ベック兄メッセージ ドイツのクリスチャンたちが今年ために選ばれた言葉は、マルコの福音書13章31節の言葉です。 マルコの福音書13:31
この「決して滅びないみことば」の中から3箇所お読みいたします。 ペテロの手紙第II、3:12
箴言24:11
ヨハネの福音書10:16
「他の羊」とは、遠く離れていて、人間的に見ると「救われ得ない人々」のことです。あなたの家族、また知り合いの人々も含まれています。 「わたしはそれも導かなければならない」と、イエス様は言われました。これこそイエス様の情熱なのです。これこそ、われわれの持つべきものではないでしょうか。この「まことの愛」がなければ、私たちの行ないはすべて虚しいものであり、的外れのものです。 あらゆる時代の最大の誤りの一つは、「未信者が、主なる神について、もはや何一つ知りたいと思わない」と、多くの信者も思い込んでしまってることなのではないでしょうか。 多くの人々は、「人間が、福音に対して全く無関心になってしまってる」と思い込んでるんですけど、それは偽り以外の何ものでもありません。人間はみな、「永遠なるもの」「変わらないもの」「存続するもの」を求める気持ちを持っています。 聖霊は、この飢え渇きを引き起こしてくれるのです。大部分の人々は、私たちが考えるよりもはるかに、「救い」を求めて待ち望んでいるということを決して忘れてはいけません。 けども、これらの人々はどのようにして、イエス様のために獲得されるなのでしょうか。 「主のみことばがむなしく戻ることはない」ということを知ることは、そしてまた「小さなことにおける忠実さが、必ず報いられる」ということを知ることは、大切です。 人は、救われるためには、大きなことよりも小さな愛の奉仕の方が普通であり、大きな跳躍ではなく、小さな歩みの方が普通の姿です。すなわち、人は聞いてすぐ救われるよりも、少しずつ導かれていくでしょう。 「聞くことができる」ということは、「話したいと思うこと」より大切です。多くの場合、語ることのできる時を与えられると、頑なな堅い心も開かれます。 しばしば、聖書講義は一方通行の独演となってしまい、相互交流が不可能となりがちですけれども、大切なのは、お互いに「聞き合い、語り合うこと」です。 大切なのは、いわゆる「知識を与える」より、「語り合うこと」、それからその人を「イエス様との語り合い」、すなわち「祈り」に導くことです。 話しの相手の人が、自分に心を開けば開くほど、主のみもとに導かれる可能性は大きくなります。ですから、最大の戒めは「忍耐」です。覚えるべきことは、次のようなものでしょう。 すなわち、主のこと、聖書のことを弁明することが必要なのではなく、「幼な子のように、主イエス様を証しすること」こそ大切です。頑なな心は、愛と誠実さを知るようになると、開かれていくようになります。 非常識的なことをすれば、いかなる交わりも聖別されません。相手の人を煩わせたり、侮辱したりすると、その人は心を閉ざしてしまうのです。心の扉を無理にこじ開けることはできませんし、またする必要はありません。 また、「どのように語られるか」ということも大切です。興奮してしまうと、いっぺんに駄目になってしまいます。自分のものにしよう、教会員を作ろうとするのではなく、ただ「助けたい」という意欲を持つことは大切でしょう。 雄弁な講演よりも、大切なものは、たとえつたない言葉であっても、まごころから出てくる言葉であるならば、その方がはるかに効果的です。たとえ私たちが、表面的には「完全に失敗した」と思うようなことがあっても、それがまごころから出ているのであるならば、必ず主ご自身が、実を結んでくださいます。 相手の人と話しながら、絶えず、イエス様により頼む姿勢を持ち続けましょう。いろいろな質問をされた場合、答えとして全面に出てくるのは、自分の経験よりも、むしろ主なる神のみことばであるべきです。 だた一つの武器は、「主のみことば」です。証しの中心は、いつもイエス様であるべきです。すなわち、「イエス様の死によって、私たちは永遠のいのちを約束されてる」、「イエス様の復活によって、死は力を失った」ということが、中心となるべきです。 私たちは、「決して恥をこうむらない、いきいきとした望み」を持っています。私たちは、いわゆる「キリスト教」という宗教のために宣伝する者ではなく、イエス様を「救い主」として「支配者」として、また解放者としてそして近いうちに来られるお方として、宣べ伝える者です。 神学よりも大切なのは「たましいの救い」です。人は誰でも交わりを求め、必要としています。人は、個人的に語りたいと思ってます。私たちが考えるより、はるかに多くの人々が、当時のギリシヤ人のように「私たちはイエスを見たい」という願望を持っているのであります。 たましいを獲得するために覚えるべきことは、「犠牲なしには、いかなる実も結ばれない」ということです。 主の愛は、私たちを駆り立てなければなりません。「悩んでる人々とともに悩むこと」を、主は望んでおられます。主イエス様の愛を持って、この世の悩みを見るものは、福音を宣べ伝え、証しせざるを得ません。頑なな一面性や、うわべだけの偽善的行為や、極端な禁欲生活は、いつも人をつまずかせます。 決定的に大切なのは、「主の霊によって導かれること」です。すなわち毎日毎日、何回も、主に尋ねることです。 「主イエス様よ。