引用聖句:マタイの福音書7章13節-14節
私たちが人生を歩んで行く中にあっても、どうしていいかわからないということはたくさんあるのではないかと思うのです。 みなさんも人生のエキスパートになったときは終わりなのです。もう。「もう私は人生を究めました。」と言うときには、自分の人生はもう残ってないのです。だいたい、ご老人になってからようやく人生が何だかわかるわけですから。 ところが私たちは何が何だかわからないこの人生を歩んで行かなければいけないのです。どうにかして。ですからその意味ではすべての人が最初は人生の素人なのです。 そこからどうやって歩んで行こうかということを考えるときに、もし、「こういうふうに歩んで行ったらいいですよ。」という、そういうマニュアルがあれば、これこそ願ったり叶ったりということではないかというふうに思います。 そのマニュアルを使うにあたって大切なことは、何がそのマニュアルにかかっているかと言うと、自分のいのち、自分の人生がそのマニュアルの使い方によって変わってくるということを考えなくてはいけないということだと思うのです。 私たちに与えられているマニュアルというのは聖書なのです。ですから、聖書こそ私たちの人生の手引き書であるのです。 ある新聞のコラムを読んでいましたら、私も知らなかったのですけれども、この英語のマニュアルという言葉の古い意味の中に、「祈りの書」という意味があるというふうに書かれていたのです。 ちょっとそれはびっくりしたのですけれども、本当に聖書がマニュアルであって、聖書そのものは祈りの書である。したがって手引き書というのは人々を導く、そのような解説書、それそのものが祈りの書であるのだということを見て。 私たちにとっての手引きである聖書、それは本当に祈りの書なのだなぁということを思わされました。 今、兄弟に読んでいただいたみことばは、正に私たちの人生を導く手引きのマニュアルそのもののみことばではないかというふうに思います。 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」というふうに書かれています。 これは端的に2つの道を示していて、その2つの道の性格をちゃんと説明して、だからこっちからはいりなさいということを説明しています。手引きそのものなのです。 ただ、オーディオとか、エアコンの説明書もそうですけれども、電気を入れるときはこの赤いボタンを押してくださいとか、順番に書いてあります。だからその通りに順番にやらないと目的を達することができないのですけれども、人生の手引き書にあっても、書かれている通りに、その順番でやはり辿って行かないと目的のところに達することができないということなのです。 集会の玄関を入ってすぐのところに、壁に、トイレの前のところですけれども、この絵が実は飾ってあるのです。 ちょっとこの間記録を見てみたら、この絵は10年前からあそこに掛かっているのです。でもこの絵が掛かっているということに気が付いた方はどのぐらいいらっしゃるでしょう。 古い兄弟方は非常に思い出のある絵なものですから、よくご存知だと思うのですけれども、何気なく飾ってある絵なのですけれども、これは1994年にみなさんドイツに行かれたときに、ある兄弟姉妹が見つけて買って来た絵だと思うのですけれども、色んなご家庭の中にも貼ってあるのではないかと思うのですけれども、絵のタイトルは「狭い門と広い門、狭い道と広い道」というタイトルの絵なのです。 非常によく出来ています。これこそ、この絵こそ人生のマニュアルそのものではないかというふうに思うのです。 ですから初めてお気付きになられた方は是非一瞬立ち止まって、あそこで立ち止まるとちょっと困るかもしれないのですけれども、空いているときに立ち止まって、じっくり眺めていただきたいと思うのですけれども。 この絵を描かれたのがどなただかは全くわかりません。けれども非常によく聖書のことを理解して、祈りを込めて書いたということがすごくよくわかるのです。 一番手前のところに大きな広場があるのです。どうも道が繋がっていますから、遠くの町から続いて来た街道道のように見えます。そして町の入り口がここにあって、壁ができているのですけれども、大きな門があって、門の上には「welcome do you come in」、「ようこそいらっしゃい」というふうに書いてあります。 