引用聖句:ヤコブの手紙4章6節
今兄弟がお話してくださいましたように、家庭が解放されて、主のみことばを宣べ伝える場所として用いられるということは本当に尊いことだなと改めて感じました。 ということで、ただ今ご紹介いただいたヤコブの手紙の4章の6節を拝読いたしたいと思います。 ヤコブの手紙4:6
今日は「へりくだり」という題名で考えてみたいと思ったのですが、私のような者がなぜへりくだりということを申し上げなければならないかと言いますと、実は私は一つの憧れがありまして、その憧れというのは、自分がどうしてもやはり欲しいと思ってもそれを得ることができないことをたぶんみんな憧れると思うのですが、私の憧れというのは、どうにかしてへりくだる人になってみたいものだというふうに、こんな者でも時々思うことがあるのです。 何とか聖書が言っている「へりくだる」ということ。そのことを実現できないものだろうかというふうにずっと実は思ってまいりました。でも思えば思うほど、どうしてもそれができないものですから、主はさまざまに導いてくださると思います。 聖書の言っている中心的なみことばがここにあるとよく言われますけれど、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」と。 これが本当に聖書が言っている神様の基本であるというふうによく集会で言われております。ですから、高ぶる者ではなくて、何とかへりくだる者になりたいなと、そのように思ってまいりました。 そんなことがありましたので、もちろん私はこのへりくだる者ではございません。その憧れということで聖書のみことばを、今日はいくつか見てみたいと思いまして、私の証しとして、そのことを申し上げたいと思ったわけであります。 へりくだる人というのは、聖書の中に色々と出てまいりますけれど、民数記の12章の3節を見ていただきたいと思います。 民数記12:3
モーセという非常に有名な旧約時代に用いられた預言者。地上のだれにもまさって謙遜であった。へりくだっていたというふうに書いてあります。 聖書が言っているわけですから本当にこのことは真実であるし、モーセという人の偉大なその働きというもの源がここにあるのではないか。 ですからこのような謙遜さというものを自分もできれば何とか頂戴したいものだというふうに本当に、こんな者でも思うわけであります。 この謙遜、へりくだりということは、私たちはこの世の中でも、集会ではなくて、この世でもよく言われていることではないかと思うのです。 私なんかも小さいときから学校とか、また世の大人の方から、それから家庭の中でも、へりくだるということは、謙遜になるということは本当に大事なことなのだよとよく言われてまいりました。 私は聞いてもそのままただ聞きっぱなしであったわけでありますが、この世でもへりくだるというのは非常に大切なこととされております。 一般的にこの世の価値のへりくだるというのは、やはり人柄が温厚で、自分のことをあれこれ自慢をせず、そして人のことをあれこれ悪く言わないような、そういうふうなイメージがあると思うのです。 そういうふうな人であれば一般的に謙遜だという評価になるのではないかと思うのですけれど、でもこの聖書のへりくだりというのは、そういうことはもちろんあると思いますが、もう少し具体的なことを言っているのではないかなというふうに思ったのです。 単なる抽象的な心の状態というよりは、より具体的なことを教えてくれるのではないかなと、そのように思いました。 そんなわけでございまして、私の本当に憧れております、このへりくだりということについて聖書を見たときに示されたことを証しとして申し上げたいと思いました。 三つのことが聖書から示されましたので、それを申し上げたいと思います。 このモーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。へりくだった、一番へりくだった人だとあります。 そしてモーセという人の生涯を聖書から見るときに、本当にこのモーセという人は徹底的に主に頼るという、その連続の生涯であったということが、だれにでもこれは本当にわかると思うのです。「主に頼る」ということです。 モーセは実によく祈ったとおもうのです。色んな困難なことが次から次へとありました。苦しみが本当にあったと思いますけれど、でもそのようなときにモーセは実によく主に祈って、頼っていたのではないかと思います。 ですからこの頼るということが何かそのへりくだりと大きな関係があるのではないかなということを思いました。 そして聖書に出てきます人物、モーセだけではなくて旧約時代のネヘミヤとか、新約のパウロというそういう方々、そのほかにも色んな方が出てきますけれど、本当によく祈っていたと思います。 ペテロの手紙第Iの5章6節と7節を見てください。 ペテロの手紙第I、5:6-7