私は何をしたらいいなのでしょうか」と、ピリポという初代教会の一人の兄弟は、この態度をとったからこそ、主によって導かれ、用いられ、普通誰もいないところ、すなわち荒野へ導かれ、そこで求めている、もうすでに備えられているたましいに導かれたのです。 こういうふうに導かれた人は、他の人を導くことができるのです。 今までの点をまとめてみると、次のようになります。 ・聞くこと。 ・話すこと。 ・説教するよりも、語り合うこと。 ・強制することではなく、提供すること。 『愛』は相手の心を柔らかくし、『熱狂』は、相手の心を閉ざしてしまいます。心の扉を、無理にこじ開けるのではなく、期待を持って、たたき続けることです。 何があっても、大切なのは『みことば』だけです。みことばに信頼すると、奇跡を経験します。 ある時、イギリスの伝道者であるスポルジョンという人のところに、一人の人がやって来ました。 「私は、もう何ヶ月間も説教しましたが、一人も救われなかった」、するとスポルジョンは尋ねたんです。 「あなたは、みことばを宣べ伝える時、主が、必ずいつも祝福し、失われたたましいをみもとに引き寄せてくださると思うの?」、答えは、「もちろん、そんなことはないでしょう」というものでした。 「そこにこそ、原因があるのです。それを、あなたが素直に信じたならば、また期待していたならば、主は大いに祝福してくださったのです」と、スポルジョンは答えたのです。 主は、われわれの期待に応じて答えてくださいます。 次のように祈ることができる人は幸いです。「主イエス様よ。私のいろいろな障害物や、能力のなさにもかかわらず、私を、人をすなどる者になさってください。」と。 イエス様は、完全に挫折したペテロと同じように、次のように語るでしょう。 「わたしに従いなさい。わたしは、あなたを人をすなどる者にしよう。わたしはしよう。あなたは、どうせできないからだ。」と、主は言われます。 主の行ないは、創造的なわざです。存在しないものも、存在するようになります。 人をすなどるようになるのは、自分の努力によってではありません。人をすなどるようになるのは、研究や頭の知識によってでもありません。人をすなどる者は、主の創造的なわざによるのです。 主イエス様が、弟子だちを「人をすなどる者」としてお用いになるために「従うように」と呼びかけた時、弟子たちは自分たちの網を捨てて主に従いました。イエス様が、弟子たちを用いるようになったのです。 自分のものを捨て、妨げとなるもの、引き留めようとするものを捨て、第二・第三のものを捨てたのであります。 すべて自分のものは、主の働きの妨げとなります。われわれの最大の敵は、われわれの「自我」であり、すなわち「自分の思い」「自分の考え」「自分の感情」であります。 みことばは言っています。 権力によらず、能力によらず、他の方法や道にもよらず、人間の計画にもよらず、わたしの霊によって、と。 「わたしに従いなさい。わたしは、あなたを人をすなどる者にしよう」 日々、打ち砕かれることなしには、主の働きの妨げとなります。私たちのうちにある主イエス様のいのちは、私たちが、日々主に自分の意思を、意識的に従わせることによって、砕かれることによってのみ明らかになります。 イエス様が、われわれに与えてくださった「みことば」は、目に見える世界の「あらゆる現実」よりも、信じるに足るものとみなされます。 イエス様は、みことばを成就するために、自然法則をも打ち破ることがおできになるということを覚えましょう。 私たちの主イエス様は、ご自身の約束を決して破りません。主イエス様は、すべての力を握っておられ、主のみことばは「永遠の真理」ですから、必ずみことばの通りになります。この信頼を、私たちは必要としてるのです。 間違った謙遜さ、すなわち「不信仰」によって、私たちは主の御名を汚すことになります。 主のために生きる備えのあるところでは、歓呼の喜びがわれわれの心を満たし、それは革命的な働きをします。すなわちイエス様が招いて、解放してくださる人々が、煩わしい人間関係から解放され、死の恐怖から解放されます。 主イエス様によって解放された人々は、喜びと感謝に満ち、主イエス様のために進んで奉仕したいと願うようになります。 イエス様は、絶えざる喜び、すなわち、いかなる悲しみも奪うことのできない喜びを与えてくださいます。 これらを見ると、私たちは、周囲に急に聞くようになり、飢え渇きを持つようになります。そして、私たちは備えられたところに福音を宣べ伝える特権を持つようになります。 次の心構えを持つ必要があります。すなわち、 「主イエス様よ。陶器師であるあなたが、私の人生の粘土をお取りになり、それからあなたの御名の栄光のために役立つものをお造りになってください。 そして、多くの人々が救われるようにしてください。ここに私はいます。どうか私を用いになってください。」 最後に、詩篇126篇5・6節を読んで終わります。 詩篇126:5-6
主の御名によって出かけなさい。滅びゆくたましいのところに出かけなさい。主の愛によって心を動かされて出かけなさい。 「種」である「主のみことば」を、自分のものにしなさい。そうすれば、あなたは救われた多くの人々のたましいを持って帰ってくるようになり、そしてあなたの心は、喜びに満ちたものとなります。 そしてあなたは、主を心から礼拝せざるを得なくなります。 これこそ、主の再臨の日を待ち望むことであり、また再臨を早めることなのであります。 重田兄メッセージ 初めに、みことばをお読みしたいと思います。 マルコの福音書13:31-36
