引用聖句:マルコの福音書5章25節-34節
私は東京の病院で内科の医師をしているわけなんですけども、与えられている病院が吉祥寺に近いせいか、時折色んな兄弟姉妹から、お電話などで病状の相談とか持ちかけられることがあるんですね。 ただ、私が個人的にあまり存じ上げてない方からもお電話いただくこともあって、相手の顔も見えず、痛いところを触ることもできず、病気の相談を受けて、困っちゃうんです。 で、「お医者さんとよく相談してください。」としか言えないのが正直なところなんですけども、それだけ多くの方が医療ということについて、困っていらっしゃるということを表わしているんだろうなというのを、本当に常日頃から考えています。 それでもし、自分がイエス様のように、たちどころにあらゆる病をいやすことができたら、本当にどんなにすばらしいだろうなっていうふうに思うんです。 けれども残念ながら、私が専門にしている多くの病気は、治すことが難しい病気ばっかりなんです。 外科の先生からはよく、「じゃあ、なにもできない科だな。」なんて言われちゃうんですけども。逆に言えば、切ったり張ったりして治すことのできない色々な病気を専門にしてるっていうことなのかもしれません。 ただ、今ここに書かれていましたように、この苦しんでいる娘さんが、イエス様のところにやって来て、イエス様によっていやされるっていうこの記事は、私にもとっても感慨深いものがあります。 特にここの中では、お医者さんっていうのがどういうふうに書かれてるかって言うと、さんざん彼女からお金を絞り取った挙句、なにもしてあげなかったっていうふうに書かれています。 その2,000年前の同業者である私の同僚に、ちょっと気の毒に感じるわけなんですけども、実際今、じゃあ2,000千年経って、お医者さんはいったいどれだけのことができるようになったかと言うと、大変な進歩をしたと思います。 でも、本質的なことはやっぱり2,000年前ともしかしたらあまり変わってないのかもしれないというふうに思うわけなんです。 この娘さんは、さんざん、お医者さんと呼ばれてる人たちを訪ねて歩いて、何とかしてよくなりたいっていうふうに思ったわけですよね。けれどもかえって病状は悪くなる一方だったというふうに書かれています。 そしてついに、イエス様のことを聞いて、もしかしたらイエス様だったら私のことを治してくださることができるのかもしれないと思って、イエス様に何とかして会うことができないかと思って、やって来たわけです。 彼女がイエス様に触ると、不思議なことに、たちどころに病が消えて無くなったというふうに書かれているんです。 そしてイエス様は、彼女をいやすために例えば、彼女に手を置いて、念力を込めるとか、あるいは七回廻ってワンと吠えるとか、そういったことをまったく必要としなかったんです。 イエス様は自分で意識もしないうちに、もう彼女をいやしていたんです。 すなわちイエス様の本質というものは、やはり人間をいやす力のあるお方そのものでらっしゃるから、彼女がイエス様にどうかしてなんとかしていただきたいという思いで触れたとき、その触り方っていうのはイエス様の周りにひしめいていたほかの群衆とは違っていたということが言えるんではないかと思うんです。 イエス様になんとかして触りたい。すなわちそれは私たちが個人的にイエス様と出会うことが許されたい。そういう切なる願いではないかと思うんです。 そういったイエス様との個人的な交わりそのものがこの娘を治したというふうに言うことができるんではないかと思います。 多くの病は、気からというふうに言われてますけれども、たとえどんな大きな病気があったとしても、「イエス様によって自分のことが知られていて、愛されていて、心配されている、イエス様は自分のためにすべてを捨てて、いのちを与えてくださった。」そのことをもし私たちが知っていれば、それだけでもしかしたら多くの難しい病や悩みや困難が解決してしまうのではないかというふうにも思えるくらいです。 イエス様はこの娘に、「安心して帰りなさい。」というふうに言われています。 本当にすばらしい慰めのことばではないかと思うんですけども、私たちも自分のもっている悩みや苦しみ、そのようなものすべてイエス様のところにもって行って、安心して帰りなさいというふうに言われることができれば本当に幸いではないかというふうに思います。 