詩篇27篇


長岡兄

(大阪福音集会、2005/07/03)

引用聖句:詩篇27篇11節-14節
11主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。
12私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。
13ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――
14待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

ただ今兄弟にお読みいただきました個所なのですけれど、ちょっと日曜日のメッセージの個所としては変わった個所だと思います。
実はこれは日曜日のメッセージの個所としては、あまり適当でないかもしれませんけれど、これを選んだのではございませんで、御代田のセンターでは、この木曜日に祈り会というのをやっていまして、そのときに交代で短く、だいたい10分、15分ぐらいなのですけれど、みことばを読んだり、宣べ伝えたり、そういうことをするのですけれど、そのときに私が命ぜられた個所がここの個所だったわけであります。
最近私が感じておりますこととよく一致するところがありましたので、今日はもう一度このことをもう少し詳しく、自分自身読んでみたいと思いましたので、このような個所になりましたので、よろしくお願いいたします。

この27篇というのは、ダビデが書いた詩篇でありますけれど、今日のみことばの個所を読みますと、本当にこのダビデは苦しみの中にあったということがわかると思います。試練の中にいるダビデがここにいるということであります。
11節とか12節を読みましても、ダビデの周りに敵が取り囲んでいる、そして待ち伏せをして、ダビデを亡き者にしようとする者がいたということであります。そして偽りの証人が暴言を吐いているということが書いてあります。
これらの試練の中にダビデがおりました。このような苦しみの中にダビデがいたということであります。

私たちはイエス様を信じて、本当に主のあとに付いて行きたいと願うわけでありますけれど、そのような人であっても、こういう苦しみがあるということを本当に改めて思うのです。
しかも当時の苦しみというのは、私どものような簡単ものではなくて、文字通り死ぬか生きるかという、そういう状況だと思います。
ですから、それをそのままダビデは主に申し上げて、祈っていると思うのです。もう耐えられないような、そのような試練、苦しみの中にダビデはいたということではないでしょうか。

そして、今の私たちにもこれほどの生きるか死ぬかということは別といたしまして、こういった苦しみ、試練ということは同じように、まったく変わりなく起きることが多々あるということではないかと思うのです。
信じる私たちにも実は苦しみがある。本当はイエス様を信じて、嬉しいわけですから、一切の苦しみから解放され、現実の問題がなくなってもいいはずなのでありますけれど、実際はさまざまな苦しみが相変わらず残っている。もしくは増し加わるということであります。
本当にそのことは不思議なことなのですけれど、私たちの生活を振り返るときに、確かにこの詩篇の言っているとおりだなということを思うのです。11節、12節のような、そのような状況が私たち信じる者にも同じように与えられるということだと思うのです。

では、一体なぜ信じる私たちにそのような苦しみが与えられるのかということを、考えてみたいと思いました。
本来、主を信じて、本当に喜んで、あとは天国に行くだけであれば本当にいいわけですけれど、実際は苦しみがある。私たちの信仰の先輩であるダビデも大いに苦しんだわけであります。
詩篇のそのあと、34篇のところを見てください。

詩篇34:18
18主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

と書いてありますけれど。この前開かれましたある喜びの集いのときに、兄弟がこのみことばを朗読してくださいました。兄弟はさっきの私の疑問と同じことを仰ってくださったのです。
人が救われてからののちの人生というのは一体何のためにあるのだろう。そしたらその兄弟は、「それはただひたすら砕かれるために、残りの人生があるのだよ。」とそのように教えてくださいました。
私は本当にガーンと頭をなにか叩かれたような気がしたのですけれど、私たちが救われてからのちの人生の目的というのはただひたすら砕かれるという、そのために実は天国に行くまでの期間が残っているのだというふうにその兄弟は仰ってくださいました。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われるとそのようにみことばはあります。ですから色々な苦しみというものは主がご用意してくださることであるということだと思います。
そして信じる者に与えられる苦しみには、聖書を見たときに、どうもふたつの苦しみがあるのではないかなというふうに思いました。

