聖霊について


仲井間兄

(上越家庭集会、2002/07/27)

引用聖句:ヨハネの福音書7章38節
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

本日はですね、私達の中にあって、私たちをですね、イエス様や天の父なる神様にとりなして下さる御霊、聖霊についてちょっと学んでみたいと思います。

エペソ人への手紙5:18
18御霊に満たされなさい。

という言葉がございます。
これはですね、パウロがエペソの教会にあてた手紙の中でですね、「聖霊に満たされなさい。」と命令しております。
まあ、御霊に満たされるということはですね、神の全ての子らが父に求めることができる、特別の恵みであります。
これなしではですね、贖われた目的である、イエス様にとどまって、その戒めを守り、多くの実を結ぶ生活は出来ません。
聖霊に満たされることはですね、キリスト者の特権であります。
神のみことばである聖書はですね、聖霊の導きで書かれております。聖霊の導きなしには、理解することは出来ません。聖霊は人間の知恵や感情、思考では理解できません。
聖霊の言葉を学ぶですね、形式的に、かん(?)礼拝をおこなっても理解できません。

ギリシャ人は知恵と哲学と信念の探求を誇りにしておりました。人間の力で神の知恵に達することが出来ると、思い込んでおりました。

ローマ人の手紙1:21-22
21というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり・・・」

とあります。
一方ユダヤ人はですね、知識と心理の具体的な形としての律法を持っていることを誇りとしていました。

ローマ人の手紙2:17-19、21
17もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
18みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
19また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
21どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

とあります。

ユダヤ人はですね、神の言葉に親しみ、実践することを誇りとしておりました。しかし、自分たちが待ち望んでいたはずのメシヤであるイエス・キリストを拒みました。
人の知恵はですね、それが権威を受けていようといまいと、神と神の知恵を認識するには不充分であります。
隠れた霊的、奥義である神の真理は、ただ、霊的啓示によってですね、御霊の導きによってでしか、理解できないのであります。
まあ、しかし嬉しいことにですね、聖霊はイエス様を信じている者全てに与えて下さいます。

ルカの福音書11:13
13あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

聖霊を受けるためにはですね、特別な修養、勉強をする必要はありません。また、何の努力もいりません。
ただ、イエス様が全能の神で、イエス様を信頼する者にはですね、いかなる時にもイエス様がそばにいて下さり、愛して下さって、最善をなして下さるということを信頼することであります。

コリント人への手紙第I、6:19
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

イエス様の名前の1つはですね、インマヌエルと呼ばれて、神は私達と共におられるという意味であります。
聖書には、

コリント人への手紙第II、3:17
17主は御霊です。

とコリント人への手紙第II、3章17節ですね、「神は霊です。」と。
又、あるいはですね、

コリント人への手紙第II、13:13
13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

とコリント人への手紙第IIの13章の13節ですね。
又、洗礼のバプテスマの時にですね、ベックさんもよくおっしゃいますが、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授ける。」などとあります。
まあ、聖書には書かれておりませんけれども、父なる神、子なるキリスト、聖霊はですね、それぞれ異なる神ではなく、1つの神であると、このように考えるのを三位一体と呼んでおりますが、この真理を知ることもですね、御霊の働きによるものであります。
イエス様がまだ、人間の姿で地上におられた時、イエス様は弟子達に、御霊を助け手として送る約束をなさいました。

ヨハネの福音書16:7
7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

イエス様は、十字架で私達の罪を贖い、よみがえりのを証しとして、約束の聖霊を弟子達に送ることを約束しました。もし、イエス様が去って行かなかったとしたら、聖霊なる御霊は私達の所に来なかったのであります。
ということは、主が生きておられるというこの証しが、なされなかったのであります。

使徒の働き2:1-4
1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

少し飛びまして15節ですね。

使徒の働き2:15
15今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

ま、天の父なる神様はですね、激しい風と地響きと炎などをもってですね、従えて、弟子達に聖霊を授けたのであります。
その時の弟子達のですね、酔っ払って騒いでいるのはないかと思われるように見えたのであります。
イエス様が弟子達に約束した時にはですね、イエス様はまだ、人間の姿でありまして、聖霊を受けておりませんでした。しかし、この後からはですね、イエス様は御自身が聖霊をお与えになります。

ヨハネの黙示録21:6
6また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

ま、弟子達にですね、聖霊がくだる時には、超自然的な現象が起こりましたが、イエス様は静かにそっと、聖霊を与えて下さる事が多いようであります。
しかし1つ確かなことはですね、聖霊を受けた人は誰でも、聖霊を受けたということを知る、ということであります。
聖霊が注がれる時期、聖霊のくだる体験は、出し方はですね、1人1人、異なるようであります。

話し少し変わりますが、南アフリカはですね、しばしば干ばつにみまわれます。その為に、水を溜めるのに2つの貯水池が作られております。
ある農場には泉があるが、水の勢いが弱いために、貯水池が作られました。これに、昼となく夜となく、たえず静かに泉から流れる水を溜めます。
他の農場では、泉が全くなくて、貯水池を川底、又は墓地に作られ、雨が降ると溜まるように出来ております。
大雨が降れば、2、3時間で満たされる事があります。急激に激しく水は流れ入ります。しかし、泉からの静かな給水は、弱いようでも絶えず流れ入るために、確実に入ります。
洪水のような、大水の場合には、何ヶ月も何年も雨が降らない為に空になる事が少なくありません。

