引用聖句:ヨハネの福音書18章37節-38節
こんにちは。大阪のキャンプっていうと、なんとなく、毎年誘われる様に参加させて貰っています。 どうしてかって良く分かんないんですけど、僕は、兵庫県川西市、能勢口(のせぐち)、大阪の人でないと読めない字なんですけど、に住んでいてい、戦後、父の仕事の関係で、昭和22年に東京に移ったんです。 早くも僕は大阪にいる時に、死ぬってどういうことかって、一つの経験ていうか、一つの現場をみさせられたんですね。 どういうことかといいますと、戦争が終わった後、非常に社会が混乱していて、私は、川西の幼稚園に通っていたのですけど、その幼稚園にある時、突然、包丁を持った錯乱者が入って来たんですね。そして、何人かの園児を刺し始めたんです。 丁度、池田小学校と同じ事件を、僕は目の当たりに見たんですね。丁度それが、確か五歳の時だったと、思います。 人間の死ぬっていうのは・・・怖いというか・・・アッという間というか何というか、恐ろしいということを通り越して、ただ唖然と見ていたのを覚えているんですね。 僕その前に、確か三つか四つだと思うんですけど、大腸炎という非常に辛い病気になりまして、当時薬もなくて、この人、というか三つですから、この坊やは、一日か二日持てば良いだろう、と言われていたんです。昭和19年の時だったと思うんですね。 当時、下痢をしていると、牛乳を飲ましちゃいけないんらしいです。医学の鉄則らしいんですけど、どうせ、ダメんなっちゃうんだったら、一回、逆療法で、ミルクを飲ましてみようか。なんて言って、そしたら、生き返っちゃったんです。 その話を、戦後親父とお袋から、何回も何回も聞かされて。一つの命が続くケ−スと、一つの命が絶たれるケ−ス、本当にそういうのは一瞬のうちに決まってしまうと思ったんですね。 で、決まってしまうその一瞬は誰が支配しているのか?っていうことなんです。 私は、それからもうずうっと、自分の仕事が非常に忙しくなって、死ぬという意識が非常に薄くなって、聖書に出会ってから、もう一度、自分は死ぬということに、直面しなければならない時点になったんですね。 で、聖書、読まれる方は、必ず、目に留まる箇所ですけれども、ロ−マ人への手紙の6章23節に ロ−マ人への手紙6:23
と、書いてあるんですね。 で、日本の、だいたい、誰もそうだと思うんですけれども、罪って意識をあんまり持つことをしない。で、死ぬって事を非常に曖昧に考えて行く・・・。そういう傾向があると思うんですけど。 一体自分は、死ぬってどういうことなのかなってことを直接考えなくてはならなくなったのは、私は聖書に出会ってからなんですね。 私は今日のピラトの記述、読みましたけれども、聖書を通して考えて頂かなければならないことが一つだけ有るんです。それは、もう、一にも、二にも十字架に目を留めて頂きたいんですね。 十字架から目をはずす時に、わたし達は本物が見え無くないります。 今、私達が死を曖昧に考えていくということは、十字架ということを横に置いて、それなりに生きていこうという考え方なんじゃないかと、思うんです。 私は、何故人間が死ぬのか?、ということと、十字架は「あぁ、自分の為だったんだ。」と、受け取り初めてから、すごく楽になったんですね。 で、楽になるんです。何故、楽になるかというと、わたし達に、何が正しいか、何が間違っているか、これを十字架は教えてくれているからです。 この記事を読むと、僕、滑稽だと思うんですよね。まもなく死のうとしてるイエス様が毅然としているんですよね。ハッキリと言っている。そして、当時の行政官であるピラトが、もうオタオタ、オタオタ、している訳ですよね。 自分はあなたを征伐する権限を持っているんだぞ!弱い者に限ってこう、えばるんですね。そういうような記事が出ています。 私は、イエス様はたずねられた、「真理に属するものは、みな私の声に従います。」