご自身が力を持って信仰の勝利を私たちに与えて下さる、そのような人として私たちは新しく作り出されました。
確かにしばらくの間、体を負って生きるわけですけれども、主の勝利、主が整えて下さった新たな道によって勝利を体験出来るのではないかと思いました。
本当にイエス様の十字架の死と復活こそが、その全ての全てだということを、またこの一年兄弟姉妹ひとつとなって体験出来たらと思っております。
ありがとうございました。





岩崎兄メッセージ

いつも吉祥寺集会に集っております、岩崎洋二といいます。北米のみなさん、明けましておめでとうございます。
日本全国の兄弟姉妹のみなさん、明けましておめでとうございます。

この短い学びは私のためでもあります。先程ベック兄が、三つの敵がある。この世であり、肉であり、サタンであるとおっしゃられましたけども、わたしはこの短い学びのタイトルは「この世と天の御国」というタイトルであります。

私が救われる以前、最も大切でありましたことは、この世をですね、悔いなく過ごすことでありました。
どのぐらい生きられるか判りませんけども、七十何歳か、そのくらいの人生の間、死ぬまでの間、この世に生きている間が最も重要で、死んだ後はですね、無の世界、そういう何にもない世界になるだろうと思っていました。だから死んだ後は大切ではなくて、この世に生きている間が大切でした。

しかし42歳の時に、このキリスト集会にイエス様に導いて頂いて、ホントに聖書のみことばに触れました。また兄弟姉妹方のお交わりをさして頂きました。
それらを通して私が考えていることが違うというふうに思いました。すなわち、人間は肉体が滅んでも全てが滅ぶのではなくて、イエス様の救いの道があるということを知ったのです。
死と滅びは人間の祖先であるアダムとエバが神様に従わないで、罪を犯した時に罰として主なる神様から宣言を受けたものであります。
その時以来、人間はこの本質的な罪を持ち続けて、それが故に死ぬことになりました。人間は、神さまからこの罪を赦されない限り、滅んでしまうようになったのであります。このことは創世記3章の17節、18節に書かれている通りであります。

しかし、主なる神様は私たち人間を愛していて下さり、この世に生きている間に神に従わず離れてしまうという罪を認めて悔い改める時に、赦して下さる道を設けて下さいました。
その道とは、約2000年前のイエス様の十字架の死による罪の購いであります。
イエス様は、人間のこの本質的な罪に対する罰を全て身代わりとなって、十字架の上で負って下さいました。一人一人のためです。救いとは、人間のこの本質的な罪に対する主なる神様の赦しであります。

ペテロの手紙第I、2:22-24
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

このようにはっきりと書かれています。もう一箇所、

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神さまの前で悔い改めた人間は、イエス様の十字架によって救われて、このヨハネの福音書に書いてあります通り、永遠のいのちを持つようになります。
すなわち、主によって罪を赦された人間にとって、死は終わりではなくなります。死んだ後は、私が以前思っていたような無ではなくて、永遠のいのちをいただくようになるのであります。

私は42歳の時に悔い改めたんですけれども、その時点で考え方が大きく変えられました。それは今生きているこの世が中心ではなくて、やがて肉体が滅んだ後に行くことになる天の御国、永遠のいのちの世界が目的となるように変えられたのです。

人間にとって、本来大きなテーマであるべきこの世と天の御国について、イエス様は聖書のあちこちで、今居るこの世を中心にしていては、人間は滅びに向かってしまう。天の御国を第一に考えなさいとおっしゃっておられます。

マタイの福音書5:3
3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

心の貧しい者とは、霊的に貧しい人をさすのではありません。イエス様がおっしゃられた心の貧しい人というのは、心を砕かれて、へりくだって、この世においては自分が主の御心にかなったことはなにひとつ出来ない、ホントに無力な者であるということを悟った人、それが心の貧しい人であります。
天の御国、この世に相対する天の御国はそのような人のものだと、イエス様はこの人たちを祝福しておっしゃったのであります。

ルカの福音書14:13-14
13祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
14その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。

今お読みした一つ前の12節で、イエス様はこのようにおっしゃっています。
昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所のお金持ちなどを呼んではいけません。そのような人たちを招くということは、そのお返しで今度は彼らがあなた方を逆に招いてくれるということを期待するようになるからです。
このことこそ人間に期待するこの世のことであります。

イエス様は人間的なお返しではなくて、天の御国で主からお返しというか、ご褒美を受けることを思って、この世を生きなさいとおっしゃったのだと思います。

マタイの福音書7:13-14
13狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
14いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