ここで6節には同じように、へりくだりなさいと主は仰られました。そして7節にはすべてのことを主にゆだねなさいというふうに書いてありました。 すべてのことを主に頼りなさいというのは7節のところにありました。ですからここのところは、ちょうど橋が渡されている個所ではないかと思ったのです。 私たちのへりくだりというのはまず第一に、すべてを主に頼るということ。そこから始まるのではないかなと思います。 私たちの心の状態が、主を知るまでは、「自分は頼りになる。自分の判断とか考えで人生を切り開くのがやはり正しい生き方ではないか。」と、自分でも思っておりましたけれど、でも頑張れば頑張るほどなかなか上手くいかない。 そしてイエス様を知れば知るほど、やはりその主にゆだね、頼るという思いが与えられてくるのではないかと思うのです。 そして、主に頼れば頼るほど、私たちはもうあまり偉そうにできなくなってくる。そのように導かれてくるのではないかと思うのです。 ですから具体的に主に頼るということが、本当に歩みの中でどうしても求められてくる。そのような導きが与えられてくるのではないかと思いました。 そして私たちは色んな問題とか立場に遭遇したときに、自分は確かにこのように思うのだけれど、でもイエス様なら一体どうされるのかということをやはり考えるようになるのではないかと思いました。 ヨハネの福音書の5章の19節を見ていただきたいと思います。私たちは色んな問題が与えられます。そのときに、では一体イエス様がここにおられたらどうされるのかということを考えるときがあると思うのですが。 ヨハネの福音書5:19
イエス様はご自身のことを、わたしはへりくだっているというふうに仰られました。そしてイエス様の行動されておられたその基準というのが、ここに書いてあると思うのです。 イエス様はご自分で考えて判断することを一切なさらなかったということです。イエス様はすべてを父なる神様にゆだねて頼り、ご自分からは何事も行なうことができないとここに証しされておられます。 これがイエス様のご生涯の基本的な歩まれた、その立場であられたと思うのです。そしてそれを完全に全うされたがゆえにイエス様はご自身について、わたしはへりくだっていますということをマタイの福音書のところで証しをされておられるのではないでしょうか。 私たちもあらゆることについて、もし主がここにおられたら一体どういうふうにされるのかなということを祈ってみて、主にお聞きして、自分の取るべきことを考えてみるというのが、やっぱり祝福のひとつの方法ではないだろうかなというふうに思ったわけです。 イエス様ならどうするかということを思って、それを祈るということがいいのではないかなと思ったわけであります。 祈りというのはやっぱり、主に頼りたいという思いのときに私たちは自発的に主の前に静まって祈るようになるのではないかと思います。 マタイの福音書の11章の25節と26節も見てください。 マタイの福音書11:25-26
このようにイエス様は仰いましたけれど、賢い者とか知恵者には、神様のことを、救いそのものも隠された。そして幼子たちにそれを現わしてくださったとあります。幼子たちというふうに書いてあります。 それからもう一ヶ所、ヨハネの福音書の3章も見てください。 ヨハネの福音書3:1-5
ここでイエス様は同じように、新しく生まれる、本当に私たちが幼子として主の前に立たなければ、神の国を見ることはできませんとあります。 そして水と御霊によって、すなわち、みことばと御霊の働きによって私たちは生まれ変わることができると、そのように仰られました。 幼子というのは、本当に何もできない人ではないかと思います。幼子ができるのは、ただ親を本当にもう信じきる。そして自分の親にただ頼りきることではないかと思うのです。本当に主の前に幼子のようになる。それが求められているのではないかと思うのです。 つい私たちは幼子ではなくて、何か立派な知識のある自分でも十分に判断ができる。そういう大人を求めてしまうと思うのですけれど、でもそれは、聖書が言っているそのへりくだりということの原点のことではないのではないかなと思うようになりました。 私たちは主の前に赤ちゃんでいいのではないか。主の前で赤ちゃんです。幼子になる必要があるのではないかなと、そのように思います。 自分を信じないで、イエス様にとにかく頼ってしまう。自分のことは考えれば考えるほど、本当にとてももう、何か段々信じられなくなってくるわけですけれど、反対にイエス様に頼りたいという思いが与えられるということ。それが本当の自由ではないかと思うのです。 私たちは自由になりたいといつも思っていたと思います。それは自分ですべてを決めて、あらゆる価値の中心に自分を置くということを一般的には言われていると思いますけれど、でも聖書の自由はそうではないと思います。 自分ではなくてイエス様に本当に頼って、主の前に幼子のようになる。そこに本当の解放と自由があるのではないだろうかなぁとそのように思いました。 そして二番目に示されましたのは、天に宝をつむということを示されました。天に宝をつむということ。このことを忘れないようにしたいなというふうに思ったのです。 マタイの福音書の5章の3節を見てください。有名なイエス様の山上の垂訓の一番最初のみことばでありますけれど、 マタイの福音書5:3