現実には多くの方々がご自分の病や困難のために病院を訪れて来るわけですけども、そこで本当に奇跡的に治る方もいれば、奇跡が起こらずになかなか病状が進展しないというような方もいらっしゃいます。 でもそのような中にあって、そのような現実にあって、私たちはなおもイエス様を見上げていかなければならないというふうに思うんです。 そういった苦しみ、すなわち病気や医療ということと、私たちの信仰というものはいったいどのように折り合いをつけていけばよいのかっていうのは、誰しもが気になるところではないかというふうに思います。 病についてのもっとも根本的な聖書のメッセージというのは、ヨハネの福音書の11章の中に出て来ます。 ヨハネの福音書11:3-4
このあと、病気だったラザロはイエス様の不思議な力によって息を吹き返すんですけども、これほどはっきりイエス様が病気の意味について仰った箇所はほかには無いと思います。 すなわち、私たちの与えられる病気というのは、死で終わるというようなものではなくって、すべて神の栄光のためのものなんだというふうにイエス様は仰ってるんです。 これは本当にある意味ではびっくりするようなお答えではないかと思います。けれどもそのことを知ると、福音書の中に出て来る、イエス様が病気をいやされた数多くの物語の意味が分かってくるんだと思うんです。 腰の立たなかった方が真っ直ぐされたり、中風の者が床をたたんで家に帰ったり、目が見えなかった人がはっきり見えるようになったり、悪霊につかれて狂人のようであった人がもうはっきりと正気を取り戻してイエス様を宣べ伝えるようになったり。 多くのこれらの物語はすべてイエス様の栄光が現わされる、そのためのものであったということを私たちは知ることができます。 これこそ病気そのものの意味ではないかと思うんです。ですからもし私たちが、何らかの形で肉体的な病、精神的な病、そのようなものを主から与えられているとすれば、この光のもとにその事実を見ることが必要ではないかというふうに思うんです。 聖書が私たちに伝えようとしていること、それはこれらの苦しみや病を通してイエス様ご自身に出会うようになること。私たちがイエス様の着物に触りたい、そのような思いが与えられること。 そしてイエス様にすべてをおゆだねすることができるようになること。それこそすべての病気の解決の源ではないかというふうに思います。 これは重病で深刻な病気でもそうでしょうし、私のこの風邪のように簡単なものであってもそうだろうというふうに思います。 ある兄弟が、以前風邪を引かれたんですよね。お鼻ジュルジュル、咳コンコンで大変だったんですけども、風邪薬を飲まれたんです。 で、ご存知のようにほとんどの風邪薬には鼻の分泌を止めるために、抗ヒスタミン剤っていう成分がだいたい入ってるもんなんですけれども、これはもうばっちり鼻、喉止まるんですけどもね。 けども副作用としてボーっとして眠くなってしまうんですよね。 ですから私はその風邪薬を患者さんに渡すときは、「これを飲むと必ずだるくなるから、気をつけるように。で、それは病気が悪くなったせいじゃないから心配しないように。で、運転するのはやめるように。」っていうふうに注意をしてからお渡しするんですけれども、その兄弟にお薬を渡された先生はたぶんそういうお話をしなかったんじゃないかと思うんです。 その結果、その兄弟はボーっとしてだるくなっちゃったんだそうです。 で、それが何のせいか分からなかったんですよね。ちょうどその時期、その方、色々なお仕事や色んなことで精神的な重荷をたくさん持って、苦しい状況にあったそうなんですけれども、そのためにそこにそういったお薬の影響があって、もう、すっごく落ち込んでしまって、自分はどうすることもできないと思うほどまで落ち込まれたというふうに仰ったんです。 そのどん底でイエス様に、「助けてください。」っていうふうに心から祈って、不思議なことにそのことを通して、すべてを自分の悩みや苦しみや困難やすべてをイエス様におゆだねする、なにせ自分はもう何もできなくなっちゃいましたので、すべてをおゆだねするという不思議な体験をされたんだそうです。 