引用聖句:マタイの福音書5章3節
私の勤務先で同室の先生が先日次のようにおっしゃいました。「仲井間くん、わたしは思い違いをしていたよ。自分の人生は思い違いの連続だった。」 私も自分の過去を振り返ってみますと、私自身も思い違いの連続であったとつくづく感じました。そこから聖書を見てまいりました。 イエス様が最後に弟子達の足を洗おうとすると、弟子達は「洗わないでください。」と言いました。 イエス様が十字架に向かおうとすると引き止めて、「サタンよ下がれ。」と一括された使徒ペテロをはじめ、聖書の中の登場人物も思い違いの連続でありました。そして、ただひとつ、イエス様の御言葉だけが真実でありました。 本日は、この聖書の言葉に対する私達の思い違いについて、学んでみたいと思います。次の御言葉は、聖書を読み始めた頃の思い違いでした。 マタイの福音書18:12-13
私は、自分が羊飼いの立場に立って、全体を把握していないこの羊飼い、一匹のために99匹を放置するのはけしからんと思いました。 山の安全な場所に、99匹を匿ってそれから探しに行ったとは考えませんでした。まして、自分が迷った羊にあたるとは、思ってもみませんでした。 今は聖書の知識として、羊飼いが神様であり、この迷ってる羊が自分であると知ってはおりますが、ときどき私はいつのまにか、自分が羊飼いになったりあるいは、傍観者になっているということに気が付くことがあります。道に迷って必死に祈り救いを待っている羊になっている時間は本当に少ないと思います。 この聖書と似たところは、見つけた1デナリの銀貨、あるいは帰ってきた放蕩息子など、繰り返し繰り返し出て参ります。私達は、気が付かないうちに羊飼いの立場に立ってしまうと言う性質があるように思います。 謙遜な心を持つことができるように、私達は常に主に祈っていきたいと思っております。 私が聖書に触れて大きな思い違いをした最大の御言葉は、「罪」と言う言葉でした。 クリスチャンは、「私達の罪を赦して下さい。」と祈ります。私は、「罪」についていくつかの解説書を読みましたが、全く理解できませんでした。聖書には、罪に関してつぎのように書かれています。 ローマ人への手紙3:10-11
「罪」の意味を知るまで結構長い時間かかりました。罪についてパウロは、 ローマ人への手紙3:23
と述べています。パウロは、 ローマ人への手紙13:13
とあげ、ペテロは、すべての悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口を罪としてあげています。 私は、遊興や酩酊や淫乱と言われるほど、自分の生活は乱れてはいないと思っておりました。すると、つぎの御言葉が、続いたのであります。 マタイの福音書5:27-28
罪とは高ぶり、おごり、ねたみ、悪口など無数にあります。それを心に思うだけで、罪を犯したとイエス様は言うのであります。 この世の罪に対する刑罰は死刑から情状酌量まで、判決にも程度がありますが、神様の前にはプラスかマイナスかしかありません。そしてプラスは即、死刑なのであります。そして私達は、生まれながらに罪を犯す性質を持っていると言うのであります。 罪がどういうものであるかを知り、罪の意識が高まると、パウロの言うように「私は罪人の頭です。」と、叫ばざるを得ないのではないでしょうか。 次の御言葉も思い違いをして衝撃を受けた御言葉でありました。 マタイの福音書10:34-35
本物の平和は神様から来るもので、神様が働いてくださらなければ決して家族の救いもない。逆に主を信頼すれば、主は、あなたもあなたの家族も救うと約束してくださっている。 敵対する家族を見捨てるのではなく絶えず手を差し伸べて、主を見つめて共に家族の救いを待ち祈ることも書かれていることを知りました。 伝道者の書7:18
つぎに、私が思い違いをした箇所は、あの有名な山上の垂訓と言われる御言葉です。 マタイの福音書5:3
私達の少年時代、終戦直後の生活は貧しくて、「生活は貧しくても心は豊かに、心が貧しければ体も貧しくなり元気を失う。」、そのように言われてきましたから、心の貧しい者は幸いであるというのは理解できませんでした。 そして、イザヤ書57章15節が、私に、心が貧しいという意味を教えてくれました。 イザヤ書57:15
もう一カ所66章の2節 イザヤ書66:2
心が貧しい人とは、へりくだった人の霊で、砕かれた人の心をさすこと。詩篇の147篇6節には、 詩篇147:6
この貧しい者とはドイツ語のelend、みじめな者という意味であります。主の御前で自分のみじめさと、むなしさを知った人です。 霊的には貧しいという解説書もございましたが、霊的には豊かで、困難・悩みを克服して、イエス様に似た者とされた者のことであります。 イエス様は、心の貧しい者の見本であられました。いくつかの御言葉を見てみましょう。 ヨハネの福音書5:19
ヨハネの福音書5:30
ヨハネの福音書12:49
また私は、この世は牢獄で、天の御国は死後の世界だと思い違いをしていました。イエス様は、次のように言われ祈られました。 マタイの福音書6:9-10