私たちの心が貧しくなるとき、本当に幼子のように、自分ができるのではなくて、できない者として、幼子として主に頼るという、その貧しい者になるときに、天の御国はその人のものになると主は仰ってくださいました。 私たちの価値というのはこの世の中にあるのではない。天にあるのだということが聖書が一貫して言っていることではないかと思うのです。 永遠の価値と希望、喜びと平安がすべてこの地上にあるのではなくて、天にそれがあるのだと。今の世ではないのだということを言っているのではないかと思います。 そして、この天に宝をつむような生活と言いますか、私たちの思い。そのことを決して忘れないようにするということ。そのことがあったというふうに思うのです。 次のマタイの福音書6章のところです。 マタイの福音書6:19-21
私たちの宝というものをどこに置くのか。それを地上ではなくて、天に置きなさいと主は仰られました。そうすれば私たちの心も天にあるものであるということであります。 聖書が勧めているこのへりくだりということ、自分の宝を天に置くこと。そのこともあるのではないかと思ったわけなのです。 天に宝をつむということ。これを忘れないようにしたいと、またしなければならないと思います。 私たちの主の前のこの立場。へりくだりというのは、地上のことではなくて、天のことを思うという、その中にもあるように思いました。 ヤコブの手紙の4章の4節から10節も見てください。 ヤコブの手紙4:4-10
ここにもこの世か天の御国か、ふたつにひとつの選択があると書いてあります。 自分のような者、どうしてもこの世というものを優先させてしまう、そういう本当に弱い者でありますけれど、やっぱりそこから絶えず悔い改めて、天の御国を選ぶ者でありたいと。天に宝をつむということを忘れないようにしたいというふうに思ったわけであります。 そしてヨハネの黙示録の5章も見てください。これは天での出来事。天国での神様、天の礼拝が書いてありますけれど。 ヨハネの黙示録5:9-14
ここは何回読んでも本当にすばらしいところだと思うのです。 私たちは日曜日に主を心から礼拝いたしますけれど、ここでは、天国で信じるものや造られたものが一同に集まって、偉大な主を礼拝しております。 そして一番主の近くにいる方がいる。そしてその回りに多くの御使いとか、そのほかの人がいる。そしてまた、その回りと言いますか、その外側にさらに色々な方とか、造られたもの、生物、そういう被造物が礼拝しているというふうになっております。ですから私たちがいったい、この中のどこにいるのかということは、本当に今から気になるところであります。 私などは一番端っこの外側にすわるに・・そこでも本当にありがたいと思うのですけれど、居るようになると思います。 でもできるだけ近くの前のほうにすわりたいものだというふうに時々は思ってしまいます。できれば、よく神様の顔が見えるような、前のところに居たいものだなぁというふうに思ったりもいたします。 本当に、天に宝をつむということを考えて、生活をひとつひとつ整えていかなければいけないのかなというふうに思っているわけであります。 三番目に示されたことは、実は口を慎むということなのです。なかなかこれが私はできませんで、まことに弱ってしまっているわけなのですけれど。どうしても、へりくだりということを考えたときに、口を慎むということは必然的に示されると思いました。 詩篇17:3
ダビデは主に祈りました。そして心がけたとあります。何を心がけたかと言いますと、口のあやまちをしないように心がけたと書いてあります。そのように証しいたしました。祈りました。 本当にこのことを自分もやはり心がけなければならないなと、そのように、特に最近このことをよく示されているわけなのです。 聖書が勧めているへりくだりの結果というのは、必ず自分の口を制するようになるということを、私たちが必然的に学ぶように導かれるということになるのではないだろうかなと思ったのです。 結局、自分が出来るというような、そういう偉そうな気持ちなどということは、段々やはりできなくなってくるということではないでしょうか。 私は、口のあやまちをしないと心がけましたと、ダビデのような方でも心がけた。そして主にそのことを祈ったわけであります。 口については、ヤコブのところに詳しく書いてありますけれど。 ヤコブの手紙3:2