間もなく予定の時間が過ぎると、抗ヒスタミン剤は解消されて消えていきますから、ボーっとしたのも消えていきます。で、予定の時間が来ましたので、風邪も自然にだれのせいでもなく治癒していきました。 兄弟はピンピンとしたわけですけども、治ったあとの兄弟はもう前の兄弟とは、もう本当にうって変わったように心から輝いておられたんですよね。 たった風邪ひとつ、風邪薬それだけで大きく変わってしまったっていうふうに、ご本人はあまり気が付いてないかもしれないんですけども、医者の目から見ると、ただ単に抗ヒスタミン剤でボーっとして、時間が経ったから良くなったっていうだけの事実なんですけども、本人にとってはもう全然違う。 本当に主からのすばらしい経験だったというふうに告白されていました。 要は、医学とか生物学とか、そのようなもので押し測ることのできないものを、主は私たちに与えてくださるということなんです。 すべてのそのような小さな出来事にも、私たちにとって大きな意味がたくさんあるということなんです。 それらを通して主により頼むようになること、それこそすべての治療の基本ですし、それがなければどんなお薬を用いたとしても、決して解決をもたらすことはないんです。 以前、ある姉妹が胃潰瘍になられたそうです。そしてお医者さんに行ったら、いくつかお薬を出されて、で、少し良くなったんですけども、そこで自分が渡されたお薬をお薬の本で調べてご覧になったんです。 そしたら確かに胃薬も入ってましたけど、もうひとつのお薬を調べると、何と抗鬱剤というふうに書かれてあったんで、もうびっくりして、自分はいつから鬱病になったんだろうと思って、慌てて私のところにお電話を掛けて来られました。 ただ、その出されたお薬の名前をお聞きしてみると、それは確かに抗鬱作用もあるお薬なんですけども、そのお薬の効能の下の方をよーく見ると、胃潰瘍とちゃんと書いてあるんです。 ストレスの要因の強い胃潰瘍の場合に、時々お医者さんはそういった抗鬱作用のお薬を併用することが時々あるんです。 それももしかしたらそのお医者さんはちゃんと、そういうつもりで出すんだよというふうに教えてあげるべきだったのかもしれないですね。 ですから、そんな薬が自分に出されたというのを見て、本当にびっくりしてしまったというふうに仰っていました。 ただそのお薬を飲んで、確かに楽になって良くなったというふうに仰ってるんですよね。でもこんな薬、ちょっと飲みたいと思わないから、どうしたらいいんだろうかというご相談だったんですけれども、いきなり止めないで、ゆっくりゆっくり止めるように、主治医の先生と相談してくださいというふうに申し上げましたら、しばらくしてすっかり良くなって、お薬ももちろんまったく要らなくなったというふうに仰ってました。 その方もやっぱりイエス様に自分の問題を打ち明けることによって、ストレスそのものを解決されて、その結果そういったものが要らなくなってきたというふうに仰ってくださったんです。 私たちの精神的な問題、そして現代の社会では、多くの精神的な問題が身体的な症状を伴って表われてくることがあります。 これらの多くは、私たちが主によって愛されてる、そのことを本当に心から知ることによって、逆に言えば、悩まなくなることによって、霧のように消えてしまう。そのようなものであることが多いんです。 私たちの人生や苦しみや問題や病気でさえも、主ご自身の私たちに対する計画のうちにあるということを本当に知って、私たちは感謝することが必要ではないかと思います。 イザヤ書46:1-4
主は私たちの生まれる前から私たちのことをご存知であって、最後まで一緒に歩んでくださる。それだけではなくって、私たちの弱いときにはこのように背負って行ってくださるお方なんです。 病の中には、簡単に消えてしまうような、治ってしまうようなお病気ばかりではなくって、色々な治療を受けても一進一退で、なかなか良くならない病気、あるいは、最初から悪くなることが決まってるお病気、色々なお病気があります。 すべての病気がいやされるとはもちろん限りません。 私の祖母は、もう長い間ずっと主に忠実に仕えて来た姉妹だったんですけれども、晩年の最後の一年間は、ほとんど病院で過ごしました。 