引用聖句:ヨハネの福音書6章48節-51節
今日お読みいただいたヨハネの福音書のところから、「日ごとに恵みをいただく」ということについて学ばせていただきたいと思っています。 実は私、ちょうど年末の頃風邪を引きました。そういうことで、色々考えさせられたことがあります。 一つは、特に学生の頃に大きな病気をして、イエス様のことを知るように導かれましたので、そのことは本当に心から感謝しています。けれども、そのあとからやっぱり、体があまり丈夫ではなくなって、風邪を引いたときに、寝込んだりとか、結構長くかかったりということが何度もありました。 そういう度に、今回はこうやって回復して、また生かされていますけれども、いつかはこういう感じでこのまま治らなくって、召されるのかなっていうことも思ったりさせられました。 一番最初の大きな病のときは、イエス様をまだ知りませんでしたので、本当に「死」ということがすごく恐ろしかったですし、色んな思い煩いがありましたけれども、そういう意味では、、本当にイエス様を知ってからというものは、死んでからのことも全部イエス様がしてくださいますので、本当に天の御国も約束が与えられていますので、そういう意味では、そのことのありがたさということもすごく思わされました。 けれども、いつか召される。もしかしたら再臨。再臨のほうが先に来てもらいたいなと待ち望みますけれども、けれども、もし再臨がまだだとしても、五年後か十年後か、二十年後かわかりませんけれども、いつかはそういうふうに召されていきます。 で、そのときに、過ぎ去った、例えば五年とか十年間のことも、ちょっと色々考えたんです。五年前はどんなことをしてたかなと、十年前はどうだったかなっていうことを考えましたら、本当にあっという間に五年、十年が経ってしまったなあっていうことを思わされます。 そして、その過ぎた五年とか十年の間に、自分はいったい主のために、って言うとちょっとおこがましい言い方なんですけれども、主がどのように用いてくださったのかっていうことを考えたときに、本当に自分自身は何の働きもできない者であったなということを思わされます。 そのことから、残された期間というのは何日かわかりませんけれども、一日一日の大切さっていうことを、改めて思わされました。今日一日生きることの大切さ、また一回の集会そして、この一回の交わりや、兄弟姉妹がともに集まることの大切さ。そしてありがたさっていうことも思わされました。 毎週同じことの繰り返しのようですけれども、けれどもその一回一回がありがたいなっていうことを、改めて思わされ、そのことに対しても、本当に感謝をすることができるように思います。 そしてまた、祈ることに対しても曖昧な態度を取ってしまうと、本当に大して祈らずして、一年間が終わってしまうということになってしまうのではないかっていうことも思わされます。 みことばの中に、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と書かれています。それは、イエス様が召してくださったのですから、その召しにふさわしく歩みなさいと、私たちに語られています。 また元旦の御代田には行けませんでしたけれども、後でテープを聞かしていただいて、ベック兄の元旦のメッセージも、信じる者の歩みは闘いであるということを仰っていたと思います。その闘いの相手というのはこの世であり、また自分の肉であり、そしてまたサタンであります。 この闘いは、けれども一人で闘うのではなくって、イエス様が代わりに闘ってくださる。そしてまた、ともに祈り、励まし合える兄弟姉妹がいるってことは、本当に感謝なことであると思わされました。 そのようなことを、その寝込んでいた間に考えさせられましたけれども、またもう一つは、自分自身がそういうときに、本当に祈ったり、みことばを読んで励まされて、元気になって。けれどもまた、次の日にはまた喜びがなくなっている。そのような自分というものに気付かされて、本当にひどい場合には、喜んでいた次の瞬間に、やはりもう自分の肉の思いっていうものに戻ってしまって、喜びがなくなっている。 本当に自分は、いかに、喜びを失ってしまいやすい者であるかということも思わされました。 そんなようなときに、ある本を通してとても教えられたことがあります。その本というのは、スポルジョンという人が書いた「朝ごとに」という本なんですけど、この本は一年くらい前に本屋さんで買ったんですけど、1月1日から毎日1ページずつ12月31日まであって、毎日1ページずつ読むような形になってるんですけど、全然日ごとには読めていなくって、一年くらい前に買ったんですけど、ちょうど今頃、2月14日付けのところを読みました。 そうしましたら、このようなことが書かれていました。みことばが最初に一つ引用されてまして、 列王記第II、25:30
という一文なんですけども、このみことばからスポルジョンはこのように語っています。 エホヤキンは王宮を出る時、生活費を日払いにされることに決められて退出した。これはすべての主の民の幸福な状態を描いている。実際に必要なものは、その日その日の分である。 私たちは明日の分を必要としない。明日の分は明日の朝が来ない限り必要ではないからだ。六月にのどが渇くのを二月に満たす必要はない。二月には渇きを覚えないからである。 もし私たちが日ごとの必要に欠けることがないなら、何の不足もないはずである。一日に足りる分が、私たちが実際に用いる全部である。 衣食にも、一日分より多く用いることはできない。余分があると、蓄える手間と盗人の番をする心配が伴う。一本の杖は旅人を助けるが、何本もかかえていくのは苦労である。 ご馳走も満足するまでがよいのであって、どんな大食漢もそれ以上食べるとかえってまずくなる。これが私たちの期待すべきすべてである。