引用聖句:ヨハネの手紙第I、4章1節-6節
今、お読みいただいた聖書の箇所が、今日の内容のすべてなんですけど、非常に難しい問題を、たくさんはらんでると思うんですよね。 特に、最近ある姉妹が、『主は生きておられる』の第2集に、ベック兄がハリーポッターについてちょっと書かれてますよね。これをお知り合いの方に渡したら、その息子さんがここの部分を読んで、怒って…!、それで、「もうこんなもの見たくない」という気持ちになって、どうしようかというようなことを言われたことがありまして、非常に根深い問題をはらんでいるっていうことに気がつかされた次第なんですね。 それで、一度ははっきりとした形で考えなければいけないなと、自分自身強く思っていた問題だったからということもあって、今日はそれをとりあげました。 私がハリーポッターを読んだのは昨年なんですよね。うちの娘が、いつのまにか本を読んでいて、夢中になって本を読んでいるんですよ。で、こんな分厚い本読んでますから、「あぁ、いいなぁ!」とか思ってたんですね。 どんな本読んでるんだろうなと思って、一緒になって読みました。…おもしろいです!とっても!! で、去年の夏前くらいに日本語の第3巻が発売になったんですけども、もう早速買ってきて、読んだわけなんですけども、日本語版は娘に取られましたので、私、しょうがないから英語版買ってきて読んだんですよ。 そしたら、英語版は第4巻まで出てるんですね。3巻読んだついでですからっていうんで、4巻も買ってきて、皆様より、ひと足お先に4巻まで読んじゃったんですよね。 で、その頃ベック兄から、どうもその「『ハリーポッター』っていう、なんかいかがわしい物語が世界中を席巻してるらしい。」というお話を聞いて、「んん、これかなぁ…?!」と思って、どうもその結びつかなかったんです。はっきり。 そうこうしてるうちに、そういう声が非常に強く聞こえてくるようになって、集会のある方が、インターネットのあるところで、ハリーポッターについての警告の文章をご紹介くださって、目にしたりしました。そして最近、この『主はいきておられる』の中にも、こういう形ではっきりと書かれるようになったんですね。 ただ、これらの警告に接して私が感じたのは、どちらかというと、何でそんなに問題にしなくちゃいけないのかなっていうような印象だったんですね。 ハリーポッターを読んだことがない方は、ここの『主は生きおられる』の中に書かれているような警告を読めば、そんなひどい本だったら読むのやめときましょうと思われると思うので、それは結構です! ただ、読まれた方は、ちょっとやっぱり首をかしげられる方が多いんじゃないかと思うんですね。なので、そこのところがいったいどうなってるのかっていうことを、自分自身の問題としても解決しないわけにはいかなかった、ということなんです。 ご存じない方のために、ちょっと簡単にお話しますと…、 舞台はイギリス。現代のイギリスなわけですけれども、ロンドンの郊外に住んでいたある11歳の少年が、不幸な身の生い立ちで、両親を失って、意地悪なおじさんおばさんのもとで虐げられて、ずっと育ってきた11歳の少年が、『ハリー・ポッター』というんですけども、彼が11歳の誕生日に、実は自分が魔法使いであるということを知らされて。 その魔法使いの世界では、11歳になると、魔法使いのための学校に行くようになって、そこで魔法使いとして、修行をするようになると。で、彼は、「こんな嫌な家から出られるなら、それこそ願ったりかなったり」ということで、喜んでその学校に行くようになって、そこで友人を見つけ、自分の生い立ちの中に隠された、恐るべき秘密を知るようになってですね。 で、幾多の冒険と困難を乗り越えていく。その中で、最も恐ろしい悪の魔術師といわれる悪役のボス、「ヴォルデモート」という名前だそうですけど、そことの戦いが始まっていくんです。 学校生活が描かれていますので、ある意味じゃ「学園ドラマ」なんですよね。一冊がちょうど一年間、一学年あたりの、物語になっています。 ですから、第2巻は2年生のお話、第3巻は3年生のお話、第4巻は4年生のお話、「全部で7巻になる」と原作者が言ってますので、7年目の、その魔法学校を卒業するまでのお話ということのようです。 で、必ず本の最後、一番最後に彼は死にそうになるんです。死にそうになるけども、そこを幾多の勇気とか、努力とか、かろうじて生き延びて、今のところ第4巻までのところでは、なんとか悪のヴォルデモートの魔手から逃れているというところなんですよね。 いわば、冒険物語なんですけども、ワクワクするし、ハラハラしますし、とても面白いは、面白いですよね。 