日ごとに恵みをいただく


中山兄

(高松福音集会、2003/02/09)

引用聖句:ヨハネの福音書6章48節-51節
48わたしはいのちのパンです。
49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
50しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
51わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

今日お読みいただいたヨハネの福音書のところから、「日ごとに恵みをいただく」ということについて学ばせていただきたいと思っています。
実は私、ちょうど年末の頃風邪を引きました。そういうことで、色々考えさせられたことがあります。
一つは、特に学生の頃に大きな病気をして、イエス様のことを知るように導かれましたので、そのことは本当に心から感謝しています。けれども、そのあとからやっぱり、体があまり丈夫ではなくなって、風邪を引いたときに、寝込んだりとか、結構長くかかったりということが何度もありました。
そういう度に、今回はこうやって回復して、また生かされていますけれども、いつかはこういう感じでこのまま治らなくって、召されるのかなっていうことも思ったりさせられました。

一番最初の大きな病のときは、イエス様をまだ知りませんでしたので、本当に「死」ということがすごく恐ろしかったですし、色んな思い煩いがありましたけれども、そういう意味では、、本当にイエス様を知ってからというものは、死んでからのことも全部イエス様がしてくださいますので、本当に天の御国も約束が与えられていますので、そういう意味では、そのことのありがたさということもすごく思わされました。
けれども、いつか召される。もしかしたら再臨。再臨のほうが先に来てもらいたいなと待ち望みますけれども、けれども、もし再臨がまだだとしても、五年後か十年後か、二十年後かわかりませんけれども、いつかはそういうふうに召されていきます。

で、そのときに、過ぎ去った、例えば五年とか十年間のことも、ちょっと色々考えたんです。五年前はどんなことをしてたかなと、十年前はどうだったかなっていうことを考えましたら、本当にあっという間に五年、十年が経ってしまったなあっていうことを思わされます。
そして、その過ぎた五年とか十年の間に、自分はいったい主のために、って言うとちょっとおこがましい言い方なんですけれども、主がどのように用いてくださったのかっていうことを考えたときに、本当に自分自身は何の働きもできない者であったなということを思わされます。

そのことから、残された期間というのは何日かわかりませんけれども、一日一日の大切さっていうことを、改めて思わされました。今日一日生きることの大切さ、また一回の集会そして、この一回の交わりや、兄弟姉妹がともに集まることの大切さ。そしてありがたさっていうことも思わされました。
毎週同じことの繰り返しのようですけれども、けれどもその一回一回がありがたいなっていうことを、改めて思わされ、そのことに対しても、本当に感謝をすることができるように思います。
そしてまた、祈ることに対しても曖昧な態度を取ってしまうと、本当に大して祈らずして、一年間が終わってしまうということになってしまうのではないかっていうことも思わされます。

みことばの中に、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と書かれています。それは、イエス様が召してくださったのですから、その召しにふさわしく歩みなさいと、私たちに語られています。
また元旦の御代田には行けませんでしたけれども、後でテープを聞かしていただいて、ベック兄の元旦のメッセージも、信じる者の歩みは闘いであるということを仰っていたと思います。その闘いの相手というのはこの世であり、また自分の肉であり、そしてまたサタンであります。
この闘いは、けれども一人で闘うのではなくって、イエス様が代わりに闘ってくださる。そしてまた、ともに祈り、励まし合える兄弟姉妹がいるってことは、本当に感謝なことであると思わされました。

そのようなことを、その寝込んでいた間に考えさせられましたけれども、またもう一つは、自分自身がそういうときに、本当に祈ったり、みことばを読んで励まされて、元気になって。けれどもまた、次の日にはまた喜びがなくなっている。そのような自分というものに気付かされて、本当にひどい場合には、喜んでいた次の瞬間に、やはりもう自分の肉の思いっていうものに戻ってしまって、喜びがなくなっている。
本当に自分は、いかに、喜びを失ってしまいやすい者であるかということも思わされました。

そんなようなときに、ある本を通してとても教えられたことがあります。その本というのは、スポルジョンという人が書いた「朝ごとに」という本なんですけど、この本は一年くらい前に本屋さんで買ったんですけど、1月1日から毎日1ページずつ12月31日まであって、毎日1ページずつ読むような形になってるんですけど、全然日ごとには読めていなくって、一年くらい前に買ったんですけど、ちょうど今頃、2月14日付けのところを読みました。
そうしましたら、このようなことが書かれていました。みことばが最初に一つ引用されてまして、

