祈りと聖霊の働き


野田繁兄

(藤枝家庭集会、2000/10/15)

引用聖句:使徒の働き1章14節
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

今日は使徒の働きから、「祈りと聖霊の働き」についてご一緒に考えさせていただけたらなと思います。
いろんな所で今、祈り会が行なわれています。たぶん私たちは救われるまでは、「正しい祈り」というものはやってなかったと思うんですね。ほんとは「祈り」は、祈りではなくて、「願い」であり「つぶやき」であり、「愚痴」であり、「ああやって欲しい。こうなって欲しい。こうして欲しい。」、そういう連続を、ただ単に言葉であらわしていただけじゃないかなと思うんです。
正しい祈りは、どこまでもイエス様を基準にして、自分を合わせていかなければ何にも祈りの働きが実らない。私たちの内側にイエス様を救い主として受け入れて初めて、祈りはじめる時にそれが具体的な実となって出てくるんじゃないかと思うんです。
だから、イエス様に出会った初代教会の人たちは、「みな心を合わせて祈りに専念していた」、と書いてあります。

私たちの会社で、実は夏ぐらいから祈りのリストが出るようになったんですね。各自の端末から、あのサーバーに自分の祈りたい名前を入れまして、それを会社の人がアクセスすれば、いつでもそれを見れるようになってる、祈り合うことができるんです。
一つだけ注意しなきゃいけないのは、よく僕も前、経験があったんですけども、その自分の嫌な部分ってありますよね。その嫌な部分を、知らない人がいつのまにか、何て言うか大きな声だして祈り合っているというのは、少し気持ちが悪いというか...
だから、祈りの内容と課題についてはやっぱり、かなり気をつけながら祈り合う必要があると思うんですけど。「祈りのBOX」というのは、今私たちの中でとても役に立ってまして、具体的に祈り合うと、それがはっきりとした効果が出てくるんですね。

使徒の働きのこの記事は、実は2つのことが出ています。1つは「心を合わせて」。もう1つは「ひたすら」っていうところ、続けて祈ったっていうところなんですね。
私たちが祈り合う時に必要な条件が2つ。もう、本当にしつこいほど祈りなさい。そして心を一つにして祈りなさいって書いてあるんです。なぜならば、使徒の働きは、聖霊の働きの歴史であって、私たちは主の御心をさぐりながら祈る時に、結果として聖霊の働きをお願いするような動きになるわけです。

僕は今、聖歌の404番を歌いましたけど、実は私が20年ぐらい前に、23年前に集会にはじめて行きました時に、この404番っていうのはよく歌われていたんです。
あの特別伝道集会なんかがありまして、水曜から日曜までぶっ続けであるんですね。今そういうのないんですけども、他からお話をしてくださる方をお呼びして、水・木・金・土・日って、ずっとメッセージが続くんですね。
その時に必ずといっていいほど、この404番のリクエストが入りました。私は一つだけわかんなかったのは、その「帰ってきなさい」っていう言葉なんですよね。
なんで僕らがそのそういうことを言われなきゃいけないのかってことが、すごくよくわからなかったんですよね、歌を聴いてても。「帰れ」ってとこですね。今、救われて考えてみますと、初めて主の前に、自分は駄目なんだというふうに頭を下げ、初めて祈りはじめた時に、帰るという意味が非常にはっきりわかるようになるんですね。

もともと人間というのは、自分勝手な行動してるということを、私たち自分自身で理解しておりません。だから光にあたって十字架を知って、そしてそれが具体的な形で教えられてくるんですけども、そういうことを体験した初代教会の人たちは、本当に一生懸命祈り合ってくれたんですね。
もうちょっと後の、2章の例えば4節。聖霊って言葉が出てきますけれども、「すると、みな聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる通りに・・・」って書いてあります。祈り始めた時に、私たちの中に大きな変化が出てきます。

おそらく、ドイツで救われたれ兄弟は、たくさんの人が祈られていたと思うんですね。本人も、問題が何かということが、たぶん啓示されてきたんだと思うんです。だから、非常に「ドイツ」という場所と時間が、彼の救いに対してちょうど一致していたところだと思うんです。
みんなが一生懸命祈って、そしてご自身がそれをキャッチした、それこそ聖霊の働きそのものだと思うんですね。私たちの周りにも、吉祥寺にもたくさんの家庭集会があって、たくさんの祈り会がありますけども、確実にその一つ一つ祈られてることは実っていってるんですよね。
その時に必要なのは、自分の願望を言わないで、主の栄光をあらわす祈りでなければいけないということなんです。

