引用聖句:ローマ人への手紙6章6節
本当にメッセージの準備するというのがすごい大変で、色んな兄弟にちょっと聞いてみたんです。そしたらある兄弟は前の日に徹底的に聖書読んで、祈って、徹夜してでも準備するっていう人がいるんです。 ある人は聖書から心に留まったことをメモしておいて、段々日ごとを追うごとにまとめていくっていう方もいらっしゃいました。 それからお一人だけなんですけど、メモ書きだけでチョンチョンって書いて、導かれるままにお話をされるっていう方もいました。 僕は真ん中のタイプで、コツコツコツコツ準備して、それで最後に、「他の兄弟のメッセージと重なっちゃった!。」と思うともう、ちょっと驚いちゃうんですけど、そういうのもひとつの何か意味があるんじゃないかなと思うんです。 実際は、聖書のことばそのものが意味あるんであって、メッセージそのものは大したことないって言ったら怒られますけど、ある意味でアクセサリーだと思うんです。大事なのは聖書からのみことばだと思うんです。 パウロが証ししました、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 私、ずっと病院に居てて、しばらく働くことから遠のいていたんですけど、やっぱり今の時代というのはすごい住みづらい時代で、どんどん悪くなってるなと思うんです。 でも聖書は、「この世を造られた主なる神への新しい世界を造ろう。新しい日を本当に約束しているよ。」っていうふうに書いてあるんです。 それを救われたクリスチャンは、心ではっきりと受け止めて、その日が来るのを確かに待っています。 ペテロの手紙第II、3:13
このことばは、私たちがイエス様によって内側が新しくされなければ、その通り受け取ることができません。 ですから聖書のメッセージの中心は、どこまでいってもイエス様をお伝えすることであり、イエス様の十字架を私たちが心に受け取るべきメッセージなんです。 ローマ人の手紙の中にパウロは、古い性質、古いということばを使ってましたけど、実は私たちが新しくイエス様によって造り変えられないかぎりは、いくつになっても私たちの古い性質というのは変わらないんです。 古い性質というのは、私たちの生まれもった肉の性質、つまり罪の性質を言います。 私たちが十字架を知らないときは、私たちが罪を犯し続けるのが私たちの仕事でした。 ローマ人への手紙の7章。「そんなことないよ。」って仰る方いらっしゃるかもしれませんけど、私たちの実際の姿は、 ローマ人への手紙7:19
こういう性質をもって生まれて来てるんです。 私たちの肉体が罪で支配されている以上、私たちは永久に幸せになることはできません。ということは、イエス様が約束している新しく造られる世界に対しての希望をももつことができません。 イエス様の十字架は私たちの罪のためでした。十字架の死は私たちのどうしようもない罪を死に追いやるためでした。古い性質を死に追いやるためでした。 私は、ガラテヤ人への手紙の2章の20節のみことば、最初分からなかったんですけど、とっても大切なことばだなと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
十字架の中に二つの意味があります。 一つは、私たちの罪が十字架によって釘付けされた。私たちの罪が本当にイエス様の死によって無くなった。 もう一つは、十字架から示されるよみがえりの新しいいのちに、私たちは心を留めることができます。 ガラテヤ人への手紙2:20
新しいいのち。 私の、もう召されました親父は、聖書からイエス様の十字架というのがすごく、何て言うか、可哀そうっていうか、悲惨というか。だから嫌いだ、そういうふうに言っていたときがあったんです。 確かに、私たちが絵や色んな聖書読んでますと、あまりにもイエス様の死というのは不自然で不合理で可哀そうですけれども、私たちがもう一歩進んで、十字架から何が出て来るのかなっていうことに心を留めたときに、十字架のいのちをうることによって、私たちが新しくいのちというものが主から流れ出て生かされていることを学ぶことができます。 コリント人への手紙第II、4:10-12
私も吉祥寺集会に初めて行ったとき、すごく一人一人が生き生きして明るい、そう思いました。 こういうのはひとつの主の証しじゃないかなと思うんです。新しくいのちがはいってる、そのために内側が喜ぶ。 パウロはガラテヤ人への教会に、「私は十字架とともにつけられた。死に渡した。」ということを証ししたんです。 私たちって、例えば、あの人は柔和だとか、あの人は親切だとか、あの人は忍耐強いとか、あの人は積極的だとかよく言いますけど、聖書から私たちを見た場合に、古い肉体の性質がどんなに積極的であっても、柔和であっても、忍耐強くあっても全部いったん十字架に渡してくれって書いてあるんです。 私たちの肉体がすべて十字架に架かって、古い性質が死ななければ、新しくいのちが流れ出ない。これがパウロの強い証しだったんです。 だから十字架につけられた人の特徴というのは、自分を信頼していない人、自分を信じない人、自分の弱さを知っている人、そして主を恐れている人だと思うんです。 コリント人への手紙第II、4:12
