神の国は近くなった


野口修兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:マルコの福音書、1章15節
15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

今、兄弟に読んでいただきました箇所は、イエス様が福音の宣教を始められました時に、一番最初に語られた言葉ですね。
これこそが、イエス様がこの地上に来られた目的を、全て言い表しているといって言いすぎではないと思います。
イエス様は、神の国は近くなった、だから悔い改めて福音を信じなさい、というふうにおっしゃったのですけども、これを伝えるためにだけイエス様はこの地上に来てくださって、この一言のためにご自分の地上の歩みの全てを歩まれた。
最初からもうその目的が、イエス様にとっては非常にはっきりしていた、ということがわかるのではないかと思いますます。

若い人たちはよく、何のために生きているのかという議論をすることがありますけども、多くの人たちは、そのことで夜を徹して議論したりすることがあるかもしれませんけども、その結果、結論に達することは残念ながら非常にまれなんですね。
せいぜい、自分の生きたいように自由に思いっきり生きたい!、という辺りが精一杯の結論じゃないかと思うのですけれど、イエス様が持っておられた地上の歩みの目的、これは一言でいい表すことができただけではなくて、非常にはっきりしていた。

神の国は近くなったから悔い改めて福音を信じなさい。

それを伝え知らせるためだったんです。
このイエス様がお語りになった言葉をよく見てみますと、非常にシンプルなんですけれども、二つのことから成り立っていることがわかります。
すなわち、神の国は近くなったという事実と、悔い改めて福音を信じなさいという、二つの命令に集約されていることがわかります。
神の国が近づいた、だからあなたがたは悔い改めることと、福音を信じるというこの二つのことをしなさい!、というふうにイエス様はおっしゃっているのです。

その当時ガリラヤ湖のほとりで、イエス様のこの言葉を聞いた人たちは、そんなに大勢ではなかったはずなのですよね。
けれどもその人たちは、イエス様は何か普通の人たちとは違う方だ、特別な人のようだとは感じてはいましたけども、もしかしたらこの方は神さまご自身である、ということまでは気がついてはいなかったかもしれません。
でも、中にはそのことを気がついていた人がいるかもしれないですよね。けれども、神ご自身であるイエス様が、この世に実際に来られて私たちの目の前に立たれた、とそのことをちょっと考えてみたいと思うんですよ。

にもかかわらずイエス様は、「神の国が来た!」、とはおっしゃらなかったんです。「神の国が近づいた!」、とおっしゃったんですね。
神の国というからには、神さまが全てを支配している国のことです。その張本人、御本人が今目の前に立ってらっしゃると想定しましょうか?
なのに、神の国が来たとはイエス様はおっしゃらなかったんです。「近づいた。」とだけおっしゃったんですね。

聖書全体を心にとどめ続けていきますと、イエス様がこの地上に来られるというのは二つチャンスがあるんです。
一回目は、イエス様は罪の犠牲となって、全ての人々の救いを完成するためにいらっしゃる。それが二千年前。丁度イエス様が神の国が近くなったと言ったそのときのことです。
そしてもう1度は、やがてイエス様は今度は支配者として、神の国の主権者としてこの地上に戻って来られる。二回目に来られるとき、神の国が近くなったというイエス様のみことばが、完全に成就することになります。

何で、最初からいきなり神の国の主権者としていらっしゃらなったのでしょうか?なぜならば、もしそのような形でいきなり来られれば、その神の国に入れる人たちなんて一人もいないからなんです。
ですからイエス様は、全ての全てを支配しておられ、人間のいのちも、私たちの人生の全ての支配者でもあるはずのこのお方が、この地上に来られたとき、自分が神の国の主権者であるということを、イエス様は主張されなかったんです。自分が、目の前に自分自身で出向いているにもかかわらず、そのことをおっしゃらなかったんですよね。

そして、私はさばくために来たのではなくって、むしろみんなのために、みんなの犠牲になるために今回は来きました!
ですからたった三十二年ですか、三十三年ですか?その間だけこの地上にいます。その間に聖書に書かれている全ての律法が、いったいどういうことなのか、私自身の歩みで示してご覧に入れます。
ですからイエス様は、だれかに右の頬を打たれたら左の頬も出しなさいとか、上着を取られたら、下着も出しなさいとかおっしゃいましたでしょ。その通りに歩まれたんです。