そのうちの何ヶ月間は、私が幸いにも主治医になってお世話をすることが許されたんですけれども、入院する前は元気だった祖母も、入院してからすっかり病状が進んで呆けてしまって、私が行っても、顔を見ても私の名前が出ないというくらいまでなってしまったんです。 それでも枕元でみことばを読んだり、祈ったり、あるいは兄弟姉妹が来てくださって賛美してくださったりしますと、本当に平安な顔を見せたということを今でも思い出します。 本人は、もう口に出して祈る、そういうようなほどの元気もないほどだったんですけれども、それでも主ご自身の御手のうちにあるということが私たちにははっきり分かりました。 主ご自身が共にいてくださるなら、私たちの肉体がどのように弱ったとしても、私たちは平安に守られることができるということではないかと思います。 コリント人への手紙第II、1:8-11
パウロは自分が死にそうになった。その経験によって、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためだったというふうに告白しています。 私たちが実際に医療を受けるかどうか、あるいは色々なお薬に頼るかどうかということよりも、本当に私たちが主により頼むかどうかということが、もっとも大切な点ではないかというふうに思います。 もし私たちが主に頼っているのならば、そのとき初めて、治療というものは本当の意味を持つようになるんではないかというふうに思います。 しかしそれと反対の立場、あるいはある意味での誤解ですけども、そのようなものもここから生まれることがある、ということについてちょっと注意をしなければならないと思います。 一つの点は、確かに私たちがすべてを主にゆだねて、薬とか医療とかそのものよりも、主により頼むということがもっとも大切だという点は確かにその通りなんですけども、それを間違った形で理解してしまうと、例えば、主にいやしを求めるという態度になってしまうことがあります。 主にいやしを求めるということは、主にゆだねるということとは少し違った立場であるということを考えなければいけません。 パウロや聖書が語っているということは、主にいやしを求めるというよりは、むしろ主に自分の病状や病気をゆだねて、自分と自分の人生を導いていただくこと、それを求めるということなんです。 その中で主が必要とお考えになれば、いやされることもあると思います。 けれども私たちが、主が私たちに別の計画をお持ちになってるときに、それにも関わらず、私たちが主にいやしを強要するということは、主のみこころよりも自分の思いのほうを優先するということになってしまいます。 このことについては、本当にパウロも十分強い戒めを与えています。先ほどお読みいただいたコリント人への手紙第IIの12章のところですけれども。 コリント人への手紙第II、12:7-9
というふうにパウロは言っています。 パウロに与えられた肉体のとげというのは、いったい何を意味していたのか私たちはもう知ることができません。 けれども、それについてパウロは、「三度主に願った。」というふうに言っています。 パウロが主に願ったというときには、私たちが、「イエス様。よろしく。イエス様。よろしく。イエス様。よろしく。」というんじゃなくて、断食をして、もう一心不乱に祈り続けたことが三回あったということだと思うんです。 でも主は、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる。わたしの恵みは、あなたに十分である。」というふうに仰ったんです。そしてパウロは、本当にそれを喜んだというふうに言ってます。 私たちはですから、自分の病、それが主によって本当に導かれ、私たちの心のうちに主がどんなメッセージを与えてくださろうとしているのか、そのことを注意しなければならないと思います。 また、信仰によって解決を得るということのもう一つの誤解を招きやすい点は、むしろ自分に対してではなくて、人に対しての場合に当てはまることがあります。 時々ちょっと耳に挟むことがあるんですけれども、ある姉妹は、ある更年期障害のために、ちょっと理由があったわけですけれども、非常に苦しんでおられて、ある種のホルモン療法を婦人科の専門の先生から受けていらっしゃったんです。 けれども、そのことを何かの折りにお話しされたときに、その交わりの中で、お薬に頼るのは良くないからというふうなことを言われたんだそうですね。 