このみことばを通して わたくしに与えられた祈りの課題はふたつあります。 ひとつは、今年を自分の信仰のリバイバルの年にしたいという祈りでありです。 その理由は、自分の信仰を吟味するまでもなく、以前からその生ぬるさがわかっていながら、なかなかそこから脱却することができないでいた矢先、昨年11月から火曜日の学びに、ベック兄が、信仰のリバイバルというテーマで連続して、信者の霊的覚醒について学んでくださったことを通して、改めて自分の信仰のリバイバルの必要性を強く覚えたからであります。 ベック兄はそのメッセージの中で、信者の犯す罪として、ヤコブの手紙の4章17節から、「なすべき正しいことを知っていながら行なわない」という怠慢の罪、そしてコロサイ人への手紙3章1〜3節の、「上にあるものを求めず、地上のものを求める」という欲望の罪をあげられました。 そして眠っている信者は、目をさまさなければならないと、さとされたのであります。 「なすべき正しいこと」とは、申すまでもなく、人間が考える道徳的、倫理的、あるいは良心的になすべき正しいことではなく、主に救われた者として、主のしもべとしてなすべき正しいことであり、それは主の御胸にかなう行ないであり、御心に忠実に従うことであります。 私たちは、救われて主のしもべとされた者として、御霊によって、また聖書のみことばを通して、何が主の御胸であるか、何が主の御心であるかをすでに十分知っているはずではないでしょうか。知っていながら行なわないのは、まさに怠慢の罪と言わざるを得ないのであります。 そして私たちは、いかに多くのなすべき正しいことを知っていながらも、怠慢のために行なっていないものであるか、ということを改めて強く思いあいらされるのであります。 また、上を求めずに、地上のものを求める欲望の罪については、自分では「私は、天国思考が強い方ではないか」と思っておりますけれども、しかしながら主の前で、「私は、地上のものを思う思いは、全くありません」と言うことなど、とてもできません。 主を恐れるならば、そのようなことは決して言えません。 イエス・キリストの十字架の贖いのみわざによって、私たちの古き人はキリストとともに葬られ、主のよみがえりのいのちによって、新しいいのちに生きるものとされました。 こうして私たちは、主の恵みによって、この世に属するものから神に属するもの、地上に国籍を持つものから天に国籍を持つ者に変えられたのであります。 神に属する者、天に国籍を持つ者ならば、もはや地上のものに心を奪われることなく、もっぱら神の御国だけに心を向けるはずであります。 にもかかわらず、現実にはどうでしょうか。悲しいことに私たちは、主のあわれみによってエジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が、まだエジプトの肉鍋を欲しがっているのと同じように、地上のもの、この世のものに興味を持ったり、心をとらわれたりすることの多いものなのではないでしょうか。 イエス様が、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。もし、右の手があなたをつまずかせるなら切って捨ててしまいなさい」とおっしゃるほどに、欲望の罪が信者の信仰の妨げになることを、私たちは改めて心に刻み込む必要があるのではないかと思います。 私たちが、なすべき正しいことを知っていながら行なわないのは、また、上にあるものを求めずに地上のものを求めてしまうのは、いったいどうしてでありましょうか。 それは、主の御霊によって目覚めさせられた私たちの霊が、また眠ってしまった結果、死んだはずの古い人がむくむくと起きあがってきたからであります。 主はサルデスの教会の信者に対して、次のように警告しておられます。 ヨハネの黙示録3:1-2
すなわち信仰の火の消えかかっている人たち、 ヨハネの黙示録3:2-3
そして、ラオデキヤの教会の信者に対しては、次のように警告しておられます。 ヨハネの黙示録3:15-18
すなわち聖霊、 ヨハネの黙示録3:18
これらの警告は、今の私たちの眠ったような生ぬるい信仰に対しての警告であるということを、私たちは受け取ることができます。 主は、私たちに「信仰のリバイバル」「霊的覚醒」を求めておられるのであります。 ベック兄は、メッセージの中で、「いかにすれば、信仰のリバイバルが起こるか」について、まず自分の霊的な罪を明るみに出す備えをすること、そして主の前に裸にされること、さらにその罪を捨てることをあげられました。 私たちは、自分の信仰のリバイバルのために、主の光の前に裸にされて、主に罪を指摘していただき、その罪を捨てることができるように、心から祈り求めたいと思います。 パウロがコリント人への手紙第一の9章27節に、 コリント人への手紙第I、9:27