狭い門は、この世に生きている間に気が付く悔い改め、それとその結果の救いであります。逆に広い門は、この世そのもので、そこを中心として入り浸っていると滅びにつながるのであります。
私たちはイエス様の呼び掛けに答えて、心の貧しいものとなり、いつも天の御国で、心から主からのご褒美をいただくことを考えて、そして広い門ではなくて、狭い門と狭い道を歩む者となりたいと思います。

新しい2003年は、いよいよ終わりが間近に迫ってくる年と感じます。私たちはこのような時にこそ、ますます近くなった天の御国のことを第一に求める生活をして、主を待ち望む毎日を過ごしたいと思います。

最後に一箇所お読みして終わります。

ローマ人への手紙12:1-2
1あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。

どうもありがとうございました。





芳竹兄メッセージ

おめでとうございます。吉祥寺集会に集ってます芳竹といいます。よろしくお願いいたします。
昨年を振り返ってみますと、仕事の話になりますけれども、私の勤務していた会社が、売上も、社員も、倍以上の規模の会社に統合・合併されました。
全く違う企業文化や、それからシステムの違い、それから当然起きるというふうに予想してました人間関係、そういうようなことで、次から次へと予想されていなかったことが起こり、やらなければならないことも時間との戦いのようになっております。それは合併の効果を早く上げるためにということで、それは今も続いております。
仕事が忙しくなると、とかく仕事が第一となってしまって、それを理由にして主のことがおろそかにと云いますか、どこかへ行ってしまうようなところがあります。いつの間にか自分で頑張ってしまっています。
そのことで、ともすると、この世のことの方が大きく見えてくる、イエス様の事実よりも、この世のこと、仕事の事実の方が大きく見えてしまったのではないかと思っております。
自分ではそれほどまででもないというふうに思っている時、実はそれが一番危ない時だというふうに思います。それは、自分では自分のことがなかなか気付かない、そのことの方が多いからだと思います。
でも、自分ではなかなか気付かなかったとしても、いつも一緒にいる家族が、そしてまた、いつも共にいる兄弟姉妹の交わりを通して、主が気付かせて下さいます。
主が早期発見して下さるので非常に有り難い。拠り祈っていかなければならないと思います。

ルカの福音書5:4-6
4話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。

ここでシモンは、「私たちは夜通し働き続けたが何一つとれませんでした、長い間漁師をしていた、たった今まで仕事をしていて駄目だったと」いうふうに言っております。普通に考えれば全く事実であり、漁師のプロであるシモンの言っていることは間違ってはいませんでした。
でもそれは、私たちの今までの事実に過ぎないというふうに思います。
主は、今、網をおろしなさい、というふう言われました。私たちは今までの経験したこと、それからいろいろ体験したことの知識にとらわれますし、そのことを主張しがちです。
でもシモンはお言葉ですから網をおろしてみましょう、そしてその通りにすると、みことばをそのまま受け入れた時、何一つとれなかった所でたくさんの魚が入り、網が破れそうになった。長い間漁師をしていたシモンには考えられないことであり、どんな時にも全知全能であられる主の前に不可能はありません。
私はなかなかその通りにするということが出来ない者であります。自分の頭で、今までの経験で、ああだこうだと言ってる者ですけど、でもお言葉ですからその通り、と従った時に、人知を遥かに超えた主の力に預かることが出来るのではないでしょうか。
その通りに従った時に主は生きておられる。主の約束は間違いない。ますます主に信頼して、希望を持って歩み続けることが出来るのではないでしょうか。

ま、先程も仕事の話をさせて頂きましたけども、今までの昨年の一年を振り返ってみても、今置かれてることも含めて、主は多くの恵みを下さいました。
聖歌に『数えてみよ主の恵み』というのがありますけれども、ホントにそれは数え切れないほど与えて下さってます。恵みの中に置いて下さって、ホントに感謝しております。

ローマ人への手紙13:11-14
11あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

主のご再臨は今、今日かも、今かも来られるこの時にこんなことしてる場合かというようなことばかりしているようなどうしようもない者です。自分中心の生活をいつまでもしているのではなくて、今日、今、悔い改めて、私が何かをするのではなくて、私は今どこに立っているんだろうか、そしていつも最善を備えて下さっている、そして全てを成して下さる主に信頼して、聞く耳を持って歩んで行きたい。
まだイエス様をご存知でない方の救いのために、私と私の家とは主に仕える、というみことばのように、今から新しく歩んで行きたい、というふうに願っております。
どうもありがとうございました。