で、薬に頼ってるのは、あなたの信仰が問題があるからだっていうことを言われて、たぶん言ったほうは非常に心から善意をもって教えてあげようというつもりで言ったんだろうと思うんですけども、その方、非常に悩むようになってしまったんです。 で、たまたま私がその集会にお邪魔したときに、そういったことを相談されて、よくお話を聞きますと、精神的な問題とかということではなくて、もちろん精神的な症状が出るんですけれども、非常に身体的な病状に基づくものであるということが分かったので、そういう信仰の問題とは直接の関係のある病状ではないからということを申し上げて、非常に悩みから解放された方がいらっしゃったんですけれども。 だれかほかの人が受けている治療とか、飲んでる薬などについて、私たちがもし助言をするときには、とてもそういった意味で、注意する必要があるんではないかというふうに思います。 一つは今の例からも分かるように、あまり安易な助言はされないほうがいいかもしれません。 安易な助言というのは、相手の病状とか、診断とか、実際の抱えている悩みとか、そのようなものを親身になって聞いてあげることなしに、端的に薬ではなく信仰でというようなことを言ってしまうというようなことだろうというふうに思います。 また、無責任な助言をしないっていうことの意味は、やはり、もし助言をするからには、それは薬を飲むとか飲まないとかっていうような大切なお話ですから、その結果があるわけですよね。 で、自分の助言した結果、病状が悪くなってしまうんであれば、そのことについても自分は責任をもって接してあげなければいけないということなんじゃないかと思うんです。 これは実は、ただ単に私たちが他人のお節介をするかどうかということだけではなくって、実は医者にとっては、医療の根本そのものなんです。 すなわちもし、みなさん考えてみてください、お医者さんのところに行って、お医者さんが安易な診断と無責任な治療をしたら、どういうことになると思いますか?それを考えただけでも恐ろしいということが分かると思います。 私たち医者は、もし安易な診断を下せば、それは誤診になりますし、無責任な医療をすれば、それは医療過誤になってしまって、私は手が後ろに回っちゃうというわけですよね。 それこそ医療というものの本質でもありますし、実際、聖書を読んでみますと、そのことを聖書はちゃんと示しているということを知ることができます。 ヤコブの手紙2:15-17
この箇所は、よく信仰とその行ないということについて議論されるときに、読まれる箇所ではないかと思うんですけども、そのような問題よりも、医療の原点というのはこういうことではないかというふうに思います。 医者のところに患者さんが来て、「うん。まぁ、元気になって気にしないで帰りなさい。」やっぱりこれじゃダメだと思うんですよね。 そうじゃなくって、本当にどこに問題があるのかよく聞いてあげて、その人にもっとも適切で必要な物を与えてあげる。それこそ医療であり、私たちの働きではないかというふうに思います。 ただこれは医療に限らず、あらゆる私たちの生活、あるいは行動のもとでもあることは、もちろん言うまでもないことではないかというふうに思います。 ですから、もし私たちも他人の困ったことなどに遭遇した場合には、このような気持ちをもって接するべきではないかというふうに思います。医療の身体的な側面というのは、このようなことだと思います。 医療の霊的な側面というのは、先ほどもちょっとお読みした箇所の手前の、 コリント人への手紙第II、1:4-5
私たちは、自分が主ご自身から受けた慰めによって、苦しみの中にいる人をも同じ慰めを示してあげることができるということなんです。 それも医療の霊的な側面でありますし、私たちが困っている人に、もし何らかの助言をするとすれば、このような気持ちを持ってするべきではないかというふうに思います。 多くの方が自分のご病気のためにお医者さんにかかっておられるとは思います。 私も自分のところに相談に来られる方々については、やっぱり自分で取れる責任というのはどこまでかということを、自分自身でよく知っていますので、それに応じてご相談に乗らせていただいています。 