それはどういうことかと言いますと、ひとつは自分の罪がやっぱりあります。ひとりひとり気が付いている罪もあれば、付いていない罪もあるのですが、その自分の罪のゆえにもたらされた苦しみというのがあると聖書は言っております。
そしてもうひとつは、イエス様を信じるその信仰ゆえに与えられる迫害としての苦しみもあると、そのように聖書は言っております。このふたつのことを今日は考えてみたいと思いました。

最初の、自分の罪のゆえにもたらされた苦しみがあるということでありますけれど、ペテロの手紙第Iの4章15節を見ていただきたいと思います。

ペテロの手紙第I、4:15
15あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

とあります。
このような罪を犯して、私たちが苦しみを受ける者であってはならない。逆を言いますと、このような罪の結果として私たちは現実の問題として苦しみを受けるようになるということであります。罪ゆえに苦しみを受けることがあるということです。
そしてそのようなことがあってはならないと書いてありまして、このような罪から離れるようにという勧めであると思います。このような苦しみというものは、自分の罪ゆえであればやはり自業自得であると思われるわけです。

その罪をもし人が示されたのであれば、報いとしての苦しみを現実の生活の中で甘んじて受けることは致し方ないと思います。でもそれだけではなくて、私たちは悔い改めて罪から離れるべきであると思うのです。
罪ゆえの苦しみというのは、自分が自分の罪をまず正しく知るための不可欠なことではないかと思いました。そして私たちが悔い改め、主の道に立ち返る、そのための主の尊い導きがこの苦しみであると言えるのではないかなぁと思いました。
詩篇の107篇を見てください。107篇の17節から22節を読んでみたいと思いますが。

詩篇107:17-22
17愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。
18彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。
19この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
20主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
21彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
22彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。

このように書いてあります。
自分のそむきの罪のために悩んだと書いてあります。そして、主に向かって叫んだとここにあります。
それからヨハネの手紙第Iの1章5節から7節も見ていただきたいと思います。

ヨハネの手紙第I、1:5-7
5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ここには光とやみというのがあると書いてあります。光とやみがある。そして私たちが光の中を歩んでいるのであれば、イエス様が流された、その血というものはそのすべての罪の赦しとして働くことがお出来になるとあります。
本当にありがたい、罪からの解放、救いであると思うのです。
では、ここに書いてあるやみというのは一体どういうことかということであります。そのやみのことは左側のページのところに書いてありました。

ヨハネの手紙第I、2:9-11
9光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
10兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
11兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

ここに、やみというのが書いてありますけれど、それは具体的なことであると言っております。
兄弟を憎むという、そういう人。それがやみの中にいるということになってしまうとあります。本当にそのようなことがあってはならないと思うのです。このようなことになりたくないと自分も思います。
反対に、兄弟を愛する者というのは、光の中にとどまる者であると書いてあります。兄弟を愛する者なのか、それともそうではない者なのか。本当に天と地ほどの違いがあると思うのです。本当に兄弟を心から愛する者になりたいと、そのように思うわけなのです。

ヨハネの手紙第I、1:8-10
8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

私たちは本当に光の中にとどまりたいと思っているのですが、でも弱い心の中にそのやみがはいることがあるのではないでしょうか。
そのようなときには、このみことばがありますので、本当に悔い改めて、罪を赦していただく必要があると思います。10節のところ。
「罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とする。」とありますけれど、だれもが罪を犯してしまっている、例外はないということではないかと思うのです。ですから本当に私たち、自分は悔い改めて、神様の光の中に立ち返る必要があると思うわけなのです。

ルカの福音書も見てほしいのですけれど、バプテスマのヨハネという人が現われて、色々な話をしております。

ルカの福音書3:7
7それで、ヨハネは、

これはバプテスマのヨハネであります。

ルカの福音書3:7-9
7彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
8それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
9斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

ここでバプテスマのヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして来たそれらの方々、この中には非常に身分の高い人もいたと思いますし、そうでない人もいたかもしれませんけれど、色んな人が彼から洗礼を受けようとして来たわけであります。
別にヨハネに対して文句を言いに来たわけではないわけなのです。でもバプテスマのヨハネはこれらの方々に、「まむしのすえたち。」というふうに言っているわけなのです。
「まむしのすえたち。」これはそのとおり受けますと、大変な厳しいことばではないかと思うのです。