列王記第II、25:30
30彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。

という一文なんですけども、このみことばからスポルジョンはこのように語っています。

エホヤキンは王宮を出る時、生活費を日払いにされることに決められて退出した。これはすべての主の民の幸福な状態を描いている。実際に必要なものは、その日その日の分である。
私たちは明日の分を必要としない。明日の分は明日の朝が来ない限り必要ではないからだ。六月にのどが渇くのを二月に満たす必要はない。二月には渇きを覚えないからである。

もし私たちが日ごとの必要に欠けることがないなら、何の不足もないはずである。一日に足りる分が、私たちが実際に用いる全部である。
衣食にも、一日分より多く用いることはできない。余分があると、蓄える手間と盗人の番をする心配が伴う。一本の杖は旅人を助けるが、何本もかかえていくのは苦労である。
ご馳走も満足するまでがよいのであって、どんな大食漢もそれ以上食べるとかえってまずくなる。これが私たちの期待すべきすべてである。これ以上欲ばるのは恩知らずである。

私たちの天の父がそれ以上与えられない時、私たちは一日の分をもって満足していなければならない。エホキヤンとは私たちのことである。
私たちは確実な分け前を受ける。それは王から賜るものであり、ここに感謝しなければならない確実な基礎がある。
愛する主にある友よ。恵みはその日その日に必要なものである。あなたは力を余分に蓄えておくには及ばない。
あなたは日ごと上よりの助けを求めなければならないのである。

日々の分があなたのために準備されているということは、なんと安心なことだろう。あなたは伝道において、黙想において、祈りにおいて、また主を待つことにおいて、いつも新しい力を受けるのである。
あなたに必要なものはすべてイエスの中に備えられている。だから、それを絶えず主からいただくようにしよう。
日ごとの恵みのパンが、あわれみの食卓に並べられているのに、空腹をかかえて過ごすようなことをしてはならない。

このような文章でした。
最初に引用されていました、「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」という、その「彼」っていうのは、文章の中に出てきました、エホヤキンというユダの王さまのことですけれども、エホヤキンとは私たちのことであるというふうにスポルジョンは言っています。
それで、みことばから、そのエホヤキンについて少し見てみたいと思います。

列王記第II、24:8-16
8エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はネフシュタといい、エルサレムの出のエルナタンの娘であった。
9彼は、すべて先祖たちがしたとおり、主の目の前に悪を行なった。
10そのころ、バビロンの王ネブカデネザルの家来たちがエルサレムに攻め上り、町は包囲された。
11バビロンの王ネブカデネザルが町にやって来たときに、家来たちは町を包囲していた。
12ユダの王エホヤキンは、その母や、家来たちや、高官たち、宦官たちといっしょにバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は彼を捕虜にした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。
13彼は主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。主の告げられたとおりであった。
14彼はエルサレムのすべて、つまり、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな、捕囚として捕え移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
15彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ連れて行った。
16バビロンの王は、すべての兵士七千人、職人と鍛冶屋千人、勇敢な戦士を、すべて、捕囚としてバビロンへ連れて行った。

今見ましたように、エホヤキンという人は、バビロン捕囚の頃の、つまりユダの王国が滅ぼされる頃の王様であります。それで、最後から二番目の王様ということになります。
この頃のことは、本当にみことばを読んでいましても、本当にややこしいなと思うんですけど、例えば、今のエホヤキンの父親はエホヤキムという一字だけ違う王様です。
しかも名前が変わったり、また一年も経たずに、その王が変わったりという、本当に目まぐるしい時代でした。このエホヤキンも、今のところに書かれてましたように、三ヶ月間しか王ではなかったとあります。そしてまた、9節からのところに書かれてますように、

列王記第II、24:9
9彼は、すべて先祖たちがしたとおり、主の目の前に悪を行なった。

というふうに書かれています。つまりエホヤキンは良い王ではなかった。特に、主の目の前に良い王ではなかったというふうに書かれています。けれども彼はあわれみを受けました。

列王記第II、25:27-30
27ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が王となったその年のうちに、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、
28彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。
29彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。
30彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。