集会の兄弟たちが、今大変な病気になってます。医学的に言えば、殆どもう治ることは無理だと思うんですね。どうしてあんなに、まじめに一生懸命この世の中で生きていた人に、どうしてこういう難しい試練を与えるんですか?単純に僕は質問をだしたいなって気持ちになるんですね。
でも、主のなさることは私たちの領域以外のところです。一つだけ私たちに教えられていることは、どちの兄弟にしても、とっても家族が一つになってきてるということなんですね。
私たちはそれを「実」と呼んでいいのかわかりませんが、少なくても私たちの内側には、喜びとして伝わってきます。それはご本人の辛い病気を通して、主がどういう栄光を現わそうかという、具体的な動きの現われじゃないかなと思うんです。

で、私たちが気をつけなければいけないのは、私たち人間がイエス様を導いてるのではない。だから、「帰れ」という言葉はすごく正しいんじゃないかなと思うんです。
イエス様の国が来られた、だから私たちは悔い改める必要がある。悔い改めたから神様が来るんじゃなくて、もうすでにイエス様が来られて、私たちの悔い改めを待っておられる。その前後が私たちの、祈りの鍵ではないかなと思うんです。

ヨハネの福音書15章です。1にも、2にも、3にも、10にも、とにかく私たちが本当に祈って、そして聖霊の働きを願うためには、どうしても一つだけ私たちに与えられてる必要条件があります。それはイエス様といつもつながっているということなんです。

ヨハネの福音書15:4
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

最初に私たちが、イエス様の中に飛び込んでいかなければいけない。私たちが、意識してイエス様と結びついていかなければいけない。

ヨハネの福音書15:4
4わたしも、あなたがたの中にとどまります。

そうすれば、イエス様は私たちの中にいてくださいます。

ヨハネの福音書15:4
4枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

昔は僕、聖霊って言葉は本当によくわからなかったんですね。何かその、宗教的なマジックのような言葉に聞こえたんですけども、私たちが単純にイエス様の前に頭を下げて祈りはじめる時に、状況が変わってくるんですよね。
変わってくるためのエンジンというか、力、主の働き、それが聖霊だと思うんです。見えないからわかりませんけれども、私たちがどれほど素直になるかということを考えて要求されるのが、聖霊じゃないかなという感じもいたします。

ヨハネの黙示録の3章の20節。ここも、私たちがイエス様につながるための、私たちの意思を訊ねているところがあります。

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

「食事をする」というのは、よく私たちが集会で使う「交わる」という言葉と同じ意味なんですけども、静かに私たちが目をつむると、本当にイエス様が語りかけてくれているなということがよくわかります。
それを意識して受けとって、「はい」って答えた時に、私たちはイエス様とのパイプがつながっていきます。私たちがイエス様とつながる時に、具体的に聖霊が働いて、その祈りに答えはじめられます。だからイエス様は生きているんですね。

昨日は、横浜の平戸という所の家庭集会に伺ったんですけども、驚いたことにかなりの初めての方がいらっしゃたんですね。私は、自分で最初に集会に行った時の心理状態を考えた時に、本当にすごいなと思ったんです。
それは、本当に何が起ってもおかしくないような時代に僕ら生かされてますから、そういう一人一人の気持ちの中に、何か本物をつかみたいなって気持ちがある現われだな、と受け取りましたけども、それにしても、たくさんの初めての方がみえました。
たまたま僕のテーブルにおられた方は、奥さんは、「この集会もいいのよね。なんか、歌うと涙でちゃうの。だから、来ちゃうの。」なんて言って、来てるんですよね。
で、来る動機は僕はわかりませんけれども、何かその内側に、魂の飢え渇きを持っているんじゃないかなと思うんですね。確かにその話をしちゃうと、すごく自分の立場を主張されますので、どうしても平行線になっちゃうんですね。
こういうものがいいんじゃないか、こういうものがいいんじゃないか、でも聖書の、私たちに伝えることは、議論ではなくて、知識ではなくて、やはり「いのち」だと思うんですね。