ヨハネは彼らから石を投げられたわけではありませんでした。でも、「まむしのすえたち。」と言っているわけです。
どうしてそのようなことを言わなくてはならなかったのか。本当に私たちが自分の心の中を奥の底までジッと見るときに、確かに自分という者は、そのまむしのすえであるということを認めざるを得ないのではないかと思うのです。

「まむしのすえたち。」とヨハネは言いました。どうしてそういったものが神様の御怒りをのがれることができるのか。そのようにヨハネははっきりと言っているわけであります。
でも、それならそれでもし私たちが自分をまむしのすえであると認めるのであれば、悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと。そのようにヨハネは話をいたしました。そしてそのあとです。10節からのところも見てください。

ルカの福音書3:10
10群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」

確かにこれはもっともな質問だと思うのです。あなたがたはまむしのすえである。そして、悔い改めをするようにと。実を残すようにしなさいというふうにヨハネは言ったわけであります。
そして群衆はヨハネに、「ではどうしたらよいのか。」というふうに言っているわけです。

ルカの福音書3:11-14
11彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
12取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
13ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
14兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

そのように色々とヨハネは言っておりますけれど、これらのところを私たちが受けるときに、ヨハネが言っている悔い改めというのは、単に頭を下げることではないということです。
単に頭を下げることではなくて、自分に示された罪から離れて生活が変わってくること。それがヨハネが言っていることではないかと思うのです。
やみの中の道から光の道への方向転換を実際の生活の中で行なうのが、聖書の言っている悔い改めではないかと思いました。

ヨハネの手紙第Iの、もう一回見ていただきたいのですけれど、3章16節から18節も見てください。

ヨハネの手紙第I、3:16-18
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

それからその次の3章の23節と24節も見てください。

ヨハネの手紙第I、3:23-24
23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
24神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

このようにあります。
罪ゆえに私たちはそれぞれのふさわしい苦しみというものが実際に与えられ、遭遇いたしますが、本当にそれは神様のあわれみによって、私たちが立ち返って、主の光の道に行くという。そのような導きであるということを思いました。
次に、信じる者が受ける苦しみとして、二番目のことでありますけれど、イエス様を信じる信仰ゆえに受ける迫害があると聖書は言っております。そのことについて考えてみたいと思いました。

今度はペテロの手紙第Iの4章からです。ペテロの手紙第I4章16節から19節を見てほしいと思いますが、

ペテロの手紙第I、4:16-19
16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
18義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
19ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

ここには神様を信じるゆえに与えられる苦しみがあるというふうに言っております。そしてその苦しみをもし受けるのであれば、恥じることはない。かえって、神様を崇めるようにと言っております。
そして真実であられる創造主なる全能の主にその問題を自分のたましいといっしょにお任せしなさいと言っていると思うのです。
そのようなことは本当に難しいことと思いますけれど、聖書の中では本当にそのことを現実の問題の中で実行した人たちがたくさんいるということが書いてあります。

ある人の例は、使徒の働きの7章のところであります。使徒の働き7章の54節から60節。
ステパノという人がおりました。イエス様を信じて、当時の人々にイエス様のことを宣べ伝えた。その結果として大きな迫害を受けてしまったのであります。

使徒の働き7:54-60
54人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
59こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

ここにイエス様を信じる信仰ゆえに石を投げられて殺されたステパノという方がおります。そして、なぜステパノはこのように自分を殺しに来た人々に対して祈ることができたのか。
本当に驚くべきことであると思うのですけれど、以前、ある、これもキャンプのときにベックさんが話してくれました。

私たちは兄弟姉妹、また隣人を本当に心から愛するべきである。でも自分のところに仲良しに来る方に対しては確かに私たちは愛することができるのではないかと思うのですけれど。
でもこのときのステパノのように石をもって非難したり、またこのときの場合は殺しに来るという、そういう極端な例でありますけれど、そういう方を本当に愛することができないのであれば、それは単なるわがままにすぎないというふうに仰られました。
そのことも本当に私はよく覚えているのですけれど、大きな驚きであったわけであります。