ただその中には、もちろん魔法ですとか、いろいろなことがたくさん入ってきているんです。それは確かにそうですよね。 ただ、私自身、例えば『魔法使いサリー』とか、『ゲゲゲのなんとか』とか、そういう世代で育ってきましたから、ストーリーの中に「魔法」だの「妖怪」だの出てきても、別になんとも思わないじゃないですか、ね? 「児童書ですよ。楽しくていいじゃないですか。それほど恐ろしいとも、…ちょっと怖いかな、でもそのくらいの方が現代はうけるし。」、その程度の印象でした。 ところが、そういう、ベック兄やいろんな方々からそういう警告を聞くようになって、少しインターネットで調べてみますと、アメリカとヨーロッパは大変なことになっています!もう『ハリー・ポッター』をめぐって、もう、ものすごい議論がわきおっているんですよね。 で、その『ハリー・ポッター』に反対する立場を表明してる人々っていうのは、みんな福音的なクリスチャンたちなんです。それで、私もやっぱりその信頼すべき方々が言ってることであれば、やっぱ何かあるんじゃないかっていうふうに思うようになりました。 けれども、そういう反対しているインターネットのサイトをみたりとか、集会の方に紹介していただいたそういう警告文章見たりすると、もうがっかりするんです。 なぜかって言ったら、ほとんどの非難が、なんていうか的外れっていうか、揚げ足取りであって、確かに「これは良くない。これはサタンのマークをつかって、ドイツのヒットラーも使ったマークだし、これは古代のなんとかのオカルトのなんとかでこう…」と、もう全部説明されてるんですよ。 だから「こういうものが出てくるから良くない。」、でも、そしたら『ゲゲゲの鬼太郎』だって良くないじゃないですか。ね?どうしてそんなに目くじら立てなくちゃいけないのか。っていうところがわからない。 非常に揚げ足取りの、かえってそういう中傷読むと、反感を買うくらいの調子のものがほとんどでした。 でもやっぱり多くの方々がこれだけ反対してるのは、何かあるんじゃないかと思って、いろいろ調べていったときに、出会った一冊の本がこの『Harry Potter and the BIBLE』アメリカ人が書いた本なんですけども、Richard Abanesって方が書かれた本なんですけども、スイスの集会のあのヴォルフガング・ビューネさんっていう、非常に知識の豊かな兄弟がこの本の書評を書かれていて、非常にいい本だということを書かれていたので、あの注文して買って読んでみたんです。 注文した時に、最近インターネットの「amazon.com」とかで洋書とか簡単に注文できるじゃないですか。注文しようとすると、この本を読んだ人は、この本についてなんて言ってるかっていう「書評」を、見る覧が出てくるんですよ。 7つ8つの書評が、投書が、載っかてまして、見ると「とんでもない本だ!」と。「これはハリー・ポッターの揚げ足取りで、どうしようもない本だから、こんなもののためにお金を払うな。」というような書評が、いちばん最初に出てくるんですよね。 ただ、その攻撃の仕方があまりに下品だったんで、下品な人が攻撃するような本は、立派なはずだと!?、思って、この本を買うことに決めたんです。 読んでやっぱり正解でした。本当に、順番を追ってきちんと書かれていて、私がこれまで目にしたハリー・ポッターを攻撃するいろいろな文章と、全く違った視点から、ちゃんと聖書に基づいて、どこが問題なのかっていうところを明らかにしている本だったわけなんです。 ロジャー・リンというアメリカの伝道者の文章を、ベック兄はこの『主は生きておられる』という雑誌の中で紹介しているんですけども、その中で、「こういうふうに、ロジャー・リンは書いている」というんですよね。 「この10年間で私が読んだものの中で、ハリー・ポッター・シリーズほど悪魔的な著作はなく、脅威そのものであると言えます。 ハリー・ポッター・シリーズは、今、私たちの国の児童書の中でも、飛びぬけてよく売れている本です。どこの町でも、本屋さんの店頭にはこれらの本がうずたかく積まれ、インターネット・サイトでも宣伝や批評があふれています。また、驚いたことに、教育者やクリスチャンであるはずの教師ですら、『子供が熱心に本を読むようになるなら、素晴らしいことではないか』といった批評をしています。 ハリー・ポッター・シリーズは、もともと魔術と悪魔崇拝を流布していた女性教師によって書かれた小説です。この本に登場するハリーという13歳の主人公は、魔法使いであり、その仲間とともにしばしば主なる神とイエス・キリストとを冒涜し、魔術に仕え、怨みのある人には魔術によって復讐を果たします。 そのために、呪文や独特の儀式が行なわれ、悪魔の力が呼びだされるのです。