引用聖句:コリント人への手紙第I、1章18節
今こうして立たして頂いて感じることは、ただ一生懸命に日程だけをこなして、自分に死んでなかったなということをいつも感じます。 パウロという人は、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力だ。」と言ったのですね。 今日は、「主の祝福を受けるために十字架の道は必要である」というテーマで少しお話させていただきます。 どう考えても日程を消化するために、その中に自分がいたのではないかと思います。そういう感じが致します。 今年の正月に御代田に行きましたときに、前からお会いしている方ですけれども、すごく悩んでおられるのですね。彼は、「どうも集会の方は、元気でリッチで健康そうで、とてもそういう群れには入れない。」とおっしゃる方がいました。 イエス様の十字架によって支えられている人は、問題点の捉え方が違ってきます。私たちはこの世の価値を重んじて生きる生き方と、神を愛し、私たちの内側が神を喜ぶ歩みをはじめた時にはその価値観は変わってきます。 多くの人が問題を抱えながら御代田に来ますけれども、私たちが表面的にそれを捕らえるだけではそれを理解することはできません。でも、一人一人が私たちの内側で、神を愛し、神を喜ぶ歩みをはじめた時に、その発言がだんだん小さくなっていくのですね。 それはイエス様の十字架が、私たちの中で力となり、いのちとなり、私たちが前向きに押し出すときにはじめてそれが可能になってくると思うのです。 パウロの以前の生活は非常に厳しくて、律法的で、知識にも富んだ歩みをしていました。彼に光があたってから、彼はすべて価値観が変えられて、彼の新しい歩みがはじまりました。 最近出た「主は生きておられる」のなかで、ある姉妹の証しを見て、本当にそうだなと思ったのは、19歳になったときに、生きるか死ぬかの大きな病にあったときに、聖書の知識が何も役に立たないと気がついたというのですね。 彼女は日曜学校からずっと教会に行って、ご奉仕をされていたのですけれども、私たちはそのご奉仕が良いとか悪いとか言うのではなくて、聖書が私たちに訴えていること、つまり何故十字架、何故イエス様が私たちのために死んだのかということを、ストレートに受け取っていかなければ、どんなに聖書の中に書かれてあったとしても、それはただのことばに通じているだけではしようがない。 私たちの内側で私たちが死んで、主がその中で働きはじめて、私たちの信仰が生き生きしたものになってきます。 ルカの福音書9章、イエス様はこのようにおっしゃいました。 ルカの福音書9:23
今年も沢山の年賀状をお書きし、又頂きましたけれども、相変わらず厳しい注釈をつけておられる方がおられます。 「私はキリスト教は大嫌いだ。宗教は平和をつくらない。」、そう書いてくるのですね。 そうだと思うのですけれども、それに一つ一つ反論しても空しい気がします。私たちが本当に目が開かれて、十字架というものに直接心が向いたときに、おそらくその人も変えられていくのではないかと思うのです。 どんなことを言っても、どんなに良い文章を書いても、私たちの内側の心の扉が開かれなければ、十字架はなかなか解らない。 三つくらいの設問に分けます。 1:私たちを十字架につける意味はなにか。 2:私たちを十字架につけた結果はどうなるのでしょうか。 3:私たちを何時、十字架につけなければならないか。 パウロという人は、私たちのすべての人間の肉を古い人と言っています。古い人を十字架につけることを、パウロははっきりと言いました。 「古い人は何にも役に立たない。私たちの内側が全部死んで、新しいいのちが流れ込まなければ、私たちは何の新しい歩みもできない。」と、パウロは言っています。 そのこと自体は不思議なことだと思うのですが、私たちは今まで生きてきた価値観でずっと生きてきていますから、まったく違う観点から、それを正直に受け取ることはできません。 コリント人への手紙第I、2:9
解りやすいのは、私たちっていいところがあるんじゃないの?人間にはいい人がいるんじゃないの?という、そういう考えを私たちの基本の中にもっている。 ローマ人への手紙3:10-11
私たち人間は必ずしも悪くない、そういうふうに私たちは少なくとも生きてきました。この世の中の人には良い人もいるよという人の、多くのグループの一人にしかすぎません。 そのことをヤコブの手紙書3章で言っています。 ヤコブの手紙書3:11
