ベック兄メッセージ 新年、おめでとうございます。 今一緒に歌いました日々の歌103番は、昔から私の最も好きな歌なのです。そして今から読む個所も随分昔から私の一番好きなことばの一つなのです。 コロサイ人への手紙1:10
ということです。この個所は私たちの結婚指輪に刻まれていることばです。 「神のみこころにかなった生活をし、真に主を喜ばせよ。」 イエス様を信じ、また知るようになった兄弟姉妹は、イエス様無き人生の無意味さを認識するようになりました。 また、いかなる人力も努力も主なる神と人間の間の隔ての壁を取り除くができないことも信ずるようになったから、自分が破産したことを宣告し、自分の債務をイエス様に告白する恵みにあずかるようになったのです。 幼子のような信仰でもって、罪の赦しを要求することの結果として、イエス様の血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを信ずるようになったのです。そしてもはやさばかれることがないことをも確信するようになりました。 そしてイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、イエス様に喜ばれたいと切に望むようになったのです。もっとも大切なことは、主に喜ばれることです。 新たに信仰に導かれた人々に対してパウロは書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、4:1
救われている人と救われていない人との間の区別はいったい何なのでしょうか。 救われている人は、イエス様に喜ばれたいという願いをもっています。 救われていない人は、イエス様に対して目くらであり、イエス様の声に対してつんぼです。 私たちは毎日毎日、私の思いはイエス様に喜ばれるかどうか、私たちの言動はイエス様に喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。これこそがもっとも大切です。 人間に気に入られるのが決して大切ではない。主に気に入られるのが大切です。私たちはこのことについて真剣に考えると、驚かざるを得ないのではないでしょうか。 というのは、いったい私たちはどうやって光そのもの、少しも暗いところをご存じない主に喜んでいただけるのでしょうか。いったいどうして私たちは絶対的な聖さと神聖さそのものであられる主イエス様に喜ばれることができるのでしょうか。どうしたら私たちは愛そのものであられる主イエス様に喜んでいただくことができるのでしょうか。 イエス様は光そのものです。けれど何と多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。 イエス様は絶対聖なるお方です。けれど何と多くの嘘と不純が私たちのうちにあるでしょうか。 イエス様は愛そのものです。けれど何と多くの自己追求と自己中心が私たちのうちにあるでしょう。 イエス様はいかに私たちを気に入ってくださるのでしょうか。人間の想像以前に主なる神は、みこころにかなう人間をほしいと計画してくださったのです。 エペソ人への手紙1:4
とあります。主ご自身がご自分のほうから、私たちと主との間の裂け目を塞ぐ道を用意してくださいました。 すなわち御子主イエス様がわれわれの贖いの代価を支払ってくださったのです。その代価はイエス様がささげてくださったいのちです。 ローマ人への手紙5:8
父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるのでしょうか。 それは決して主に喜ばれる生涯を送ろうと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、イエス様が私たちのために死んでくださり、そして私たちのために生きてくださることからです。 イエス様のものになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力は全て敗北から敗北へという結果に至るだけです。生きるまことの神が喜んでくださるのは、ただ主イエス様だけです。 今イエス様が受け入れてくださる方は、イエス様のうちにあり、イエス様の義によってみこころにかなった人間とされています。 けれどそれは自分自身のすばらしさのゆえではなく、ただイエス様の贖いにゆえに、そうされていたのです。 イエス様のうちにある者、すなわちイエス様と結び付いている者の生涯は変えられます。そこに実を結ぶことが見られます。 ヨハネの福音書15:4-8
自分の努力ではなく、私たちのうちにおられるイエス様。これこそ勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。 毎日、毎日、「主よ。私は何をしたらよいのでしょうか。あなたは何を望んでおられるのでしょうか。」と尋ねましょう。そうすれば主の祝福が豊かに注がれます。 イエス様に喜ばれる奉仕とはいったい何なのでしょうか。自分自身を無にした奉仕であり、イエス様のために喜んで犠牲を払う備え、そしてまた自分自身をささげ、自分自身を否定する備えのできた奉仕なのではないのでしょうか。 自己否定が要求されます。すなわち自我の否、自分自身の願いを捨てること。自分自身の利益を捨てることです。 失敗することは別に大変なことではないですけれど、曖昧にすること、隠すこと、陰でこそこそすることは悪い。ただ人前だけ上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は物事を曖昧にしたり、隠したりします。けれどイエス様の前に光のうちを歩む者はもはや、隠したり、曖昧にしたりすることはできません。 イエス様に喜ばれる生涯。これこそわれわれの人生の内容であるべきです。その秘訣は私たちのうちに主イエス様がおられるということです。 私たちはいつも失敗ばかりする者ですけれど、イエス様が何事でもおできになります。 イエス様に拠り頼み、主に信頼する者は勝利から勝利に至ります。ヘブル人への手紙の著者は13章の21節に、「イエス様のおかげで私たちはみこころを行なうことができる。」と書いたのです。 エノクという男は主のみこころにかなう人でした。聖書は言っています。 創世記5:23-24