主のいのちが、私たち一人一人の中に働いてくれる。パウロのひとつのメッセージです。 ちょっと難しい言い方をしますと、事実と結果と目的というのが非常に相関関係で描かれています。 古い人が、私たちの古い生まれつきの性質が、信仰によって十字架につけられ死んだということは、それを信じることが事実だ。 それが事実だということを私たちがぜひ受け入れて、その罪のからだがまったく意味をなさなくなる。無効になるという結果を私たちは心で感じます。 そうすると私たちは、罪の奴隷にならないようになる目的が、十字架の死の目的が、私たちの内側に学び始めます。 最初に兄弟が読んでくださったローマ人への手紙6章の6節は、私たちが罪の奴隷にならないことを知っていますと書いてあるんです。 これは救われた信者一人一人が、私たちの古い性質が十字架に架けられることによって、葬られたことを本当にからだで受け取っている人の証しなんです。 マタイの福音書の9章。私も最初そうだったんですけど、日本人が聖書を読み始めるときに、「何をやったらいいの?」ってよく聞かれるんです。 聖書は一貫して、「何もやらないこと。」って書いてあるんです。例えば、 マタイの福音書9:16
私たちがやろうとしてることというのは、古い罪をもった性質をいくら訓練しても、それは神さまから見て何の意味もなさない。 マタイの福音書9:17
私たちは、私たちの生まれてもってる性質を本当に罪の性質であるということを認めて、十字架の前に立たなければ、神さまから見ていくらいいことをしても、いくら忍耐強くやっても、それはピント外れですよって書いてあるんです。 私たちが自分の古い性質を、本当に十字架につけて、主の前に立ったときに初めて、私たちの内側が変えられていきます。 主は私たちの生まつきの性質を決して喜びません。受け取ってくれません。 だれでもそうでしょうけど、自分より優れた人を見ると、必ずねたみを起こします。 罪の始まりは創世記からすでに出ていますけれども、4章。これは私たちの内側に罪があるということを非常に分かりやすく説明している聖書のことばなんです。 創世記4:3-8
私たちの罪の小さい性質を放置しておくと、大きな問題に発展します。 創世記4:9
はっきりと、私たちが言い訳するという性質がこのような形で出て来ます。 私は今、色んな教育っていうことを話しているときに、聖書ほど本当にいい土台はないなといつも思うんです。 僕のリハビリの先生が非常に面白い先生で、色々訓練やりながら話してくれるんです。 何週間か前に、親が子どもを殺して裁判になって、非常に悲しい事件が伝えられましたけど、むかしは、子どもが悩んだら子どもの意見は何でも聞いてあげなさいっていうのが主流だったんです。 評論家とかその時節の色んな学者や識者が、「必ず子どもの意見は聞きなさい。」と。そういうのが主流だったんです。 子どもが親を殺したり、親が子どもを殺したり、そういう事件が多発して来ますと、決してその考えが正しくないということが分かってきたと思うんです。 私たちはそういうひとつの時代の流れを見てますと、すごく識者というのは無責任だなぁと思うんです。 聖書の中で一番大切なことは、一つ出ているのは、私たちが神さまを恐れることと、私たちの中には古い肉の性質をもっていて、その罪の性質を本当に放置しておいたときは、どんなことになるか分からない性質をっているということ。 聖書はいつも私たちに話しかけてるんです。 だから例えば、「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」 自分の弟が死んでもみんな、こういうことを言い出すんですよね。それが恐ろしい人間の性質だなと僕は思うんです。 私のリハビリの広い部屋に、全国の色んな所から研修生が見えてるんです。 その中に、ひとつの市町村の役人の方もトレーニングに見えてるんです。そして学校から見えてる生徒の方は、一生懸命現場で訓練に加わりながらやるんですけど、ずっと見て何もやらない研修生もいるんです。 その先生はよく仰るんです。「実際にリハビリをやろうとしたら、現場を知らなければ絶対出来ません。」と。 「側で座って、机でいくらメモしていい成績を出しても、患者さん一人一人の心を掌握することは決して出来ません。」ということ言うんです。 子どもたちの教育を色々文部省が上から言いますけども、やっぱり私たちが本当の人間の原点に立たなければ、やっぱり怖いなと思うんです。 それを体当たりで今やってるのを、真正面で見させていただいて、毎日の参考になっているんですけど。 だから私たちが必要なのは、パウロが証ししたように、もし自分たち一人一人が十字架の前に立って、私には本当に罪がありますということを、主の前に本当に告白したときに、主が私たちの内側に新しいいのちを入れてくれるということに、是非心を留めるべきだなと思うんです。 創世記4:10