本当にもう、そうです。自分はまったくその通りだと思います。 ヤコブの手紙3:2-10
このように書いてある通りでありまして、本当に口を制する、舌を制するということ。そのことは私たちの人生にとっても、またイエス様とともなる人生にとって、本当に大事なことだというふうに改めて思いました。 どうしてもそのへりくだるということを憧れてほしいというときの場合、この舌というのはその前に立ちはだかってまいります。その舌を制して、口を慎むということ、どうしてもこれは必要になるのではないかなと特にそのことを強く最近感じたわけであります。 以上、聖書のへりくだりということから示された私の証しになりましたけれど。 ひとつは、主に本当に頼るということ。そして、天に宝をつむ。そのことを忘れないようにしたいということ。 そして、口を慎むということを本当に祈りながら注意して、主に頼りながら歩まなければダメだということを思ったわけであります。 そして、最後になりますけれど、へりくだりということを望むときに、私たちはなかなかそれがやっぱりできないのではないかと思うのです。自分では。そのために実は主がそれを導いてくださると聖書は言っているわけであります。 ですからありがたいと思うのですけれど、自分自身ではどんなにへりくだりが憧れても、へりくだるということの重要性と言いますか、そのことを思って心から願っても、実はどうしてもそのへりくだるということは、実はできないと思います。 いくら頑張っても、なかなか自分のことを変えていくということはできないのではないでしょうか。 でも主はすべてを可能にされる方であります。主にやっていただかなければ、そのことはとてもできないわけですけれど、主のやっていただける方法というのがあるということが聖書には書いてあります。 ローマ人への手紙の5章の1節から5節のところを始めにちょっと見ていただきたいと思います。できない私たちの代わりに主が導いてくださると仰られますけれど、 ローマ人への手紙5:1-5
私たちは失望に終わることがないとここにありました。どうしてかと言いますと、できない私たちの代わりにイエス様の御霊様、聖霊が私たちの心に注がれているという、この事実があります。 そしてその御霊様が、本当にへりくだった方である。その方が内側におられるので、私たちの代わりにそのことを行なってくださると書いてあるのではないでしょうか。 そして具体的には、この患難ということがあります。苦しみということがあります。そのことが実は忍耐を生み出し、へりくだるという心の思い、状態、生活の中に主が導き入れてくださる最高のこの条件として与えられるのではないかと思うのです。 そして、その患難さえも実は喜びになるとここに書いてありました。もう一回ヤコブの手紙を見てほしいのですけれど、 ヤコブの手紙1:1-4
ここに、試練に会うときは、喜びなさいというふうに書いてあります。 どうしてかと言うと、試練というのは聖書が私たちに求めている、そのへりくだり、祝福の源であるへりくだりに至る最高の主のお導きであるとここにはっきりと言っているのではないかと思いました。 このこと以外に人間はへりくだるということは決してできないのではないかと思うのです。 何か思いがけないことが起こったり、自分に耐えられないような苦しみに出会うときに、私たちは主の前に本当に幼子のようにならざるを得ないわけであります。 そして、本当にその主に頼って、天に宝をつむ。そのような思いに導かれるのではないでしょうか。 そしてどうしても高ぶってしまって、言いたい放題言った者がその口をも整えられ、そのことがらも心のへりくだりという、その内側を生活の中でにじみ出てくるようなことに導かれるのではないだろうかなというふうに思ったわけであります。 そこに試練ということが書いてありますけれど、そのような導きというのは、やっぱり主がくださるプレゼントではないかと思ったわけであります。 そして、この苦しみというのはただ苦しみだけではなくて、喜びに変わるということがここに証しされております。 本当に今の世における主の大きな奇蹟というのは、さまざまな苦しみが実はそれは喜びであると、すばらしい主のこの時代ではないかと思いました。 最後にイザヤ書の57章の15節を読んで終わりにしたいと思います。 イザヤ書57:15
とあります。 今日は、最近示されました「へりくだり」ということから私が個人的に示されたました三つのことを証しとして申し上げました。 決して私はへりくだっておりませんし、できない者でありますけれど、でも主はさまざまに導いてくださるお方であることを信じて感謝いたしたいと思います。 どうもありがとうございました。 |