先ほどもちょっと言いましたように、お電話で相談いただいても、お医者さんというのは、診察をすることしないで、診療してはいけないという法律があるんですよね。 ですから、例えば、これこれの病状で、今これこれのお医者さんに掛かってるんだけども、手術を勧められているんですけども、どうしましょうかって言われても、残念ながらお答えできないんですよね。 「よく相談してください。」としか言うことができないんです。 ただ、もし自分の専門の病気であって、しかも、自分の診察室に来てくださるんであれば、私は自分の専門的な知識と、それから責任において、治療なり、場合によってはアドバイスをして差し上げることが十分にできる用意があります。 けれども、多くの集会に集われているドクターたちもそうだとは思うんですけれども、やはり、例えば専門外であるとか、あるいは、実際に診療という場での接し方でない場合にはやはり限界がある。 できることにはおのずと限られてきてしまうということもどうぞご理解いただけたらと思っています。 必ずしもそのみなさんが掛かっておられる病院や、お医者さんがクリスチャンのドクターであるとは限らないと思います。 けれども、その場合に私たちはやっぱり、主に自分が適切な医療を受けることができるように、ということをやっぱり祈り求めるということはとても大切なことではないかというふうに思います。 たとえ自分の行ってる病院が聖書とは関係なくても、それでも未信者であっても、主は働かせることがおできになるお方なんです。 その中で私たちは、本当に主が自分の病だけでなく、自分の治療や診療そのものも導いてくださるということを本当に祈り求めるということが大切なんではないかというふうに思うんです。 そういう中で、特に最近、集会でも時々注意されてる一つのことは、いわゆる精神安定剤とか、睡眠剤についてのお話ではないかというふうに思うんですね。 特に時々薬に頼らないで、イエス様に頼るようにということが言われているのは、それらのお薬のことをおもに指しているんではないかというふうに思うんです。 これらのお薬は、一時的な症状の改善効果は確かにありますけれども、長く続けたりすることによって色々な副作用をきたしたり、あるいは薬物依存をきたしたりすることがあるために、特に注意があるわけなんです。 残念ながら、現代の日本の医療では実に安易にこれらのお薬が処方される傾向があります。本当に必要なお薬なのかどうか、よく吟味してみることも本当に大切ではないでしょうか。 最近は、お薬をお渡しするときに、服薬指導といって、どのようなお薬をどのような効能、どのような作用の目的でお出しするのかということをご説明することが多くなって来てるんではないかと思います。 そのような機会にお薬を飲むことの必要性とか、意味とかいうことをよく担当の先生とご相談になる必要があるんじゃないかというふうに思います。 多くのお医者さんは本当に忙しいです。私も午前中に何十人もの患者さんを診なければなりませんので、お一人にさける時間は単純に計算しても数分間なんですよね。 ですから、お医者さんによってはそういった細かいことまでご説明してる余裕はないことが多いんじゃないかと思います。 ですから、それらの医療を受ける立場の患者として、そういったことを医者に聞く必要があるんではないかというふうに思います。 そのようなお薬は安易に使うことは非常に危険性を持っています。 ですから、それらのお薬が必要な場合には、やっぱり担当の先生とよく相談することが必要であるという以外にも、例えば、お薬屋さんでそういった薬を安易に買って使うというようなことは大きな危険をはらんでいるということだと思うんですね。 あるいは、ボーっとしている症状のためにカフェインなどが入ったお薬も、お薬屋さんで簡単に手に入れることができるようです。 けれども、そういったものを使うということは、朝一杯のコーヒーを飲むということとはもう全然話が違うということを、私たちは十分知る必要があるんではないかというふうに思います。 あるいは、すでにこれらの薬を何らかの理由のために定期的に服用されていて、できればやめたいっていうふうに思っておられる方も多いんじゃないかと思うんですけども、その場合にもやっぱり、自分勝手なことは危険です。 