ヘブル人への手紙11:5
聖書ははっきり言っています。エノクは主に喜ばれる人でした。主に喜ばれるということはエノクにとって日々、主とともに歩むこと、一瞬、一瞬、主と結び付いていることを意味しました。 信ずるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけではなく、意識して主にのみ拠り頼むということでもあります。「信仰がなければ、主に喜ばれることは不可能です。」とあります。 いったいどうすれば私たちは主に喜ばれるのでしょうか。それは私たちが主を信頼し、主とともに歩むことによってです。それは日々、主に信頼して、お従いするということを意味します。パウロは次のように書くことができたのです。 ローマ人への手紙8:37
自分を強くしてくださる方によって何でもできると。 私たちはただ救われて、聖められるためだけにこの地上にいるのではない。主の器となるために、用いられるために救われているのです。 私たちを通して、主はご自身を啓示なさりたいと思っておられます。私たちを通して、イエス様はご栄光を現わしたいと願っておられます。 「ただイエス様だけが栄光をお受けになってくださり、私たちの周囲の人々が救われるならば、私たち自身のことはどうなろうと構いません。」という心構えを私たちはいったい持っているのでしょうか。パウロは告白したのです。 使徒の働き20:24
私たちは詩篇の作者と同じように、主のみもとに来て次のように祈ることができれば幸いと思います。 詩篇143:10
詩篇25:4-5
最後に、歴代誌第IIの16章9節を読んで終わります。 歴代誌第II、16:9
蘇畑兄メッセージ みなさま明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。 イエス・キリストの福音が喜びの訪れであるということは、みなさんもよくご承知のとおりです。 いったい私自身にとってそれはどのような喜びであるかと申しますと、色んな多面的な種々の喜びがあります。 死をも越える確実な望みに向かって生きることができるという喜び。 上からの目に見える恵みや目に見えない恵みに、日々あずかることができるという喜び。 何よりも、真実を尊ぼうとする、多くの主にある信仰の兄弟姉妹との豊かな交わりにあずかっているという喜び。 色々あります。と言って、私はいつも喜んでばかりいるかと言いますと必ずしもそうではありません。他方において、私はいつも悲しんでもいると言えるかもしれません。落胆しているのであります。 クリスチャンとは不思議な存在だと常々思っております。 何を悲しんでいるかと問われると、それは自分自身への忸怩たる思いと言いますか、日本語では忸怩たる(じくじたる)と言うのですけれども、実に微妙な言葉ですが、何とも情けないという思いであります。自分が本当に情けない者であるという、そういう慙愧の思いによって、いつも落胆するのであり、がっかりし、悲しむのであります。 困ったことにと言うべきか、感謝すべきことと言うべきか、聖書のことばに触れることによって、以前はよく見えなかった自分自身のことがよく見えるようになったために、自分自身に目を向けると、心はくずおれ、うつむかざるを得ないからであります。 それは自分自身が愚かさと恥とに満ちている者であるということ。心の狭い者であるということ。愛に乏しい者であるということ。油断ならない邪さを内にもつ者であるということを日々自覚させられるからであります。パウロのことばを用いれば、 ローマ人への手紙7:18
ということになります。ダビデの告白を引用すれば、 詩篇51:3
ということだからです。一言の弁解の余地なくして、神の御前に口をつぐまざるを得ない者であること。聖書のみことばとキリストの御霊と、また自分自身の良心がこのことを明らかにしてくるからであります。 しかし、だからと言って私はいつも頭を抱えてぺしゃんこになってばかりいるかと言うと、みなさんご存知のように、そうではありません。 そのような自分であるにもかかわらず、その忸怩たる崩れ去りそうな心の底からちゃんと顔を上に向けよ。そういう喜ばしい思いと言いますか、それが常に起こってくることも事実だからです。 それはなぜかと言いますと、聖書の真理が啓示されているからであります。 その真理とは何かと言いますと、イエス様がこれ以上もなく明らかに示しておられるものであり、すなわち、自分自身は徹底的に捨て去られるべき者であるということ。無価値な者であるということ。いや、有害無益な者であるということを示してくる真理であります。 私は聖書に出会うまでこのことに気が付かないで長い間、ああでもない、こうでもないとこんがらがった糸を解きほぐそうとするようにして、ただ空転していたのではないかと思います。 人間にとって常に問題となるのは、自分自身にほかなりません。人生問題というのは結局のところ、自分自身に行き着くと言っていいでしょう。 人は、この自分というものを何とかしようとろくろで土をこねくり回すようにこねくり回して、どうにもならないとため息をついているような者ではないでしょうか。