ひとつの主のメッセージなんです。 私たちが私たちの内側の動機に、本当にいつも光に当てておく必要がありますし、私たちの古い肉の性質を、いつも十字架を通して新しいものに変えていただく必要があります。 ヨハネの福音書17:13
決して十字架というのは悲惨なプロセスじゃないですよ。 わたしが十字架に行って、それによって私たち一人一人が新しいいのちを得て、喜ぶようになるために私は来たんですよ。 世にあってこれらのことを話しているのですというのは、そういうことなんです。 十字架から出る新しいいのちの特徴なんですけども、このように私たちが内側から変えられて、新しいいのちを持てば、主を喜ばせる結果となります。 私たちの内側がはたして喜んでいるでしょうか。 新しいいのちは私たちの力となり、慰めとなります。私たちの日常生活をイエス様から力をいただいているでしょうか。私たちに与えられる新しいいのちは、より深く主に従おうという気持ちを育ててくれます。 私たちが信じたと言っても、実際にイエス様に従おうという気持ちが本当に備わっているでしょうか。 新しいいのちを持っている人の特徴は、やっぱり、生まれ変わった喜びというのに完全に持っている人だと思うんです。 コリント人への手紙第II、4:16
聖書を見ると、全然今までと違った価値観にびっくりすると思うんです。 私たちは必ず今まで、私たちの持っていた知識や思いから価値観を見ていました。しかし聖書の価値観は、どこまでいっても十字架を土台にするようにということなんです。 私は恵まれてるんですけど、病院で半分以上はもうほとんど家族の方が見えません。三ヶ月から六ヶ月くらい長い入院が続くんです。 センターのちょうど中央廊下のところに、患者さんが色んな川柳を書いて、文化祭のために短冊をみんな出すことになっているんです。その中に、面白い川柳がいくつかあるんです。 そのひとつが、『ポイ捨ては、タバコ、空き缶、ダメ夫』って書いてあるんです。 で、その『ダメ夫』っていう、ダメっていうところだけ消してあるんです。何でそうなのかなって思って聞いてみましたら、やっぱり今までバリバリバリバリ働いているうちは奥さんはご主人を大事にしたんだけど、もうこうやって大きなダメージを受けると、変わっちゃう人がいるって言うんです。 読んでいて、すごく面白かったんですけど、可哀そうだなって思ったんです。 人間の、私たちの心の中にある価値観というのは、私たちの見た環境とか、状況が加わっては絶対いけないわけなんです。 でも私たちが聖書に出会うまでは必ず、自分はこれが得か損か、自分はこれで嬉しいか悲しいかとか、自分はこういうことにあったら苦しいかとか、そういうところからものを見ていたと思うんです。 そこを聖書は、パウロは、外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます。 どんなに状況が悪くなっても、私たちが十字架に立って、新しい歩みを続けていたら必ず内側はどんどんどんどん支えられていきますよっていう、本当のすばらしい証しなんです。 そしてこれは本当に事実だと思うんです。 パウロが、十字架を通して古い自分が死ななければ、イエス様による新しいいのちは決して流れ込まない、でも流れ込んだときは、本当に力になりますよ。そういうふうに書いてあるんです。 パウロという人は、本当に自分の罪と何回も何回も戦って、こういう証しを色んな手紙で書いたんです。 少し戻りますけども、私たちってよく、「神さまってよく分からない。」って言う人がいると思うんです。 おそらくクリスチャンになった人でも、神さまが分かる人なんて誰もいないと思うんです。 でも、神さまがこういう方だっていう方が分かれば、すごく自分の生活の中で少し近づいてくれてるんじゃないかなっていうふうに僕は感じるんです。 その三つは、一つは、神さまというのは、イエス様は、私たちが思っていたような方ではなくて、自分で苦しみを選ばれた方なんです。 二番目に、私たちに一方的に恵みを与えられた方なんです。 三番目に、私たちの必要をいつも満たしてくれる方なんです。 イザヤ書53:3
