引用聖句:イザヤ書53章10節
おはようございます。 聖書は、イエス・キリストを十字架につけて、死に至らしめることは、主なる神のご計画であった。 イザヤ書53章10節は、多くの人に読まれている、よく知られているみことばです。53章は、聖書の中でも最も解かりやすい聖書のことばであり、福音そのものであり、イエス・キリストが来られる600年前に預言された主の十字架の記事であります。 私ごとですけれども、16年前に倒れた時、心に飛び込んできたのが、この聖書のことばです。それ以降、長い時間をかけて何度も何度も、このことばが私の中に入りました。 ある愛する兄弟も今、僕と同じような病気でリハビリに入られていますけれども、おそらく今まである時間の流れから、突然何も出来なくなるというのは、多分ショッキングだと思うんですよね。 でも、聖書は実に淡々と「彼を砕いて、痛めることは」と書いてあるんですね。「どうして、真面目なあの兄弟が、こういうことになるんですか」と、ちらりと僕は耳に入りましたけれども、それはイエス様しか解からない。一つ言えることは、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」ということです。 人間の目で見ると、私たちから十字架を眺めると、確かに目を背けたくなります。そういう悲惨さが十字架の中にありますけれども、ではいったい人間は何なんだと見た場合に、その人間の中に潜んでいる悲惨さは、私たちの言葉では表現できない大きな問題点を持っています。 今日は、「十字架」ということばを少し考えて、イザヤ書53章から考えてきました3つのことを、まとめて短くお話させていただきたいと思います。 その一つは、主の十字架は、すべての原因が、私たちの生まれつきの性質によることを、私たちに教えてくれています。 2番目、キリストの十字架は、いったい神様ってどういう方なのか、そういうことを私たちに解かりやすく教えてくれています。 そして最も大切なところは3番目、キリストの十字架は、信じる者にとって、その人が義とされ、新しいいのちに生きる道を示してくれました。 十字架は、見ただけでは悲惨さそのものですけれども、主の犠牲として私たちに提示された、その事実から見た場合、大きなあわれみでありまた恵みであります。 一番目からちょっと追いかけてみたいなと思うんですけど。十字架は、すべての原因が私たちの生まれつきの性質によるものであることを、解かりやすく聖書は説明しています。 言葉で言うのは簡単ですけど、人間はあまりにも自分中心で生きてきました。聖書は一つのことばとして、次のようなことを言っています。 マタイの福音書26:56
いざとなると、人間はもう何をするのか解からない。あれだけたくさんの奇跡を見、多くの恵みをもらった弟子たちも、イエス様が十字架にかかられるのを見届けるまでもなく、彼らは逃げてしまいました。 エレミヤは、人の性質は本当に陰険だというふうに言っていますけれども、まさにそのことばを私たちは、そのまま噛み砕く必要があるのではないでしょうか。 人間の中にある憎悪、憎しみというものは、善悪の判断ではもう通じない、一つの恐怖的な行動に移っていきます。 マタイの福音書26:67
どう見ても変ですけれども、私たちはそういう行動を取ってしまう。しかも、イエス様はそれを淡々と受けられたということです。 悪いことにピラトとヘロデは、利害関係が共通したとして、何と仲良くなっていきます。普通、占領軍とその土地のボスは、相たがうものですけれども、聖書は、ピラトとヘロデは仲良くなったと書いてあります。 この地上での生き方の難しさは、私たちが生まれもった性質そのものに、光をあてないかぎりは、なかなかそれを乗り越えることはできません。この冒頭で申し上げた人間が持っている悲惨さは、もし私たちが、僕がそのユダヤ人と同じように、その隊列に加わっているとしたら、やっぱりやってしまったんじゃないかなと思います。 言葉とか態度とか、そういうレベルの違いはあったとしても、おそらくイエス様の方には、心を向けなかったでしょう。そういう人間固有の性質には、人間では解決できないことを、イザヤ書は語ろうとしています。 イエス様を裏切ったユダ、よく読まれているところですけれども、彼は自分のやった恐ろしさに、実は気がつきました。そしてそれを返そうとしました。 マタイの福音書27:3-5
仮にお金を返したからといって、ことが収拾されるわけではありません。罪というのは、私たちが見えるものを解決したからといって、それは本当の解決になってはいないんです。聖書は、唯一解決の方法である、主ご自身に私たちが頭を下げるように仕向けています。 いつも僕たちは、生活の中で絶望状態になることがたくさんあります。でもその時だけではなく、毎日毎日、主の十字架を仰ぎ見ることの必要性が、このユダの中からも私たちは学ぶことができます。 ユダは、持っている肉の性質そのもので解決しようとしましたけれども、主との霊との正しい交わりがない状態では、問題の解決にはなりませんでした。イエス様の十字架は、すべての問題が私たちの生まれ持った性質から起こっていることを、認めざるを得ません。 2番目、イエス様の十字架は、いったい神様ってどういう方なのかということを、明確に表現しています。 イザヤ書53章2節の真ん中に、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、」とあります。すごい力のある人のようには写らなかったということです。 イザヤ書53:3
さんざん人から攻撃されても、ただ父なる神に純粋に従って歩んできた。 ヨハネの福音書17:23
私たちが注目すべきことばがここにあります。つまり、父なる神とイエス・キリストは一つでありました。 ピリピ人への手紙2章、もっとも鮮明に書かれているパウロの言葉は、主のお姿を次のように表現しています。 ピリピ人への手紙2:6-7