それはまさに子供たちにとって、悪魔の世界への恐ろしい入り口ではないでしょうか?」と書いてます。 ということなんですよね。まず作者についてですけども、このシリーズは、「もともと魔術と悪魔崇拝を流布していた女性教師によって書かれた小説だ」っていうふうに書いてあるんですけども、これはどっちかっていうと、一般的にJ・ローリングスっていわれているこの女性が紹介されている顔とは、違う紹介の仕方ですよね。 一般的には、『フランス語の先生だった彼女は、首になって失業して、文無しの状態で旦那さんとも別れて、一人の娘がいて、お金もなくなってきちゃったんで、カフェテリアで、ペンと紙だけで、自分の空想力だけでワァァと書き上げて、最初は出版社から断られたけども、ある出版社が興味を持って出したら、もう大当たりしちゃった。』という…。 このローリングスっていう人は、ちゃんと大学も出てる人なんですけどもね。そういうふうに紹介されていますけども、「もともと魔術と悪魔崇拝を流布していた女性教師」なんて書かれちゃうと、そうかなというふうにも思えます。 それがどれだけ正確かはわかりませんけども、後に申し上げるように、少なくとも魔術とかオカルトに大変造詣の深い人であることは間違いない。 それから、あと多くのインターネットサイトの情報によると、小さい頃の友人たちの証言では、「彼女は魔女ごっこが大好きだった」ということは言われてるようですね。でも、それを持ってして、ここまで言っていいのかどうか、ちょっとわかりません。 「ハリーは、しばしば主なる神とイエス・キリストとを冒涜し、魔術に仕え、怨みのある人には魔術によって復讐を果たします。」って書いてあるんですけどもおそらく、このハリーポッターを面白いと思った人がこの文章を読んだら、この瞬間に「これ破って捨てよう」と思うんじゃないかと思うんですね。 というのは、ちょっとこれは違うかもしれません。なぜなら、今のところ、まだ全7巻のうち4巻までしか出てませんからわかりませんけども、少なくとも4巻までを見る限りでは、具体的にこのような場面は出てこないんです。主なる神とイエス・キリストを、面と向かって冒涜するというような場面は全く出てこないです。今後はわかりませんよ。だけど、4巻まではそうなんです。 そして、むしろ、ここがポイントなんですけど、「主なる神」とか、「イエス・キリスト」とか、それはもとより「悪魔」、「サタン」とか「デビル」ですら出てこないんです。 巧妙にそういう言葉、すなわち絶対的な善悪を示す存在の言葉は、巧妙に、慎重に出てこないようになってるんです。なぜなら、これらは聖書の中の概念だからなんです。聖書の中の概念は、慎重に、物語の中に持ちこまないように配慮されてるんです。 1年間の学校生活の中で、「クリスマス」が出てくるんですよ。でも、クリスマスのところの真意は、「冬休み」なんですよ。 だから多くの友達は寮から家に帰っちゃいます。で、ハリーは行くところがないから、学校に残ります。で、残された数人の子どもと先生は晩餐会をします。クリスマスの朝に素敵なプレゼントをもらったりします。 それだけ。それ以上のことは、全く出てこない。クリスマスが何なのか。「礼拝する」とか、「賛美歌歌う」とか、「サンタクロース」ですら出てこない。すなわち、イギリス文化の中でクリスマスにまつわる宗教的な部分を、全く取り去ったかたちで、ただ単に一つの休日、ホリデーでしかないんです。そういうような扱いをされています。もちろん、復活祭なんか存在しません。 あのハリーポッターは、そのうちに、悪い者をやっつける、悪い者と戦うというような、冒険をしていかなくちゃならないはめに、いつもなってしまうんですけども、その中で必ずハリーは「いい者」なんですよね。ヴォルデモードって悪役とその仲間達っていうのは必ず悪役。 いかにも、善と悪がはっきりと対立しているように見えるんですけども、多くの人たちが指摘しているのは、ハリーは結構嘘をつくし、規則を守らないし、けんかして相手を呪うところまではしないんですけども、「怨みのある人には魔術によって復讐を果たします。」って書かれてますけども、ちょっとそれは言いすぎだと思うんですね。 ちょっと子ども同士のけんか、お母さんのことを悪く言われてカッとして、相手にけんかを売った。魔法使い同士ですから魔術でけんかするでしょ。 そういう子ども同士のけんかみたいな、現われ方しかしてませんけども、でもそういったことが、物語の中で咎められないんですよ。 嘘をついても、規則を破っても、いいことのためにしたんならばOK。咎められない。むしろ、その結果悪いやつをやっつけることができたら、ご褒美が与えられるっていう、非常に善悪の判断が絶対的ではなくて、非常に日本人の私たちに近いところがありますよね。