引用聖句:ヨハネの福音書7章38節
本日はですね、私達の中にあって、私たちをですね、イエス様や天の父なる神様にとりなして下さる御霊、聖霊についてちょっと学んでみたいと思います。 エペソ人への手紙5:18
という言葉がございます。 これはですね、パウロがエペソの教会にあてた手紙の中でですね、「聖霊に満たされなさい。」と命令しております。 まあ、御霊に満たされるということはですね、神の全ての子らが父に求めることができる、特別の恵みであります。 これなしではですね、贖われた目的である、イエス様にとどまって、その戒めを守り、多くの実を結ぶ生活は出来ません。 聖霊に満たされることはですね、キリスト者の特権であります。 神のみことばである聖書はですね、聖霊の導きで書かれております。聖霊の導きなしには、理解することは出来ません。聖霊は人間の知恵や感情、思考では理解できません。 聖霊の言葉を学ぶですね、形式的に、かん(?)礼拝をおこなっても理解できません。 ギリシャ人は知恵と哲学と信念の探求を誇りにしておりました。人間の力で神の知恵に達することが出来ると、思い込んでおりました。 ローマ人の手紙1:21-22
とあります。 一方ユダヤ人はですね、知識と心理の具体的な形としての律法を持っていることを誇りとしていました。 ローマ人の手紙2:17-19、21
とあります。 ユダヤ人はですね、神の言葉に親しみ、実践することを誇りとしておりました。しかし、自分たちが待ち望んでいたはずのメシヤであるイエス・キリストを拒みました。 人の知恵はですね、それが権威を受けていようといまいと、神と神の知恵を認識するには不充分であります。 隠れた霊的、奥義である神の真理は、ただ、霊的啓示によってですね、御霊の導きによってでしか、理解できないのであります。 まあ、しかし嬉しいことにですね、聖霊はイエス様を信じている者全てに与えて下さいます。 ルカの福音書11:13
聖霊を受けるためにはですね、特別な修養、勉強をする必要はありません。また、何の努力もいりません。 ただ、イエス様が全能の神で、イエス様を信頼する者にはですね、いかなる時にもイエス様がそばにいて下さり、愛して下さって、最善をなして下さるということを信頼することであります。 コリント人への手紙第I、6:19
イエス様の名前の1つはですね、インマヌエルと呼ばれて、神は私達と共におられるという意味であります。 聖書には、 コリント人への手紙第II、3:17
とコリント人への手紙第II、3章17節ですね、「神は霊です。」と。 又、あるいはですね、 コリント人への手紙第II、13:13
とコリント人への手紙第IIの13章の13節ですね。 又、洗礼のバプテスマの時にですね、ベックさんもよくおっしゃいますが、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授ける。」などとあります。 まあ、聖書には書かれておりませんけれども、父なる神、子なるキリスト、聖霊はですね、それぞれ異なる神ではなく、1つの神であると、このように考えるのを三位一体と呼んでおりますが、この真理を知ることもですね、御霊の働きによるものであります。 イエス様がまだ、人間の姿で地上におられた時、イエス様は弟子達に、御霊を助け手として送る約束をなさいました。 ヨハネの福音書16:7
イエス様は、十字架で私達の罪を贖い、よみがえりのを証しとして、約束の聖霊を弟子達に送ることを約束しました。もし、イエス様が去って行かなかったとしたら、聖霊なる御霊は私達の所に来なかったのであります。 ということは、主が生きておられるというこの証しが、なされなかったのであります。 使徒の働き2:1-4
少し飛びまして15節ですね。 使徒の働き2:15
ま、天の父なる神様はですね、激しい風と地響きと炎などをもってですね、従えて、弟子達に聖霊を授けたのであります。 その時の弟子達のですね、酔っ払って騒いでいるのはないかと思われるように見えたのであります。 イエス様が弟子達に約束した時にはですね、イエス様はまだ、人間の姿でありまして、聖霊を受けておりませんでした。しかし、この後からはですね、イエス様は御自身が聖霊をお与えになります。 ヨハネの黙示録21:6
ま、弟子達にですね、聖霊がくだる時には、超自然的な現象が起こりましたが、イエス様は静かにそっと、聖霊を与えて下さる事が多いようであります。 しかし1つ確かなことはですね、聖霊を受けた人は誰でも、聖霊を受けたということを知る、ということであります。 聖霊が注がれる時期、聖霊のくだる体験は、出し方はですね、1人1人、異なるようであります。 話し少し変わりますが、南アフリカはですね、しばしば干ばつにみまわれます。その為に、水を溜めるのに2つの貯水池が作られております。 ある農場には泉があるが、水の勢いが弱いために、貯水池が作られました。これに、昼となく夜となく、たえず静かに泉から流れる水を溜めます。 他の農場では、泉が全くなくて、貯水池を川底、又は墓地に作られ、雨が降ると溜まるように出来ております。 大雨が降れば、2、3時間で満たされる事があります。急激に激しく水は流れ入ります。しかし、泉からの静かな給水は、弱いようでも絶えず流れ入るために、確実に入ります。 洪水のような、大水の場合には、何ヶ月も何年も雨が降らない為に空になる事が少なくありません。 