と書いてあります通り、私たちも自分の肉を打ち叩きながら、主に従うことができるように祈りたいと思います。 年の初めにあたって、私のもう一つの祈りの課題は、集会のために祈ることであります。私たちは、個人個人のためには祈りますけれども、集会のために祈ることの足りない者ではないでしょうか。 『主は生きておられる』の第6号、最新号には、ベックご兄姉来日50周年特集記事が載っております。すでにお読みなって、兄弟姉妹はご存知のように、ご兄姉が日本で伝道をはじめられてから、半世紀になるのであります。 初めは一つであった小さな集会は、ご兄姉の献身的な祈りとお働きを主が祝福されて、50年の間に、救われたたましいも、集会の数もどんどん増えて、いまや全国各地の集会は、北は北海道から南は沖縄まで、海外の集会を含めますとその数は50以上に達しております。 これは、まさに主がなされた驚くべきみわざであり、主のご栄光の大きな現われであります。 これらの集会には、吉祥寺をはじめ、大きな集会から、たくさんのメッセンジャーの兄弟が遣わされて主のみことばをとりつぎ、また各地の兄弟姉妹や未信者と、主を中心とした信仰の交わりの奉仕をしておられます。 そして、各地の集会では、これらのメッセンジャーの兄弟たちに宿を提供したり食事のもてなしをするなどの奉仕が行なわれています。 この事実を見る時、私たちは「キリスト集会」が、聖書に記されております、「初代教会」の姿と、なんと似ていることかと改めて驚きを覚えるのであります。 初代教会も、はじめはエルサレムだけでしたけれども、その後、聖霊に力づけられ導かれた使徒たちが、当時の世界各地に遣わされて主を宣べ伝えた結果、各地に信者の数が増え、それぞれの町に次々と教会が建てられました。 しかし同時に、これらの教会には、分派や信者間の争い、不品行や、不信仰など、さまざまな混乱が起こり、これに対して使徒たちが手紙を書いたり、あるいは自らその教会に赴いたりして、訓戒や励ましを与えるなどの指導をしていたことを、私たちは使徒たちが書いた手紙によって知ることができます。 これらの手紙を読みますと、使徒たちがいかに心を砕いて、サタンの攻撃にさらされている主の体なる教会が守られ、また成長するようにと祈りつつ、労していたかが、痛いように伝わってまいります。 同じように信者が増え、集会の数が多くなるにつれて、私たちのキリスト集会にも、サタンの攻撃による様々な問題が起こりました。 世の終わりが、ますます間近に迫っている今年の信仰の歩みを始めるにあたって、主によって建てられ、大きく成長した私たちの集会が、サタンとの戦いに勝利して、主のご栄光を現わすキリストの御体なる生きた教会として、さらに用いられるために、私たちは「集会全体の重荷を担っておられるベック兄姉が、主に守られるように」、また「各地の集会へ遣わされる兄弟たちが、その任務のために喜びと祈りを持って整えられるように」、そして「各地の大きな集会も、小さな集会も、ともに御霊の導きをいただき、主のご愛に満たされ、霊的な一致が与えられるように」、また「各地の集会の責任を持っておられる兄弟たちが、サタンの攻撃から守られるように」、一つ心になって真剣に祈らなければならないと思います。 エペソ人への手紙4章の11〜16節には、次のように記されています。 エペソ人への手紙4:11-16
私は、2月で77歳になります。体のいろいろな部分に衰えが進んできているのを自覚いたします。私の切なる希望は、一日も早く天の御国に召していただき、イエス様や先に召された愛する兄弟姉妹に会うことでありますけれども、主の許しはなかなか得ません。 かえって、 ヨシュア記13:1
のみことばや、 ダニエル書12:13
のみことばを通して、私に「怠けずに、終わりまで歩みなさい」と言われるのであります。それが、まだこの世に私が置かれている、主の御心であるならば、私は感謝して主にお従いするほかありません。 そして、信仰の失格者とならないように、今年は、先にあげた2つの祈りの課題を、日々祈りながら、自分の弱い情けない体を打ち叩きつつ、主が休息を与えてくださる日を楽しみに、御霊に支えられ導かれながら、集会の愛する兄弟姉妹とともに、主の御体なる生きた教会の一つの部分として、組み合わされ結び合わされて、頭なる主に従っていきたい、と切に願っている次第であります。 どうもありがとうございました。 岩崎兄メッセージ おめでとうございます。 特にアメリカ・カナダの兄弟姉妹方、大変ご無沙汰しております。元気でしょうか。 最初に、聖書を読ませていただきます。 ヨハネの福音書14:27
17年位前だったと記憶しますけれども、私は市川集会の礼拝で、初めて主の前に立って祈りました。それは、吉祥寺集会に集い始めてから一年くらいかかりましたけれども、父なる神様に対して、私個人が持つ本質的な罪に気づいたことを告白して謝りました。 その罪は、人にうそをつくことや、人をあざむくことよりも、また物を盗んだり、人を傷つけたりすることよりも、そして家族を苦しめることよりも、はるかに重いものでした。 それは、創造主である神を認めることをせず、主から離れて、自分を中心とする生活を送っていた罪であります。その罪は、人と人との関係ではなくて、神と人との関係であり、本来創造主に従うべき被造物が、逆に離反する、離れてしまう罪であります。 ですからその罪は、この世のいかなる代償を持ってしても、人が主の前に自ら贖うことができないんです。その罪の代償は死であり、永遠の滅び以外にありません。しかし、私自身もそうであったのですけれども、ほとんどの人がそのような最も重い罪を無意識のうちに犯しており、死と永遠の滅びに向かって突き進んでいるのであります。 ローマ人への手紙6:21