人のどのような努力や精進も、この自分のというものの上に何事かを築こうとする努力、精進なのではないでしょうか。 その自分こそが問題そのものなのだと明示するのは聖書以外にあるでしょうか。あるいはあるかもしれません。ある程度は。 しかし聖書ほどに徹底的に、すなわち神の御子の十字架の死という人間の想像をはるかに越えるほどの徹底さをもって、このことを示しているものはほかにないと断言できます。 そればかりではありません。聖書だけが問題が何かを示しているだけでなく、その問題の完全な解決をも提供しているのであります。 聖書は単に自分自身は大切にされるべき者ではなく、反対にいのち取りとなるほどの厄介極まりない者であるがゆえに否定さられるべき者であると教えているだけでなく、それから離れ、それから捨てることのできる道をも私たちの前に用意しているということであります。 (テープ A面 → B面) ・・・によってだけ自己の呪縛から解放されうるのであります。 イエス様の死と復活という贖いのみわざによって人間が自分自身に対して真にこのどうにもならない醜悪な自己の呪縛から解放され、同時に新しいいのち、まことのいのちに生きることのできる確実な道が開かれているのであります。 自分自身からの解放、すなわち罪からの解放の道がただここにだけあるのであります。 それはイエス様が人間を捕えている、人を罪の鎖、その背後にいるサタンを事実滅ぼされたからであります。 こうして、自分をいつも悩ます自分から、それはどうでもよいものなのだ。いや、それこそが本当の敵なのだとの真理の啓示に接し、イエス様の死と復活によって根本的に解き放たれることは、かけがえの無い喜びであります。 情けない、心を挫けさせる自分はいつも目の前にありますが、聖書によれば、それはもう処分されたものです。 目を留めるべきはそれではなく、新しいいのちなる主イエスご自身です。すでに解決の道はついているのです。いのちの門、天の門は私たちの前にすでに開かれているのです。 その古き人は、イエス・キリストにある新しい人にまだまとわり付いて生きており、生きている間中、まとわり付くと思いますけれども、しかしすでに勝利は与えられているのであります。古き人はもはやキリストにある私たちにとって支配者ではないからであります。 私たちはすでに確定している勝利を得るために走っているランナーのような者です。戦いはまだ残っていますけれども、しかしこの戦いは勝ち戦であることが確かなのです。 この世にある間はくびきを負うことは事実ですが、しかしそのくびきは軽いのであります。イエス様が仰ったとおりです。 ローマ人への手紙8:23-25
もし私たちがイエス様の死と復活とを本当に受け入れるならば、すなわち、自分自身とこの世に対して死ぬこと、そしてまことのいのちに生きるべくイエス様を受け入れるならば、私たちはイエス様のくださるこの勝利にあずかることができるのであります。 主は私たちをご自身の凱旋の行列に加え、私たちの将来を通してご自身の栄光を現わしてくださるのであります。 ガラテヤ人への手紙2:20
ガラテヤ人への手紙6:14-15
私にとってのこの福音がいつも変わることのない、絶えざる喜びである最大の理由は、私ではなく、キリストという真理、この単純な、しかし限りない真理に目を開かれ、自分からの解放の道を見いだしたこと。こうして真の自由を見いだした喜びだと自分で思っています。 ヨハネの福音書8:36
キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました。 私たちの目標とは、この自分の主を全きものとすること。逆に言えば、自分における主のご支配を全きものにするということに尽きるのではないかと思います。 この目標を目指して、今年も力を尽くして走ることができればと思っています。 松見兄メッセージ 明けましておめでとうございます。 まず聖書から二ヶ所お読みしたいと思います。 エペソ人への手紙6:18
どんなときにも御霊によって祈りなさい。御霊によって祈りなさい。と書いてあります。もう一ヶ所お読みします。 ローマ人への手紙13:8
ただし、互いに愛し合うことについては大いに借りがあってよろしいとパウロは言っております。ことばを入れ替えてみますと、お互いに祈り祈られるという意味で、大いに借りがあって、これはよろしいとパウロは言っております。 祈られることでは本当に多くの借りがあって、実際本当に大変な祈りの恵みを昨年一年間もいただいてきたと思います。 パウロは通常の、たぶん目に見えるほうの借りはあまりよろしくないと言っておりますけれども、互いに愛し愛される、祈り祈られるという意味での借りについては別ですと言っていると思うのです。 そういう方向から私たちの生活を振り返ってみますと、本当に愛されている、見えないところで祈られているという借りが本当に莫大であることを思わされます。 祈り祈られ、愛し愛される、このような貸し借りは全く問題ないとパウロは言っているわけです。 本当に、しかもこのことに気が付いたときに、そういう借りに対して、良い意味でのその借りに対して自分たちのほうはいくらもお返ししていないなと、負債ばかりが増えているなということを覚えて恥じ入るわけです。 ガラテヤ人への手紙6:9-10