野田繁兄メッセージ

おはようございます。吉祥寺から来ました野田繁です。よろしくお願いします。
過ぎ去りました一年を振りかえって、私はひとつの言葉が心に浮かびました。

ペテロの手紙第I、5:10-11
10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

今年一年の、これからの僕の課題として、もっともっと単純に、そしてまっすぐイエス様を信じて歩みたいと思います。
聖書から始まり聖書に戻り、そして前向きに生きて行きたいなと思います。知らないうちに自分で理屈を作ったり、判らないうちに経験を前に出したりして、何か純粋なみことばにちょっと曖昧さを入れるような、そんな生活から抜け出たいなと思います。
私たちがイエスキリストを信じて、誠実に生きようとすると、大なり小なり問題にぶつかります。戦いの中に巻き込まれます。世の中の矛盾と正面からぶつかっていきます。

でも私たちの最終目標が、主の栄光の現われる時であるとするならば、主が栄光を現わされる時、私たちがその栄光の群れに連なれる、そういうことをはっきりと受け取る事が出来る時、私たちは大きな希望と喜びに満たされます。
それがペテロが証しした、この信仰の原動力そのものじゃないかなと思います。彼は招き入れて下さるだろうとは書いてない。「招き入れて下さった」と、はっきりと書いてあります。
私たちも、イエス様の下さっているしっかりとした約束を、今年も強く心にとめたいなと思います。

昨年、多くの私たちの敬愛する兄弟姉妹が天に凱旋されました。もし、モニターで天国から中継放送が出来るとしましたら、私たちの歩みのちぐはぐさ、もどかしさを見て、ホントに何かおっしゃると思うんですよね。
「なにやってんだろー」とかね。でも、地上にいるとやっぱりいろんなものに巻き込まれてしまう。

私はホントに単純な信仰を貫くために、二つのことをどうしても自分の心の中にとめたいなと思います。
一つは、いつも十字架を自分の心の中におきたい。
もう一つは、主は生きて働いている、ということをはっきりと信じて、信頼して歩んで行きたいなと思います。

本来ならば、この地上に降りられる必要のなかったイエス様がわざわざ降りられ、そして十字架に掛けられ、私たちに主の愛をはっきりとした形で見せてくれたんですね。
であるならば、私たちの歩みは少しでも答えていきたいなと思います。

信ずるっていう言葉と、信頼するって言葉が、僕は以前すごく隣接してると思ってたんですね。当然信じれば、自分の体は信頼して歩めるとそう思っていたんですが、あにはからんや、なかなかそうはいかない。
私たちがイエス様を喜んで歩み始めると、黙っていないのがサタンです。必ずいろんなちょっかいを出してきます。
ちょっかいを出すと私たちは途端に古い人間が出てきて、その古い人間が私たちに問題を見させようとします。
すると私たちの内側から信頼するという心が失われていきます。
ペテロがはっきりとおっしゃったこの言葉の中に、私たちに信ずるという大切さと、信頼して歩みなさいという大切さを両立てて訴えてるんじゃないかなと思います。
私たちに与えられた完了はすごく限られてると思うんですよね。
でもやることはたった一つです。
私たちが喜んで主を証しし続けることだと思います。
コリント人への手紙第II、5章の17節。私たちは、大したことは出来ない。
でもイエス様を喜ぶことは出来ます。
出来れば一人でも多くの人が聖書の言葉に触れることが出来るんじゃないかな、そう思いながら新しい年をスタートしました。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

また、共に交われる機会を心から感謝いたします。





森田兄メッセージ

みなさま、明けましておめでとうございます。森田と申します。
蝶ネクタイをしておりますが、別にここで一曲歌おうとかそういうことは考えておりませんのでご安心下さい(笑)。私がまずい歌を歌うよりも、確実なイエスさまの約束に目をとめるほうが、遥かに素晴らしいと思いますので、まずご一緒に、エレミヤ書の29章の11節を見てみたいと思います。

エレミヤ書29:11
11わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

昨年の一年間、お一人お一人振り返ってみられて、どのように思われるでしょうか。恐らく、ここにおられる殆ど全ての方が、次のようにお思いになるんじゃないかと思います。
まさか自分にあのようなこと、このようなことが起こされるとは想像もしていなかった。去年のお正月にはまるで想像も出来なかったことがいくつか起こった。
そのような私たち一人一人の経験は、ま、次の聖書のみことばが間違っていないことを証明しております。