イエス様は、ご自身が全ての人々に勧められた全てを、ご自身がその通りに歩まれたんです。
もしその通りに人間が歩もうとすれば、いったいどうなるか、たちまちのうちに全てを奪い取られて、生きていることさえも出来なくなる、という私たちもよく知っている事実ですよね。
でも、もし全ての人がそのような気持ちでいたら、全ての人が上着を取られたら下着も出しましょうという気持ちでいたら、この世の中に問題は消えて行くのですよ。
一人でも二人でもそう思わない人がいるから、私たちは自分を守らなければいけない、戦わなくちゃいけない、頑張らなくちゃいけないというふうに変ってきてしまい、世の中全体はそのようになってしまうんです。

もし私たち全ての人が、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは本当にそのように思い、そのようにしています。全ての人々がそのような気持ちになったら、法律など要らなくなっちゃうのですよね。神の国とはそのような国なんです。

けれども私たちは、イエス様がそのように歩まれたら一体どうでしょう?私たちはきっと、イエス様のことを迫害するようになるに違いないんです。
現実に、イエス様は公に福音を宣べ伝えられ始められてから、たった3年間で全ての人に憎まれて、十字架にかけられてしまったんです。
もし、神の国が突然現れたら、残念ながらその中に入れるような人は一人もいないんです。ですからイエス様は、全ての人々の犠牲になられて罪を負い、罪を滅ぼすために私たちの身代わりとなって、十字架に架かってくださったんです。

そして、この次イエス様が来てくださるとき、そのときこそ今度は、救い主としてではなくて主権者として、神の国の中心人物としてこの地上に再びやってこられます。
そのとき神の国に入ることができるのは、どのような人でしょう?悔い改めて、福音を信じた人だけなんです。
使徒の働きの1章、イエス様が十字架にお架かりになって、よみがえられて、弟子たちの前に現れたとき、これで世界の終わりが来て、神の国が始まる!と考えたんですね。

使徒の働き1:3-11
3イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
6そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
7イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
10イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

イエス様は彼らが見ていた時と同じ姿でおいでになる。この約束は私たちのための約束でもあります。
そして、やがて私たちは、イエス様が天から下ってきてくださる、ということを知ることが許されているんです。
私たちは、イエス様が成そうとしてくださっている次の働き、すなわち神の国を現してくださる。そのことを知ったときに、自分はその中に入れるだろうか?、という疑問が湧いて来ます。
そこで初めて、神の国に入れる人とはどんな人か?、とうことを考えるようになります。聖書に書かれてある多くの律法や戒めなどを知って、自分はとうていその基準に叶わない者であると知らされるようになります。

これこそ上からの光りなんです。私たちはイエス様の聖い光り、神さまである聖さに触れないかぎり、自分たちが罪人であるということに気がつくことが出来ないんです。
イエス様が、生きて働かれていることを知って、私たちはどんなに罪深い者であるかということを知らされるようになります。ですから、悔い改めなさいというふうに勧められています。

ヨハネの手紙第I、1:5-10
5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

神は光りである。すなわち、私たちの心の隅々まで照らしてくださるお方です。そして私たちが、どんなに罪人であるかを明らかに示すことのできる唯一のお方なのです。
この世にもいろいろな法律はあります。けれども私たちの本当の姿を指し示すことのできるのは、これらの人間の作り出した基準ではなくて、神の光りそのものなんです。

でも、ほんとに幸いなことは、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し!、全ての悪から聖めてくださる!、というふうに約束してくださっていることではないかと思います。

詩篇32:1-5
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
3私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
4それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

ここで「幸いなことよ」と言われているのは、罪を犯さなかった人ではないんです。そうではなくって、幸いなのは、そのそむきを赦され、罪をおおわれた人だ、というふうにダビデは語っています。
もちろんこれは、みなさま御存知の通りのダビデのつらいつらい、大きな苦しい経験の中から歌われた祈りの歌そのものであります。
本当に私たちは、主の御前に罪を告白して、赦していただくことがどんなに大切であるかを知ることができると思います。

イエス様は悔い改めなさい!、とおっしゃいました。これはたぶん英語では、「リペンツ」(repent)というのでないですかね。一つの単語なんです。リペンツ。
ところが日本語は、悔い、改めるという二つの言葉をくっつけた言葉ですね。悔い改めという言葉は、普通に日本人は使わない言葉なんです。で、日本人が悔い改めという言葉を使うときは、クリスチャンであるか、クリスチャンでない人が使うときは、意識的に聖書からの言葉であるということを知っていて、使うことが多いんですよね。