ここもことばを言い換えれば、善ということばを入れ替えれば、愛し合いましょう。祈り合いましょう。祈りで支えあいましょうと入れ替えても全く問題はないと思います。 本当に私たちは祈ることで、愛することでせっせとお返しをしていかなければならない立場にあります。確かに今日のこのような集いのように、目に見える交わりには本当に多くの祝福があります。 互いに挨拶し、言葉を交し合うときに本当に互いに心が満たされるものです。ですけれども見えない交わりには、もっともっと多くの祝福があるのではないでしょうか。隠れたところの祈り、背後の見えない祈りにこそ、本当の愛と交わりがあるのではないでしょうか。 私たちはこのように一同に会してお会いするチャンスは本当に数えるほどしかありませんけれども、見えないところでの交わり、隠れた祈りはどれほどのものであるか、おそらく目に見えるお交わりの何百倍にもなるのではないでしょうか。 エペソ人への手紙1:15-16
このようにパウロは書きました。あなたがたのことを覚えて祈っています。これほどの励ましの言葉はないのではないでしょうか。 励ましの言葉の代表的なもの。あなたのことを覚えて祈っています。このような言葉に昨年もどれほど支えられ、励まされてきたことでしょうか。 クリスマスカードをやり取りしたり、お正月ですから年賀状をやり取りしたりして、遠く離れていても、あなたのことを思い出して、こうして年賀状を書いていますよという、その意味もひとつの目に見える、あなたのことを覚えて祈っています、の印でありますけれども、先ほども申し上げましたとおり、目に見えないところの隠れた祈りこそ、年賀状やクリスマスカードの何百倍にも勝るお交わり、愛の支えになっていると確信いたします。 ローマ人への手紙1:14
返さなければならない負債を負っています。パウロのこの意味は、もうはるかに深い意味を含んでいると思いますけれども、私たちの生活に移し変えてみても、やはりスケールの違いはあっても、やはり私たちは愛されている、祈られているという意味で、返さなければならない負債を負っています。 ですから返すべきものはみことばにあるとおりに、聖霊による祈り、隠れたところによる祈るではないでしょうか。 ローマ人への手紙8:26-27
祈ると言っても、決して私たちひとりで祈るわけではない。御霊が、聖霊が助けてとりなしていてくださるというこの約束のみことばがあります。ですから安心して私たちは互いのために祈ることができます。 目に見えない人格である聖霊が私たちを、それこそ見えないところで助けてくださっています。 今年もこの一年間時間がひとりひとりに公平にもれなく、差別なく与えられると思います。そして自分に与えられたこの時間の大半は、残念ながら自分のためにばっかり費やすことになるのではないかと恐れております。 この公平に与えられた時間を、そのうちのどれだけを目に見えないところでの互いの祈りに変えられるかということが、そしてそういうふうにしてどれだけの、その愛されている、祈られているという借りをお返しできるかということが今年のテーマではないかと思っております。 最後に私たちが莫大な借りのある方をご紹介して終わりたいと思います。 マタイの福音書26:39
みこころのままにイエス様は私たちの罪という、これはもう大変な負債を払ってくださいました。代わりに全部払ってくださいました。 これはとてもお返しできない莫大な借りです。負債です。ですからイエス様に対しては感謝と賛美、そして礼拝をおささげするのみだと思います。 青柳兄メッセージ 本年もどうぞ宜しくお願いいたします。 喜び。喜びというのは、信仰のひとつのバロメーターではないでしょうか。 ヨブという人は、苦しみの極みにまで追いやられながら、にも関わらず、常に歓喜の声をあげました。神を恐れ、潔白で正しい人、ヨブはその当時一番の富豪で子宝にも恵まれ、何一つ欠けるところのない幸せな生活を送っていました。 しかし、あるとき突如として子どもたちを、そして財産をも全て奪われたばかりか、悪性の腫物によって自分の健康まで失ってしまいます。しかも彼は自分の妻や友人たちにも見放され、孤独の中に自分の身をのろいます。そのような彼が歓喜の声をあげるのです。 ヨブ記42:1-3、5-6
紀元前7世紀の終わりごろハバクク書を書いたハバククは声をあげて神様に抗議をしました。 ハバクク書1:12-13
確かに当時にユダヤは退廃の極みにいました。不正と不敗がはびこり、風俗は乱れ、民が堕落し、主なる神様から背を向け、偶像を拝んでいたことは事実です。 神様はそのようなユダヤの民を罰するため、異教徒の国、バビロンのカルデヤ人を用いてユダヤを攻撃させるというのです。いくら何でもそれはないでしょうというのがハバククの訴えでした。そのようなハバククがその抗議を忘れたかのように、突如として歓喜の声をあげます。 ハバクク書3:17-19
ダビデにも同じような経験があります。 詩篇22:1
詩篇22:19-21
このように、助けを求めて必死の声をあげたダビデですが、その叫び声は突如として主への賛美の声へと変わります。ダビデは言います。あなたは私に答えてくださいます。 詩篇22:22
この三人に何が起こったのでしょう。三人三様ですが、この三人に共通することは、苦しみと悲しみのどん底にいて、絶望の淵に沈みながら、それでも心の底から湧いてくる歓喜と賛美の声をあげたのです。 いったいこの三人は何を経験したのでしょうか。彼らは神様を知ったのです。神様の何を知ったのでしょうか。それは、 1、神様がおられること。 2、神様は何でもおできになるお方であること。 3、神様は何でもご存知の方であること。 4、神様は正しい方であること。 5、神様は愛のお方であり、この私を限りなく愛しておられること。 6、神様は全てのことを働かせてこの私を最善へと導いてくださるお方であること。そして何よりも嬉しいことには、 7、神様はどんなときにも、悲しいときにも苦しいときにも常にこの私とともにいてくださる。 このことを三人は知ったからなのではないでしょうか。 彼らは神様を、この自分とともにいてくださる神様を見たのです。神様が自分とともにいてくださる。あとは何を言うことがありましょうか。 求める者には神様はご自身を示してくださると聖書は言っています。 歴代誌第II、15:2