と、いうことをどうしても心に留めて頂きたいと思うんです。 どうしてかっていいますと、今、私達の世界は実に混乱していて、不透明でメチャクチャな時代に入っていると思うんですね。だから、人間が何を信じて良いのか、全く分からない時代に入っている。 本当のことが見えなくなると、人間はとっても不安になります。正しいことが分からなくなると、全部のことが自分中心になっていきます。これは、間違いないことです。 だから私達は、本物ってなんだろうな?って、もし、心に留めることが出来る様になれば、本当に素晴らしいことだと思うんです。すごく大事な時代に、僕らは生かされていると思うんですね。 卑近な例ですが、今、政治は混沌としていて、秘書のなんとか問題とか、色々やってますけども、私達の社会に、最も必要なもの、最も解決しなければならないことを、こういう、ある意味では小さいことに目を留めて、一番大事なものを見させない様にしているというのも、真理からはずれている大きな流れではないかと思うんです。 で、十字架と私達の今の世の中というのは、一見、別々の様に見えますけれども、私達の行き方の中にキチンと心の中に意識を持ち始めると、私達は、本当のことが見えてきます。 だからイエス様は「真理に属するものは私の声を聞く」と、仰ったのですね。 私もそうですけれども、聖書に出会うまでは、世の中の色々な問題点を、自分と直接関係ない問題が出てきますと、いつも外野席から、あれが悪い、これが悪いとか言って、第三者的に言って、それでことを済ましていた。そういう生き方を、ごく一般的にしてきたと思うんですね。 でも、聖書に出会って、・・・十字架が・・・自分の為だったんだということを心に留め始めますと、つまり光が当たりますと、自分の罪の性質と、社会の関連性について非常に真剣に考え始めます。 人の罪のゆえに起こってしまう事件。人の対応の難しさ。解決の厳しさを教えられて来ます。それから、どうしてこの様なことが起きるのか。相対的に、疑問視始めます。 私は一生懸命働いているのに、一生懸命勉強しているのに、どうしてこんなことが起こるのか?そういうことも、段々段々、切実な問題として浮かび上がって来ます。 でも、聖書は私達に一つのことを教えているんですね。必ず、十字架を見て下さい。 ヨハネの福音書1:29
私達はイエス様がどいう方で、言うことをされたのか、余りくどくど言っても何も力になりません。 しかし、イエス様が私達にとってなんであるか、ということがハッキリ分かった時に、私達はそれが解決になっていきます。 「見よ、世の罪を取り除く子羊」という表現で、イエス様を紹介しましたけれども、これは、「私達を罪の奴隷から解放して下さる方」、という意味です。 イザヤ書を、ちょっとみて下さい。53章。この場面を一つ裏付ける600年前の預言が、イザヤによって語られているんですよね。で、イザヤ書の53章というのは、聖書を読まれると、誰でも一度は立ち止まる箇所です。特に6節。 イザヤ書53:6
私たちの罪、私たちの不義、そういうものを全部、イエス様の上に置いてしまい、彼が打ちのめさえれることによって、私たちの罪とか不義が一切なくなる。 あの十字架で、息絶える・・・その姿こそが、私たちの罪の問題の解決である。聖書はそういうふうに、私たちに言ってるんですね。 私はこの記事を読んで、「そんな馬鹿なこと有るか!」と思ったんですね。 色んな罪、問題点をそんなに簡単に解決されてたまるかと、思ったんですね。でも無条件に、この言葉を受け入れて、「あっ、そうですか」というふうに信じて歩み始めた時に、主が私たちを変えてくれます。 変えてくれる第一歩に、私たちの心に「十字架、ありがとう。」という気持ちになっていきます。そしてこの十字架のみわざは、あらゆる人の罪を救うと書いてありますが、一つの事例として、ルカの福音書にこういう記事があります。 こういう記事読みますと、人間の救いというのは人間の努力ではなくて、本当に与えられる恵みそのものだと、思うんです。 私たちは、意識して悪いことをしたり、無意識で悪いことをしたりしますけども、その問題の根本である罪を自分の地上能力では解決しないんですよね。 ちょっと長いんで途中からお読みしますね。39節から、 ルカの福音書23:39-43