箴言19:21
21人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

と、あります。
新しい年を迎えて、私たちは一人一人確かに多くの計画を持ってます。しかし、その一つ一つが思った通りになるかどうかは甚だ疑問であります。
私たちは明日のことも判りません。何にも知らない者であります。この1月、今年、自分の身に何が起こるか、どういうことがこの世界に起こるか、誰にも判りません。兄弟が学ばれましたように、確かに見えない、何も先が見えない状態であります。

この世の多くの人々は何も見えない中で、ただ手探りして、闇の中を不安を抱えながら進んでいるようなものではないでしょうか。何も見えないという状況は、私たちも全く一緒であります。
しかし、一つだけ大きく違うことがあります。それは私たちは全てを知っておられるお方を知っているということです。私はよく知っている、と言っておられる方を私たちは知っております。
それだけでもすごく安心できることだなあと思います。
その方の計画は必ず成就し、それは私たちに災いではなくて平安を与える計画である。ただただ私たちの幸せのために主は計画を持っておられる、ということだと思います。

昨年は私自身もひとつの大きな転機となりまして、10月の終わりに、長い間住んでおりました広島を離れて、再び東京に出てくるということがございました。
そのことは全く予想もしてなかったことでありましたけれども、現にそういうことになっています。そして全く新しい世界に足を踏み出すに当たって、いろんな心配事がありましたけども、そのような中でみことばに支えられました。
最も支えられたみことばは次のみことばであります。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

全知全能の神さまが、この私のことを心配しておられるということは、私にとって非常に大きなショックでありました。
そしてもし本当だったら、どんなに素晴らしいことだろうか、ホントだったら、確かにもう自分はもう何も心配する必要はないなと思いました。
昨晩から雪が降って、一夜にしてこんなに綺麗な雪化粧になりました。どんなに人間が資金をつぎ込んでも出来ない業であります。あっという間にこのような素晴らしいみわざを成すお方が、私たち一人一人のことを心配しておられると、聖書はびっくりするようなことを言っております。

箴言5:21
21人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

この個所を読んで、はっとさせられました。心を配ると書いて「心配」というふうになります。神さまが私たちのことを心配して下さるというのは、神さまが私たちと同じように、夜も眠れないくらい思い煩うというのではなくて、私たちの全てのことをちゃんと心を配っておられるということなんだという、そのことを教えられて、ホントに嬉しく思いました。
全てとありますから、私たちでさえ、自分でさえ意識していない事柄にもちゃんと心を配って配慮しておられる。イエスさまも次のようにおっしゃっています。

マタイの福音書10:29-31
29そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
30また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

マタイの福音書6:30-31
30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

上京して2ヶ月になりますけれども、確かに自分が心配していたあのことこのことは何の心配もいらなかったということになっております。

イザヤ書46:3-4
3わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

生まれる前から担われていた、運ばれていた、白髪になっても同じようにすると言っておられます。例え年老いていったとしても、神さまの前に赤ちゃんであることにかわりない、ということじゃないでしょうか。最近つくづくそんことを思わされております。
聖書は、神さまの前に赤ちゃんになっていいんだよと、むしろもっと大胆に赤ちゃんのようになりなさいと言っているんじゃないかなと思わされています。

私たちは、主に自らを委ねて主を喜ぶかわいい赤ちゃんでしょうか。それとも自分であれやこれやを力を入れて成そうとしている、生意気なあまりかわいくない赤ちゃんでしょうか。
ダビデは大いに主に喜ばれた人でしたけれども、次のように証ししました。

詩篇131:2
2まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。

何も判らない、何も出来ない、ただあなたの御手に守られ養われている、そのような者ですという態度でダビデは生活していました。また彼は次のようにも言っています。

詩篇51:12
12あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

この救いの喜び、初めの愛がなければ、どんなに主に仕えようとしても、どんなにあれやこれやをしようとしても、虚しいものになると思います。結局自己満足か、実を結ばないものかであります。
あの、何にも知らなかった、ただ神さまに受け入れられたイエスさまが、私の代わりにも死んで下さった、そして新しいいのちを与えて下さった、それほどまでに神は私のことを愛して下さったのだという、あの初めの喜び、初めの愛を、もう一度ホントに味わいたい、そして喜んでまたその方にお仕えしていきたい、何も出来ない赤ちゃんですけれども、主はそういう者を守って大いなる計画を持って導いて下さると聖書は約束しております。