ステパノは自分を殺しに来る方々に対して、本当に心から愛することができたということです。そして、どうしてそのような愛を・・・

(テープ A面 → B面)

・・・とることができたのか。それは天を見つめて、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見ていたととあります。主の力によってそのことができたステパノであったということを知ることができました。
ですから彼は死をもって殺しに向かって来る人々を本当に愛することができたのです。
そして、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」とそのように真心から祈ることができたわけであります。本当に驚くべきことではないだろうかと思いました。

マタイの福音書5章10節から12節のところも見てください。

マタイの福音書5:10-12
10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
11わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
12喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

それから、

マタイの福音書5:43-46
43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
46自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

ここに自分の敵を愛しなさいという、到底これは私たちに不可能なことを主は仰っておられますけれど、本当にこれはその通りやりなさいと言ってもできる人はだれもいないのではないでしょうか。
でも私たちができなくてもイエス様はそのことをおできになる方であります。
私たちが本当にイエス様の愛をいただいて、主の前にへりくだろうとしたときに、このような到底できないことも主はさまざまな形で導いてくださるお方ではないだろうかと思います。自分の力では絶対にこれはできないことだと思うのです。

ペテロの手紙第Iの2章19節から25節も見てください。

ペテロの手紙第I、2:19-25
19人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

本当にイエス様が大きなみわざを十字架の上で成してくださいました。
そしてよみがえられたイエス様を私たちが心から悔い改めて受け入れるときに本当に主がこのような者ひとりひとりの中におはいりになってくださっている。完全な律法としてさまざまに私たちを導いてくださるとあります。
そして私たちが召されたのはこのみことばによりますと、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、神に喜ばれる。そのために私たちは召されたというふうにありますから、本当にこれも驚くべきことだなと本当に思います。

マタイの福音書22章を見ていただきたいと思います。マタイの福音書22章の36節から40節。

マタイの福音書22:36-40
36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
38これがたいせつな第一の戒めです。
39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

本当にこのみことば、イエス様が私たちに要求している唯一のことだと思うのですけれど、すべてこの中に主の規範と言いますか、律法と言いますか、願いと言いますか、それが込められていると思うのです。ですから本当に私たちにとって忘れられないみことばとなるのではないでしょうか。
罪というのは何かということを思うときに、このみことばを実現できないことが罪であるということを思います。神様を愛さない。そして隣人を愛さないということが罪であるということと思います。
本当に絶えず悔い改めて、このみことばを本当に自分のものにすることができるように祈りながら主に頼っていきたいと思うわけなのです。

私は集会に来てある程度年月が経ってしまいましたが、このみことばを自分の力でできると言っている兄弟姉妹にまだ一度も出会ったことがありません。
このみことばをお読みして、とても自分はそういう者ではないと、だれもがそのように証しをされました。私ももちろんそうなのです。
でも私ができなくても、全能のイエス様はおできになる方であります。ですから主に願って、このみことばも本当に自分のものとすることができるように、そのような人生になりたいと、またさせてくださるように祈りたいというふうに思いました。

最後にローマ人への手紙の5章を読んで終わりにしたいと思います。
今日は、信じる私たちにも苦しみが与えられる、どうしてその苦しみがあるのだろうかということを自分自身考えてみましたので、そのことを申し上げたわけでありますけれど、最後に5章の1節から5節を読んで終わりたいと思います。

ローマ人への手紙5:1-5
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ここに書いてありますように、患難というものは確かにある。でもそれは、忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、そして希望を生み出すとあります。
そしてこの希望は決して失望に終わることはない。どうしてかと言いますと、私たちがそれを自分で行なうのではなくて、私たちに与えられた主の御霊様によってそれが実現されるのだとここに言っております。
神の愛が私たちの心に注がれているという現実の立場があるということであります。本当にありがたいと思います。

どうもありがとうございました。




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