もう何も考えないでこの町に通りかかると、たぶん間違いなくここから入ってしまう。そういう、いかにも町の中心に繋がって行くような入り口になっているのです。ですから考えなしに歩いていると、たぶんみんなここから入ってしまう。これが広い門なのです。 ところがどっちに行こうかとちょっと考える人は、ここで立ち止まると思うのです。立ち止まってみると、町の入り口に大きな道しるべの立て看板が立っていて、道しるべが立っているということに気が付くかどうかがひとつの問題なのですけれども、見てみると、「ようこそいらっしゃい。」とでっかく書いてあるほうに矢印があって、「こちらは死と滅びの入り口です。」とはっきり書いてあるのです。 一方、それと全く反対側のほうに、「いのちと聖め聖なる道」というふうに書いてある矢印があるのですけれども、そっちを辿って行くと、何か裏庭のような小さな木戸が一戸あるだけなのです。全然目立たないところにあります。 そしてさらによく見ると、それぞれの入り口のところに立て看板が立っています。広い道のところには、「この世の支配」と書いてありますし、小さな戸口のほうには、「神の支配」というふうに書いてあるのです。この道しるべの立っている足元のところには、聖書と思しきぶ厚い書物があって、「みことばを探すように。」というふうに書かれてあります。 そこに示されているのがテモテへの手紙第IIの3章16節という、あのみことばなのですけれども、 テモテへの手紙第II、3:16-17
聖書の大切さについて記されています。 広い道から思わず入って行ってしまうと、とても楽しそうな町があるのです。すぐ脇でみんながパーティーをやっていますし、その向こうにはダンスホールがあって、二階には何やらレストランみたいなところがありますし、奥には劇場があって、遊技場が、「spielhal」と書いていますが、遊技場があって、何やら楽しそうにやっているわけなのですけれども、よく見ますとこのレストラン、「gaststatte」と書いてありますけれども、レストランのところでブラスバンドがパッパカパッパカやっていますけれども、大きな旗がひらめいているのですけれど、「欲望」と書いてあるのです。 それからこの遊技場のところも、遊技場というドイツ語はspielhalという言葉なのですけれども、一文字、よく見ると、変えてあるのです。最初はミスプリかと思ったのですけれども、spielhalという言葉が、spielholという言葉に一文字置き変わっているのです。holというのは地獄という意味です。 ここにたくさんのみことばが書かれているのですけれども、例えばこのようなみことばが書かれております。イザヤ書5章ですけれども、 イザヤ書5:21-24
だいたいこの1枚の絵の中に、7、80のみことばが散りばめられているのですけれども、全部読んでいると時間が無いので、どんどんかいつまんでご紹介したいと思いますけれども、この絵の中に例えばこんなみことばが書かれています。 ペテロの手紙第II、2:17
イザヤ書5:11-15
ルカの福音書14:16-19
伝道者の書5:7-12
コリント人への手紙第I、6:9-10
テモテへの手紙第I、6:10
こういったみことばがたくさん書かれているのです。そのままずっと、この道は一本ずーっとずーっと続いていって、やがて滅びの町に辿り着いてしまうのです。その間逃げ道がない。もう真っ直ぐそこに繋がって行く道になっているのです。 ところがこの狭いほうの道、こちらの門からはいると、はいったすぐのところに大きな岩があって、その上に十字架が架かっています。 こちらは狭い道でありまして、イエス様の福音に至る道であります。そこにはペテロの手紙第Iの2章の24節のみことばが書かれているのですけれども。 ペテロの手紙第I、2:24-25
その岩の脇からきれいな水が湧き出ていて、ひとりの男性がそこの水を飲もうとしているのが見えます。 ヨハネの黙示録の22章の17節ですけれども。 ヨハネの黙示録22:17