この最後の30節が、先ほどのところで引用されていたみことばです。主の目の前に悪を行なって、そしてバビロンに連れて行かれ、そこで牢獄につながれていたエホヤキンは、このようにあわれみを受けました。
このところを読みますと、本当にエホヤキンというのは、私たちのことだなということを思わされます。
決して良い王ではなく、主の目の前に悪を行なう者でありましたけれども、私たちも本当にそのように、主を知らないときには主に対して悪を行なう者であり、そしてまた、今も自分の肉を見ますと、主に逆らう肉の性質があります。
けれどもあわれみを受けて牢から、つまりこの罪の縄目から解放され、そして王から優しい言葉をかけられて、そしてその位を、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされたとあります。

これは、本当に考えられない、身に余るような処遇のされ方であります。しかも、囚人の服を着替えさせていただいたというふうに書かれています。
本当にその罪でよごれた服を、白い、真っ白な、本当にイエス様の十字架の血潮によって洗われた新しい衣に着替えさせていただいた。本当に、まったく私たちと同じであります。そして一生の間、いつも王の前で食事をしたと書かれています。さらに彼は、その生活費を一生の間、日々の分を王から支給されていました。
このようにエホヤキンは、王からあわれみを受ける者とされました。実はそのエホヤキンの次の王である、ユダの王国の最後の王であるゼデキヤという王様はとてもひどい扱いを受けています。そのことは7節に書かれていますけれども、

列王記第II、25:7
7彼らはゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの両目をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行った。

最後の王であるゼデキヤは、ネブカデネザルによって、自分の子らを彼の目の前で虐殺され、そして両目をえぐり出されて、青銅の足かせにつないでバビロンへ連れて行かれました。本当にひどい扱いを受けました。
けれども、本当に主の前に悪を行なった者である私たちは、主のあわれみを受けなければ、本来このように、ゼデキヤのようにさばきを受けて然るべき者であったと思います。
けれども、主は一方的に私たちを愛してくださって、あわれみをかけてくださって、そして本当にまったく分不相応な扱いをしてくださり、このエホヤキンのように、衣を着替えさせてくださり、そして王の前でいつも食事をする者としていただき、そして日々の必要をいつも与えてくださる者としてくださいました。

ゼデキヤという王は、ネブカデネザルに反逆したというふうに、その前のところに書かれていますけれども、反逆した者と、降伏をして捕囚となった者との違いであるかもしれませんけれども、本当に悔い改めるときに、主はこのように恵みを与えてくださるお方であります。
エホヤキンはその一生の間、日々の分をいつも王から受けていたというふうに言われていますように、恵みはその日その日に必要なものであるということです。日ごとに上よりの助けを求めなければならないということです。
そしてまた、日々の分が私たち一人一人のために準備されているということです。そして力を余分に次の日のために、また将来のために、力を余分に蓄えておく必要はないということです。なぜなら、必要は日ごとに与えられるからです。

そして、私たちに必要なものはすべて、イエス様の中に備えられています。だから、それを絶えず主に求めて、日々主からいただくようにするべきであります。
主を証しすることも、祈ることも、主を待ち望むことも、すべて上からいただく恵みによって、行なうことができます。
今回私自身も、寝込んだときの経験を通して考えさせられた、一日一日の大切さについて、今日一日を主とともに生きることの大切さについて、今日一日を肉に従って歩まず、御霊によって歩むことのその大切さについて思わされたこと。そしてまた、自分がいかに喜びを失ってしまいやすい者であるかということを、思わされましたけれども、実は恵みは本当に、その日その日に新たにいただくものであり、上から与えていただくものであるということを、思わされました

霊的な必要ももちろんそうでありますけれども、イエス様は肉的な必要なことも日ごとに与えてくださると、言ってくださっています。
有名なマタイのみことばには、空の鳥は種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしないけれども、主が養ってくださると書かれています。私たちのいのちの糧も、肉的な意味でも、霊的な意味でも、日ごとに上より与えられるということであります。
決して自分で努力して得る必要はないというふうに、みことばははっきりと言っています。

日ごとに与えられるということで思い出されるのは、イスラエルの民が四十年間、荒野でさまよっていたときに、主がイスラエルの民を養うために与えてくださったマナについてであります。
そのマナについて、少し旧約聖書から見てみたいと思います。

