引用聖句:マタイの福音書5章38節-48節
今読んでいただいた箇所は、イエス様が山の上で語られたこととしてよく知られております。 本当はマタイの福音書5章から7章まで全部読んでいただきたいのですが、読むだけで時間が終わってしまいそうですから、5章の38節から48節までを取り上げさせていただきました。 5章から7章までの間には、厳しいことがほんとうにたくさん書かれております。 特に今、読んでいただいた箇所の最後の一文章、48節でイエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とおっしゃっているんですね。 このひと言だけを取っても、イエス様が人間ではなかったということをはっきり知ることができるのではと思います。 どんなに立派な聖人君子のような人であったとしても、この文章は言うことができないと思うんですね。人間である限り、間違いは必ず犯します。失敗は必ずあります。「完全」ということは人間ではあり得ないですね。 でも、イエス様は「何が正しいか」ということを人々に教えたかったときに、妥協は一切なさらなかったんですね。妥協は一切なさらずに、「何が正しいかと聞かれれば、天の父が完全であるように、あなたがたも完全でいなさい。」というふうにおっしゃったんです。 もちろん、私たちがそれを成し遂げることはできないと思います。けれども、私たちができないからといって、イエス様は妥協して、「完全でなかったとしてもいいですよ。」とは決しておっしゃらなかったのであります。 私たちは自分自身のことを考えてみたときに、イエス様の基準に合うことができるかどうか、本当に疑問になるんじゃないかと思うんです。 けれども、確かに、イエス様のおっしゃることは完全で、非常にレベルの高いことを要求されていますけど、普段日常生活をしているときに、私たちは自分自身に対してそこまで厳しくはしないのではないかと思います。 生きている間はそれでいいかも知れません。しかし、イエス様が近いうちに来てくださるのでなければ、残念ながら私たちは必ずどこかの時点で死ななければならないんですね。 私は病院で医者をしておりますけれども、多くの癌の患者さんを診断し、治療します。それで、癌とわかった患者さんに癌であることをお伝えすると、8割から9割の方が「自分が癌になるとは思ってなかった」というような反応をされますね。 今、日本の統計を見ますと死因の三分の一以上は癌なんですね。今、ここにおられる方が300人ぐらいでしょうか。そのうち100人以上の方が癌で亡くなる計算になるんですよ。すごい確率ですよね。 それにも関わらず、また、テレビ、新聞報道などで多く癌のことが良く報道されていてよく知っていると思います。それにも関わらず、自分が癌になるとは思わない。なってみてびっくりするという情況じゃないかと思います。 私たちが死ぬということも、三分の一ではなくて100%の確率でもって私たちに臨んできます。 70歳、80歳の方になると病院に入院して来られても「もうここまで生きたんですから、この先、病気になったからといって驚きません。」とご自分の人生をはっきりと掴んでおられる立派な方も少なくないんですけど、一方、80歳になられているにも関わらず、自分が死ぬとは思ってない方も少なくないんですね。 本当にびっくりします、まだまだ生きるつもりでいらっしゃるのかなあ、とか思って。 でも、ご本人は本気なんですよね。自分の人生が終わるという可能性をまったく考えていないのです。しかし申し訳ないんですけど、そろそろロウソクの長さはちょっと短くなってきているんじゃないかなあ、ということがどうしてもあります。 そして、私たちは自分が死に直面したとき、初めて自分の人生が神の目からみてどうであったか、ということに気が付かされるわけです。 それまでは自分の基準で判断して構わなかったんですね。自分で許せれば別に妥協しても構わないし、インチキしたりしてもいいんですけど、最後の最後に逃げることができなくなってしまいます。 イエス様はこういう厳しいことをおっしゃっています。ちょっと見てみましょう。 マタイの福音書5:21-22
マタイの福音書5:27-29
マタイの福音書5:33-34
その後、目には目……、あなたの敵を愛しなさい……などと無理難題のようなことが続けてたくさん書かれていますね。 また、19節にはこう書かれています。 マタイの福音書5:19
先ほど、私はちょっと「生きている間はズルしてもしょうがありません」なんて言っちゃいましたので、ここに違反しましたね、ですから訂正します。皆さん、ぜひ全部守ってください。 実際、私たちは日常生活の中で多くの、主から見た戒めを破りながら歩んでいるということを知らされます。 けれども、それがあまりに頻繁であり、当たり前のようになってしまっているので、慣れてしまっているせいか、いちいち良心の咎めを感じたりしなくなってしまっているかも知れませんね。けれども、やがてそれは最後に必ずつけが回ってくるんです。 ヘブル人への手紙4:12-13