これ以上欲ばるのは恩知らずである。 私たちの天の父がそれ以上与えられない時、私たちは一日の分をもって満足していなければならない。エホキヤンとは私たちのことである。 私たちは確実な分け前を受ける。それは王から賜るものであり、ここに感謝しなければならない確実な基礎がある。 愛する主にある友よ。恵みはその日その日に必要なものである。あなたは力を余分に蓄えておくには及ばない。 あなたは日ごと上よりの助けを求めなければならないのである。 日々の分があなたのために準備されているということは、なんと安心なことだろう。あなたは伝道において、黙想において、祈りにおいて、また主を待つことにおいて、いつも新しい力を受けるのである。 あなたに必要なものはすべてイエスの中に備えられている。だから、それを絶えず主からいただくようにしよう。 日ごとの恵みのパンが、あわれみの食卓に並べられているのに、空腹をかかえて過ごすようなことをしてはならない。 このような文章でした。 最初に引用されていました、「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」という、その「彼」っていうのは、文章の中に出てきました、エホヤキンというユダの王さまのことですけれども、エホヤキンとは私たちのことであるというふうにスポルジョンは言っています。 それで、みことばから、そのエホヤキンについて少し見てみたいと思います。 列王記第II、24:8-16
今見ましたように、エホヤキンという人は、バビロン捕囚の頃の、つまりユダの王国が滅ぼされる頃の王様であります。それで、最後から二番目の王様ということになります。 この頃のことは、本当にみことばを読んでいましても、本当にややこしいなと思うんですけど、例えば、今のエホヤキンの父親はエホヤキムという一字だけ違う王様です。 しかも名前が変わったり、また一年も経たずに、その王が変わったりという、本当に目まぐるしい時代でした。このエホヤキンも、今のところに書かれてましたように、三ヶ月間しか王ではなかったとあります。そしてまた、9節からのところに書かれてますように、 列王記第II、24:9
というふうに書かれています。つまりエホヤキンは良い王ではなかった。特に、主の目の前に良い王ではなかったというふうに書かれています。けれども彼はあわれみを受けました。 列王記第II、25:27-30
この最後の30節が、先ほどのところで引用されていたみことばです。主の目の前に悪を行なって、そしてバビロンに連れて行かれ、そこで牢獄につながれていたエホヤキンは、このようにあわれみを受けました。 このところを読みますと、本当にエホヤキンというのは、私たちのことだなということを思わされます。 決して良い王ではなく、主の目の前に悪を行なう者でありましたけれども、私たちも本当にそのように、主を知らないときには主に対して悪を行なう者であり、そしてまた、今も自分の肉を見ますと、主に逆らう肉の性質があります。 けれどもあわれみを受けて牢から、つまりこの罪の縄目から解放され、そして王から優しい言葉をかけられて、そしてその位を、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされたとあります。 これは、本当に考えられない、身に余るような処遇のされ方であります。しかも、囚人の服を着替えさせていただいたというふうに書かれています。 本当にその罪でよごれた服を、白い、真っ白な、本当にイエス様の十字架の血潮によって洗われた新しい衣に着替えさせていただいた。本当に、まったく私たちと同じであります。そして一生の間、いつも王の前で食事をしたと書かれています。さらに彼は、その生活費を一生の間、日々の分を王から支給されていました。 このようにエホヤキンは、王からあわれみを受ける者とされました。実はそのエホヤキンの次の王である、ユダの王国の最後の王であるゼデキヤという王様はとてもひどい扱いを受けています。そのことは7節に書かれていますけれども、 列王記第II、25:7
最後の王であるゼデキヤは、ネブカデネザルによって、自分の子らを彼の目の前で虐殺され、そして両目をえぐり出されて、青銅の足かせにつないでバビロンへ連れて行かれました。本当にひどい扱いを受けました。 けれども、本当に主の前に悪を行なった者である私たちは、主のあわれみを受けなければ、本来このように、ゼデキヤのようにさばきを受けて然るべき者であったと思います。 けれども、主は一方的に私たちを愛してくださって、あわれみをかけてくださって、そして本当にまったく分不相応な扱いをしてくださり、このエホヤキンのように、衣を着替えさせてくださり、そして王の前でいつも食事をする者としていただき、そして日々の必要をいつも与えてくださる者としてくださいました。 ゼデキヤという王は、ネブカデネザルに反逆したというふうに、その前のところに書かれていますけれども、反逆した者と、降伏をして捕囚となった者との違いであるかもしれませんけれども、本当に悔い改めるときに、主はこのように恵みを与えてくださるお方であります。 エホヤキンはその一生の間、日々の分をいつも王から受けていたというふうに言われていますように、恵みはその日その日に必要なものであるということです。日ごとに上よりの助けを求めなければならないということです。 そしてまた、日々の分が私たち一人一人のために準備されているということです。そして力を余分に次の日のために、また将来のために、力を余分に蓄えておく必要はないということです。なぜなら、必要は日ごとに与えられるからです。 そして、私たちに必要なものはすべて、イエス様の中に備えられています。だから、それを絶えず主に求めて、日々主からいただくようにするべきであります。 