この世の中で犯した刑法上の問題点で、私たちは物理的に裁かれます。 けれども、私たちの中にある、問題を起こす罪の性質は、私たちの努力では解決できないんですね。でも一つの悔い改めが、イエス様によって許されることになりました。 ある意味では、聖書の矛盾と言えば矛盾ですが、どんな人でも救われると、書いてあるんですね。それは、十字架の血潮によってです。主、ご自身が打たれることによって、私たちの罪が取り除かれる。そういう姿に慕いもとめてゆく、そのイエス様の素晴らしさの中に、私たちの信仰の根元があります。 パウロの言葉を引用したいと思います。 ピリピ人への手紙2:6-8
私たちが、よく、問題に苦しんでいる時に、どんなに状況の説明をしても、全然慰めにならんない時ってありますよね。私たちが、本当に辛く悲しんでいる時に、色んな励ましや、美辞麗句を並べられても、ちっとも力にならない時があります。 でも、主ご自身が、こういうふうに謙遜になられ、主ご自身が、私たちの様なものと一緒に歩いて下さり、主ご自身が、こういう犠牲をしてくださったんだという、十字架に心を留める時に、私たちは新しい力を得ます。それを聖書では、命といういい方をしています。 こんな私たちの為に、十字架について赦されたんだ。このメッセ−ジがあるからこそ、私達は今自由であり、喜んでいて、そして、感謝して毎日を送ることが出来るんじゃないかなって思うんです。 いきなり聖書を読んで、僕、十字架っていうのはなっかなか分からなかったんですけど、「あっ、聖書って、主って、何を自分に何を言いたいのかな?」って考えを変えた時、少しずつ、なんか氷が溶けて来たように、分かりかけてきたんですね。 実は十字架は、三つのことを私たちに簡単に教えようとしてるんですね。 その一つとは、人間ていうのは、徹底して悪いんだということですね。 人間ていうのは、あくまでも罪があって、罪人であって、それはもう人間の力では直せないんだということを、聖書は十字架を通して言おうとしているんじゃないかと思います。 だから二番目に、十字架の赦しが、人間一人一人にどうしても必要になって来るんですね。 で、最後に、私た、人類が生きる為の課題を、私たちに訴えているんじゃないかと思うんです。 今、兄弟が読んで下さったヨハネの福音書の13章、イエス様がお弟子さん達の足を洗うというのがありましたが、やっぱり私たちは、難しくても互いに愛し合うというのが「十字架」から流れてくる、メッセ−ジではないかと思うのです。 そんなに人間て悪くないでしょうって思いがちですけれども、例えば、創世記の6章、これは、主なる神が私たちに語った言葉です。 創世記6:5
私たちがモノを考える時に、「これは正しいからやりましょう。これは、間違っているからやめましょう。」、そういう情報分析をしてから行動に移りますけど、問題は、判断する人間に非常に問題があるわけですね。 で、聖書はそれを知っといてくださいって、書いてあるんです。それが良いとか悪いとか書いてあるんじゃなくて、人間はそういうふうに生まれてきているんですよと、書いてあるんですね。 エペソ人への手紙、これはパウロの言葉ですけれども、エペソ人への手紙2章。パウロという人は、ハッキリ、文書で書いています。 エペソ人への手紙2:1
あなたは、自分の罪過と罪の中に死んでいた者である・・・ エペソ人への手紙2:5
卑近な例ですけれども、私も自分が悪いということをなっかなか認めたくなかったんですね。しかたなく、主なる神は私に大きな病気を与えました。そうすると、一つのポイントがまた、見えてくる様になります。 エペソ人への手紙2:4