ですから担当の先生とよく相談して、「できればこのお薬はやめたい。安全にやめるにはどうしたらいいか。」ということをよく相談してみる必要があると思います。 場合によっては、量が多い場合には、いっぺんにやめてしまうと、そのためにかえって具合が悪くなってしまうということもあるからではないかと思うんです。 実際に、そういったお薬を飲むべきか、飲まないべきかということについては、一般的な意味でのお答えはありません。 ご自身で主と、本当によく祈って、考えていただきたいというふうに思うんですけども、一つのポイントは、そのようなお薬を使うということに対して、信仰の良心の咎めがあるかどうか。 悪いと思いながら、飲まなければならないのか、それとも本当に主からの助けとして、恵みとして感謝してそういった治療を受けることができるかということがあると感じています。 いずれにせよ、私たちが適切な医療を受けることができるように、主が私たちをその点でも導いてくださるようにというふうに祈ることが、必要ではないかというふうに思います。 みことばをちょっと読みたいんですけども、 ヨハネの福音書10:28-29
すべてにまさって偉大な父ご自身が、私たちをしっかりと握っていてくださる。そのことを知ることが本当に大切なことではないかというふうに思います。 みなさん、よくご存知と思うんですけども、「実を結ぶ命」っていうリンデちゃんの本の中に、リンデちゃんのいわば、遺書とも言うべきメッセージが書かれているんですね。それをちょっとお読みしたいと思うんですけども。 主イエス様。たとえ肉眼であなたを見ていないにしても、私は心からあなたを愛しています。 そして、たとえ個人的にあなたを見ていないとしても、私はあなたに全き信頼をおきます。 この目であなたを見ることが許される時、なんとすばらしい、言葉にならない喜びで、歓呼の声をあげるでしょう。 その時、私は永遠に安全な場所におかれます。 あなたはよみがえりであり、いのちです。あなたを信じる者は死んでも生きるのです。 そして、生きているあなたを信じるものは、だれでも永遠に死ぬことはありません。 神のたまものは、私たちの主イエス・キリストとの交わりにおける永遠のいのちです。 私はまだ、この肉の体にとどまる限り、本当のふるさとに到達していません。 私はまだ、主から離れている旅人のような状態におかれています。 私は主と顔と顔とを合わせていませんが、信仰によって歩み続けています。しかし私は安らかです。 願わくば、この肉の体を去って、私は天のふるさとへ行き、主のみもとに行きたいと思います。 ですから私は、主が来られるまで、主に喜ばれるように、すべてのことを一生懸命にやりたいと思います。 私のふるさとと、私の目標は、天にあります。 これについて、その本の最後のほうでベック兄はこのように書かれています。 リンデの病気をいやすことぐらい、主にとっては全然難しいことではなかったことを、私たちは少しも疑ってはいません。 また、私たちがもう一度リンデと共に生活することができ、共に主のために働くことができるということは、考えただけでもわくわくするような喜びです。 しかし、大切なことは、主のご計画が成就することであって、私たちの願いがかなえられることではありません。 主イエスが私たちに望んでおられることは、どうしてもいやされたいと願うことではなく、私たちがどんな状況に置かれても、主のみこころをそのまま受け入れ、従うことなのです。主イエスの切なる願いも、常に次のようでした。 マルコの福音書14:36
今、私たちに分かることは次のことです。すなわち、リンデは主に召されることによって、彼女が生かされていた時より以上に、主のために多くの実を結ぶことができるようになったということです。 もし彼女の病気がいやされたならば、それはひとつの奇蹟として人々に記憶されたことでしょう。 しかし彼女は、自分のために与えられた主のご計画を、そのまま素直に受け入れることができ、主のみこころに従順に従うことによって、実を結ぶ者になったのです。 また、二十歳そこそこの乙女が、自分の死をかくも冷静に受け入れることができ、すべてを感謝のうちに受け入れ、自分の思いは少しも求めずに、ただ主イエスのみこころと栄光だけを求めて召されていったということ自体、彼女がいやされることに優る奇蹟であったと言うことができるのではないでしょうか。 主イエスは復活された後、ペテロに現われてこう言われました。 ヨハネの福音書21:18