私たちなんて、そんなの自然に受け入れちゃうんじゃないかっていうふうに思います。 一見、善対悪の対決であるかのように見えるんですけども、本当はそうじゃなくって、ハリー・ポッターの物語の本質っていうものは、魔術の世界における良いものと悪いものとの戦い、魔術の世界だから、彼らの言葉を持って言うと、「『白魔術』対『黒魔術』の戦い」というのが、ハリーポッターの物語の本質なんですよね。 実は白魔術、黒魔術ってうのは、私は全然知りませんが、オカルトの専門化の話によりますと、全く区別がないんだそうです。同じ「魔術」。 ただちょっといい人が、いい魔術師がいい目的のためにつかえば、「白魔術」と呼ばれ、ちょっと悪い人が、邪悪な目的のために使えば「黒魔術」と呼ばれます。だから、ハリー・ポッターもヴォルデモードも同じ呪文を唱えます。 読者がハリーポッターを読んで、その背後にある、そういった世界観を受け入れて、魔術なるものがリアリティーをもって感じられるようになれば、それでハリーポッターの物語の第一の目的は達せられた、ということなんです。 非常に面白い物語で、ウィットに富んでて、そのまま映画にもなりましたよね。そういう形で提出されると、私たちはそのまま受け入れてしまうじゃないですか。それそのものが、第一のハリーポッターの目的なんです。 一方、聖書はこういった魔術というようなものを、はっきりと禁止しています。ちょっと読んでみたいと思いますけども、申命記の18章9節。 申命記18:9-13
主はこういうふうに仰せられてますけども、今ここに、いくつかのやっちゃいけないことが出てきましたよね。これ全部出てくるんですよ。ハリー・ポッターの物語の中に。 ヨハネの黙示録の21章。一番最後ですね。 ヨハネの黙示録21:7
イエス様が来られて最後の裁きが行なわれるとき、こういった人々は、火の中に投げ込まれてしまうというふうに書かれているんです。 このハリー・ポッターの物語は、少年冒険物語としてはもう第1級ですよね。世界中で最も売れた本の一つと言えるんじゃないでしょうか。第4巻が発売されたその日に、一年先に、まだ書かれてもいない第5巻の注文が殺到した、予約が殺到した。 最初の3巻は、むしろ明るくて、とってもウィットに富んでいて、読んでてとても楽しいです。ワクワクします。でもその中にたっぷりと、今言ったような、オカルトの要素が詰め込まれてるんですよね。で、この詰め込まれてるオカルトの要素っていうのは、それこそオカルトの専門家たちの目から見て、非常に正確だそうです。その辺が『ゲゲゲの鬼太郎』と違うところのようですよね。そういう辺りから、ローリングスは大変オカルトに造詣の深い人間だということがわかるっていうことなんです。 この物語に惹き込まれて、その世界観とか物語の背景とかを、自分の内側に受け取るようになると、さらにもっと知りたいと思うようになってきてしまう。そこに危険性があるっていうことなんです。 物語は、魔法学校で主人公たちが初歩から順番に学んでいく。ハリー・ポッターは、一番最初は、自分が魔法使いだと知らなかった。何にも、知らなかった。魔法の一つもできない。知らない。それが、初めて魔法学校に行って、順番に習っていくんですよ。その過程を通じて読者も習っていくんですよね。それがむしろ面白おかしく、夢や希望とか、冒険とか、そういう楽しいもの、でもちょっと怖い要素も入って、そういう巧妙な描き方で、書かれているんです。 このように、非常に否聖書的なメッセージが多く含まれている物語であって、そういうオカルティズムが、非常に現実的なものとして描かれているにもかかわらず、多くの人々を魅了していますし、あと多くのクリスチャンたちも、気づかずに喜んで、…私とかね、読んでいるという現実があるんです。 では、アメリカでどうして急激に、こんな大きな反感が得られるようになったかっていうと、アメリカではハリー・ポッターの本を、学校で授業のテキストとして使うというふうなことが起こったので、急に大論争になったというような背景があるようです。 この物語の一番全面に出てくるテーマっていうのは、「オカルト」ではないんですよ。「友情と冒険」なんですね。だからこれOKでしょ?誰が見ても。ですから、みんな正面きってこれに反対することが難しいんです。 で、先ほどお話したように、正義と悪が、一見はっきりと色分けされてるように見えるんですけれども、そこには微妙な融通がなされているんです。すべては相対的ですから、正義とか友情のためであれば、嘘ついてもいいし、規則を破ってもいいし、逆にそれがうまくいけば、褒められる。