引用聖句:ヤコブの手紙4章6節
今日の題名は、「今年こそへりくだろう」という、そういう題名になりました。「今年こそへりくだろう」 結局今まで何回も、何回もへりくだりということを我ながら大事なことだということをみことばから知って、どうにかしてへりくだりたいと思って来たのですが、ことごとく失敗に終わっております。 なかなか、非常に大事なことということは分かるのですけれど、自分の力でこのへりくだりというものを求めたいと思ってもなかなか出来なかったということがありました。 従いまして、何回も何回もそのことを思って、このような自分なりの目標というものを作って来たのですが、本当にへりくだりということは自分では出来なかったと思います。 また、みことばの取り次ぎにも何度も同じことを、テーマをいただいて、申し上げてまいりました。昨年の家庭集会でもこのへりくだりについて示されたことを申し上げたのですが、年の初めになりましたので、もう一回自分自身、主から示されたことを改めてお読みしたいというふうに思った次第であります。 このヤコブの4章6節というのは、私にとってはもう憧れのみことばになっております。高ぶる者を退ける。そして、へりくだる者に恵みをお授けになると神様は書いてくださいました。 確かに、何年かイエス様を知って集会に来るようになり、主を礼拝するようになったときに、本当にこのへりくだりということを忘れるときに、自分の心の喜びが無くなってきてしまう。そして様々な心の葛藤とか不安というものが生じてまいります。 そういう点で、本当に高ぶるということが、やはり人間にとって一番罪なことだなということを体験的に新たに知るようになったわけなのです。 でもそのような高ぶる者に実はイエス様が頭をゴンゴンと叩かれるわけです。イエス様はゴンゴンと叩かれます。そのように神様からやられるわけであります。 そうすると不思議なことに、これはやっぱり痛い、頭が痛いですから、へこまざるを得ない。結局、へりくだらざるを得なくなってまいります。 そしてそのうち、またイエス様がゴンゴンとやるのをしばらく中断される。そういたしますと、またまた高ぶりの芽が出て来るという。実はそういうことの繰り返しだったのではないかなというふうに思いました。 でもそういうことを何度も、何度もいただいているうちに、繰り返していくうちに、段々と教えられたことは、自分のその駄目さ加減。自分の罪のその根深さと言いますか、本質と言いますか、そういうものが少しずつではありますけれど、見えるようになってくるのではないかというふうに思いました。 そして、ゴンゴンとやられるうちに、またやられないときにそのことを思い出します。そうすると、そういうときであっても実はもう、偉そうには出来ないなというふうに思ってくるのではないかと思うのです。そのように主に導かれるようになるのではないだろうかなと、そのように感じております。 そのようなことで、このへりくだりということを改めて考えてみたいと思いました。今年の初めに、三つのことが示されましたので、それを自分の証として、また申し上げて、メッセージに代えさせていただきたいと思いますので、宜しくお願いいたします。 この「今年こそへりくだろう。」という主からの目標をいただいた最初のことが、こういったことなのですけれど、一番目としまして、自分が行なおうとすること。または自分が語ろうとすることの前に祈るという、このクッションを置こうという、そういうことを思いました。 結局何かを行動する、または喋ったり、そういうことの前に祈りということをやって行きたい。祈ること無くして、実は何もやらないほうがいいという、そういうふうなことを示されました。 マタイの福音書の21章12節から13節を見ていただきたいと思います。 マタイの福音書21:12-13
イエス様は宮に来て、そのように行動され、また仰られたわけであります。そして「わたしの家」とこの宮のことを主は仰られましたけれど、私どもにとっては、主が仰られるこの「わたしの家」というのは、私たちひとりひとりの心の中のことではないかと思ったのです。 私自身の心の内とは祈りの家でなくてはならない。そうでなければ、それは罪であるということであると思いました。 今まで、祈りなく色んなことをやったり、また語ったりいたしましたけれど、本当に良くなかったなと自分では思った次第であります。何かをしよう。何かを語ろう。その前に主に祈る必要があるというふうに思いました。そしてイエス様に、自分がやろうとしていることが、また語ろうとしていることがいいのか悪いのかお聞きする必要があるなというふうに、そのことも思った次第であります。 ヨハネの福音書5:19