突然、弟子達の前に下った聖霊は、力強く現われ、人々に達し、異邦人も救われました。しかし、こういう風における恵みは、往々にして浅薄で、奥底まで届かないことがあります。
これとは別のクリスチャンは、このような、特殊な激動を経験しません。単純な信頼と、尊敬と、祈りのうちに聖霊の満たしを受けることがあります。
この2つの聖霊の満たしは、どちらがいいとか、悪いとかではなくて、どちらも大切なのであります。
ある農場では2つの貯水池を持ち、お互い、補い合っています。日々に流れる絶え間ない流れは、大干ばつに備えて、又、大雨の時は、大量の水を受けて、たくわえる為です。

あるクリスチャンは、激しい風、溢れみなぎる洪水、火のバプテスマを持ってやってくる、特別な力に接しないと満足しません。
あるクリスチャンは、内からの泉が出て静かに流れる聖霊が、本来、本当の方だと考えます。
しかし、この両方の内に神を求め、いずれの方法で聖霊が来ても、常に祝福を受ける備えをしている方は、幸せな人であります。

喜びの集いのキャンプはですね、大きな聖霊の流れではないでしょうか。一気に洪水のような聖霊を受ける人もあれば、密かにみことばを食べて聖霊に満たされている方もおられます。

ヨハネの福音書7:38
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

まあ仕事上、経済上、あるいは地理的環境で、キャンプはおろか、みことばに接する機会の乏しい方もおられます。
しかし、渇いた地にも、目に見えない杖のように、絶えず恵みをお与えになっております。

詩篇133:3
3それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

ある兄弟は、心の不安な方とですね、仕事の始まる前に、毎朝30分間、3年間続けて聖書を読みました。効果はないように思われました。
しかし、その兄弟が海外に出張して、聖書の読書の会が途切れましたが、帰国したら、その方の顔は輝いて、救われているということを確信したそうであります。
その方は、私達の兄弟姉妹として、メッセンジャーとして活躍されてるそうであります。

エペソ人への手紙1:14
14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

喜びの集いのキャンプは、浜辺の水に例えることが出来るかもしれません。
干潮の時には、浜辺の水は、石や砂に隔てられて分かれておりますが、満潮になると、全ての障害は一掃されて、全てが交じり合って、1つの大海に戻ります。
このように渇いた地や水溜りに、聖霊の大波が来る時、自我は消失して御霊だけが、あがめられる様になるのではないでしょうか。

エペソ人への手紙4:3-5
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4からだは一つ、御霊は一つです。
5あなたがたが召されたとき召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

ま、聖霊の満たしはイエス様の中にだけあります。
イエス様を信じる信仰、絶え間ない信仰によって常に保たれ、新たにされる事によってその流れは強くあふれるようになります。
聖霊の満たしは、御霊によってだけ得られるものであります。

マタイの福音書13:31
31イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。天の御国は、からし種のようなものです

信仰は見えないイエス様と、隠れた聖霊に信頼することであります。
信仰とは、この見えるか、見えないかの小さなからし種の中にいる命を認めることであります。
信仰は一切が消えようとするような状態の時にも、私達の願う所、祈る所を超えて未知なる人を強め、力づけて下さる聖霊を信じ、神に栄光を帰することではないでしょうか。

7月21日、御代田の喜びの集いで、グアムの兄弟が、ベックさんのメッセージの司会をして短い証しをして下さいました。
35歳で肝臓癌にかかり、肝臓の3分の2を切除されて3週間ばかりしか経っておりませんでしたが、彼は、死が現実の問題となったら、自分の体をゆるしてあげようと、ニコニコ顔で話しておられました。
ベックさんがメッセージの中で、兄弟は癌と聞かされても、一度もどうして?と思ったことがないと、沖縄の兄弟姉妹達に書き送ったということを紹介されました。
ま、この話を聞いたある姉妹が「どうして?」と思ったそうであります。

後で、兄弟と話す機会がありまして、私共も沖縄県の出身で自己紹介しますと、「沖縄と聞いただけで嬉しくなります。」と。
「沖縄の方の顔を見ると心が弾みます。」と語ってくれました。
ま、兄弟は沖縄の大学を出て、沖縄でサーフィンをして、そしてサーフィンの世界チャンピオンになって、そして今、グアムでサーフィンを中心とした仕事をされておるわけであります。まあ、このようなね、沖縄を大好きな人間は初めてであります。

もうひとり、私達の信仰の仲間にですね、すい臓癌で病にふせてる方がいらっしゃいます。昨年の10月に、すい臓癌が見つかりました。
手術が出来ない進行癌で、せいぜい2ヶ月と主治医の先生のお話でした。全身に癌細胞がまわり、腹水が溜まって、強烈な痛みが時々起こり、度々、全身状態が悪化して、救急車で病院に運ばれることがあります。
それでも夫である兄弟は、北海道から鹿児島まで、メッセージの奉仕を続けておられます。姉妹は、3月の家庭集会で、「死ぬ事に複雑な気持ちもあるが、何故だか嬉しいのを感じる」と、証ししておられます。

グアムの兄弟、そしてこの姉妹の証しに、私達も思わず「どうして?」との思いが起きるのではないでしょうか。

コリント人への手紙第Iの2章の7節、9節、10節、11節と拝読させて頂きます。

コリント人への手紙第I、2:7
7私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

コリント人への手紙第I、2:9
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

コリント人への手紙第I、2:10
10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

コリント人への手紙第I、2:11
11いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

御霊の導きによって、人間にはとうてい理解できない神の奥義としての神の知恵と、神様の大きな愛を知らせて下さる御霊である、インマヌエルなるイエス様に感謝します。
最後にみことばを読んで終わります。先ほど、兄弟に読んでいただいた所をもう一度、お読み致します。

ヨハネの福音書7:38
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

主に感謝します。
終わります。




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