歴代誌第II、15:4
今の私たちに嬉しいことには、私たちにはイエス様がともにいてくださいます。 十字架の上でパンのように引き裂かれたイエス様。人々にさげすまれ、拒絶されたイエス様。悲しみの人で病を知っていたイエス様。裏切り者の手に落ちて、愛する者からも見捨てられたイエス様。ありとあらゆる苦悩を知っておられるイエス様。 そのイエス様がこの私とともにいて、私の苦しみをともに苦しんでくださるのです。イエス様が私たちのその苦しみのどん底にいて、ともにその苦しみを体験してくださっているのです。何という慰めでしょうか。 それだけではありません。この苦しみを通してイエス様は私たちを導こうとしてくださっています。 私たちがもっともっとイエス様を知ることができるようにと。ひとり子イエス様を私たちのために遣わしてくださった神様。そのご愛とご計画の中に私たちは今置かれていること。 そのご計画とは今の一時の苦しみがあとで私たちを最善へと導くご計画であること。十字架の死から三日目のイエス様の復活によって、それを信じる私たちに永遠のいのちが与えられていること。イエス様は再び来てくださり、私たちを天の御国へ伴ってくださること。 これらのことを私たちが心に刻んで、それを待ち望むとき、私たちはたとえどんな困難な状況下にあっても喜ぶことができるのではないでしょうか。 それは私たちとともにいてくださるイエス様。またそのように備えてくださった父なる神様への信頼と感謝からくるものです。 逆に私たちが自分の力に頼り、自分の努力で何事かを成し遂げようとするときは、イエス様のこのご臨在を見失い、同時に地に喜びがかき消されてしまうのです。喜びが信仰のバロメーターであると言われる所以です。 冒頭にベック兄は、主に喜ばれることの大切をお話しくださいました。主に喜ばれるためには自分が喜んでいなければなりません。 自分は今喜んでいるだろうか。この質問をいつも自分自身にぶつけて、自分をチェックしたいと思います。そして自分の心に喜びがない時、あるいは少ない時は、常に139篇のダビデのように祈らなければなりません。 詩篇139:23-24
今日から始まる新しい年の私たちの一日、一日が主にあって喜ぶ日々でありますよう、念頭にあたって、皆さんと共に主に祈りたいと思います。 どうも、ありがとうございました。 重田兄メッセージ おめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。 今日は年の初めに当たりまして、今までの兄弟方とちょっと視点を変えまして、私たちの愛する集会が福音の光を灯す燭台であり続けるために、心がけるべき大切な問題について少しばかり時間をいただいて、ご一緒に考えたいと思います。 最初にエペソ人への手紙の2章20節から22節をお読みいたします。 エペソ人への手紙2:20-21
すなわち集会 エペソ人への手紙2:21-22
これはパウロが小アジアのエーゲ海沿岸の町のエペソの教会の信者に宛てた手紙の一部でありますけれども、このことばはそのまま私たちの集会に当てはまることではないでしょうか。 私たちの集会は主の使徒としてイエス様によってドイツから遣わされた、ベック兄という土台の上に建てられた集会であり、集会の礎石はいうまでもなく、イエス様ご自身であります。 そして私たち主にある兄弟姉妹ひとりひとりは、私たちの集会を築き上げる石として主によって用いられ、組み合わされ、主の聖なる宮としての集会を形作っているのであります。 初代教会のひとつであるエペソの教会は、パウロが大変に愛した教会でありました。信者たちもそれに応えて、エペソに建てられたこの教会を異邦人に対する福音の光を掲げる燭台として守ってきました。 しかし、そのようなまことの教会こそサタンの攻撃の的となります。そのことを察知しておりましたパウロは、3年余りに亘って滞在したエペソを去るにあたって、港まで送りに来た教会の長老たちに次のような決別の挨拶をしております。 少し長いものですから、今日は前半は時間の都合で省略いたしますが、使徒の働きの20章18節からあるのですが、20章の18節から31節をお読みいたします。 使徒の働き20:18-31
このようにパウロは異邦人の中にあって信仰の光を輝かせ、主に祝福された愛するエペソの教会をサタンが憎んで、分裂を引き起こそうと企み、さまざまな悪巧みを仕掛けて来ることを案じて、教会の長老たちに細々と助言を与え、また祈っているのであります。 しかし悲しいことに、このパウロの懸念は現実となってしまいます。エペソの教会はあとになって、イエス様から次のように厳しい訓戒を受けることになってしまいました。 ヨハネの黙示録2:2-5
エペソの教会がイエス様から非難されたのは、初めの愛から離れたということでありました。イエス様が言われた「初めの愛」とは何でしょうか。 イエス様は十字架にお架かりになる前に、弟子たちに次のみことばを残しておられます。 ヨハネの福音書15:9-10、12