新約聖書のヨハネの福音書に、ニコデモという人が出てきます。彼はイエス様に、夜、どうしたら生まれ変わるかということを質問したのですね。 彼はいろいろな質問をしましたけれども、イエス様が「生まれ変らなければだめだよ。」とおっしゃったのですね。 私たちって、よく人間の会話の中で、自分のあるところはとっておいて、自分の願望を人がいろいろなところに主張することがあります。 イエス様はニコデモにはっきりおっしゃったのですね。そのときのニコデモは、自分を十字架に架けることを事実上しませんでした。 私たちがせっかくイエス様のことばが目の前にあっても、私たち自身が存在しているときは、なかなか聖書のメッセージが伝わってきません。 だからイエス様は十字架に架かる前に、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」と三つの大事なことをおっしゃいました。 私たちが自分をしっかり持っているときは、聖書のことばがどうしても力になりません。 パウロという人がコリントの教会に訴えたのは、「滅びにいたる人々には十字架のことばはつまらない。でも救いに預かれば、本当に十字架のことばはいのちになる、力になる。」と言ったのですね。 古い人を十字架につける意味というのは、そういうところにあるのではないでしょうか。 私たちに本当の希望を与えるために、用意されたものそれが十字架だと思います。 私たちを一番厄介な問題に持っていっている内在のもの、それが罪と言うものです。 私たちは良く私たちのやりたくないことをやってしまうことがあると思うのですね。 ローマ人への手紙7:16-17
この罪を解決してくれるのは、聖書から私たちは一つだけ十字架を知ることができます。 私たちは必ず十字架以外に解決があるのではないだろうか、もっともっと別の道があるのではないだろうか、いや、いろんな人に聞いてみよう、必ず私たちはそういう思考回路を作っていきます。 でもそれは留まることのない山手線のようなものであって、ぐるぐる回ってはじめの結果にもどります。私たちは古い人を十字架につけるという意味は、こういうところに聖書はおいているのだと思うのですが、 パウロは十字架につけた結果をローマ人への手紙6章6節で言っています。 それは私たちの本当に汚れた罪の体が、その汚れているキメを無くしてしまうということなのですね。 ローマ人への手紙6:6
相変わらず、罪の体を引きずって生きなければいけませんけれども、私たちの体そのものを十字架に通せば、私たちは罪そのものから解放されると言うことを知っているとパウロは言ったのです。 ずっと後の10節、 ローマ人への手紙6:10
いろんな生活の中で罪の性質は出てくると思うのですね。分かりやすい例でいいますと、僕はすごく怒りっぽいのですね。すぐつまらないことで怒り出してしまうんです。 先日ある用事で郵便局へ行ってきたのです。何故行ったかといいますと、私のほうに依頼されたものと違うものが来たから、「これ違いますよ、正しいものと代えてください」というと、窓口の方が一生懸命私に説明するわけですね。 「こうだから、こうだから、こうだから。」と、どう聞いていてもわからないから、そうこう問答しているうちに、後ろのマネージャーが窓口に来てくれたのですね。 窓口の人に「これはあなたが書き方が間違っているから、こいうふうにお客さんの所に届いたのは当然ですよ。」 すっと僕のほうに向いて「お客さんこうしてください。」というのですね。僕は唖然としてしまったんです。自分の間違いをこうやって平気で人に、もう僕は怒りに燃えてしまってカーときちゃったんですね。 しょうがないからその窓口の女性は困っちゃって、「すみません、すみません」と何回も謝って、泣きながら「私のミスです。すみません、すみません」と言われ、こちらもどう言って良いかわからず、時間の無駄ですからと、その人はその膨大な書類を書きはじめたのです。 その時に、ヤコブの手紙の1章、特にその言葉が浮かんだわけではないのですが、人間って小さいことですぐ怒ってしまうのだな、でもその怒りを自分ではコントロールできないのです。 ヤコブの手紙1:20
ああ、怒ったら、ちょっとでも不愉快な顔をしたら、イエス様は機嫌悪いだろうな、そう思って、「じゃ解りました。手続きもう一回しましょう。」と終わって、何とその間の時間が20分。 時間をとったものだと、自分の中にもいやな思いが残ったのです。 解決したのですけれども、「何だ、あいつらは自分のミスを人のせいにして、、、」と心の中で依然としてけむっているのですね。 そういう自分の中にある罪の性質はどうしようもない。ちょっとのことですぐ火がついてしまう。 パウロが十字架について、私たちが自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様について行かなければ、私たちの罪の性質はいつでも出て行く。それをサタンはじっと心の外で待っているわけですね。 で、さあ何か問題が起こると、私たちの罪の性質を利用して問題を大きくしていくのです。 パウロはそういういろんな自分の体験から、十字架につける結果というものを完全に受け取っていました。 だから自分がなくなって、十字架につければ、罪から解放されるということを、徹底して彼は学ぶことができていました。 つまらない例を言ってしまったのですが、 ローマ人への手紙7:25