福音書の三年間の福音生活、イエス様の伝道生活を見ていますと、本当に、どんなに人を助けても、どんなにいいことをしても尊ばれない。そして十字架にやられる。 そしてその十字架にやられるときの姿は、人が顔をそむけるほどさけすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 十字架の600年前に書かれたイザヤの預言が、私たちの主なる神のイメージをこのように描いているんです。 それほど、私たちのイエス様は謙遜になられて、はずかしめを苦とせず、自分をいやしくされた方なんです。 これは聖書の大きなひとつの流れだと思うんです。私たちがもしそこに目を留めて一喜一憂したらすごく危ないです。 何のために主がそこを通られたかというところが、一番大きな問題じゃないかなと思うんです。 もうひとつは、私たち一人一人に十字架を通して恵むことによって、ご自身の存在を明らかにされました。 イエス様はいつも一方的で、私たちに代償を求めることはしませんでした。 コロサイ人への手紙2:14
私たちがもし神さまにお詫びをするとしたら、何年経っても、何十年経っても、何百年経っても償いきれません。 でも、そういう神さまに対しての非礼は、一切水に流すよって仰ってるんです。それが恵みということばです。 普通の人間の価値観から言いますと、何か代償を求めるのが普通ですけれども、主の十字架は本当に私たちに一方的なみわざで用意されたものなんです。 特にエペソ人への手紙の中には、恵みということばがたくさん出て来ますけれども、私たちが救われたのはただ恵みによるんです。 何か多くの知識を得たからとか、たくさんよいことをしたから神さまの前に立ったのではなくて、ただ十字架ゆえに私たちは赦されたんです。 赦されるときに神さまは、債務証書を無効にするよって言ってくれたんです。今まで色んなことがあったけどもう水に流すからわたしと一緒に歩もう。これが神さまの仰ってるメッセージなんです。 そして私たちにもうひとつ大事なのは、日常生活の中で私たちの必要をいつも満たしてくれてるんです。 ピリピ人への手紙4:19
これは信仰があって初めて証しできることばなんです。自分の思いや経験が前に出たとき、神さまのご存在は後ろに行ってしまいます。 主が私たちの必要を満たす方だというふうに受け取って歩んだときに、私たちは主がいつもその必要を満たしてくれる方だということを、無条件に受け取ることができます。 私たちは悲しかったり、苦しかったりすると、すごい喜びとか助けを探しますけれど、主の平安というか、必要が私たちの日常の寂しさや苦しさを探してるんですよね。 だから私たちの生活で、順番を逆転させる必要があると思うんです。 なぜ私たちがこんなに苦しいの?じゃなくて、それはひとつの神さまに近づく大きな大事なステップなんです。 ルカの福音書9:23
これが今日のまとめなんですけれども、十字架というものを信じるのは、たった一度でいいと思ってはいけないんです。 やっぱり十字架は私たちの罪を本当に助けてくれたって言うか、罪のために十字架に架かってくれたんだっていうことを受け入れる。確かにそれは一度のことかもしれません。 でも私たちは信じればそれでいいというものではないんです。 私たちの中には、相変わらず思い出したように古い性質が出て来て、時々私たちのこういう色んな生活を邪魔し始めます。 そのときにイエス様は次の三つのことを仰ったんです。 ・自分を捨てなさい。 ・十字架を負いなさい。 ・わたしについて来なさい。 でなければ、私たちの肉の性質がまた台頭して来ますよということを仰ったんです。 自分を捨てるというのは、自分を主張しないということです。 私たちが自分の主張をすればするほど、私たちは疲れます。私たちの要求を貫けば貫くほど、私たちはくたびれます。 主はそれを十分ご存知で、自分を捨てなさいと仰ったんです。 十字架を負いなさい。いつも自分の罪が十字架で本当に死んでるんだということを、決して忘れてはいけませんよということなんです。 自分というものの回復を許さないように十字架をいつも負っていなさい。私たちの内側に自分自身がどっかりと座ったときに、必ず私たちは揉め事が始まります。 わたしに従いなさい。そして最後はイエス様が、積極的に信仰のひとつの考え方を私たちに伝えたんです。いつも前向きに、積極的に神さまに従っていきなさい。 聖書のこの2,000ページは、全部イエス様のストーリーであり、そして私たちの生き方を十字架に置くようにというメッセージなんです。 ことばひとつひとつを読んでみますと、すごく堅いことばがしますけれども、私たちのどうしようもコントロールできない罪の性質が十字架によって解決されてるんだよっていうことに思いを寄せて、そこに立ったとき必ず主が新しいいのちを入れてくれるというふうに信じきったとき、必ずいい一歩が歩み出せるんです。それが一人一人の信仰のまず原点だと思うんです。 パウロはローマ人への手紙の6章の6節で、大事な証しをしたんです。 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだがもう無くなって、私たちはこれから罪によって苦しむことがないことを、私たちは信仰によって知っていますと証ししてくれたんです。 本当に私たちの毎日毎日がそのように新しいいのちで満たされれば、本当に感謝だなと思うんです。ありがとうございました。 |