悪を打ち負かしたわけだし、主人公なんですから…ということなんですよね。 すなわち「友情と冒険」がテーマであっても、その背景、あるいは目的が、どこにあるかっていうことは非常に大切ですよね。 例えば、「主なる神の正義」っていうものに対しての、「冒険と友情」の物語であれば、ジョン・バニヤンの書いた『天路歴程』とかですね、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』とか、あれも一応ファンタジーでありますけども、その背景、あるいは書かれた目的っていうのは、もうはっきりと主なる神を証しするためである。 一方、全く反対の、同じ「友情と正義」っていうか、すじを通すっていうか、そういうことがテーマであっても、オカルトが全面に出てきています。物語の一番最初から、もう人が死にます。で、もっともっと、おどろおどろしいものが、たくさんたくさん中に出てきます。 さすがに4巻を読んでるとき、私も、「こういうものを子どもに読ませてもいいのかな」と、ちょっと疑問が、確かにありました。で、作者は、物語を4巻出版した後に、「今後、物語りは、もっともっと暗くなります。」、そのように宣言してるんですよね。 ただ、3巻までを読んだ人は、4巻読まずにはいられなくなっちゃてる。そこが1巻・2巻の罠なんです。おそらく今後、5巻・6巻・7巻と、物語りはとんでもない方向に向かっていくんではないかというふうに思うんですけども、そこに多くの人が引きずり込まれてしまうんではないかというのが、大きな危険だということが、やっと明らかにされてくるんではないかと思います。 でもね、「でもそうは言っても、児童書でしょ?ファンタジーじゃないですか。」というふうに、まだ考える方きっといると思うんですよね。 「そんなこと言ったら、今子どもたちが見ているテレビとかね、アニメとか、漫画とか、もうゲームとか、そういうものみんな、それに類するものじゃないでしょうか。全部駄目ですか?そんなこと言ったら楽しみや遊び、全部なくなっちゃうじゃないですか。」と、いう反論を感じた方は、実は大正解なんですよ! で、ここからが実は今日の本論なんですけども、ここに、悪魔の一番大きな欺きがあるんです。 もし、悪魔が私たちの目の前に、おどろおどろしい姿でやってきて、「私が、あなたがたが恐れている怖い悪魔です」と、「今から、あなたがたを滅ぼします」というふうに自分たちの目の前に現れたら、クリスチャンでなくてもみんな「助けてくれ!」って叫びますよね?それは人々が救われる最もいい方法だと思うんです。だから、悪魔は絶対にそういうかたちでは、私たちの前に現れてきません。 私たちのまわりを、あたかも当たり障りのないようなもので、少しずつ少しずつ埋めていくんです。当たり触りのないものに、段々、すこ〜し悪いものを混ぜて、「OK?」、じゃもうちょっと悪いもの混ぜて、「まだOK?」、じゃもう少し悪いもの混ぜて…。段々、そういうふうにやってくるんですよね。 近年、この動きは非常に急速に高まってきています。そして、あからさまになってきています。なぜなら、あからさまにそういうことをやっても、人々は驚かなくなってきたからなんです。そういうのを、「脱感作」っていうふうに、医学の用語で言うんですけどもね、「desensitization」って、段々そういう過激的なものを提供されても、感じなくなってきている。そういう状態に社会がなってきているんですよね。ハリー・ポッターは、その代表選手だっていうふうに言うことができるかもしれません。 けれども、そうでなくても、それ以外にもそれに類するもの、あるいは、そこまでひどくなさそうに見えるものは、いっくらでもあります。 例えば、毎週日曜日の夜、日本中の子どもたちが喜んで見る、『ワンピース』って番組があるんですけれども、これもそういうオカルトの要素を、実は含んでるんですよね。でも表面的には、誰もそういう受け取り方をしません。子どもたちは喜んで見ます。 しばらく前、日本中の子どもたちの間で大流行したカードゲームがありますよね。なんか『デュエルモンスター』っていうんですか。あるいはもうそれこそ、オカルトのタロット、あるいはそういった魔術ゲーム、「マジック・ザ・ギャザリング」っていうんですかね、そういうオカルトもののゲーム、カードゲームを、日本版に焼き直したもの、そのままなんですよ。 それが、日本中の子どもたちが喜んでやりました。集会でも、子どもたちがカードをめぐってトラブルを起こしたりとかね、そういったことがあって、兄弟たちの間ですごく祈りに覚えた時期もあったりしましたよね。 私もさすがに、あのカードゲームはちょっと気持ち悪かったので、なんらかのおりに子どもから取り上げたことがありました。