そのみことばが書かれています。 こちらの狭いほうの道は、はいっても殺風景なのです。何かあんまり魅力がない。やっぱり入りかけても、やっぱりあっちに行こうよと思いたくなるような道ですし、はいってすぐに結構険しい狭い階段が、上りの階段があるのです。 ですから確かにこちらの道はちょっと取っ付きにくいです。でも、はいってすぐのところに私たちの渇きをいやしてくれるいのちの泉があって、ここで私たちは憩いを得ることが許されていますし、階段を上って行く新たな力を得ることができるようになっています。 この道はまた、先へ行ってもずーっと細い道が繋がっているのですけれども、ところどころに礼拝堂があって、集会所があって、人々が避難して来るための家があって、助けの色々な食べ物とか、助けを与えてくれる人も描かれていますし、そして最後はずーっと山の上に上って行くと、神の栄光の御国に辿り着くという、そういう絵が描かれています。 見て分かるように、この二つのみちは入り口は同じところから始まっているのですけれども、先に行くと段々段々分かれていくのです。遠ざかっていくのです。 最初のうちはまだ行き来ができそうですけれども、先に行くと、大きな谷が間に出てきますから、もう行き来することはできなくなってしまうのです。入り口に立っているだけでは、向こうがどうなっているかわからないのです。 何も考えない人は、この大きな道にたぶんはいってしまうと思います。ちょっと考えようとする人は、どっちが正しい道かここで考える。 そのときにみことばが、その行き先を指し示す手引きになってくれるのですけれども、そうではあっても、その手引きのことばを信じるしかない。なぜなら先は見えないから。はいってみないとわからないからなのです。 ですからここの場で自分たちの見たもの、感じられるもの、それを頼りにするのか、それとも「こちらに行きなさい。」という、その手引きの声に耳を傾けるのか。どちらを信じるか、どちらを選ぶかによって、もう全然道が変わってきてしまうということです。 あと、考える余裕もない。そのくらい疲れてしまった。もうどうしようもなくなってしまった。行き詰ってしまった。もう倒れそうであるという人が、実はこの小さな扉の脇のベンチに座って、今にも崩れ落ちんばかりになっているのですけれども、非常に重そうな荷物を背負っている人がいます。 きっとそういう人のためだと思うんですけれども、戸口の脇にひとりの男性が立っているのです。この男性は左手を高く天に向けて、こちらの天の御国を指し示しています。右手は横に浮いて、この道しるべを示しています。 伝道者だと思うのですけれども、疲れていて自分で自分の道を見いだすことのできない人も伝道者の声を聞くことによって、どちらに行けば良いかと道を見いだすことができるのではないかと思うのです。 そのような働きをする、神から遣わされた人たちがこの絵の中を見ると、随所に描かれているのがわかります。本当に主から・・・ (テープ A面 → B面) ・・・少し行ってみますと、たくさんのみことばがここにも書かれているのですけれども、例えばこんなみことばが書かれています。 テモテへの手紙第I、1:15
テモテへの手紙第Iですけれども。 マタイの福音書25:31-36
広い道にはいってしまった人も、気が付かないでいるとこのままずっと滅びの町に向かって進んで行ってしまう結果になるのですけれども、横道は残念ながら無いのです。 けれども、柵がずっとしてあるのですけれども、一ヶ所よーく見ると切れ目があるのです。この切れ目の出たすぐのところに人々が集まって、集会をしているのです。その脇のところにこういうみことばが書かれているのですけれども。 テモテへの手紙第I、2:4
テモテへの手紙第Iのみことばがここに書かれているのです。 この集会をしている広場の位置というのは、非常に意味深いのではないかと思うのです。すなわち、狭い道のがわにありながら、広い道に一番近いところに集まっているのです。それは広い道から逃げ出して来た人たちが、一番最初に辿り着く場所だからなのです。 今日、みなさんこちらに来られるとき、吉祥寺の駅を降りて歩いて来られた方が多いのではないかと思うのですけれども、清々しい秋の天気の良い日に、賑わった町に降り立って、そこをわき目も振らずに通り抜け、何の変哲もない、この狭い街道に辿り着くことができたということですね。 本当に不思議なことではないかというふうに思うのです。この場所、それこそここの集会所ではないかというふうに思うのです。 もしかしたら、今日初めて来られた方もおありかもしれませんし、「是非行きたいと思って来たわけではない。」と仰る方もいらっしゃるかもしれないのですけれども、今、今日ここに辿り着くことができたということは、どういうことかと言うと、ここに来ることができた人のために、祈る人がいたということを意味しているのです。 