私たちは心の中に、自分では隠しておきたいこと、暗闇と言いましょうか、そのようなものを持っているかも知れません。 でも、聖書のことばはこれらのことのすべてを掘り起こし、明るみに出し、神の前にさらけ出されてしまうと書かれています。このような主の清いご性質の前に私たちは安心していることがとても難しいです。 自分の内側の罪に対して、きちんと処理されていなければ、私たちは安心して毎日を歩むことが難しいのではないかと思います。では、どうしたらいいのでしょうか。 ローマ人への手紙2:1-3
先ほど皆さんに戒めを全部守るようにと申し上げましたが、ここでまた次の戒めに引っかかってしまいました。 ですから訂正します。皆さんに、そのようなことを言う権利は私にはありませんでした。申し訳ありません。 幸いにも、次を読みますと、このように書かれています。 ローマ人への手紙2:4
主の愛とは私たちを悔い改めに導かれる。すなわち私たちは自分の心のうちの暗い部分、罪の部分を、主の清いみことばによって明らかにされる。それによって私たちは悔い改めに導かれることができるのです。 ローマ人への手紙3:23-26
私たちは何かをすることによって自分の罪を消し去ることができるのではなく、ただ、悔い改めによって、主に赦していただくことができるというだけなんですね。 イエス様はここで、「今の時にご自身の義を現すため、」と書かれています。 先ほどイエス様は、マタイの福音書の中で非常に高い主の戒めについて語られましたね。私たちが到底遂行することができない高い基準でありました。けれども、イエス様はそのような清い律法を人々に教えただけではなくて、ご自身は全部守られたのです。 ヨハネの福音書10:37
マタイの福音書でイエス様はたくさん語られましたね。これこそ、父なる神のみこころだと思うんですけど。もし自分が語った通りに、わたしがしていなんであれば、わたしを信じなくてもいいですよ、とイエス様は語っております。 ヨハネの福音書10:38
イエス様が歩んでおられる歩みそのものをみてくださいと言われています。 私たちも口先だけでならいくらでもきれいなことはいえるんですよ。立派なことは言えるんです。 でも実際にその人がどのような歩みをしているか、回りの人たちとどのように接しているか、そこを見るとその人の本質を知ることができるということなんですね。 マタイの福音書27章から見てみましょう。先ほどマタイの福音書5章で、あなたがたは自分を愛してくれる者だけではなく、自分の敵のために祈らなければいけないとイエス様はおっしゃったんですけど、現実にイエス様は自分の敵から自分の命を狙われそうになったわけですね。 マタイの福音書27:11-14
と書かれています。イエス様は、「あなたの敵を愛しなさい。あなたの敵のために祈りなさい。」とおっしゃいました。イエス様はその通りになさっているのです。 もちろん、そんなことをしたらどんな結果になるか、その結果はイエス様の十字架ですね。それがわかっていてもイエス様は、ご自分のおっしゃった戒めのとおりに行動されたんです。 そのことで何を示しているかと言えば、もし、私たちすべての人間が神の律法のとおりにまじめに、ちゃんと生きればどういうことになるか、この世から嫌われる。この世に憎まれ、この世から排除されてしまう。イエス様はそのとおりに生きたので、そのような結果になってしまったんです。 2,000年前にイエス様がお生まれになって、十字架にかかられました。それは2,000年前のその時だったからそうだったのでしょうか。そうではないんです。 イエス様が神のお姿を捨てて、人間としてこの世にお生まれになって、イエス様がおっしゃったように神の基準に従って歩まれたら必ず殺される。それほど私たち人間の世界は私たち人間の罪で満ちているんです。 それがわかっていてイエス様はこの世に来てくださいました。なぜならば、人間の罪のために自分が死ぬ、そのことによってだけわたしはすべての人間に、赦しを与えることができるからだとお考えになってくださったからなのです。 ヘブル人への手紙7:24-25
私たちは、イエス様の教えがあまりに完全すぎて、とてもではないけど行なうことができないということを知りました。そして、そのことのゆえにイエス様が十字架につけられてしまったということも知りました。 イエス様がご自分のまったく清い在り方をお捨てにならずに、ご自身に与えられた使命を全うしてくださり、十字架にかかってくださったがゆえに、イエス様お一人が私たちを救うことができるお方なんです。 ですからここに、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことができると書かれております。 普通は「完全」とか、「絶対」とか、「必ず」とかのようなことばがでてくると、眉唾物ですから気をつけなければいけないんです。 けれども、聖書の中でも完全と、絶対とかいうことばは滅多に出てこないんです。ここはそのようなことばが出てくる非常に稀な箇所であります。そしてそこで語られている完全さというのは、私たちを救うことができるというほんとにびっくりすることなんですね。 これについては聖書は完全ということばを使っているんです。すなわち例外はありません。私たちがだらしなくても、きちんとしてなくても、イエス様は私たちを完全に救うことがおできになるお方なんです。本当に驚くべきことです。 ヘブル人への手紙10:17-23