初めの愛とはこのみことばのように、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも救われた初めの頃のように主を愛し、主の愛の中にとどまり、主の戒めを誠実に守って、兄弟姉妹が互いに愛し合うということであります。 エペソの教会の信者たちは、かつてパウロが愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた、とその手紙の中で称賛しておりますように、初めはイエス様の愛に堅く立ち、信者が互いに愛し合う教会でありました。 しかしながら時が経つにつれて、イエス様を愛する熱い思いが薄れ、主の戒めを愚かにし、信者の間に愛が無くなり、その結果、サタンの策略どおり信者の間に争いや分裂が起こり、それがイエス様の愛から離れてしまったために起こったことであると気付くこともできなくなった結果、悔い改めて主に立ち返らなかったために、とうとう福音を灯りをともす燭台としての役割を主から取り上げられてしまったのであります。 私たちの集会も極東の東の果ての日本の国にあって、ベック兄のご指導のもと、主の祝福をいただいてイエス様をかしらとした主の生けるからだなる教会として、御霊の働かれる教会として大きく成長し、今日まで主の光を輝かせる燭台の役割を果たしてまいりました。 しかしこのような教会こそサタンは憎んで、攻撃をしてまいります。サタンの攻撃はまことに巧妙で、集会の外から攻撃を仕掛けて来るというよりは、内部から揺さぶりをかけて崩そうとします。 主の生けるみからだなる集会はひとりひとりの信者が互いに主の愛によってひとつにしっかり結び合わされ、築き上げられております。すなわち、主の愛は集会を構築している多くの石、ひとつひとつを互いに堅く互いに結び合わせる大切な接着剤なのであります。 ですからもし、ひとつひとつの石である兄弟姉妹が主の愛から離れて、おのおの自分勝手な思い、自分勝手な道に歩み出したら、築き上げられた集会は徐々に崩壊の危険にさらされてしまいます。 サタンは集会の一致をかき乱し、突き崩そうと巧妙に内部からあの手この手を使って揺さぶってまいります。私たちの愛する集会もこのような危険にさらされかねないということを私たちは年の初めに改めてしっかり自覚する必要があります。 では、このような危険から集会が守られるためにはいったいどうしたらよいのでありましょうか。 もっとも大切なことは、ひとりひとりの信者が常に主のみこころは何であるかを真剣に問いながら、周りを見るのではなく、主イエス様を常に見上げ、また、イエス様に自分の心のうちを探っていただいて、悔い改めるべきことは直ちに悔い改めて、イエス様への愛、イエス様との絆をもっとも大切にするということであります。 その時、主はその思いに応えて、ひとりひとりの信者が迷うことなく、主に従うことができるように導いてくださるのであります。 そのように、ひとりひとりの信者がそれぞれイエス様にしっかり結び付いたときに、初めて兄弟姉妹は堅く結び合わされて、集会は主にあって全く一つのものとなることができ、サタンの攻撃に対しても決して揺るがされることのない主のみからだなる教会が建て上げられ、主に用いられるのであります。 この集会を主のみからだなる教会として本当に大切にしたいと思う信者は自分の肉の欲やあるいは噂話に惑わされるようなことなく、集会が守られ、主のご栄光が現わされることを真剣に願うはずであります。 主のご再臨の間近い今こそ、私たちの愛する集会がエペソの教会の轍を踏むことなく、ご再臨の日までさらに福音の光を高く掲げる燭台としての役割を果たし続けることができますように、そしてまた兄弟姉妹がみな揃って主をお迎えすることができますように。 そのために兄弟姉妹ひとりひとりがはっきりと霊の目をさまし、主を愛し、みことばに拠り頼み、御霊にあってひとつ心となって、主のみからだなる私たちの集会をさらに強く築き上げていくことができるように、ごいっしょに心から主にお祈りをしたいと思う次第であります。 最後にエペソ人への手紙の4章の1節から4節の前半、そして16節から、これはパウロが私たち信者に対する勧めのことばでありますが、それをお読みして終わりにいたします。 エペソ人への手紙4:1-4
エペソ人への手紙4:16
どうもありがとうございました。 古田公人兄メッセージ おはようございます。宜しくお願いします。 今、そこで座っていながら、もし今使徒がここにいたら何を語られるのかなと思っていました。 コロサイ人への手紙の3章の11節に、キリストがすべてであると書かれています。パウロは、そう仰るのではないかなと思いつつ、手前勝手ですけれども、今から与えられた時間をごいっしょにペテロの手紙第IIの1章の1節から3節を引用して、ごいっしょに学んでみたいと思います。 ペテロの手紙第II、1:1-3
使徒はこのところで、まず1節で、「信仰を受けた」と書いています。私たちは「信仰をもつ」とよく口にしますけれど、信仰は受けるものだとここに記されています。 私たちが信仰をもつのは、信仰を受けたからである。私たちのうちには良いものは何も無くて、本当に信仰もまた私たちの内からは出て来ないのだと記されています。 信仰とは言い換えますと、徹底して信頼することと言っていいのではないでしょうか。単に信じるのではない。単に信頼するのでもない。徹底して。先ほどからヨブの話にもありましてけれど、どのようなことがあっても徹底して信頼する。これこそ信仰であろうと思います。 私たちはもちろんどんなものにでも、信頼しようと思えば信頼することはできます。ネズミにだって信頼しようと思えば信頼できますけれど、何にもネズミは持って来てくれません。 結局信頼する相手が全てであり、だれに信頼するのか、どなたに信頼するのかということが信仰の全てだと言っていいと思います。そしてペテロはそのお方が一生の中で神であり、救い主であると宣言しております。 私たちが信頼するお方は神であり救い主であって、単に偉人であるとか、偉大な宗教家であるかとか、愛を教えた人であるとか、神のような人であるとか、そういうお方ではありません。 