しばらくしたら、また持ってるんですよ!だって安いんですもん。いくらでも買ってこれるんですよ。もし家で禁止されれば、友だちん家行ってやりますよ。もう、子どもたちは今の社会、そういったものから逃げることができない。取り上げただけじゃ解決にならないんです。 多くのテレビゲームとか、ファミコンとか、パソコンゲームとか、そういうものの中には、今やこういったテーマが目白押しですよね。 映画の中にも、こういったものを扱ってるものがたくさんあります。実は気がつかないと思うんですけども、非常に有名な『スター・ウォーズ』っていう映画ありますよね。あれは主人公は、やはり「フォース」と呼ばれるなんらかの力に頼って悪を打ち負かすっていう、あの世界観が背景にあるんですけども、実はこれ、同じところに通じているものなんですよね。でも、誰もそういう見方で見ないですよ。 テモテへの手紙第II、4:1-5
4節に、「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く」っていうふうに書いてありますよね。「空想話」を英語で言ってみてください。「Fantasy」ですよね。 ファンタジーの危険性は、どこにあるかといったら、「真理から耳をそむけるようになること」なんです。そのために、ハリー・ポッターは、ものすごく効果的だっていうことなんです。テモテへの手紙第Iの4章1節から。 テモテへの手紙第I、4:1
惑わす霊によって、信仰から離れるようになってしまうというふうに書かれていますね。7節。 テモテへの手紙第I、4:7
聖書の時代にファンタジーは、「俗悪な年寄り女のする」ものだったようですけども、今の時代は若者たちがやってるんですよね。 これらの悪魔の働きは、もう明白です。いかに人々の興味を奪って、真理から耳をそむけさせるか、それを次から次に、絶え間なしに提供し続けること。それが今の社会の中に巣くっている「悪魔の働き」なんですよね。 話は変わるんですけども、この世の中に、こういう団体があるんですよ。その団体が主張していることは、こういうことなんですね。 「当協会は、『一つの真理、一つの愛、一つの神、一つの世界、一つの地球、一つの家庭』をスローガンに、あらゆる見解、宗教、主義、運動、個性を包容し、叡智の宝庫を樹立することを通して、光り輝く新時代を共に建設していくことを目的として、設立された協会です。 変動と激動の後に訪れるであろう新時代には、全人類、全動物、植物、生命をも含むたった一つの平和な地球家庭がこの地上に現出することでしょう。 …すべての枠組み、宗教、人種、国家、見解、主義、主張、立場、地位、職種、性別、思想を超えて、全体真理に基づく理想世界を相共に築き上げていきたいと切望しています。」 クリスチャンでなかったら、どこから見ても素晴らしい団体のように思えるでしょう? 「では、こうした世界の実現は何によるのか。… このような人類の長年の夢を実現させてくれるものは、古代からの叡智の文化遺産と思われます。古来からの、賢者、天才、偉人などの世に傑出した人々の学んだ叡智の学問と教育法による人間と社会の漸進的でおだやかな改革が、人間一人一人の精神性を高め、覚醒と社会の変容を通して、この地上にユートピアをもたらします。」 みんなキリスト教だの仏教だの、そう言うことをやめて、どうせみんな願いは一つなんだから、一緒になりましょうよ。お互い、多少違ったっていいじゃないですか。みんな求めるところは一つでしょう?みんな登る入り口は違うけども、どこから登っても、神様にたどりつくじゃないですか!みんなでそのために仲良く一つになっていきましょうよ! という考え。これは「ニューエイジ思想」、「ニューエイジ・ムーブメント」っていわれていて、この40〜50年の間に、急速に全世界に広がっている考え方なんです。 で、『国際ニューエイジ協会』っていう団体は、あるにはあるんですけども、これはぜんぜん関係ないっていいますか、そんなものに属しているかどうかってことは、ぜんぜん関係ない。これは、一つの宗教ではなくて、社会的な運動であり、思想であり、…ですから、「かたち」がないんです。 ただ、この現代の社会は、これに非常に侵されているんです。ですから多くの人は、自分がニューエイジ思想、あるいは運動とは関係があると思っていないのに、あたかもニューエイジの人たちと同じことを言うようになってきているっていうことなんですよね。 これは、いったいどこからきてるかって言うと、18世紀にはじまった科学、新興主義ですね、科学的な合理主義の時代がはじまって、すべてを科学が解決できるとみんな信じこんで、「明るい時代がやってくるに違いない」と思ってたんですけども、20世紀になって、2つの世界戦争を経た後、多くの人は、科学に失望するようになりました。 