もう一箇所、 テサロニケ人への手紙第II、1:8-9
とあります。恐ろしいことですけれども、主を認めずに主から離反する罪の結果は、「死」であります。 神を知らないとする人々、主イエス様に従わない人々は、主の前から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けることになります。 17年前そのことに気づいて、悔改めた私は、市川集会で主の前に白旗をあげて謝りました。 「イエス様、あなた様から離れ、自分を中心とする人生を送っていたことをごめんなさい。でも、この罪を私は償うことができません。 こんな私の罪を赦すために、十字架の上で身代わりとなって死んでくださったことを心から感謝します」。 お祈りの間中、膝がガクガクとし、汗をかいて涙があふれてきました。そして祈りの後、先ほどお読みしたイエス様のお言葉通り、この世では味わったことのない平安で満たされたことを今でもはっきりと思い出します。 この悔改めをした時点で、私は主の救いにあずかりました。「罪の行くつくところは死です」と書いてあった、同じローマ人への手紙の箇所に書かれている、「救い」「永遠のいのち」を受けたのです。その箇所は、 ローマ人への手紙6:22-23
私は、その時イエス様の十字架によって救われ、「滅び」ではなくて、「聖潔に至る永遠のいのち」の賜物をいただきました。 聖書辞典を引きますと「平安」とは、へブル語で「シャローム」と言って、その意味は、「相互関係において調和がある。平和がある」という意味だと書いてありました。それは、本質的な罪の時の関係と同じく、人と人との間の状態ではなくて、創造主である神様と人との間の関係が調和された、平和の状態になった、ということを意味します。 私たち人間が生まれ育つ過程において、神と離反していた関係から神に回帰し、神のところに戻り、主の前に頭を下げて和解していただくこと、神との間で平和の関係に戻ることが、「平和」「シャローム」だと説明されていました。 市川集会で初めて祈った後にいただいた平安は、過去に味わったことのないものでした。それは神との間のことなので、この世では与えられないものであるということが、今よく分かります。 その平安は、離反していた私が、まさに本来の創造主のところに戻ることができた結果、主から与えられた「永遠の救い」「平和」と「安心」の状態でありました。 離れていたことを謝ったことで、イエス様の十字架の贖いのゆえに、罪を赦され、主に和解していただいた結果の「平和」であります。 エペソ人への手紙2:12-16
「二つのものを一つにして」とあるのは、神の民であるユダヤ人も異邦人である他国人も区別なく、へだての壁を打ち壊して、離れていた人間に対する主の敵意を、捨て去ってくださるという意味であります。 「二つのものを主ご自身において、ひとりの人に造り上げて」、主の民として、十字架の贖いによって「神と和解」する道を設けてくださり、神と人間との間の平和を実現してくださったのであります。 「神の敵意は十字架によって葬り去られ」、キリストこそが、私たち人間の平和となりました。 イザヤ書32:17-18
「義」とは、「主にあって正しい」ということですが、ここでいう「義」とは、「神と人間が本来の正しい関係にある」という意味だと思います。罪を認め、主の前に謝って、本来の創造主のもとに入った状態が「義」であります。 そのような状態は、主との間の「平和をつくり出し、とこしえの平穏と信頼をもたらす」、そのような本来の正しい関係に戻った民は、主の「平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」ことができるようになります。 そこは、永遠のいのちを約束された住まいであり、主の平安で満たされることになります。このように平安と救いとは、表裏一体でありまして、救いの結果が平安であるということが言えると思います。 救いにあずかり、平安で満たされることになった私たちキリスト者は、何をすべきでしょうか。ただ喜ぶことだけでよいのでしょうか。 コリント人への手紙第II、5:17-21
「キリストのうちにある」者は、「新しく造られた者」となりました。それは、和解させてくださったから新しくなったと言うことができますけれども、この18節には、同時に、「神の和解の務めを私たちに与えられた」と書いてあります。 「キリストにあって、主ご自身と和解させて」くださり、この世にはない平安の中に入れられた私たちには、その「和解の言葉」を伝えることが新たにゆだねられたのであります。 私たちは、平安と救いに至る和解、すなわち福音を伝えるキリストの使節となったのであります。19節と21節にあるように、神は「違反行為の責めを負わせないで、罪を知らないイエス様を、人間の代わりに罪とされました」とあります。 (テープ 1本目 → 2本目) ・・・滅びから救いへと移され、神との平和の関係に、義の関係に移されることになったのであります。これが神との和解であり、福音です。 私たちは、そのことを周りの、まだ和解に至っていない方々に宣べ伝える務めを与えられることになったわけであります。その務めについて、イエス様は弟子たちにこう言われました。 マタイの福音書10:5-7、11-13