ペテロはこのとき、主のご計画を素直に受け入れました。なぜなら、ペテロは主イエスを心から愛していたからです。 こうしてペテロの生涯は、主のために多くの実を結ぶものに変えられてゆきました。 それでは、実を結ぶための秘訣はいったい何でしょうか。 それは、ぶどうの木である主イエスにより頼むこと、幹としっかりつながっていること、そして主なる神である農夫によって刈り込みをしていただく備えができていることです。 刈り込みを拒む者は、主のために豊かに実を結ぶ信仰生活を送ることができません。 愛に富みたもう神が、リンデという枝を刈り込むために用いた道具は、「突然襲った不治の病」というものでした。 リンデは、この「刈り込み」を心から感謝して受け入れました。なぜなら主なる神は、常に自分に対して最善をはかっていてくださり、神の赦しなしには病気も存在することができず、神のなさることに決して間違いはない、ということを確信していたからです。 リンデの心からの願いは、次のようなものでした。 「まったく主のものとなりたい。自分のためには何もいりません。イエス様だけが、私のすべての願いを満たして下さいます。天の故郷につくまで、私はいつも主に忠実に仕えてゆきたい」 主イエスが私たちに望んでおられることは、私たちも主に似たものとなることです。私たちは苦しみを通して主に似たものと変えられてゆくのです。 主イエスも、苦しみや悩みをまっとうして栄光をお受けになりました。主イエスに従う者の歩みについても、同じことが言えるのです。 確かに、今日多くの人が奇跡を求めています。しかし大切なことは、その人自身が奇跡そのものとなることではないでしょうか。 リンデは自分が不治の病であることを知らされても、神に対する信仰を動揺させることは少しもありませんでした。 自分の病気のために嘆いたり、涙を流したりすることは一回もなく、毎日身近な人の救いのために、真剣に祈り続けていました。 これこそ、主イエスの恵みによる、目立たない隠れた奇跡であるといえましょう。 リンデは病床の苦痛の中にあっても、周囲の人々に対する暖かい配慮を絶やしませんでした。 また、意識がもうろうとした状態にあっても、主イエスに忠実であり続けたいという願いは薄らぐことはありませんでした。 このような彼女の証しを通して、多くの人々は霊的に覚醒し、ある人々は、真剣に主を求めるようになり、新生を体験しました。 こうして彼女は、主のために実を結ぶ枝となったのです。 リンデがこの地上における最後の数週間に体験した様々な苦痛は、私たちには想像しつくすことはできませんが、聖書は彼女のすべての苦しみを担って余りある力を彼女に与え、彼女を通して主イエスの栄光が現わされました。 多くの人々はこれを見て、彼女に奇蹟を与えた主イエスについて知りたいという思いを持ちました。 彼女の通っていた看護学校の校長先生は、次のように言いました。 「主イエスと共に歩む人生は、虚しいなどということは、リンデを見る限り、だれも決して言うことができません。 リンデが主イエスのみもとに召されてから、早や半年以上が過ぎ去りました。 彼女は今、言葉に尽くすことのできないすばらしい栄光の中に、安らいでいるに違いありません。 リンデは、主イエスの救いの御わざのすばらしさを永遠に感謝していることでしょう。 そして、主イエスと共にあることの喜びと幸せがあまりにも大きくて、地上にあった二十年間を、ほんの一瞬の出来事のように思っていることでしょう。」 約十八年ほど前に書かれた文章ですけれども、本当にその通りじゃないかというふうに思います。 私たちもそのような気持ちで、私たちの問題に立ち向かうことができたら、本当に幸いだと思います。 今日は、病、そして医療ということと信仰ということをテーマにお話しましたけれども、聞かれててお分かりになったとおり、これは別に病に限ったことではなくて、仕事上の問題や経営の問題、家族の問題、対人関係の問題、あらゆる私たちの悩みや重荷に共通して言えることではないかというふうに思います。 本当に私たちが主を見上げて歩むことができれば、本当に幸いだと思います。 |