天と地が造られる以前から天においてお持ちになっていたそのご栄光のうちにおいでになったお方ですけれど、全てを造り、全てを知り、全てを支配なさるお方であります。 しかしそれだけではなくて、救い主であられるということは、人間として来てくださり、私たちを愛してくださり、私たちひとりひとりと関わりを持っていてくださるということを意味しています。この方こそほめたたえられるべきお方であり、あがめられるべきお方であり、私たちの救い主であられます。 ペテロは、使徒の働きの4章の12節の中で、この方以外には、救いはないと語っています。 イエス様はこのように神であり、救い主であられましたけれど、しかし、その1節の中(ペテロの手紙第II、1章)にイエス・キリストの義によってとありますように、このお方の義がなければ私たちはイエス様の前に赦されることはなかったと知らせられてまいります。 キリストの義こそが神との平和、神との和解を成し遂げてくださった舵であり、そして私たちはそのキリストの義にあずかって光の中へと導き出されております。 イエス様の十字架の上での贖いと、そして贖いの死と復活がなければ、私たちと神様との間を結ぶものは何一つありません。ただ焼き尽くす火だけが私たちを待っています。 いくら祈っても受け入れられません。単に壁に向かって祈るようなものであります。キリストの血によって初めて、私たちはまことの聖所にはいることができる。信仰はいただくものであるということは、そういうことではないかと思います。 そしてペテロはこの短いところで、「知る」ということばを2節でも3節でも使っています。大切なことは知ることだとパウロは語っています。あなたがたに知っていただきたいと使徒の働きの中でもパウロは叫んでいます。 戦争が終わったことを知らないと戦場の兵士は、安心して眠ることができません。知ることこそ大切であります。そして何を知るのかが、やはりこのところでも大切になってまいります。 キリストの栄光と徳によって召してくださったということを知ることだと3節にペテロは書いています。 イエス様は天で栄光をお持ちになり、無から有を造り出すお方であり、時間と空間を越えておられるお方であります。このお方の栄光に比べたら、太陽でさえマッチの火のようなものでしかありません。 でも人間としてのキリストは、主なる神に徹底して従順であられました。 今朝もピリピ人への手紙の2章を読んで礼拝がなされましたけれども、イエス様が主なる神のみこころに徹底して従順であられたがゆえに、イエス様が十字架の上で血を流して、罪を贖ってくださいましたから、罪が赦されました。復活してくださいましたから、罪のからだが滅びて、キリストのいのちを受けたと知らせられます。 「知る」ということがなぜ大切なのか。知るとありがたいと思います。そう思うと聖霊が私たちの上に注がれます。そして私たちは恵みの中に導かれるのだとみことばは記しています。 みことばを聞いて、知って悔い改めるなら、私たちは平安をいただきます。恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますようにとペテロが書いていますけれど、それは知ることによってだと書かれていることに注意をしたいと思います。 全てはキリストにのみあります。 (テープ A面 → B面) ・・・全てはキリストにある。 コロサイ人への手紙の3章の11節の中で、キリストがすべてだとパウロが書いていると最初に申し上げましたけれど、私たちにとって、本当にキリストがすべてなのでしょうか。 私たちの生活は、いのちと生活は英語では同じ言葉です。同じ「Life」がいのちであり、生活です。 私たちの生活は本当にキリストのいのちにふさわしい生活になっているのでしょうか。キリストを愛して、みことばに従っているのでしょうか。キリストが何を求めておられるのかを心にいつも繰り返して問うているのでしょうか。 キリストがすべてである。聖書全巻はやっぱりこのことばにある意味で尽きるのではないかと思います。キリストがすべてである。 ありがとうございました。 羽石兄メッセージ 今年も宜しくお願いいたします。 マタイの福音書の13章の45節と46節を最初に拝読させていただきます。 マタイの福音書13:45-46
という個所です。この良い真珠ということばの意味について、短い時間ですけれども、ごいっしょに考えさせていただきたいと思いました。 おそらく二つの意味があるのではないかと思うのですけれども、一つの意味は、私たちひとりひとりの人間であります。 この45節を見ますと、この文の主語は天の御国であって、述語は商人であります。天の御国は、商人のようなものだ。 すなわち、ここで言われている商人というのは、ほかならぬ主イエス様ご自身であります。主イエス様は私たちひとりひとりを買い取るためにすべてを投げ打ってくださったということです。 私たちは自分が罪深い者であり、弱い者であり、本当にどうしようもない者だということを自覚しております。 けれども、旧約聖書のイザヤ書の43章の4節には、 イザヤ書43:4
というふうに記されているのであります。 主イエス様は私たちひとりひとりを、あるいはその集合としての教会を買い取るために、ご自身、十字架の上ですべてをささげてくださったということです。 エペソ人への手紙の5章の25節から27節ですけれども、次のようにございます。 エペソ人への手紙5:25-27