と書かれています。完全を達成してくださったイエス様が、私たちを間違いなく救うとおっしゃってくださっているんですから、私たちは心配する必要がないんですね。 特に23節には「約束された方は真実は方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しよう」と書かれています。この「しっかり」ということばに、私はとっても励まされます。 希望とはオドオドと告白しても力にはならないんですよ。「希望」が希望であるならば私たちはできるだけ自分に対して、告白することが大切です。 私たちは自信がなくてかまわないんです。問題は私たちじゃないんです。イエス様の方なんです。しっかりしているのは、私たちじゃなくてイエス様のほうなんです。 ですから、私たちもイエス様の確実さ、完全さに対してしっかりと希望を告白したいものだと思います。 そこから私たちは喜びと平安と感謝が生まれてくるんではないかと思うんですね。 ヘブル人への手紙4:13
もう、すべて明らかにされてしまいます。ちょっと嫌ですよね。良心の咎めを感じるんじゃないかと思います。 けれども、私たちのこの罪はすべてが赦されて忘れられています。なぜなら、すでにイエス様が私たちのために罰をお受けになってくださったからなんです。 ヘブル人への手紙4:14-16
本当にすばらしい励ましのことばをいただいています。 イエス様の私たちへの助けというのは、ここにもほんとにすばらしい表現で書かれていますけど、おりにかなった助けということであります。 確かに私たちは絶えず主の守りと助けを必要としておりますが、時々特別な助けが必要になることがあるのではないでしょうか。 たとえば、妬みとかね、怒りとか、誘惑とか、あるいは自己憐憫とかですね、そういうものに私たちは陥りやすい者です。 私はどちらかというと、いろんなものに興味はあって、いろんなことをしたいタイプの人なんですね。そういう人は悪魔に大変よく狙われます。何でもしたいですし。 日頃、死に行く患者さんのケアをしたりしますでしょう。数は多くないですけど、助けることのできない癌の患者さんに私と同年代の方もおられます。 そうすると私たちの人生の長さは思ったほど長くない。あれもやりたい。これもやりたい。あの本も読みたい。あっちも行きたい。こんなこともしたい。ファゴットやクラリネットの他にもう一個ぐらい、楽器もやりたい。そのように気が多いと悪魔の格好の餌食にされてしまいます。 みことばに触れているとそんな時に、大体、「これはちょっと悪魔のささやきだな。」というのを、敏感に感じて避けて通ることができたということが多いですね。 それが、自分は「クリスチャンであることをほんとに感謝だな」と思える時なんです。 それでも、悪魔の攻撃というのは千差万別、いろんなやり方で二つとして同じ方法がありませんね。ですから、時々うっかり一歩踏み出しちゃうことも、時々でもなく結構あります。 それで、「あ、しまった。」ということが多いんですけど、その時はじっとそこで待つしかないんですね。何とかそこから自分の力で抜け出そうとなんて考えてジタバタすると、かえって事態を悪くしてしまうことがあります。 その時はほんとにじっと立ち止まって、身動きをせずに、主の助けが来るのを待つしかないということがわかります。 でも、そうして主の助けを待っていれば、必ず主の助けがやってくるということをたくさん経験しています。 エペソ人への手紙6:10-18
ここで、悪魔に対する時の備えについて書かれています。腰に真理の帯を締め、胸には正義の胸当て、足には平和の福音とあります。 真理とか、正義とか、平和の福音というようなものは聖書の中に見出すことができるものですね。私の心理の帯は結構緩んでいてですね、正義の胸当ては、自分の都合のいいところにしか当たってなくてですね、平和の靴は結構水漏れするんですけど。 そのためにあっちこっちで悪魔の餌食になってしまいやすいんです。ただ、ほんとに感謝なのは、信仰の大盾を与えられている。これは防御の武器であります。 先ほど申し上げたように、こういう時はこの信仰の大盾の影に隠れて一歩も動かない。そして、この信仰の大盾の影にいる限り、悪い者が放つ火矢は、みんな消してもらうことができるんです。 確かに御霊の剣という唯一の攻撃武器も与えられてはいますが、これは滅多に使ってはいけないですね。 とにかく、防御に徹します。そして主の救いの応援軍が来るのをじっと待つことが一番確実な方法ではないかと思います。 時々、誰かを助けるために御霊の与える剣を使うことがあると思います。多分、それは自分を守るためではなくて、誰かを助けるためにとても役に立つものではなかと思います。 ただこれらの武器を正しく、あるいは有効に用いるためには、18節に書かれているとおり、そのためには祈りと絶えず目をさましていること、これがどうしても不可欠であります。 ですから、私たちが主の完全な救いに与かっていること、そして私たちが私たちの人生の最後まで辿り着くために、主がほんとにすばらしい助けの武器を与えてくださっていること、そのことを知ることができれば、ほんとに安心して、時々辛いこともありますが、それでも感謝しながら歩んでいくことができるのではないかと思います。 益々、このみことばから主のすばらしさを私たちが汲み取ることができればほんとに幸いだと思います。 |