引用聖句:創世記15章6節
ローマ人への手紙10:9-11
今日は先ほど兄弟がお話ししてくださいましたけれど、「イエス様を信じる信仰」ということで、みことばをお読みしてみたいと思いました。 私たちイエス様を信じる者にとって、一番重要で基本的な立場というのはいったいどういうことだろうかということを、最近時々考えるようになったのですけれど、それはイエス様を本当に真心から信じることであるということを思いました。 まずそれがあるのではないだろうかなというふうに思ったわけなのです。 私も、本当に不思議なことなのですけれどイエス様を信じるようになりました。 イエス様を信じるということは結局、聖書のみことばを全部信じるということだと思いますし、事実、この聖書の最初の一行から最後の一行まで、文字通り神様のみことばとして、自分は信じることができるようになったわけなのです。 このことは本当にもう不思議なことだと、本当に思います。よくこの自分のような者がイエス様を信じることができるようになったものだと、本当にこれは不思議でならないわけなのです。 では、このイエス様を信じるというのは、いったいどういうことなのかということであります。 それはイエス様を自分の身近な方としていただいて、本当に心から安心するということではないだろうかなと思いました。 小さな子ども、幼子が親の膝の上に上ったり、また親に手を繋いでもらったりしまして、安心して喜ぶようなことではないだろうかなと、そういうふうに思ったのです。 私の友人のある兄弟。信仰をいただいて、結婚をして、何人も子どもが授かりました。あるときその兄弟が仰ってくださったのですが、「自分の子どもは、自分に対して絶対的な信頼がある。」と、そのようにお話ししてくださったのです。 確かにそうです。本当に私も、自分も自分の子どもを持ってわかりました。不思議なのですけれど、子どもは確かに親に対して絶対的な信頼がある。私たちもかつては子どもだったわけですから、そのことを思い出すのではないでしょうか。 イエス様を信じるというのは、どうもそういうことではないだろうかなというふうに思うようになったのです。 でもそれに対して、私たちはこの世の中に住んでおりますので、何でも信じればいいというものではないということをも知っているわけです。信じてはいけないこともたくさんある。 例えば宗教ということです。よく言われますように、「鰯の頭も信心」というのですか。ただ信じれば、それが何か神様になってしまう。そういう宗教というもの。それは決して信じるべきではない。 私は昔から宗教というのはもう大嫌いでして、決して信じなかった者でありますけれど、でも小さいときなんかは、実家の近くにはお稲荷さんというのがありまして、年末年始の大晦日になりますと、何か火を燃やしたりして、人を、こう、二年参りというのですか。そういうふうに集めておりましたけれど。私も行ったりしてお賽銭をあげたり、お祈りをしたりしたわけなのです。 でもそのところには狐が実は祀ってあったわけなのです。狐のその像が置いてありまして。それを大の大人とか子どもたちが来て拝んでいるわけですから、考えてみますと、本当に不思議なことを自分もしたものだなというふうに、今となってみますと、本当に思います。 そういうものはもちろん信じてはいけないと思うのです。 それから世の中におりますと、さまざまな色んな上手い話がありまして。色んなものが儲かるとか。ワンルームマンションを買いませんかとか、そういうふうな電話は会社にはもうしょっちゅう掛かってきます。 そういうものももちろん信じるべきではないと思いますし。それから色んな噂話がたくさん飛んでまいります。そういうものもだいたい根も葉もないことであります。 そういうことを信じるわけにもいきませんし。十分に私たちも注意しなければいけないのではないかと思うのです。結局、何を信じるのかということが大事なことではないかなというふうに思うのです。 そういう中にあって、本当にイエス様をただ素直に信じることができるようになった。本当にこれは今だもってよくわかりませんけれど、大きな主の恵みとしてあると、そのように心から感謝しているわけなのです。 ガラテヤ人への手紙の2章の16節を見ていただきたいと思います。 ガラテヤ人への手紙2:16