聖書に宣べられている「終わり」が、本当に近いと感じます。すでに救われて、平安をいただいているキリスト者は、「どんな町や村にはいっても、だれが適当な人か」、すなわち、「だれが救いを求めているか」を感じとって、「その人のところにとどまり、救いと平安を祈る」必要があります。 それが、私たちキリスト者の務めであります。 一方で、まだイエス様に出会っていない方がここにいらっしゃいましたら、この御代田の「喜びの集い」を通して、イエス様を受け入れて、主の平安と救いにあずかっていただきたいと思います。 私が17年前に経験した神との和解、永遠の救いと平安を、本当に味わっていただきたいと念願します。その主の平安は、この世が与えるものとは違って、天の御国、永遠のいのちにつながっています。滅びではありません。 この「喜びの集い」は、イエス様がここにおられるお一人お一人に備えてくださった機会だと思います。このチャンスを、ぜひご自分のものになさっていただきたいと思います。 どうもありがとございました。 羽石兄メッセージ 今年もよろしくお願いいたします。 イザヤ書の42章1節〜4節を、まず拝読させていただきます。 イザヤ書42:1-4
今日は、特にこの3節の中から、「くすぶる燈心を消すこともない」主について、ご一緒に考えてみたいと思います。 3節で「彼」と言われているのは、「主イエス様」であります。一方「いたんだ葦」「くすぶる燈心」と言われているのは、「私」であり、今日ここにいらっしゃる「みなさま、お一人お一人」であるかもしれません。 「燈心」というのは「ランプの芯」のことであります。最近は、灯油のランプを使う機会もほとんどありませんので、燈心がくすぶっている状態というのは、どういうものか、私たちはなかなか理解できないかもしれませんけれども、着いている火が、十分な炎をたてずにすすばかり出している、煙ばかり出している、そういう状態を「くすぶる」というわけであります。 そのような、くすぶる燈心に対して、二つの態度をとることができます。 私たちの敵である悪魔は、そのような明かりは、役に立たないから、その芯をつまんでもみ消してしまう。 私たち自身も、自分自身が主の光を十分放つことのできない者だということを、もしかしたら感じているかもしれません。けれども主は、くすぶる燈心を消すことのない方であります。むしろさらに油を注いで、「その火を明るく燃え立たせたい」というふうに望んでいらっしゃる方であります。 燈心、すなわちランプの芯は、木綿の糸を拠ってできております。ご存知のように、木綿に火を着ければ、それはすぐ燃えてなくなってしまいます。けれども、その木綿の糸を燈心として用いるときに、少し科学的な言い方をさせていただけば、油がその木綿の糸を毛細管現象によって上って行き、その糸の先端で油が温められて気体となり、その気体となった油が空気中の酸素と反応して、燃えるわけであります。 この燈心を擬人化した、次のような話があります。 もし、燭台の燈心に向かって「燈芯よ、あなたは瞬く間に燃え尽きてしまうでしょうね、そんなに小さく細くては」と尋ねたとしましょう。燈心はこう答えるに違いありません。 「いいえ、いいえ。燃えるのは、私ではないのです。私を通って上る油なのです。私は、ただ油のはしごであるにすぎません。そして光輝くのも私ではなく、その油なのですよ」と。 聖書は、私たちを「世の光」だというふうに記してくれます。けれども、光を放つのは決して私たち自身ではありません。私たちは、ただ聖霊という油を受けて、それが燃えて輝くのであります。 もし私たち自身が燃えるのであれば、それは瞬く間に煙を出して灰になってしまいます。 一頃、「燃え尽き症候群」という言葉をよく聞きました。私たちが努力の限界を超えてしまうと、もうそれ以上何もできなくなってしまう、そのような状況を指す言葉であります。 それが勉強であっても、あるいは仕事であっても、自分の限界を超えてしまう時に、その人は燃え尽きてしまう。ちょうどですね、木綿の糸が簡単に燃え尽きてしまうようなものであります。 けれども、その糸が十分な油を含んでいるならば、その芯は決して燃えることはない。そうではなくて、その芯に含まれる油が燃え続けて、明るい光を周囲に放つことができるということであります。 ゼカリヤ書4:11-14
燭台の両側に立っている「二本のオリーブの木」、これは「父なる神と主イエス」であります。そのオリーブの幹につながっている、「二本の枝」というのは、当時、神殿再建の責任を負っていた、「大祭司ヨシュア」と「指導者ゼルバベル」を指すものというふうに言われております。 ふたりは14節で、「油そそがれた者」というふうに呼ばれております。このふたりが用いられたのは、先ほど引用しましたけれども、6節にありますように、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」神に仕えたから、でありました。 ゼルバベルという人は、バビロン捕囚当時のユダの王であったエホヤキンの孫であります。バビロン捕囚ということがなければ、ユダの王になっていた人でありました。 すなわちゼルバベル、あるいは大祭司ヨシヤというのは、当時の権力や能力の満ちていた、当時を代表する力のある人たちだったわけであります。 けれども、主は、「その人たちの人間的な能力、あるいは権力によるのではなくて、わたしの霊によって、わたしに仕えなさい」ということを、この箇所で記していることが分かります。 