イエス様は一番完全なへりくだりをもっておられた唯一のお方であると思うのです。そのへりくだっておられるイエス様は、このように仰ってくださいました。 そのイエス様の内側のお心とは祈りであったということが、このみことばからはっきり分かると思うのです。確かにイエス様は神ご自身でありますから、この地上に来られたときに、ご自分で考えて、ご自分で行なって、ご自分で語ることがお出来になったはずであります。 でもイエス様はただの一回もそのことを行なうことを良しとされませんでした。イエス様が行なったことは全て父なる神様が命じられたことを、そのまま行なわれたということであります。 本当にこれは人間にはなかなか理解できないことでありますけれど、このことが信仰であるということをイエス様がお示しくださったのではないかなと思うのです。 イエス様は父なる神様に祈ることなくして、何も行なわず、何もお語りになりませんでした。 ヤコブの手紙の3章の1節から10節のところを読みたいと思います。 ヤコブの手紙3:1-10
ここも、同時に新たに示されたことなのです。このようなことを避けるために、本当に自分の口を開く前に神様に、イエス様に祈りたいというふうに思ったわけなのです。 言葉を発する前に祈りのクッションを置くということ。そのことを思いました。話すことがいいのか悪いのか。主にお聞きしてみたいと思ったのです。すぐに語らず、すぐにまた返答をしない。祈りがなくては何も語らないようにできればいいなと、そのように思いました。 コリント人への手紙第II、1:12
これはパウロが言ったこと、証しでありますけれど、パウロは高ぶろうと思えばいくらでも高ぶることができるほどの実力の持ち主であったと思うのです。 エリートでありましたし、聖書のことは殆どみな丸暗記していたようであります。そういう大変な、この世的にも人望の厚い人だったと思うのですけれど、でも彼は、人間の知恵ではなくて、神の恵みによって行動したとあります。 何かを行なう前に主に祈るということを、パウロもきっとしたのではないかなと思いました。そのように、神の恵みによって行動したというふうにあります。そのことがどうしても自分にも必要であるなということを感じた次第であります。 それから二番目に示されましたのは、こういうことなのですけれど、自分の周りの方々の祝福ために生きる生き方を選びたいと。そのようなことも新たに思いました。 自分の周りの方々の祝福のために生きる生き方を選びたい。そのような希望を持ったわけなのです。 マタイの福音書20:28
これはイエス様が仰ってくださったみことばであります。へりくだりそのものであるイエス様は、本来ならば神様でありますから仕えられて然るべき方でありましたけれど、でもそうではありませんでした。仕えられる方ではなく、かえって仕えるお方であったとここにあります。 本当にこれは人間には理解できませんけれど、本当に驚くべき主のご愛だと思いました。神様ご自身が仕えてくださる。本当にこれはもう、何という恐れ多いことではないかと、そのように思ったわけなのです。 ヨハネの福音書の13章1節からしばらく読みたいのですけれど。 ヨハネの福音書13:1-5
それから下の14節から17節であります。 ヨハネの福音書13:14-17
本当にこのことも人間には大変に理解できないような主のご愛だと思いました。 イエス様が私たち人間の足を洗ってくださるということ。この足を洗うということは、ものの本によりますと、当時の社会ではどうも奴隷の仕事だったようであります。そのことを神様ご自身が行なってくださったわけですから、本当に何とも驚くべきことであるかと思うわけなのです。 イエス様の、15節にありますように、仰られたこの模範、模範を示したというふうに主は仰られました。そのイエス様の模範というのは、本当のへりくだりの模範であったと思うのです。このようなものでありました。私たちもまた、互いに足を洗い合うべきであると主は仰ってくださいました。 ヨハネの手紙第Iの3章16節から19節のところも見ていただきたいと思います。 ヨハネの手紙第I、3:16-19