今年もそのことに大いに期待して、この方をよりよく知っていきたいなというふうに思っております。
ありがとうございます。





松見兄メッセージ

新年おめでとうございます。東京都の西東京市に住んでいる松見と申します。
クリスマスに一枚のクリスマスカードを頂きました。これはオーストリア・ザルツブルクに住んでいる姉妹から頂いたクリスマスカードで、ご主人である兄弟は去年の9月に、お店の外の電気を直している最中に梯子から落っこって、背骨2本の骨折、そして一ヵ月入院、そして三ヵ月のリハビリという、そういう思いもかけない事故に遭われました。
私たちも心配して、それこそ心配して祈っておりましたけれども、頂いたクリスマスカードにはこのように書いてました。

今年は9月に兄弟が仕事中の事故で背骨を2本骨折し、一ヵ月間の入院生活の後、三ヶ月間のリハビリということで、家族が離れて生活することになりました。
暗いニュースのように聞こえますが、いつも主イエスさまが共にいて下さり、どの状況においても家族をひとつにして下さって、私たちの心は平安です。

本当にこのようなカードを頂いて、私たちこそ慰められました。その姉妹が引用して下さったみことばは

ローマ人への手紙8:28
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

こういうような証しをして、私たちは本当に力づけられ、慰められ、むしろ大喜び、怪我で痛い目に遭った兄弟には申し訳ないんですけども、イエスさまが本当に来ていらっしゃる、背後で働いていて下さるということを確信させられて、本当に喜ぶ者とさして頂きました。
一枚のクリスマスカードがイエスさまの生きていらっしゃることを伝えて下さるんですね。現実は大変でしょうけども、主が共におられますというこの証しこそ、本当に貴重な嬉しい証しではないでしょうか。

先程森田兄もメッセージされましたけども、本当に予定しないようなことが多分今年も起こるかも知れませんし、去年もそのような経験をされた方がたくさんいらっしゃると思います。
確かに兄弟そして姉妹にとって、去年は予定にはなかった大事故が起こってしまいました。勿論自ら望んだことでもなかったわけです。でも大事なことは、予定通り私たちの思ってる物事が進むことでもなく、私たちが何を望んでるか、何を欲してるかということでもなく、やはりイエスさまと共に歩むことだけではないでしょうか。
主が共にどの状況においても主イエスさまが共にいて下さいました、このような証しが出来ることではないでしょうか。

仮に今日、一年の計を立ててそれが100%順調に運んだとしても、もし主と共に歩んだのでなければそれは甚だ虚しい、むしろ悲惨とさえ言えるようなことかも知れません。
逆に、自分の予定したことはなに一つ予定通りに行かなかったとしても、もしそのような予定もしない思いもかけない試練に遭って、しかもこのように主が共におられましたという証しが出来ることは、本当に祝福されたイエスさまからのプレゼントだということが出来るのではないでしょうか。

去年一年間を通して、国の内外もですね、日本の国も滅茶苦茶ですし、お隣りの国も何やってるか判らないですし、本当に大変なそれこそ見通しのきかない新しい年を迎えましたけれども、やっぱり私たち一人一人にとっては、イエスさまと共に歩む、それだけが人間として生まれた本分そのものではないかと思います。
イエスさまと共に歩むことだけ、どんな人生を送っているか、今までどうであったか、何をしたか、どんな業績を上げたか、そんなことではなくて、イエスさまと共に歩んだかどうか、それだけが問われるのではないでしょうか。

創世記の5章24節、本当に短い聖書の証しなんですけども、ある一人の人を証ししてるんですけども、本当に短い証しです。

創世記5:24
24エノクは神とともに歩んだ。

これだけの、英語にしてもドイツ語にしてもたった三つか四つの単語で終わる、ホントに短い一人の人の証しを聖書はしてますけども、ホントにこれは素晴らしい、一人の人にとってもう十分過ぎるほどの証しではないでしょうか。
「エノクは神とともに歩んだ。」
これだけが人間としてこの地上に存在させて頂いた者の歩むべき歩み方であります。
先ほど兄弟が言われましたけれども、今年も予定通りものごとがいくかどうか全く判りませんし、それどころか大抵のことはうまくいかない日々が待っているんじゃないかと思います。
でもうまくいくかうまくいかないか、予定通りいくか、計画が成就するかということじゃなくて、主と共に歩んだか、これだけが問われております。

ミカ書6:8
8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

どうもありがとうございました。




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