とあります。イエス様がご自身をささげてくださった目的が二つあるとここに記されています。すなわち、教会をきよめて聖なるものとするためであり、もう一つは栄光の教会をご自分の前に立たせるためだということであります。 ご存知のように、真珠はほかの宝石と異なった性質を持っております。それは、ほかの宝石が土の中から採り出されるのに対して、真珠は傷付いたあこや貝の中に育まれるということであります。あこや貝の中に成長し、完成される。これがほかの宝石と異なっております。 同じように、この教会も実は十字架の上で刺し通され、傷付いた主イエス様の中に育まれるものだと言えるのではないでしょうか。テモテへの手紙第Iの3章の15節にこのようにございます。 テモテへの手紙第I、3:15
とあります。主は教会をきよめて聖なるものとするため、また栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためにすべてをささげてくださった。 そして神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台であると、このテモテへの手紙第Iの3章の15節にございます。 真理の柱。すなわち、主イエス様の証しを柱として、あるいは土台として私たちひとりひとりが支えなければいけない。その意味で私たちが大変な責任があるということであります。そしてその事実に私たちが気付くときに、私たちは本当に厳粛な気持ちにさせられるのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録3:12節を読ませていただきたいと思います。ここにも、 ヨハネの黙示録3:12
というみことばがございます。前のページの9節から読ませていただきますけれども、 ヨハネの黙示録3:9-11
そして12節。 ヨハネの黙示録3:12
とございます。主が私たちを見いだしてくださり、私たちのためにすべてをささげてくださった。それは単に私たちを赦し、私たちに永遠のいのちを与えるためではなくて、ご自分の栄光の教会を、御前に立たせるためだったということであります。 良い真珠ということばの第二の意味は、おそらく私たちの内に実現する神の国だと言うことができるのではないかと思います。 同じヨハネの黙示録の22章の10節と11節をお読みいたします。 ヨハネの黙示録22:10-11
私たちの生きている今の世の中は、加速度的に悪いほうに傾いて行っているというのが私たちの実感ではないでしょうか。 けれども私たちの教会の中も実はかつて、シモン・ペテロがふるいにかけられたのと同じように、さまざまな試練を受けなければならない時代に来ていると言えるのではないかと思います。 それは私たちひとりひとりが本当の意味で主を愛しているか。あるいは、本当の意味で主を信じているか。そのことを主はこの難しい時代に問うているのではないかと思うのです。 そして主イエス様が私たちのためにすべてをささげてくださったように、私たち自身も実はすべてを主イエス様に明け渡すことを要求されているのではないかということであります。 もう二ヶ所ほどお読みして終わりますけれども、 ヨエル書2:12-14
私たちに求められているのは、表面的な口先だけの悔い改めではなくて、私たちの生き方を一変させるような、真実な悔い改めであります。 そして真珠が傷付けられたあこや貝の中で静かにゆっくりと育まれるのと同じように、主イエス様も私たちの引き裂かれた心の中で形造られていくと言えるのではないでしょうか。 ガラテヤ人への手紙4:19
ということばがございます。 私たちのうちにキリストが形造られるとき、私たちは初めて聖所の柱となることができるのではないかと思います。 マタイの福音書の13章の45節と46節から学ばせていただきました。どうもありがとございました。 野口兄司会 ありがとうございました。 確かにこの悪い時代にあって、イエス様の救いの灯を灯し続けることは非常に困難です。集会は必ずしも、建物は必要としませんし、組織も十分ではないかもしれません。 けれどもその中に、イエス様のすばらしい栄光が満ちているから、人々はそれを求めて集まって来るのではないかと思います。 この集会を守るためには、多くの柱が必要であり、屋根が必要であり、壁が必要です。柱や屋根や壁は私たちひとりひとりではないでしょうか。 そしてひとりひとりがこのイエス様の大切な祝福と徳を守り続ける。そのような意識を持つ必要があるのではないかと思います。そのためにこそ私たちはますますきよめられ、整えられ、遣わされなければならないのではないかと思います。 もしあなたがこの集いの中に招き入れられ、そこで温かいものを感じることができたとすれば、おそらくそれはだれかが壁になり、寒さを防いでくれているからなのです。 もしあなたがこの集まりに加えられて、傷を癒されることがあったとすれば、それはだれかが屋根になって、雨をしのいでいてくれているからなのです。 ですからどうぞ、もしこのどこかに、壁に破れているところがあることに気が付かれたら、何だ、壊れているではないかと大声で非難するのではなくて、どうぞ、あなたご自身がその破れをおおってくださるようにお願いしたいと思います。 集会とは組織でもなければ建物でもありません。ただイエス様の愛によって結び付けられた私たち信者の集まりであります。愛は多くの罪をおおいます。 しかしこの愛が働かなくなったときには、あっという間に私たちの集まりは散らされてしまうでしょう。そういうことにならないためにも、私たちは本当に心からへりくだり、主の前に自分の歩みをもう一度見直す必要があるのではないかと思います。 今日から始まる新しい一年の日々の歩みにあたって、本当に互いに愛し合い、重荷を負い合う、そのような交わりを続けることができれば本当に幸いではないかというふうに思います。 |