ヨハネの福音書6:63
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

私たちは、全部聖書を十分に読み通したとしても、聖霊っていうものはどういうものか、私たちには理解することはできません。でもイエス様を無条件に受け入れて、頭を下げて、歩みはじめる時に、自分の内側を振り返ると、間違いなく変化が起きていることに気がつきます。
たとえば、おおきな問題がいつのまにか小さく見えてくることです。そして知らずに重荷を持ってる人に祈り始めます。そしてもう一つ大きいのは、自分の中にある喜びを、少しでも伝えたいと思うようになります。
私たちの罪は、どんなに努力しても、なくなるものではありません。

エペソ人への手紙の4章。初代教会のクリスチャンたちは、ひたすら聖霊の働きを待ち、ゆだねそして祈りました。なぜなら聖霊の働きがあると、事態が変わるということを彼らは経験していたからなんです。それはまさしく恵みだと思うんですね。

エペソ人への手紙4:3
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

今、中東ですごく険悪な状態になってきてますけども、私たちのごく身近な社会、家庭や、学校や、あるいは会社でも、なかなか一つになるということは難しいと思うんですね。
でも聖書は、一つになることを「可能である」というふうに書いてあります。そのためには、どうしても私たちの内なる人を、主の霊によって強められる必要があります。なぜかというと、私たちの内側はとっても弱くて、何か問題点があるとすぐその問題点に同調していく傾向があるからです。

ガラテヤ人への手紙の5章。残念ながら私たちの内側には、切っても切れない捨てられない性質がたくさん残っています。たとえば、

ガラテヤ人への手紙5:19-21
19不品行、汚れ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

今テーブルでも話がでたんですけど、たとえば偶像礼拝。私たち日本人は、テレビが偶像礼拝になってますね。ベック兄はよくおっしゃいますけど、とにかくテレビを見ます。テレビが自分の生き方、あるいは考え方、あるいはツールになってきます。
時々チャンネル回しますと、もう理解できないような番組が、夜たくさんありますね。なんでこんな番組を平気で流すんだろう、と思うような番組がたくさんあります。ただ単に視聴率をあげるためにテレビ局は一生懸命やりますけども、結果的にそれが僕らの偶像礼拝という恐ろしい、何ていうかイエス様をこう拒んでいく一つのパワーになってしまうんですね。

それぞれ、書いてあります言葉の意味の中に、私たちの生活の中で具体的に出てくる形がたくさんあるんですけども、そういう肉の性質がいろんな問題になった時にすぐ表面化していくわけですね。
私たちのために、いのちを捨ててくださったイエス様のことを、ただ単なる知識でつとめてしまっては、私たちの内に変化を起こすことはできません。でも私たちの内側の肉を殺すことによって、新しいいのちが働いた時に、私たちができなかったことが可能になってきます。

ガラテヤ人への手紙6:14
14この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

ただ単に、聖書をキリスト教として学んでしまえば、「主が私たちのためにいのちを捨てた」という単なる知識に終わってしまいます。でもそこからもう一歩進んで、イエス様に心から祈りはじめた時に、私たちの信仰は祈りを通して正しい信仰に導かれます。
それは、聖書でいう聖霊の働きにゆだねる行為になるんですね。私はなぜ、前の会社でもそうなんですけども、会社で一致ができなかったのか、どうして今の会社で祈り合ったら一致ができるのか。ずいぶん考えておりました。

自分の主義とか考え方をま適当におさめると、妥協ができて一致ができるんですね。この辺でいいだろうと。ところが人間は非常にわがままなもんで、その主義主張に段々段々幅が出てきます。幅が出てきて、そのずれが大きくなったところで、分裂が出てきます。イエス様がどっかに、いなくなってしまいます。
一人一人は十人十色ですから、私たちの中に一致をすることは原則としてできません。でもイエス・キリストによって、私たちは一致することができると、エペソ人への手紙に書いてあります。
なぜならば、十字架の血潮で赦されて、私たちが同じ立場で主の前に立ち、そして生かされていることを知ることができるからです。だから、私たちはイエス様の前に立つと、すごく自分が小さくならざるを得ません。ならば、必ず一致が出てくると思うんですね。

初代教会の人たちが祈り合ったというのは、何がイエス様の御心かということを、真剣に求めはじめたからなんですね。だから具体的な形に結果として出てきました。

ローマ人への手紙8章。私たちはよく祈っていて、知らない間に自分の願望が微妙に入ることがあるんですね。一生懸命祈っていても、知らないうちに自分の願いだけを言ってしまって、主人公が自分になってしまって、主の栄光から外れていく祈りになることがあります。
それは正しい祈りではありません。