先ほどのみことばの、アブラハムのところです。「彼は神様を信じた。それが彼の義と認められた。」という。アブラハムもやはりそうでありました。 そして、これを書いたパウロもやはりそうであったと思うのです。私たちひとりひとりもこれと同じことを経験したのではないでしょうか。 もちろんこれは宗教とは全くの正反対であります。宗教は、私たちが一生懸命頑張れば何とかなる。そのうち救いが得られるかもしれないと言っているのは宗教であります。本当にこれは人間にはとても無理なこと。まやかしの世界ではないでしょうか。 「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」と書いてあります。 みことばはこのようにはっきりと簡潔に言っているわけです。確かにこれはその通りではないでしょうか。 使徒の働きの10章の43節も見ていただきたいと思います。 使徒の働き10:43
もう一ヶ所。エペソ人への手紙の1章の7節も見てください。 エペソ人への手紙1:7
と書いてあります。人間には罪があるということであります。これは本当に意識するにしろ、しないにしろ、本当にこれは大きな問題であります。人間には罪があるということです。 罪というのは、私たちのわがままであります。私たちの神をも恐れないような、本当に傲慢な思いであります。そして愛がないということではないでしょうか。 そういう罪が周りの人を苦しめて、そして自分を苦しめて、さらに神様をも苦しめてきたものであります。これを何とかしなければならないということであります。 そして、その罪を神様ご自身であられるイエス様が、神の御子であられるイエス様が、全てを負ってくださって、十字架につかれたということ。 そのことを心の目で見ることができるようになったときに、罪の赦しが成し遂げられまして、私たちは義と認められる者となりました。イエス様のすばらしい救いの中にいれられる者となったわけであります。 人が自分のわがままを認めて、神様の前に悔い改めるときに、私たちはイエス様を信じることができるようになって、救いをいただく者になりました。ペテロの手紙第Iの1章から見ていただきますが、 ペテロの手紙第I、1:8-9
本当に、私たちのひとりひとりの証しではないかと思うのです。喜びの証しではないでしょうか。 罪赦された者がイエス様との交わりの中にいれられて、本当に安心できるようになりました。これはもう、何という喜びではないでしょうか。 みことばは、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」と、そのようにあるわけであります。 しかし、イエス様を信じて救われた者が、その歩みの中で悩むことが時にあると思うのです。苦しむことがあります。 大きな試練に遭ったり、相変わらずゼロにはならない、自分のその罪深い性質に苦しんだりするときに、人は悩んだり考えたりするわけであります。 自分の信仰はいったい大丈夫だろうか。これはだれもが一度は真剣に考えたことがある心の問題ではないでしょうか。 自分が救われるために何かが欠けているのではないだろうか。もっと何か決定的なことを行なったり、経験したりする必要があったのではないだろうかと、そういう疑問が湧き上がって来ることがあると思います。 マタイの福音書の7章から見てください。21節から23節の個所であります。 マタイの福音書7:21-23
これは本当に全ての人が震撼とさせられるようなイエス様のみことばではないかと思うのです。こうなっては大変だということです。 取り返しのつかないことであります。「しまった。」と思うだけでは、これは済まされないことだと、聖書を知る者はだれもが思うのではないでしょうか。したがいまして、問題は21節のところにあると思うのです。 マタイの福音書7:21
と、イエス様は仰られました。 この、「天におられるわたしの父のみこころ」というのは、いったいどのようなことなのでありましょうか。いったい救われるためには何をしなければならないのかということであります。聖書はこの根源的な疑問に対して二つの道を啓示していると思うのです。 一つは、神様のみこころにかなう者として、神様の決められたルール、すなわち律法というのがありますけれど、決められたそのルールである律法を全て守る人間になるということであります。 もう一つは、神様のそのルール。律法をどうしても守ることのできない人間が自分のわがままを悔い改めて、イエス様を信じる信仰にいれられるという道であります。 実はこの聖書全体は、この異なった二つの道を神様によって徹底的に、そして人間がみこころを受け取ることができるように啓示されたものだと思うのです。 ヨハネの福音書の6章の28節と29節を見てみたいと思います。 ヨハネの福音書6:28-29