必要なことは、油を豊かに注ぐオリーブの幹に、二本の枝がつながっていることであり、その二本の枝から、通りよき管として金の管が出ているという事実であります。 くすぶる燈心を消すことのない主は、「さらに油を注いで、明るく輝かせたい」というふうに願う方であります。 私たち一人一人も、その「主の油」を注がれた者として、さらに主からその油を豊かに注がれるために、オリーブの幹につながり、さらに通りよき管として、世の光として、輝きたいものであります。 どうもありがとうございました。 野田兄メッセージ 私たちの救い主イエス様は、私たち一人一人を本当に愛されています。そして、私たち一人一人を、非常に価値のある存在として見てくださっています。 でも、その愛されている対象の私たちが、そのことを本当に、そして十分に受け取っているでしょうか。 ローマ人への手紙15章13節。私の本当に好きな言葉なんですけど、いつもこの言葉を読みながら励まされ、そして元気付けられ、毎日を楽しく生きています。パウロが、ローマの教会に、ローマのクリスチャンたちに送った一つのメッセージです。 ローマ人への手紙15:13
パウロは、救われた人に向かって、私たちが与えられたもの、私たちが決して失わないものをいくつか書いてくれました。 その一つが、喜びです。その一つが、平和であります。そして、その一つが、希望です。 感謝のできなかった生活から、感謝のできる生活に変えられ、何か文句ばっかり言ってた生き方から、喜ぶ生き方に変えられ、そして、私たちが行くべきところをはっきりと示されて、希望を持つ人生に変えられた。 イエス様の十字架の赦し、そのものが私たちを大きく変えることを、この手紙でもはっきり私たちに伝えています。 昨年は、まれに見る忙しい一年でしたが、ある意味では、すごく充実していました。毎日、ほとんどゆっくりする時間がなかったんですが、30分、1時間と、ふっと与えられる時間が、2日や3日お休みをいただいてるような、そんな感じに受け取れた時がありました。 でも時々、いつも近くにイエス様がおられるのに、小さく見えたり、見失ったりすることもありました。私たちが、まっすぐ信仰に歩めば歩もうと思うほど、サタンがいろいろな妨げをすることを、私たちはこの一年を通して、よく経験することができました。 私たちは、聖書からこの素晴らしいメッセージを、今年もたくさんの人にお伝えしていきたいな、と思うんです。 聖書は、「希望」ということを書いてくれましたが、よく僕たちは年賀状に「今年はよい年でありますように」と必ず書き添えます。でも、すごく、それが難しいことを毎年毎年の流れからよく教えられます。 昨年の暮れ、何日かのシリーズで、NHKの映像の歴史というものを観てみたんですけれども、本当にひどいなと思いました。そして、人間はこりずに、そういうひどい状態をまた繰り返そうとしています。そして、私たちはそれを止めることができません。 私は、いくつかのパウロの言葉の中から、3つ、今年の歩みに必要だなということを示されました。 一つは、罪に対する恐怖というか、恐れというか、もともとそういうものを私たちの中に意識しないと、すごく危ないということに気がつきました。 もう一つは、主にあって一つになって歩みたいなという思いです。そして一番大事なのは、一人でも多くの方に聖書の言葉をお伝えしたい、配りたい、そう思いました。 昨年の暮れ、僕は、ある声がかかりまして、8年ぶりに長崎に行ってきたんです。それは、ある結婚式に出る予定でしたけれども、その結婚式に出て、僕は一つの喜びに入りました。 それは、ある姉妹の娘さんの結婚式だったんですが、彼女が私たちに出した笑顔は、とてもいい笑顔でした。おそらくそこへ行くまでに、たくさんの人の祈りがあり、彼女の、非常に多くの戦い・苦しみがあったんじゃないかな、そういう感じがします。 それを乗り越えて、一つの「みことばを配る」というチャンスがきました。私は、その笑顔は、失われた多くの人たちのために、この場所を借りて聖書の言葉をお伝えする、という大きな使命がそこにあって、その戦いのために、姉妹は妥協しなかったということをよく知ることができたんですね。 九州のある兄弟が聖書からメッセージをとりついでいただいたんですけど、必要なことは、全部、蒔かれたものと僕は思います。 私たちの店から出荷する商品に、みことばのシールが貼られて出されます。1,000個も2,000個も商品が出ますので、たまにシールを貼り忘れることがあります。お客さんから電話がかかってきます。「この商品にシールがありませんよ」。 もう、すごく恥ずかしく思いますけれども、すごく僕は嬉しく思います。私たちが蒔くみことばは、知らない人、知っている人、いろいろな方法で人伝えに伝えられ、みことばが一人で歩いて行くことを、すごーく嬉しく思います。 そして、そういう職場にいま働いていることを、すごく僕は誇りに思っています。 私たちは、もう世の中の現象を見たら、何が起こってもおかしくはない時代に入っています。おそらく、誠実に信仰に歩もうと思えば思うほど、相当な邪魔や妨げ、そういうものが入ってくると、僕は思うんですね。 だから、祈りと一致と、イエス様を紹介することは、私たちに欠くことのできない新しい課題だと思います。 (テープ A面 → B面) ・・・すべてによって与えられる喜びで満たされ、主ご自身に栄光が帰されますように、祈り続けたいなと思います。イエス・キリストを信じる信仰だけが、私たちを前向きに歩ませてくれる原動力になると思います。 すべてのことは、背後に主がおられ、私たちを後押ししてくれることを、毎日感謝し続けたいなと思います。 ローマ人への手紙5:5