日本語には、「悔いる」という言葉はあるんです。英語では、リグレット(regret)、残念に思うという言葉ですよね。改めるという言葉もあります。でも、悔い改めるという言葉は日本語にはないんです。
私たちにとっては明治の時代でしょうか、リペントの訳を、このように二つの言葉をつなぎ合わせて新しく作ってくれた、明治の初期のクリスチャンの先輩たちに、とっても感謝しないといけないと思います。それは、その言葉が私たちになにをすべきかを教えてくれているからではないかと思います。

悔いるだけでは駄目なんです。改めないと駄目なんです。新しく始めようと思っても、悔いる所から出発しないと駄目なんです。この二つが揃って初めて、私たちがイエス様の望んでおられることが始められるんです。
ダビデはそむきを赦されて、罪を赦された人は幸いだ、というふうに言いましたけども、どうすればそのようにできるのでしょうか?

詩篇32:5
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

私のそむきの罪を主に告白しよう。これこそ私たちが本当に悔いて改めるための第一歩です。
すなわち、私たちが心から残念に思い、それを主イエス様に正直に告白して、そこから離れて行く、主にだけすがって行くようにする。その主にあっての歩みが、大切なのではないでしょうか。

イザヤ書55:6-7
6主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
7悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

やがて、いつになるかはわかりませんが、イエス様の新しい神の国が到来します。そしてそれは、おそらく私たちの生きているうちではないかと思われるくらい、近づいて来ています。だから、その間に私たちは主を呼び求めなければなりません。

悔い改めるとはどうすることなのか?おのれの道を捨て、おのれのはかりごとを捨て去れ!というふうにみことばは私たちに言っています。
すなわち、自分自身の思いや自分自身の望みや欲望や、そのようなものをまず捨て去ること。第2に、主に帰れ。主にもどっていくこと。これこそ、大切な悔い改めの態度そのものではないでしょうか。

私たちの心の向きが変わること。罪を憎むようになること。罪人であることを認識し、そのことを残念に思うこと。そしてそこから離れて、主に帰ること。
そのような、まことの心のこもった、本当に心からの悔い改め。これがどうしても欠けることのできないことなんです。
そして、イエス様の2番目の望まれていることは、悔い改めるだけではなくて、福音を信じなさいというものです。

福音という言葉も、英語で「ゴスペル」(gospel)という訳だと思いますけれども、これも私たちの日本語の中にはない言葉ですね。
けれども、初期の日本のクリスチャンは、良き訪れという言葉を当てはめられて、「福音」という訳語を作りました。これをわかりやすい言葉に直すならば、あなたがたに良い知らせがあることを信じなさい、ということになります。
すなわち、私たちのためには十字架と主の復活によって、私たちは全ての罪の力から解き放たれている。全ての私たちの過ちや愚かさ、汚れはもう拭い去られてしまっている、もう私たちを罪に定めるものはない!、ということ。そのことを信じて良いんですよ!、ということなのではないでしょうか。

詩篇103:8-14
8主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
9主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
10私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
11天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
12東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
13父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
14主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

10節に、私たちの罪に従って私たちを扱わない!、と書かれています。
この世の法律は、私たちの罪に従って私たちを正しく扱う、というものです。その結果、私たちは罪を犯せばその罪のために刑に服しなければなりません。
けれども主は、私たちを私たちの罪に従って扱うことはしないと言って下さっています。これは義なる方、聖なる方である神さまということを考えてみたときは、本当に驚くべきことですね。本当に、イエス様が十字架に架かってくださらなければ不可能なことであったのであります。

イザヤ書43:25
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

神さまが、私たちの罪をもう思い出さない、と言ってくださっているのです。
すなわち、私たちはやがて来るべき日に、神さまの前に立ったとき、全知全能者が私たちの罪の全てを御存知だったら、私たちは大変なことになると思います。
でも、その時神さまは、「いえ何も覚えていませんよ。あなたについて何も聞いていません。」、と言ってくださるというんです。信じられないようなことなんです。
このことは、私たちがこれまでに犯して来た罪だけではなく、今持っている罪だけでもなく、私たちのこれから将来で犯してしまう可能性のある罪も含めて、主は全てを「いや覚えてませんよ。」、というふうに扱ってくださるのです。