突然、弟子達の前に下った聖霊は、力強く現われ、人々に達し、異邦人も救われました。しかし、こういう風における恵みは、往々にして浅薄で、奥底まで届かないことがあります。 これとは別のクリスチャンは、このような、特殊な激動を経験しません。単純な信頼と、尊敬と、祈りのうちに聖霊の満たしを受けることがあります。 この2つの聖霊の満たしは、どちらがいいとか、悪いとかではなくて、どちらも大切なのであります。 ある農場では2つの貯水池を持ち、お互い、補い合っています。日々に流れる絶え間ない流れは、大干ばつに備えて、又、大雨の時は、大量の水を受けて、たくわえる為です。 あるクリスチャンは、激しい風、溢れみなぎる洪水、火のバプテスマを持ってやってくる、特別な力に接しないと満足しません。 あるクリスチャンは、内からの泉が出て静かに流れる聖霊が、本来、本当の方だと考えます。 しかし、この両方の内に神を求め、いずれの方法で聖霊が来ても、常に祝福を受ける備えをしている方は、幸せな人であります。 喜びの集いのキャンプはですね、大きな聖霊の流れではないでしょうか。一気に洪水のような聖霊を受ける人もあれば、密かにみことばを食べて聖霊に満たされている方もおられます。 ヨハネの福音書7:38
まあ仕事上、経済上、あるいは地理的環境で、キャンプはおろか、みことばに接する機会の乏しい方もおられます。 しかし、渇いた地にも、目に見えない杖のように、絶えず恵みをお与えになっております。 詩篇133:3
ある兄弟は、心の不安な方とですね、仕事の始まる前に、毎朝30分間、3年間続けて聖書を読みました。効果はないように思われました。 しかし、その兄弟が海外に出張して、聖書の読書の会が途切れましたが、帰国したら、その方の顔は輝いて、救われているということを確信したそうであります。 その方は、私達の兄弟姉妹として、メッセンジャーとして活躍されてるそうであります。 エペソ人への手紙1:14
喜びの集いのキャンプは、浜辺の水に例えることが出来るかもしれません。 干潮の時には、浜辺の水は、石や砂に隔てられて分かれておりますが、満潮になると、全ての障害は一掃されて、全てが交じり合って、1つの大海に戻ります。 このように渇いた地や水溜りに、聖霊の大波が来る時、自我は消失して御霊だけが、あがめられる様になるのではないでしょうか。 エペソ人への手紙4:3-5
ま、聖霊の満たしはイエス様の中にだけあります。 イエス様を信じる信仰、絶え間ない信仰によって常に保たれ、新たにされる事によってその流れは強くあふれるようになります。 聖霊の満たしは、御霊によってだけ得られるものであります。 マタイの福音書13:31
信仰は見えないイエス様と、隠れた聖霊に信頼することであります。 信仰とは、この見えるか、見えないかの小さなからし種の中にいる命を認めることであります。 信仰は一切が消えようとするような状態の時にも、私達の願う所、祈る所を超えて未知なる人を強め、力づけて下さる聖霊を信じ、神に栄光を帰することではないでしょうか。 7月21日、御代田の喜びの集いで、グアムの兄弟が、ベックさんのメッセージの司会をして短い証しをして下さいました。 35歳で肝臓癌にかかり、肝臓の3分の2を切除されて3週間ばかりしか経っておりませんでしたが、彼は、死が現実の問題となったら、自分の体をゆるしてあげようと、ニコニコ顔で話しておられました。 ベックさんがメッセージの中で、兄弟は癌と聞かされても、一度もどうして?と思ったことがないと、沖縄の兄弟姉妹達に書き送ったということを紹介されました。 ま、この話を聞いたある姉妹が「どうして?」と思ったそうであります。 後で、兄弟と話す機会がありまして、私共も沖縄県の出身で自己紹介しますと、「沖縄と聞いただけで嬉しくなります。」と。 「沖縄の方の顔を見ると心が弾みます。」と語ってくれました。 ま、兄弟は沖縄の大学を出て、沖縄でサーフィンをして、そしてサーフィンの世界チャンピオンになって、そして今、グアムでサーフィンを中心とした仕事をされておるわけであります。まあ、このようなね、沖縄を大好きな人間は初めてであります。 もうひとり、私達の信仰の仲間にですね、すい臓癌で病にふせてる方がいらっしゃいます。昨年の10月に、すい臓癌が見つかりました。 手術が出来ない進行癌で、せいぜい2ヶ月と主治医の先生のお話でした。全身に癌細胞がまわり、腹水が溜まって、強烈な痛みが時々起こり、度々、全身状態が悪化して、救急車で病院に運ばれることがあります。 それでも夫である兄弟は、北海道から鹿児島まで、メッセージの奉仕を続けておられます。姉妹は、3月の家庭集会で、「死ぬ事に複雑な気持ちもあるが、何故だか嬉しいのを感じる」と、証ししておられます。 グアムの兄弟、そしてこの姉妹の証しに、私達も思わず「どうして?」との思いが起きるのではないでしょうか。 コリント人への手紙第Iの2章の7節、9節、10節、11節と拝読させて頂きます。 コリント人への手紙第I、2:7
コリント人への手紙第I、2:9
コリント人への手紙第I、2:10
コリント人への手紙第I、2:11
御霊の導きによって、人間にはとうてい理解できない神の奥義としての神の知恵と、神様の大きな愛を知らせて下さる御霊である、インマヌエルなるイエス様に感謝します。 最後にみことばを読んで終わります。先ほど、兄弟に読んでいただいた所をもう一度、お読み致します。 ヨハネの福音書7:38
主に感謝します。 終わります。 |