イエス・キリストの十字架の死を通して、神を知らなかった多くの人たちにも、主の姿をはっきり描写するようになりました。私たちは、主の十字架を知らなければ、正しく主を捕らえることはできません。私たちは、理論的に十字架を解かろうとすると、ますます苦しくなります。 なぜならばそれは、ことばの知恵によるからです。私たちの古い人が、妨げになり肉の領域で考えようとし、十字架を理論的に捕らえようとします。聖書の主の愛は、そういうものをすべて乗り越えた、完全に人間をご理解されている一つの犠牲そのものであります。 だから、パウロという人は、ガラテヤの教会に「私は、十字架とともに死んだ。今こうして生きているのは、私の内側にキリストがいるからだ。」と仰ったんですね。 これは、十字架を理論的に受け取った人のことばではありません。霊的な交わりの回復によって、新しく主を知った人の証しそのものであります。十字架は、主の愛、犠牲そのものであり、すべての人格の表現であります。 昨日も僕は、御代田で一つの会話を聞いたんですね。十字架を伝えない教会があります。集会があります。教会という言葉ばかり使うと語弊がありますけど、でも聖書はイエス・キリストの十字架が、すべての土台になっています。 私たちがその十字架を通して与えられる赦しがなければ、何もできない。 主は、十字架にかかられた時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」というすごい叫びをいたしました。 イエス様は、徹底して神を愛し、徹底して神に従い、徹底して夜通し祈り、そして主の交わりを続けようとしました。それが切られる時の苦しさ、イエス様の一つの叫びは、何か私たちに、信仰の原点を問うているような祈りではないでしょうか。 人間に求められていること、それは創造主との私たちの関係の回復そのものであります。 ですから3番目、イエス様の十字架は、私たちが古い人を壊し、新しいいのちによって生きるために、どうしても必要なことでした。 だから、イザヤ書は「主のみこころ」という表現を取っています。 英語の聖書で、僕は解かりませんけれど、「pleased」という言葉を使っているそうです。 Isaiah, 53:10 (NKJV)
「喜ぶ」イエス・キリストが十字架について死ぬことを、主が喜ぶという表現は、人間に向けて投げられた非常に象徴的な表現だと思います。 十字架の前は、霊は死に肉だけが生き、だから何でもやっちゃう、肉そのもので自分中心そのものが動いてしまう。でも十字架の後は、信じる人に向かって、内側の霊が生かされ、主を仰ぎ見るそのような力を与えてくれます。元の肉が働かないように、主が導いてくれます。 ローマ人への手紙8:10
人間の堕落により、罪の呪いに置かれた万物が、終わりにキリストが来られて、救いが完成することで、呪いから解放されました。そして再び僕たちは、信じる者同士が主の前に自由にされている姿そのものであります。 だから、イザヤ書53章には、「とりなしている」という言葉を何度も使っています。私たちは、神を喜ばせることができません。 でも私たちは、神を喜ぶことができます。「はい、わかりました。ありがとう。」その喜ぶ心こそ、聖書が私たちに語り続けている一つのことばではないでしょうか。 十字架にかかられる前に、ピラトという行政官は、すごく悩みました。でも結局、彼は真理に立っていませんでした。 いつも自分の肉で、どうしたら自分がうまく行くだろうか、そこにしか思いが行かなかったのですね。だから彼は、苦しみました。結局、人の顔色を見ながら決める、一つの手順は主に反することとして、決定的に彼を追い詰めました。 喜ぶということは、私たちが、何でもご存知であり、何でも責任を取ってくださる主が、私たちの中に住んでいらっしゃる、そのこと自体が私たちの大きな喜びであります。 十字架というのは、私たちに投げられた最高のメッセージですけれども、一つは赦されている。もう一つは、これからもとりなしてくれている。この二つの大きなポジティブなメッセージが、イザヤ書53章には秘められています。 十字架だけで、説明が終わると、ちょっと危ないです。 マルコの福音書14:28
聖書は、イエス・キリストが復活することをはっきり明記しています。だからこそ、助け主が私たちの心に注がれる。だからこそ、私たちが見えない主に依存しながら、生き続けています。 こういう大きな流れを、今から2,600年前に、主が語られたというのは、驚くべき事実であり、驚くべき感謝であります。 結びとなりますけれども、イエス様の十字架は、終わりではありません。私たち人類に対するすべての罪の解決が、完了したわけであり、新しい私たちの歩みのスタートであります。信じることただ一つの私たちの信仰によって、新しく生きるいのちが注がれる大きな分岐点であります。 イザヤ書53章に戻ります。 イザヤ書53:5-6
ここで、主の交わりが復活するわけであります。12節の後半は「そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」 たくさん間違いを犯します人間は、誤りも起こします。解かっていても気がつかないミスがたくさん起こります。でもすぐ、私たちに向けて発せられたことは、主を仰ぎ見ましょうということです。 であるならば、そむいている人たちのとりなしも、主がしてくださるということです。私たちは、聖書のことばを大いに感謝して、また読み続けていきたいと思います。もう一回お読みします。 イザヤ書53:10
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