主を証しすることも、祈ることも、主を待ち望むことも、すべて上からいただく恵みによって、行なうことができます。 今回私自身も、寝込んだときの経験を通して考えさせられた、一日一日の大切さについて、今日一日を主とともに生きることの大切さについて、今日一日を肉に従って歩まず、御霊によって歩むことのその大切さについて思わされたこと。そしてまた、自分がいかに喜びを失ってしまいやすい者であるかということを、思わされましたけれども、実は恵みは本当に、その日その日に新たにいただくものであり、上から与えていただくものであるということを、思わされました 霊的な必要ももちろんそうでありますけれども、イエス様は肉的な必要なことも日ごとに与えてくださると、言ってくださっています。 有名なマタイのみことばには、空の鳥は種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしないけれども、主が養ってくださると書かれています。私たちのいのちの糧も、肉的な意味でも、霊的な意味でも、日ごとに上より与えられるということであります。 決して自分で努力して得る必要はないというふうに、みことばははっきりと言っています。 日ごとに与えられるということで思い出されるのは、イスラエルの民が四十年間、荒野でさまよっていたときに、主がイスラエルの民を養うために与えてくださったマナについてであります。 そのマナについて、少し旧約聖書から見てみたいと思います。 出エジプト記16:11-31
このように、マナについて書かれています。 マナは、その日その日に、それぞれ必要な分だけ集めるようにと、主から命じられていました。そして多く集めた者も、少ししか集めなかった者も、それぞれ各自の、本当にその必要に応じて与えられたということです。また、次の日まで残しておこうとしても、それは腐ってしまって、次の日には食べることはできませんでした。 けれども六日目には、次の日の安息日の分の二日分を集めることができ、そしてその日に限って、次の日はそれを食べることができました。本当にこのマナという食物は、主が上から与えてくださった食物であるということを思わされます。 そして、イスラエルの民が四十年をさまよった後に、約束の地であるカナンに入ったとき、ヨシュアに引き入られてカナンの地に入って、そしてその地の産物を取って食べた。その翌日から、マナの降ることは止んだというふうに書かれています。イスラエル人に、もうそれ以後マナは与えられませんでした。 本当にそのことを思いますと、マナというものは、主が与えてくださったものであるというふうに思わされます。申命記の8章に、このように主が語られています。 申命記8:2-3
このように、人はパンだけで生きるのではない、主の口から出るすべてのもので生きると言われています。イエス様ご自身がこのみことばを引用して、サタンを退けられましたけれども、このように、主はその口から出るすべてのものによって私たちを生かしてくださり、養ってくださいます。 一番最初にお読みいただきました、ヨハネの福音書の6章のところを、もう一度お読みしたいと思います。 ヨハネの福音書6:47-51
このようにイエス様は、いのちのパンであるというふうに、ご自身で仰っています。それを食べると死ぬことがないと、言われています。永遠のいのちをもつ、いのちのパンであり、イエス様を食べるということは、イエス様によって生かされるということであります。 ヨハネの福音書6:63
いのちを与えてくださるのは御霊であります。すなわち、イエス様ご自身であります。そして御霊によって歩むためには、日々、いのちのパンであるイエス様と交わることが必要であります。 みことばというパン、霊の糧を日々食べることがどうしても必要です。恵みはその日その日に必要なものであり、そして日ごとに上より与えていただけるものであります。 そして日々の分が、私たち一人一人のために用意されている。イエス様によって準備されているということであり、そのものを私たちは求めるときに、それを豊かに、日々与えていただけるということです。必要なものはすべてイエス様の中に備えられています。 最後に、 コリント人への手紙第II、4:16-18
ここに、内なる人は日々新たにされていますと書かれています。外なる、この肉の体は衰えていますけれども、内なる人は日ごとに新しくされる。イエス様は私たちを一日一日、新しくすることのできるお方であるということです。 そして私たちの内側に住んでくださり、イエス様ご自身が、私たちの代わりに歩んでくださるお方であります。そのことが御霊によって歩むということであります。 御霊の実は、本当にすばらしいということが聖書の中に繰り返して書かれています。 ガラテヤ人への手紙には、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制というふうにずっと書かれていますけれども、その一つ一つを見ますときに、例えば、愛とか、喜びとか、平安。本当にそのどれひとつ見ても、本当にすばらしい。それが与えられるときには、私たちは本当に嬉しくなります。 けれどもそれはすべて御霊の実であって、御霊によって歩むときに、初めて与えられるものであって、私たちが肉に従って歩むときには決して、与えられないものであります。 私たちはこの、御霊の実を結ぶために、御霊によって歩まなければなりませんし、そのために必要なものは、前もって与えられるというよりは、日ごとに主によって与えられるということが、みことばの語っていることではないかと思わされます。 一日一日、イエス様とともに歩むこと。また私の代わりにイエス様に歩んでいただくこと。そのために、日ごとに上よりのパンを新しくいただいて、歩んでいきたい。そのことを本当に思わされます。 どうもありがとうございました。 |