ローマ人への手紙8:13
13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

生まれ持った性質を、あるいはすべてを十字架にかけて殺さなければ、私たちは御霊の働きを受けることができません。今までの古い生活を離れないで、霊的に豊かになろうとすることは、基本的には不可能なことです。
一番わかりやすい話が、マタイの福音書の19章に出てきます。何で、苦しいとこを通られてる方が強いかっていうと、ご自分の無力さをやっぱりご存知だからだと思うんですね。同時にその問題の重さを正直に受け取れるからじゃないかなと思うんです。
でもそれは、無理してできることではありませんので、そういう時がくればそういう導きが必ずあると思うんですね。自分自身も決して嫌な経験をしたくないと思う一人なんです。

マタイの福音書19:16-22
16すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
18彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
20この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
21イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
22ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

財産を持つことが良い悪いっていうことを書いてあるんじゃないんですね。私たちの古い性質を捨てて、それを新しいいのちに変える決心が、やっぱり必要なんですね。
「自分の考え方や、生き方、知識、経験を、何一つ失わないで、それを別に置いて、永遠のいのちを欲しい。」というのは難しいですよ、と聖書は書いてあるんです。それは聖霊の働きができませんと、書いてあるんです。
よく、どうも聖書は難しいんで、もう集会行くのはやめますとか、何かみんなすごく立派な祈りをするんで、自分はできないからもう集会に行きませんとか、自分は何かこう、神の恵みに入りたいんだけど、どうもみんなと違うんでやめますとか、そういう方がよくいらっしゃいます。
でもよくお話を聞くと、何か自分の大事なものをちゃぁんと取ってらっしゃるんですね。イエス様はそこに必ずスポットライトを当てます。苦しいとこを通った方が強いというのは、彼の内側に何もない、それをイエス様がご存知だからなんですね。
自分のものをしっかり持ってしまっては、なかなかイエス様の正しい働きができません。だからイエス様はこういうことをおっしゃたんじゃないかと思うんです。

マタイの福音書7:13
13狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

決してイエス様は難しいことをおっしゃてるんじゃないんですけれども、私たちの、どこに立つかという正しい立ち方をいつも探っておられるなっていう感じがします。
ドイツで救われた兄弟は、おそらくいろんな悩みとか苦しみとかあって、「もう、ここしかない。」という決心をされたんだと思うんですね。確かに真理というのは、2つも3つもあってはおかしいです。2つも2つもある真理ならそれは真理ではありません。
彼はそのことをはっきりと内側に捕えることができたんですね。多くの人間の努力も関係なく、ただ真理だけが一人歩きします。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

初代教会の人が祈り合ったのは、自分たちができるんではなくて、自分たちができないということを知って、主の働きに本当に期待したんですね。

(テープ A面 → B面)

・・・喜びが出てきます。

詩篇37:7
7主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

詩篇37:5
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

私がはじめて吉祥寺集会行った頃は、殆どベック兄がメッセージされていただいたんですけども、今、全国で50ヶ所ぐらいの場所が増えて、かなり地元の方が地元でメッセージをされることが多くなったと思うんですね。
みなさんわかりませんけど、こうやってしゃべる時に、ものすごく恐くなる時があるんですね。聖書の言葉を伝えることってすごい嬉しいなって思うと同時に、何か非常に重さっていうか、そういうものを突然感じる時があるんです。でも、どんどんどんどんそれとは、思いとは関係なしに、集会のネットワークが広がって、今、終わりの時代に向けてますますイエス様はたくさんの人に声をかけようとされてると思うんですね。

私たちは、初代教会の人が本当に静かに祈り合って主の導きを待ったように、私たちも生きて働いてくださるイエス様に、全面的な信頼をおいて、終えていけたらなといつも思わされます。

最後にヨハネの黙示録をお読みします。礼拝の時によく読まれる箇所ですけども、くれぐれも、祈りというものはイエス様の栄光が現わされる祈りでなければ、ただ単なる言葉の連続になってしまうということを、もう一度考えてみたいなと思ったんです。

ヨハネの黙示録1:5-6
5また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
6また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

昨日の方にも、「イエス様は、あなたご自身を愛されてますよ。」、そういう言葉だけ一つお伝えすることができたんですね。
キリストに、栄光と力とがとこしえにありますように。アーメン。
ありがとうございました。




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