おそらく私たちは、すべて祈りの中で導かれて来ています。ですから私たちは、祈られることなしに主のみもとに辿り着くことはできませんし、私たちは互いに祈り合ったからこそ、この場に辿り着くことができたのではないかというふうに思うのです。 そうして主が私たちを本当にあわれんでくださって、この広い滅びに至る道からいのちの道へと導き出してくださって、その道すじをも備えてくださったということを本当に覚えることができるのではないかというふうに思うのです。 私たちはこの絵の中で、いったいどこにいるでしょうか。まだ入り口の辺りでどっちに行こうかというふうに迷っているのでしょうか。どっぷり広い道に浸かってしまったのでしょうか。 まだちょっと戻る道があるようです。先に行けば行くほど、険しくはなりますけれども、何か向こう側に渡してくれる橋も架かっています。 橋の向こう側には、「気をつけて渡って来てください。」というふうに道案内している人も絵も描かれています。私たちはもうすでに、このいのちに至る道を歩んでいるのでしょうか。 聖書というのはとても分厚くて、活字が多くて、読みにくいかもしれないのですけれども、こうして一枚の絵にしてみますと、非常にわかりやすいです。 広い道からはいったその行き先は、滅びの町に通じています。狭い道からはいったその道は、神の栄光の都に辿り着くようになっています。 私たちは聖書に書かれているとおり、このように滅びが訪れるというふうに信じてはいますけれども、単にこれはその文字通りの意味だけではなくて、私たちの人生の中における象徴的な意味も含まれていると思うのです。 楽しさの中に私たちはむなしさを同時に感じていないでしょうか。どうしていいかわからずに苦しんでいるのではないでしょうか。 その中で私たちがこの絵の中に散りばめられたようなみことばに接して、私たちが主のいのちの道に辿り着くことができれば、本当に幸いではないかというふうに思います。 初めのうちは先が見えません。ですから本当にこのような道にはいって行って大丈夫なのだろうか。このようなものを信じて行って大丈夫なのだろうか。不安になるかもしれません。 聖書を読めば読むほど、私たちは段々段々先のほうが見えるようになってきます。信仰の道を歩めば歩むほど、さらに遠くの山の上がはっきり見えるようになってきます。 そうなりますと、私たちがいったいどこに向かっているのか。あるいは広い道がいったいどこに通じているのかわかるようになってきます。 はっきり見えてからでは遅いかもしれない。だから今のうちから本当に何が正しいのかということを心に吟味して、私たちは自分の歩むべき道を歩んで行かなければならないのだというふうに思います。 そのために本当に聖書のみことばがものすごく大切な手引き書になるのだということをこの絵は表わしたいのではないかな、というふうに思います。 いくつかみことばを読んで終わりにしたいと思います。 ヘブル人への手紙3:7-8
ペテロの手紙第II、3:9
広い道の特徴というのは先ほど来申し上げたように、黙っていると自然にそこからはいってしまう。 大ぜいが通って行って、最初は安全であるかのように見えます。華やかで、魅力的であります。けれどもその道すじの途中には不品行や罪に陥る危険が至るところに潜んでいます。 先へ進んでしまうと、ますます困難が待ち受けています。そして、あるところを通り過ぎると、引き返すことが難しくなってしまいます。メインストリートであるかのように見えますけれども、そして大ぜいの方がそこから通って行くのですけれども、その行き先は滅びなのです。 一方、狭い道の特徴は、入り口が小さくて目立ちません。人の目には決して魅力的には見えません。 聖書の文字だけがそれを見つけ出す手がかりになります。そしてその門をくぐるためには、私たちは頭を下げて、腰をかがめないとはいることができないのです。 最初のうちは細くて、険しい道が続いているように見えますけれども、すぐに広く、緑の豊かな牧場を通るようになります。その道すがら、色々なところで喜びの集いが開かれていますし、そして最後のその行き先は主の支配される栄光の御国です。 このような手引き書が私たちに与えられているということは、本当にしあわせなことではないかと思うのです。 ですからどうかその手引き書を開いて、いのちの道へ至っていただきたいというふうに思います。 |