この地も主イエス様の支配される世界です。義と平和と喜びの世界です。 主イエス様を信じ、主の恵みを受け、罪を赦されて重荷を下ろしているキリスト者は、すでにこの地上においても天の御国が始まっているということを体験するのであります。 次の御言葉は、ユダヤの宗教家たちがイエス様を罠にかけようとして挑んだ論争のひとつです。 マタイの福音書22:25-28
ここで、サドカイ派が持ち出して議論しているのは、 申命記25:5
と言うところらの引用であります。サドカイ派は、人間の甦りはないとの立場でしたが、パリサイ派は人間の死後の復活を信じ、復活の体は地上の体と同じように復活すると信じておりました。イエス様の答えは明解でした。 マタイの福音書22:29-32
サドカイ派の質問に答えて、復活した人間の体はこの世の体とは異なり、天の体として甦る。肉体が死んだ時に婚姻は解消されると答えました。 その上で、神が柴の中からモーセに語りかけた言葉、 出エジプト記3:6
を引用しました。 アブラハムも、イサクもヤコブも死んで、多くの年月がたっていましたが、神は、アブラハムの神で「あった」、イサクの神で「あった」とは言われず、アブラムの神、イサクの神、ヤコブの神で「ある」と言っておられます。 彼らは甦っている証拠を示すと同時に、そのままの体で甦るとするパリサイ人には、肉の体ではなく、霊の体で甦るということも示したのであります。 この箇所の並びから、私は、ダビデ、ソロモン、イザヤ、旧約聖書の中に登場する多くの人物が、主と呼んでいるのは神であり、イエス様であり、聖霊であるというのを理解できるようになりました。 最後に、大きな疑問であり思い違いであった「十字架と血」について学んでみたいと思います。 映画パッションでは、ほとばしる血の残酷シーンが話題になり、多くの観客を集めました。キリスト者は、別の感動を持ってご覧になったと思います。 聖書の中心は、なぜ「血」なのでしょうか。なぜ、神様は、キリストを十字架の刑で血を流す処刑の方法をとったのでありましょうか。神様は、私達が犯した罪は、死刑に値する重罪で、 創世記9:5
とあります。命、流された血は、供え物だったのであります。 出エジプト記には、羊の血をとり、二本の門柱と鴨居にそれをつける。わたしは、その血を見て、あなたがたの所を通り過ぎようと書かれています。 イエスラエルの民がエジプトを脱出するとき、門柱についている目印の羊の血を見て、神はその家を過ぎ越され滅びから救われました。イエス様の十字架の血は、この時の羊の供えものと血を意味しているのであります。 主イエス様の流された血は、私達の命の贖いであり、イエス様の守りでもあります。私達が聖餐で受けるぶどうジュースやパンは、イエス様の贖いの御業の象徴として、その血は十字架の上では欠かせられない最重要なものであります。 主の十字架の死と流された血なくして、父なる神様の愛、イエス様の愛、聖書の愛はないということを私は知ることができました。 「天が地よりも高いように私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあながたの思いより高い」、この御言葉の通りに、神様の思いは、私達の知恵ではとうてい理解することができません。聖書では次のように書かれています。 コリント人への手紙第I、1:18-20
また、 コロサイ人への手紙2:8
箴言16:25
このように警告し、イエス様は、狭い門から入りなさいとおっしゃいました。 マタイの福音書7:13
神の御心を知るに至る狭い門について、パウロは次のように証ししました。 ガラテヤ人の手紙1:11-12
神の御心は人間の知恵ではなく、神からの啓示によって知らされたと述べられています。神様は私達に、啓示でもって神様の奥義に至る深さまでも知らせて下さるのです。 コリント人への手紙第I、2:7-10
私達は、信仰の創始者であるイエス様に、砕かれた心で頼った時に、イエス様は御霊を通して神様の御心の深さまで知らせて下さいます。 ところで思い違いとは、真理から、まことから離れたことに気が付くことです。 自らが神様の道から離れたと気づいた人は幸いであります。ある律法学者の懸命な返事にイエス様は言われました。 マルコの福音書12:34
冒頭の、思い違いをしていたと語った同室の先生に話していると、いろいろな葬儀の手はずはしておるが、思い違いについて、ひとりひとりに謝ることはできないということを話しました。 それで私は、この集会の葬儀のことを話しました。そして、ぜひテープで「本日は、私の葬儀のためによくいらっしゃいました。」と言うテープを、流してみたら如何でしょうかとお話ししました。 「いやー、明るくていいね。まるで、結婚式みたいだね。でも、葬儀だけ教会でとも行かないしーー」と話していました。 イエス様が律法学者に言われた、「神の国から遠くない。」というこの先生の状態から、まことの神の道へ導かれることを祈りたいものであります。 以上であります。 |