その大きな愛の故に、云々・・・と書いてありますね。 徹底的に、私たち一人一人の名前を呼んで下さり、徹底的に私たちを愛される神は、私たちの不必要なものを削り取り必要なものを与えようとなさいます。 その為に、私たちは、イエス様から受ける全てのことを受け取る必要があると思うんですね。 で、二番目に「十字架」は、私たちに赦しを与える為になされた、神のみわざです。私たちは、正直に悔い改めないと、曖昧に生きていると、相変わらず苦しい生活をしいられます。 十字架上で叫んだ犯罪人は、自分の悔い改めで、やっと自分が解放されたんですね。それは、正しい悔い改めだったんです。 イエス様の「十字架」は、人間一人一人が正直に主の前に立って下さいという、メッセ−ジなんですね。私たちはその前に、何が正しいか何が間違っているか、考えれば良いんです。 私たちの中ではいつも頓珍漢で、間違ったことばかり考えるんですけれどもそれを、越えた所に、「十字架」はあると思うのです。 ヨハネの手紙第I、3:5
ヨハネの手紙第I、4:9
私たちが十字架の赦しを受けると、イエス様から聖霊を通して新しい命が流れてきます。何故か、凄く嬉しくなります。今まで自分の中から出てきた肉の喜びじゃなくて、「あぁ、生かされている。」、そういう喜びが、溢れてきます。 ロ−マ人への手紙5:8
十字架を通して示された愛。私たちって、人間の努力の中ではなかなか、お互いに愛することって出来ないと思うんですよね。でも、私たちが主の霊によって変えられる時、私たちは、新しい行動に向けられて行きます。 クリスチャンだからと言って、みんな人を愛しているわけじゃない。やっぱり何時も、私たちの中に古い性質があって、罪というややこしい性質が、私たちの性質を邪魔しよう、邪魔しようとしますから、やっぱり生活の中にも、十字架の大きなメッセ−ジを毎日留める必要があると思うのですね。 確かに、人のことを考えたり、自分のことを捨てるということは難しいと思うのですが、私たちの思いが、イエス様に従いたい、イエス様を本当に信頼していますという心で生き始めた時に、主はその人のことを考えてれると思うのです。 相変わらず、ダメな自分がそこにいますけれども、そのダメな自分を作り変えようとして下さるのは、主であり、そのことにより、また主の栄光が現れるんじゃないか、と思えるんです。 イザヤ書43:7
私達は、主の栄光の為に一つの命が与えられているんですね。イエス様はそれを完全に成就される為に、十字架にかかられました。勿論、ピラトという人も、正しく悔い改めれば、本当に新し命が与えられと思うんですね。 聖書は「真理に属するものは私の声を聞く」と、書いているんですね。「私の声を聞く」ということは、十字架をよく心に留める必要がある、ということなんですね。 もう一度、ヨハネの福音書に戻って、終わりたいと思います。 ヨハネの福音書18章、私たちの内側に、本当に十字架を学んで行かなければ、本当のことが見えなくなります。今の時代は、その象徴的な形です。37節の終わりの方ですね。 ヨハネの福音書18:37-38
これだけ仰っても、ピラトは聞いたんですね。まだ、ピラトに光が当たっていない時です。 救われると、何故人は変わるのか?というと「十字架」が、私たちに新しい喜びと、新しい命を必ず与えてくれます。だから、救われるっていうのは、凄い大きいことなんですね。嬉しいことです。 私は、これから益々難しい時代になると思うんですね。何時も。だから、聖書に心を留めて、どうしてイエス様は十字架にかかられたんだろう?そこに思いが行き続けるときに、必ず私たちは、その場に相応しい答えが与えられると思うんですね。 真理とはなんですか?私たちに今日も問われている大きな質問だと思います。 ありがとうございました。 |