イエス様は神のわざ、すなわち、父のみこころを行なうためには、何をしたらよいのかという、その疑問に対して仰られました。 「神様が遣わした者、すなわち、イエス様を信じること。それが神のわざである。」とお答えくださいました。 イエス様を真心から信じるということ。それが父のみこころであり、人間にとって全てであるということだと思ったのです。それ以外には救いがないということであります。結局人はいつもこのところに戻って来るものではないかと思うのです。 ヨハネの福音書6:38-40
「父なる神様のみこころとは、人がイエス様を信じることによって永遠のいのちをいただくことにある。」とあります。 本当にこれはもう、何という恵みがここにあることではないかと思うのです。私たちの自分の努力ではない。自分のわざではなかったということでありました。 ローマ人への手紙の3章からも見てみたいと思います。 ローマ人への手紙3:20-24
先ほどのあの疑問がありましたけれど、天におられるわたしの父のみこころを行なうにはいったいどうしたらよいのかという、その大きな疑問に対するはっきりとした聖書の答えがここにあるのではないかと思ったのです。 この厚い聖書の要約がここに示されているとも思いました。 律法を行なうことではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められて、救われるのだということであります。 そしてその元となることとは、イエス様の十字架のみわざであるということであります。 イエス様が私たちひとりひとりの罪を背負ってくださっている。自ら十字架の上で血を流され、死んで、そして三日目によみがえってくださったという、そのすばらしい十字架のみわざがありました。 本当に何とすばらしい神の義が示されたことでありましょうか。何ともありがたい神様の恵みがここにあることでありましょうか。そして、何と大きな喜びがここにあることだと思うのです。 マルコの福音書の10章からも見ていただきたいと思います。最近時々読む、私が読むようになったところなのですけれども。 マルコの福音書10:13-16
本当に、イエス様の救いをいただいて年月が経ってきますと、忘れがちになるみことばではないかと、自分自身思ったのです。 イエス様を求めて、ただ慕ってくる幼子ではなくて、その子どもを叱ってしまうような、賢い大人になりたがるような、そういう自分がいるのではないかと思いました。 子どもはいつまで経っても実は親にとっては子どもであります。 私たちはイエス様を離れて立派な大人として歩みたいという生まれながらの、何かそういう欲求があると思うのです。救われてからも、この独立心というものはなかなか無くならないわけであります。 ですからこのみことばは、自分にとって必要なみことばだと思ったのです。いつまでも主は私たちの本当の親であり、私たちは子どもであると思うのです。子どもの私たちは、イエス様が本当にもう大好きであります。 もう一ヶ所、ヨハネの福音書の3章の1節から15節の非常に祝福を受けた興味深い方がここに出てきますけれど。 ニコデモという、そういう人が出てまいります。 ヨハネの福音書3:1-15
(テープ A面 → B面) 当時の民の指導者というふうに書いてありますから、おそらく大臣クラスの、そういう偉い立派な人だったと想像されるわけであります。しかし彼はイエス様のところに出掛けてまいりました。これは本当に驚くべきことだと思うのです。 当時のイエス様は、おそらく30歳少しのお歳であります。そういう若い方のところにこのニコデモ、当時のエリートが、夜、こっそりと出掛けて来たわけであります。本当にすばらしいことをニコデモはしたものだと思うのです。 そして幼子のようにイエス様を信じなければ救いがないということ。イエス様との交わりの中で知ることができた。本当に幸いな人となったわけであります。きっとこのニコデモは主の救いを喜んでいただいた者となったのではないかと、そのように本当に思われてならないわけなのです。 小さな子ども、幼子は親であるお父さん、お母さんの膝の上に乗って、何も考えずにいるときが、本当に一番幸せであります。 幼子は親を疑うことはしません。できないわけです。そういうことは。子どもは親が自分に対して何かよくない悪いことを考えているなどということは到底それはもう考えもしないわけであります。 幼子は、ただ親の手の中で本当に安心しております。絶対的な信頼があるわけです。 父なる神様のみこころとは、私たちがイエス様に対して、本当に幼子のような、そういう絶対的な信頼をもつことではないだろうかな。と思ったのです。 今の続きのところです。 ヨハネの福音書3:16
それから、 ヨハネの福音書1:12
と書いてあります。 イエス様を本当に信じるということ。その中に本当に幸いな恵みがあるのではないかな、と改めて最近思うようになりました。 どうもありがとうございます。 |