出エジプト記16:11-31
11主はモーセに告げて仰せられた。
12「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」
13それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
14その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
15イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
16主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
17そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
18しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
19モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
20彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
21彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。
22六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
23モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
24それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
25それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
26六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
27それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
28そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
29主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
30それで、民は七日目に休んだ。
31イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。

このように、マナについて書かれています。
マナは、その日その日に、それぞれ必要な分だけ集めるようにと、主から命じられていました。そして多く集めた者も、少ししか集めなかった者も、それぞれ各自の、本当にその必要に応じて与えられたということです。また、次の日まで残しておこうとしても、それは腐ってしまって、次の日には食べることはできませんでした。
けれども六日目には、次の日の安息日の分の二日分を集めることができ、そしてその日に限って、次の日はそれを食べることができました。本当にこのマナという食物は、主が上から与えてくださった食物であるということを思わされます。

そして、イスラエルの民が四十年をさまよった後に、約束の地であるカナンに入ったとき、ヨシュアに引き入られてカナンの地に入って、そしてその地の産物を取って食べた。その翌日から、マナの降ることは止んだというふうに書かれています。イスラエル人に、もうそれ以後マナは与えられませんでした。
本当にそのことを思いますと、マナというものは、主が与えてくださったものであるというふうに思わされます。申命記の8章に、このように主が語られています。

申命記8:2-3
2あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
3それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

このように、人はパンだけで生きるのではない、主の口から出るすべてのもので生きると言われています。イエス様ご自身がこのみことばを引用して、サタンを退けられましたけれども、このように、主はその口から出るすべてのものによって私たちを生かしてくださり、養ってくださいます。
一番最初にお読みいただきました、ヨハネの福音書の6章のところを、もう一度お読みしたいと思います。

ヨハネの福音書6:47-51
47まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
48わたしはいのちのパンです。
49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
50しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
51わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

このようにイエス様は、いのちのパンであるというふうに、ご自身で仰っています。それを食べると死ぬことがないと、言われています。永遠のいのちをもつ、いのちのパンであり、イエス様を食べるということは、イエス様によって生かされるということであります。

ヨハネの福音書6:63
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

いのちを与えてくださるのは御霊であります。すなわち、イエス様ご自身であります。そして御霊によって歩むためには、日々、いのちのパンであるイエス様と交わることが必要であります。
みことばというパン、霊の糧を日々食べることがどうしても必要です。恵みはその日その日に必要なものであり、そして日ごとに上より与えていただけるものであります。
そして日々の分が、私たち一人一人のために用意されている。イエス様によって準備されているということであり、そのものを私たちは求めるときに、それを豊かに、日々与えていただけるということです。必要なものはすべてイエス様の中に備えられています。
最後に、

コリント人への手紙第II、4:16-18
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

ここに、内なる人は日々新たにされていますと書かれています。外なる、この肉の体は衰えていますけれども、内なる人は日ごとに新しくされる。イエス様は私たちを一日一日、新しくすることのできるお方であるということです。
そして私たちの内側に住んでくださり、イエス様ご自身が、私たちの代わりに歩んでくださるお方であります。そのことが御霊によって歩むということであります。
御霊の実は、本当にすばらしいということが聖書の中に繰り返して書かれています。

ガラテヤ人への手紙には、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制というふうにずっと書かれていますけれども、その一つ一つを見ますときに、例えば、愛とか、喜びとか、平安。本当にそのどれひとつ見ても、本当にすばらしい。それが与えられるときには、私たちは本当に嬉しくなります。
けれどもそれはすべて御霊の実であって、御霊によって歩むときに、初めて与えられるものであって、私たちが肉に従って歩むときには決して、与えられないものであります。

私たちはこの、御霊の実を結ぶために、御霊によって歩まなければなりませんし、そのために必要なものは、前もって与えられるというよりは、日ごとに主によって与えられるということが、みことばの語っていることではないかと思わされます。
一日一日、イエス様とともに歩むこと。また私の代わりにイエス様に歩んでいただくこと。そのために、日ごとに上よりのパンを新しくいただいて、歩んでいきたい。そのことを本当に思わされます。

どうもありがとうございました。




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