そしてこう言ったのです。背後の説明に、 ローマ人への手紙8:2
私たちが古い生まれつきの性質、体を十字架につける必要がある。つけた結果は、私たちが完全に罪から解放させる。 その一つの流れは、私たちに大きな力とメッセージを与えてくれていると思うのです。 ユダという人は、「相当悪い人だ、イエス様を裏切ったひどいやつだ」と言う解釈があると思うのですが、そもそも聖書を読んで見ますと、「ユダも私も皆同じ何の力もないな」とおもいます ルカの福音書22:3
お金に対して卓越した能力を持っていたユダに、サタンは巧妙に働いたわけです。 サタンはイエス様の十字架をおそらく、解らなかったと思います。 サムエル記第I、24:3-5
さんざんサウルに追いかけられたダビデは、隠れて用を足そうとしたサウルに出会ったとき、この様にしてサウルを殺す機会を与えられたのですね。 しかし、油を注がれたサウルに対して決して殺そうとはしなかった。 二つの理由があると思うのですが、一つはダビデは主を恐れていました。そして彼のなかに、おそらく、このページにはでていませんが、十字架を彼は受け取っていただろうと思います。 自分は小さいもので駄目である、どうしようもない。でも、主が私の中で働いてくれれば、私は前に進むことができる。ダビデはそういう思いで、この時間を通ったと思うのですね。 ある人はサタンの餌食になって、ある人は主の祝福にあずかる。これは私たちの内側の思いがどのように十字架に向かうかであると思います。 私たちは、日常、今、いろいろな誘いや妨げがあります。 この世の中はこの世の中を維持するための価値観だけしか、私たちには教えておりません。でも、聖書はこの世の中が準備期間であり、私たちに必要なことを教えようとし、私たちの内側にイエス様の愛と死を喜ぶことを与えようとしています。 十字架はその大きな橋渡しになっています。 テモテへの手紙第I、2:4-5
私たちは新しい質問、古い人を何時十字架につけたらいいのですかという質問に心を向けたいと思います。 聖書を読んでいますと、言うまでもなく、いつでも、どこでも、私たちは主の十字架を仰ぎ、刻み付ける必要があると思うのです。 私たちを誘惑するサタンは、想像することができないくらい、しつこく、強く、粘り強く私たちの主に向かう心を妨げようとします。 ガラテヤ人への手紙1:4
十字架を通った人には主の祝福がある。必ず、あると思います。 主が祝福される方というのは、主のみこころに従って歩んでいく中で、主が私たち一人に一人に与えてくださる主の大きな恵みではないかと思います。 それは万人なりとも例外なく十字架を知り、私たちのために主は尊いいのちを捨てて血を流してくださったのだということを心から受け取って、前に進むその一点ではないかと思います。 私たちは今、窮屈だと言う人がいます。確かに窮屈なことばかり、悪いことばかり。 でもよくよく考えると、私たちの罪故に悲しいことが続くのかなと。でも、私たちの価値観が、新しい世界へ向くとしたら、それは大きくその見方が変わって... (テープ A面 → B面) 自分の中にあった古い人が台頭して生きれば、その危惧を彼は決して忘れませんでした。 だから、罪の代わりに身代わりになってくださったイエス様の血潮を、自分の前にまたがってくれるひとつの大きな力だ、いのちだ、そういうふうに受け取っていました。 私たちは良く、間違えていろんな困難や議論に入っていきますけれども、必ずしもそれが解決になるかどうかはわかりません。 私たち一人一人に与えられている大きないのちの問題は、十字架を通してでなければ、考えられないと私は思います。 ガラテヤ人の手紙6:14-15
大事なのは新しい創造です。イエス様は私たちを作り変えよう、新しいいのちに満たそうと思って、尊いいのちを捧げてくださいました。 私たちに本当の生きる力と希望を、あたらしい世界への夢を今なお私たちへ与えてくださっています。 古い人を十字架につける意味、古い人を十字架につけた結果、そしてパウロはいつも私たちに十字架につけるよう促しています。 言葉自体は難しい言葉かもしれませんが、イエス様が私たちにおっしゃった自分を捨て、十字架を負い、私について来なさいということと同じではないかと思います。 今まで多くの恵みを頂きました。でも本当にそれは一つ一つ主への価値から発生して与えられてきたことかなと思います。 そういう意味では、聖書は本ではなくいのちとしてうけっとってほしいなと思います。 イエス様の十字架が私たちを作り変えてくれる、甦りの主が私たちを導いてくれる、今も聖霊を通して、私たち一人一人を豊かに導いておられることを感謝しています。 使徒の働き1:8
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