で、その結果じゃあ、聖書にみんな戻っていったかっていうと、そうじゃないんですよね、科学合理主義が、死に去った後、そこに残っていたものっていうのは、古い古い、古代からのそういう異教であり、東洋的な汎神論だったんですね。 ヒッピーたちが、反戦論を全面に掲げて持ちこんだのは、東洋的な汎神論。「peace」ってありますでしょ?「みんな仲良くしましょうよ」…。ビートルズは、多くの東洋思想をヨーロッパに持ちこんでいきました。 私たちの住んでる日本のこの世界は、もう八百万の神の世界ですよね。ですから私たちはそういう汎神論っていうものに非常に慣れています。でもそれが今、世界中に広まりつつあるっていうことなんです。 このニューエイジの流れっていうのは、8つの方面で大きな力を持っています。 ★そもそもは1875年に、テオゾフィー協会…「神の知恵」と日本語ではあててるようですけども、「テオゾフィー協会」っていうのが設立されて、そこのブラバッキー夫人っていう方、霊能者だったようですけども、この人が、「一つの世界宗教、一つの政府、一人の指導者」というような概念を持ち出して、多くの人を集めるようになりました。 ★2番目には、平和運動とか反戦運動とか呼ばれるものをきっかけに、ヒッピーたちが、非常に社会の共感を得ていくようになったんですね。 『かもめのジョナサン』で有名なリチャード・バックっていう人も、実は、この『かもめのジョナサン』という本の中で、この思想を持ちこんでいるんですよね。 ★3番目には、環境問題。地球の温暖化とか海洋汚染とかエコロジーの観点から、こういった問題をとりあげてくる人がいます。 そういう人たちは、「キリスト教的な合理主義が、『人間がこの世を支配するという考え』が、この世界を駄目にした。」ということで、徹底的にクリスチャンたちに対する反感を持って、エコロジーの運動を展開しています。 「グリーン・ピース」という団体をお聞きになったことがあるんじゃないですかね。日本でも、プルトニウムの回収船、輸送船が、フランスと東海村の間を行ったり来たりして、その輸送艦をグリーン・ピースの船がしっかりくっついてって監視してる…、なんてのはニュースにありますよね。 あと、アメリカの核実験も大反対して、いい運動やってるじゃないですか。でも、この人たちのバックグラウンドは、この思想なんですよね。 ★健康医学とか、そういったものが最近大流行りですよね。これは非常に専門細分化されてしまった西洋医学に対する失望と、その反動から逆に、東洋医学とか、統合的な、そういったものに人々の関心が向きはじめています。 その中から、「全人医療」なんていうお題目のもとに、多くの民間療法が非常に流行ってきています。鍼灸とか、カイロプラクティックとか、そういうどちらかといえば、非常に医学寄りのスタンスをとるものから、気孔とかヨガとか、そういった非常に宗教的な色彩の高いものまで、その間には、切れ目なく、いろんなものが存在してます。 けれども、そういったものも実はこれらに全部ルーツがあるんです。 ★「ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント」と呼ばれるグループがあるんですけども、アブラハム・マズローという人が、「自己実現」ということを提唱して、そういったことを中心に、心理学や心理療法を成功哲学みたいな、そういうものと合体させて、大きな概念に発達させましたけれども、それについては、みなさんここの場で、よくいろいろお話ある兄弟から聞いてますから、よくご存じのことと思いますけども、これもバックグラウンドには、そういうやっぱり同じものがあります。 「人間は、自己開発をして、自己実現をしていくことによって、何者かに成り得る、その何者かの究極なかたちは、実は、神そのものである」、そういったところに、目を向ける考え方なんですよね。 ★アメリカでは、多くの家庭とか、キリスト教教会が、その魅力を全く失ってしまったために、その反動として、多くの新興宗教が生まれていきます。 そういった新興宗教の多くのものは、非常にあったかい共同生活を提供することによって、人々を惹きつけているんですけども、このほとんどのもののバックグラウンドにある思想はやっぱりそういうものなんです。 ★また「進化論」の影響も、非常に多く受けています。したがって、「神がこの世を造った」あるいは、「神があなた一人一人を創造された」というのではなくて、輪廻転生していって、だんだん良くなってって、やがて神にたどりつく。