イエス様は、今日も私たち一人一人を考えてくださり、一人一人を最善に導いてくださいます。神の愛が、私たちの心に注がれています。 新しい年も、イエス様を信頼して歩み続けたいなと思います。 ありがとうございました。 古田公人兄メッセージ みなさま、今年もどうぞよろしくお願いいたします。 準備なしの、メッセージまとめということで、とても能力を超えていますので、本当に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という、ゼカリヤ書4章のみことばにゆだねて、この時をご一緒にいただきたいと思います。 今日は、イエス様の死と復活によって、私たちが「新しいいのち」に、すべての罪が赦されて、「新しいいのち」に生きているということの確認を、兄弟がしてくださいました。 でも、その「新しいいのち」は、それで終わり、完了なのではなくって、「滅びゆくたましい」、言い換えますと、それは「救われるべきたましい」であり、「主に愛されているたましい」のために用いられるべきである、ということもまた教えていただいたことであります。 希望をもって、主の御霊に導かれて、私たちが「救われるべきたましい」のところへ遣わされていくなら、燈心が燃える炎を大きく大きく照らすように、主は必ず実を結んでくださる。 そのことを信じて、私たちは歩もうということを、主から示されたように思います。 それで、主の御霊が働いてくださることを、私たちは何よりも祈り求めるべきでありますけれども、時として私たちは、私たち自身がその御霊の働きを妨げる者となることがある、ということもまた、みことばを通して兄弟から教えていただきました。 詩篇51:1-4、10-13
この詩は、祈りの詩だと思いますけど、有名なダビデの祈りでございます。ダビデのように、「主を本当に中心にして生きたい」、「主の御霊の導きのうちに歩みたい」と思っていた人でさえも、人間である弱さは、驚くべき、本当に目をつむってしまいたいような罪の中に陥ったことがございます。 サムエル記第II、11:14-15
ダビデは、ウリヤの妻をどうしても自分のものとしたいと思い、こともあろうに本当に忠実な、男の中の男のような心を持っているウリヤを、ダビデは戦争の中で殺させる命令を出しました。 ダビデの計画は、その通りに実行されました。だれ一人、ヨアブを除いて、ダビデの心のやみを知る者はないと、ダビデは確信をしておりました。けれども、 サムエル記第II、12:9
主はご存知でした。「そむきの罪」は、主をないがしろにするものだ、主のみことばをさげすむものだと、ここで私たちは知らされます。 この主のみことばを受けた後、ダビデは主の前に、先ほどお読みいたしました詩篇の51篇をもって悔改めの祈りをささげたと、私たちは知らされます。 御霊の働きを妨げる「そむきの罪」とは、主をないがしろにする罪だと、主のみことばをさげすむものだと、言い換えますと「主を恐れない心」、それこそが「そむきの罪」であると知らされます。 もう一人、同じように「主を中心にして生きたい」「主だけに従っていきたい」と望んでいたアブラハムもまた、人間の弱さのゆえに、罪に陥ったことがございます。 創世記16:2
神様は、「サライによって、あなたに子を与える」とアブラハムに約束をなさいましたけど、88歳になっても、なおアブラハムには子どもが生まれませんでした。 そのことを心配したサライは、自分の女奴隷によってアブラハムの子を得たい、そのことによって神様の約束を実現したいと、アブラハムに話しました。アブラハムもまたそう思ったのでしょう。 「神様のみことばは、自分たちの力によってはじめて実現する」ということを、ふたりは身をもって行なったのでございます。言い換えますと、「聖書のみことばを、自分の都合がいいように解釈する」、この大きな罪を、ふたりは犯しました。 聖書によりますと、生涯を通じてアブラハムにお語りになった主は、この後12年間、沈黙を保っておられます。自分の都合のいいようにみことばを解釈する者には、御霊はお働きになることができないということを、私たちはみことばを通して知らせられます。 私たちは、本当に主に砕かれて、主が私たちを砕いてくださって用いられるために、「そむきの罪」があるかないかを、毎日吟味をしたいと思います。 御霊によって導かれて、御霊によって、御霊とともに、祈りのうちにあることによってのみ、私たちは主に用いていただくことができる、主は大きな実を結んでくださることができるということを、深く心にとどめたいと思います。 主は、働き人を捜しておられます。主は、「働き人を用いたい、用いたい」といつも願っておられます。忍耐をもってイエス様を証しし、私たちは遣わされたところへ、本当に謙遜に行き、再臨の日を待ち望みつつ、主が実を結んでくださる日を喜びのうちに、主のご栄光を見させていただくことを喜びと希望のうちに、待ち望みたいと思う者でございます。 どうもありがとうございました。 |