イザヤ書44:21-22
21ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。
22わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

主の心からの呼びかけの言葉なんです。

へブル人への手紙10:17-18
17「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
18これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

すなわち、イエス様が私たちのことを赦してくださって、私たちの罪をもう思い出すことはなさらないとおっしゃってくださるのであれば、私たちはそのために、一生懸命一生懸命に何かしょうと努力することは、もうまったく必要がないことなんです。
上の聖句の続きです。

へブル人への手紙10:19-23
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
21また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
23約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

まったき信仰をもって、まごころから神に近づく、すなわちあなたがたのための良い知らせを信じなさい、ということではないでしょうか。
約束してくださったこの方は、ほんとに真実な方であり、嘘をつかないお方なんです。ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようと勧められていますが、本当にしっかりと希望を告白すということは、私たちにとっても大切なことではないかと思います。

私たちが何か望みを持っているとき、不安な望みであったら、それでは元気が出てこないんですよね。
でも、私たちに与えられているこの約束は、間違いのない約束ですから、私たちはしっかりと、まごころから希望を告白していいよと言われています。
私たちが、天国に対してしっかりと希望をもっているか、どのくらいその希望をしっかりと持っているか、何度も確かめてみる必要があるのではないかと思います。

へブル人への手紙13:5
5金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

イエス様が私たちを離れず、私たちを捨てないというお約束と、金銭を愛する生活をしないようにしなさいという一見、即物的なお話と霊的なお話とが、同じ節の中で語られているというのは、本当に意味が深いのではないかと思います。
私たちの日常の生活、社会生活も家庭生活も含めて、これらは全て主が私たちとともにおられる、私たちを決して捨てることはない、というそこから出発するようにという命令ではないかと思います。上の聖句の続きです。

へブル人への手紙13:6-8
6そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
7神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
8イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

本当に私たちが、イエス様をいつまでも見仰ぐことによって、主ご自身につながっていくこと。これこそ私たちに与えられている良い知らせを信じることの表れではないかというふうに思います。

へブル人への手紙13:14-15
14私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
15ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

イエス様は神の国は近づいた、とおっしゃいました。事実としておっしゃいました。そして、これは本当に私たちのこの時代にあって、もう目前に迫っています。

聖書の中には、神の国はいつ来るか?、ということについてたくさんの預言があります。それを一生懸命研究して、いったいいつイエス様が来るか?、ということを専門に研究する方がいるくらいなのですね。
でもイエス様は、先ほどのみことばをみてわかるように、何月何日というふうには、あなたがたには絶対にわからないというふうにおっしゃっています。
でも、イエス様が私たちに与えてくださった多くのヒントを紐解いていくと、少なくともバッハやヘンデルの時代よりも、私たちの時代の方がはるかに聖書の預言の条件を満たしているということがよくわかります。

ヘンデルは、メサイヤを作曲して、その最後の方に新しい世界についても、みことばを用いてすばらしい音楽を作りました。
ヘンデルは、きっとやがて来たる神の国を信じて疑わなかったことと思いますけれども、ヘンデルの時代には、まだイスラエルの国は存在していなかったのですよね。でも今、イスラエルという国があるじゃないですか
イエス様が来る前に、イスラエルの国は再建されることが聖書の中に預言されています。ですから、少なくともヘンデルよりは私たちの方がはるかに御国に近い位置にいる!、ということを知ることができます。

そのことを考えたとき、私たちは、ますますイエス様が私たちに与えた非常にシンプルで明解な、たったふたつの命令、すなわち、「悔い改めることと」と、「私たちに知らせる良い知らせを心から信じること」、そして、そのふたつによってまことの喜びと平安と希望とが与えられるように。
私たちはそのことをいつも心に沸きあがらせることが必要と思います。

ますます世の中が悪くなって行く近頃ですけども、聖書のみことばによれば、この世の中はもっともっと悪くなります。
そう悪くなればなるほど、私たちは、ああイエス様が近くなってきた、というふうに知ることができます。
そんな中にあって、本当に私たちは互いに励ましあい、助け合い、祈り合い、愛し合って主が来られる日まで、待ち望むことができれば幸いだと思っております。




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