そういう考え方。 ★日本でも、手塚治虫っていう漫画家がいますよね。この人の書かれた『火の鳥』っていう、非常に有名な大作がありますけども、このテーマは、実にこれそのものですよね。 で、手塚治虫はきっと、自分がニューエージャーだとは思ってなかったと思いますよ。で、ニューエイジ思想について研究したことも、たぶんないんじゃないかと思います。でも言ってることは、それそのものなんですよ。 すなわち、私たちはこの社会にあって、例えば私たちの目の前に悪魔と同じように、「私はニューエイジの者ですけども、あなた、クリスチャンやめてニューエイジになりませんか?」って言えば、みんなあの「いやぁ、御免なすって。」っていうふうに言うと思うんですけども、そういうかたちでは来ないんですよ。私たちの周りに、そういうかたちで渦を巻いて、広がっています。 で、そういうものを信奉してる人たちも、自分がその一役を借ってるとは、絶対思ってないと思うんですよ。特に、日本では。 アメリカでは、もう、はっきり意識して「私はニューエイジャーだ」と言ってる人たちが実はたくさんいます。スピルバーグっていう映画の監督がいますけど、この人自分で「ニューエイジャーだ」って言ってます。 アイザック・アシモフっていう作家がいますでしょ?この人も、地球は一つである。すべての生き物の中には、いのちがある。「ガイア」って一生懸命言ってますよね。この人もそうですよね。 デミ・ムーアっていうきれいな女優さんがいますでしょ?あの、なんか『ゴースト』って映画を作りましたよね。あの映画は、ただのラブストーリーだと思って、見てますけども、扱ってるのは幽霊じゃないですか。霊体体験を扱ってるじゃないですか。デミ・ムーアは、自分ではっきりと「ニューエイジャーだ」というふうに言ってます。だれもそんなこと気がついてないんですよ。 こういった映画とか、マスメディア、こういったものを通して、そういったものが、この社会に非常に強力に提供されています。ハリー・ポッターも、その一つの役割を果たしているんです。 こうしてみますと、ですから、『ハリー・ポッター』だけが悪いんじゃない。 そうです。全部が悪いんですよ! 私たちの周りには、本当に恐ろしいものが渦巻いているんです。ただ、私たちは簡単に騙されてしまっています。ですからそのことを、もしハリー・ポッターのこういった問題点から、気がつかされることができれば、私たちは守られるんじゃないかというふうに思います。 子どもたちは、どういうふうにして守ったらいいでしょう。 子どもたちからハリー・ポッターの本を取り上げても、絶対、解決にはならないんです。かえって、反感をもたらすだけかもしれません。 唯一私たちができることは、本当にみことばと祈り、それだけだと思うんですよね。子どもたちに、自分たちの生活と、生き方と、そのものを持って、何が正しいのかということを示してあげること。それだけではないかというふうに思います。ですから今日、一番最初に読んでいただいた箇所が、結論でもあり、すべてでもあるわけです。 ヨハネの手紙第I、4:1-6
「ニューエイジ」っていうのは、「新世代」っていいますかね、そういう意味ですよね。でも全然新しくないんですよ。聖書の一番はじめに、「ニューエイジ思想」が出てくるんです。創世記の3章1節ですね。 創世記3:1-5
蛇は最初に、「神様は、本当にそんなこと言ったの?」、最初から「そんなこと言わなかったでしょ?」というふうに言わない。「本当にそんなこと言ったの?」というかたちで来ます。 次に嘘をつきます。そして、「それを食べれば、あなたがたは神のようになる」 ニューエイジの根本思想は、「人間は、一生懸命頑張って、あらゆる宗教が目指してることは、あなたがたが神になることです」、これがすべてのオカルトのルーツでもあり、ニューエイジのルーツでもあり、悪魔の、創造のはじめの時からの作戦なんです。一環した作戦なんですよね。 ですから私たちは、本当にこのことを心に留めてみなければならないんではないかっていうふうに思います。 マタイの福音書13:24-30
38節。 マタイの福音書13:38-43
私たちの今のこの時代には、毒麦がたくさん蒔かれているんですよね。今ちょっと見分けがつかないかもしれません。でも、やがて成長すると実を実らせると、なんだったのかがわかるようになる、ということですよね。 そのために私たちは、本当に敵の罠にかからないように、気をつけなければならないんではないかというふうに思います。 非常に微妙な問題ですし、いろんなご意見があろうとは思いますけども、一つの警告として、こういうかたちで受けとっていただくことができれば、幸いだと思います。 |