それから、 ヨハネの手紙第I、4:9-11
そして三番目に私が示されましたことは、主に全てを頼るということでありました。主に全てを頼り切るという、そういうことであります。 ペテロの手紙第I、5:5-7
ここにも同じように、高ぶる者に敵対して、へりくだる者に恵みを与えられると、ヤコブの手紙と同じことが書いてあります。そして、いっさいの思い煩いを、全て神様にゆだねなさいとあります。どんなことでも、すべてを主に頼るということ。 この頼るということがへりくだるということの具体的なことではないかなというふうに思っているわけなのですけれど。全てがお出来になる神様に全てを頼りゆだねる。本当にそのときに私たちの心は安らぎが来るのではないでしょうか。 しかし確かに私たち主を知った者は、何かとんでもない大きな患難を前にしたときには、自分ではやっぱりどうすることもできませんので、主に助けを求めて、頼ろうとするのではないでしょうか。 「神様。助けてください。」と心から叫び求めると思います。でももっと小さな日常的なことでも、主に頼ることができるというのが、実は恵みであると思うのです。 そのようなとんでもない大きな問題、困ったことを主にお願いするということ。そのことも、もちろんすばらしいことだと思いますけれど、毎日の主との交わりが、本当は恵みになるということを色々経験するようになるのではないかと思うのです。いつも主に頼りたいという思いを持てればいいと、そのように本当に思うのです。 ダニエル書の10章の12節を見ていただきたいと思います。 ダニエル書10:12
ここにも、へりくだろうと決めたその初めの日から、主との交わりが新たに始まると書いてあります。 そして私たちの全てのことをイエス様はご存知であります。主が知ってくだされば、本当に安心だと思うのです。本当の安心があるというのは、主がいらっしゃって、主が全てをご支配されるからではないでしょうか。 主に頼れば、本当に安心であります。主にゆだねれば不安から解消されます。すばらしい人生になる本当の秘訣がここにあるのではないかと、そのように思いました。 ということで、今年頂戴いたしました目標、今年こそへりくだろうという導きの中で与えられました三つのことからみことばをお読みしてみました。 私たち、私など本当にイエス様から頭をゴンゴンと叩かれて、へこまされてまいります。しょっちゅう、ゴンゴン叩かれて、かなり痛いです。これはやっぱり。ゴンゴンとやられます。 どうしてかと言いますと、今思いますと、自分でやっぱりへりくだろうと思っても、なかなかこれは出来ないです。へりくだることの大切さというものは、交わりの中から学ぶわけなのですけれど、これ・・・ (テープ A面 → B面) ダニエル書の4章37節。この世界、当時の王様が証しをしていることばがありましたけれど、 ダニエル書4:37
この王様であるネブカデネザルという人は、もう当時の世界の王様だったようであります。一番の権力者であります。そして大変に主の前に、人の前に高ぶった人だったようであります。 自分の金の像を作って、それを礼拝しない者は殺されてしまうというのは、大変に恐るべき王様だったということが前のところに書いてありますけれど、でもそのような高ぶった王様であっても、主のみわざによってへりくだったというふうに書いてあるわけです。 この世界一の傲慢な王様が、主がへりくだる者に変えてくださった。本当にこれはもう何という奇跡であるかと思うのです。 三つほどみことばを読んで終わりにしたいと思いますが、 コリント人への手紙第II、1:8-12
それから、 マタイの福音書4:25、5:1-3
それから最後に、同じマタイの福音書の11章25節から30節のところになります。 マタイの福音書11:25-30
イエス様はただおひとり、自分はへりくだっているということを証しできるお方であると思います。 そして、このようなものというのは本当に自分自身でへりくだることのできないもの。そのへりくだることのできない自分が、イエス様のところに行って、休ませていただいて、主がお持ちになっておられます、 そのへりくだりをいただくことが出来るように、この一年間、やっていくことが出来ればと、そのように願っております。 どうもありがとうございました。 |